第二百七十三話 大友からの使者
天正十五年(1587年)四月。
豊前国、岩石城。
林道家の旗が掲げられた城内では、戦の痕跡が少しずつ片づけられていた。
破損した柵の修繕が始まり、負傷者が運び出される一方、城門には新たな警備の兵が立っている。昨日まで敵の城だったとは思えないほど、城内の動きは整然としていた。
景継は本丸から眼下に広がる景色を眺めていた。
豊前へ上陸してから、まだ幾日も経っていない。
それにもかかわらず、宇都宮勢を破り、岩石城まで落とした。
九州平定の第一歩としては、十分すぎる成果である。
「殿」
背後から声がした。
振り返ると、黒田官兵衛が一通の書状を手に立っていた。
「大友家より使者が参りました」
景継の眉がわずかに動く。
「大友宗麟殿からですか?」
「はい。正確には宗麟殿と、当主である義統殿の意向を受けた使者にございます」
「思ったより早いですね」
「向こうも、それだけ切羽詰まっているのでしょう」
官兵衛は書状を差し出した。
景継は封を解き、ゆっくりと目を通していく。
内容は丁重だった。
林道軍の九州上陸を歓迎する言葉に始まり、岩石城攻略への祝意が続く。そして最後には、九州の情勢について直接話し合いたいとの申し出が記されていた。
だが、肝心の言葉は書かれていない。
援軍。
同盟。
島津。
景継は書状を畳んだ。
「随分と控えめな申し出ですね」
「書状に残したくない話なのでしょう」
「なるほど」
景継は官兵衛を見る。
「使者に会いましょう」
官兵衛は頷いた。
「すでに別室で待たせております」
「準備がよろしいことで」
「殿が断るとは思いませんでしたので」
景継は小さく笑った。
「では、待たせるのも失礼ですね」
二人は連れ立って部屋を出た。
◇ ◇ ◇
豊後国、府内。
大友宗麟は、九州北部から届く報告を前にしていた。
宇都宮勢敗北。
岩石城陥落。
二つの報せは、ほとんど間を置かずに届いている。
「……早いな」
宗麟が呟いた。
傍らに控えていた家臣が頷く。
「林道勢は豊前へ上陸したばかりと聞いております。それが、すでに岩石城まで……」
宗麟は書状を置いた。
かつて九州六か国に大きな勢力を築いた大友家も、今では往時の威勢を失っていた。
耳川での敗戦以降、家中の統制は揺らぎ、各地の国人が離反した。さらに島津の北上によって豊後そのものが脅かされ、昨年には府内も戦火にさらされている。
大友家は生き残った。
だが、それは島津を退けたからではない。
島津の攻勢が緩んだからこそ、辛うじて立っているにすぎなかった。
「林道景継は、どのような男だ」
宗麟が尋ねた。
「戦においては知略に優れ、降伏した者にも比較的寛大と聞き及んでおります」
「それは知っておる」
宗麟は首を振った。
「わしが聞きたいのは、九州をどうするつもりなのかということだ」
家臣は答えに窮した。
宗麟は窓の外へ目を向ける。
林道景継が島津を退けてくれるなら、大友家にとってこれほどありがたい話はない。
しかし、島津が退いた後、林道がそのまま九州に居座るのであればどうなる。
敵が入れ替わるだけではないのか。
「助けを求めた相手に、今度は領地を差し出すことになっては笑えぬな」
宗麟の言葉に、家臣は表情を曇らせた。
「では、使者を送ったのは……」
「確かめるためよ」
宗麟は書状へ目を戻した。
「林道景継が、島津に代わる支配者を望むのか。それとも、我らと手を結ぶつもりがあるのか」
そして静かに続けた。
「どちらにせよ、今の大友に、ただ待っている余裕はない」
◇ ◇ ◇
岩石城。
大友家の使者は、景継の前で深々と頭を下げた。
「大友家より参りました。宗麟様、ならびに義統様の命を受け、林道様へご挨拶申し上げます」
「遠路ご苦労でした。顔を上げてください」
景継が穏やかに告げると、使者はようやく姿勢を正した。
部屋には官兵衛のほか、大谷吉継も同席していた。
「書状は拝見しました」
景継が切り出す。
「宗麟殿は、九州の情勢について話し合いたいとのことでしたね」
「はい」
「具体的には、どのようなことでしょう」
使者は一度、官兵衛へ目を向けた。
官兵衛は何も言わない。
その沈黙に促されるように、使者は口を開いた。
「島津のことでございます」
景継は頷いた。
「続けてください」
「ご承知の通り、島津は九州南部より勢力を伸ばし、豊後へも兵を進めてまいりました。我が大友家はこれを防いでおりますが、なお予断を許さぬ状況にございます」
使者は言葉を選びながら続けた。
「林道様が九州へお越しになった今、両家が争う理由はないと、宗麟様はお考えでございます」
「つまり、手を結びたいと」
使者は頭を下げた。
「その通りにございます」
景継はすぐには答えなかった。
「一つ、確認させてください」
「何なりと」
「大友家は、我らに何を望んでおられますか」
「島津の脅威を取り除いていただきたく……」
「それだけですか?」
使者の言葉が止まる。
景継は責めるでもなく、静かに続けた。
「我らが島津を破った後、大友家の領地がどうなるか。それも心配されているのではありませんか」
使者は目を見開いた。
しばらく沈黙した後、ゆっくりと頭を下げる。
「……恐れながら、その懸念がないと申し上げれば、偽りになります」
「当然でしょう」
景継はあっさりと答えた。
「私が宗麟殿の立場でも、同じことを考えます」
その返答に、使者の緊張がわずかに解けた。
「では、こちらの考えをお伝えください」
景継は姿勢を正した。
「林道家は、大友家の領地を奪うために九州へ来たのではありません。宗麟殿が我らと手を結び、島津に対して共に戦うのであれば、その領地と家の存続を尊重します」
使者は思わず顔を上げた。
「まことでございますか」
「ただし、協力する以上、互いに果たすべき役目はあります」
そこで官兵衛が口を開いた。
「我らは九州の地理に明るくありませぬ。大友家には、道、城、国人の動向、島津勢の配置について力を貸していただきたい」
「それは、もちろん……」
「加えて、豊後方面で島津勢を牽制していただきたい」
使者の表情が引き締まる。
「豊後に兵を置き、島津の北上を防ぐということでございますか」
「それだけではございませぬ」
官兵衛は地図を広げた。
「我らが豊前から筑前へ動く間、島津が豊後方面で自由に兵を動かせば、後方を脅かされる恐れがあります。大友家には、その動きを抑えていただきたいのです」
使者は地図を見つめた。
景継が続ける。
「大友家に、無理な出兵を求めるつもりはありません。今ある兵で守れるところを守り、我らと情報を共有していただければよい」
「……それでよろしいのでしょうか」
「まずは、です」
景継の返答に、使者は小さく息を呑んだ。
「九州の戦は、まだ始まったばかりです。島津と本格的に戦う時には、改めて両家の役目を決める必要があるでしょう」
官兵衛も頷く。
「大友家が立て直す時間は、我らが作ります。その間に宗麟殿には、豊後をまとめていただきたい」
使者は深く頭を下げた。
「必ず、お伝えいたします」
◇ ◇ ◇
使者が退室すると、吉継が静かに口を開いた。
「殿。大友家がこちらの申し出を受ければ、九州の情勢は大きく変わります」
「そうですね」
「ですが、大友家の中にも林道家を警戒する者はいるでしょう。宗麟殿が望んでも、すべての国人が従うとは限りません」
景継は頷いた。
「だからこそ、宗麟殿との約束は守らねばなりません」
官兵衛が地図を見つめながら言った。
「大友家が味方となれば、豊後方面に兵を割く必要が減ります」
「北部九州へ兵を集中できますね」
「はい。そして、もう一つ」
官兵衛の指が豊前へ動いた。
「宇都宮鎮房」
景継はその名を聞き、目を細めた。
「先の戦では、よく兵をまとめて退きました」
「城井谷に入られれば、厄介な相手です」
「ですが、今度は戦わずに済むかもしれませんね」
官兵衛が景継を見る。
「そうお考えですか」
「宇都宮殿が守りたいのは、我らと戦うことではなく、城井谷でしょう」
「その通りでしょうな」
「ならば、そこを奪わないと約束すればよい」
吉継が尋ねる。
「臣従は求められないので?」
「今すぐには」
景継は答えた。
「城井谷の自治を認め、我らへの敵対をやめてもらう。領内の通行や必要な協力について話がまとまれば、それで十分です」
官兵衛は少し考えた。
「鎮房殿が受けるかどうかは分かりませぬが、城井谷を力攻めするよりは、はるかに安く済みますな」
「兵を失わずに済むなら、それに越したことはありません」
「では、使者を?」
「大友家との話がまとまってからにしましょう」
官兵衛が頷いた。
「その方がよろしいでしょう」
景継はさらに地図の西へ視線を移した。
「そして、秋月種実殿です」
官兵衛の表情が変わった。
「こちらは宇都宮ほど簡単には参りますまい」
「岩石城を失った以上、向こうも我らを意識せざるを得ないでしょう」
「秋月は島津との結びつきもあります。容易に頭を下げれば、これまで築いてきた立場を失う」
吉継が口を挟む。
「しかし、大友家が林道家と手を結べば、秋月の立場はさらに苦しくなります」
官兵衛は地図に指を置いた。
「そうです。宇都宮が敵対をやめ、秋月が孤立すれば、北部九州で大きな戦をせずに済む可能性が出てきます」
景継は地図を見つめた。
上陸した時には、九州の諸勢力がどのように動くか分からなかった。
だが、宇都宮勢を破り、岩石城を落としたことで、周囲の反応が変わり始めている。
今度は大友家が、自ら手を差し伸べてきた。
一つの勝利が、次の勝利を呼ぶ。
戦場で得た成果が、外交の場で新たな力となっていく。
「官兵衛殿」
「はい」
「九州の戦は、思っていたより早く進むかもしれませんね」
官兵衛はすぐには答えなかった。
やがて、ゆっくりと頷く。
「進めてみせます」
その声には、静かな自信があった。
◇ ◇ ◇
数日後。
豊後へ戻った使者から、林道景継の返答を聞いた宗麟は、しばらく黙っていた。
「……大友の領地を奪わぬと?」
「はい。林道様は、そのように明言されました」
「見返りは」
「豊後の守備、島津の動向に関する情報の提供、そして今後の軍事協力にございます」
宗麟は目を閉じた。
都合のよすぎる話にも聞こえる。
だが、景継はすでに豊前へ大軍を上陸させている。
本気で大友家を滅ぼすつもりなら、わざわざこのような条件を示す必要はない。
それに、島津の脅威は今も消えていない。
宗麟はゆっくりと目を開いた。
「義統にも伝えよ」
「はっ」
「林道家と手を結ぶ」
家臣が頭を下げる。
宗麟は続けた。
「ただし、我らは林道家の家臣となるのではない。共に島津へ立ち向かうのだ」
「承知いたしました」
宗麟は席を立ち、豊後の山々が見える方へ歩いた。
かつて、大友家は九州の覇者を争った。
今は他家の力を借りなければ、その領地すら守りきれない。
その現実は、宗麟にとって決して愉快なものではなかった。
それでも、守るべきものが残っている。
「……生き残らねばならぬ」
誰に聞かせるでもなく、宗麟は呟いた。
◇ ◇ ◇
岩石城へ、大友家との同盟成立を告げる返書が届いた。
景継は書状を読み終えると、官兵衛へ手渡した。
「決まりましたね」
「はい」
官兵衛は一読し、地図を広げた。
「これで豊後方面に味方ができました。島津も、我らが北部九州を攻めている間に大友を簡単には動かせますまい」
「では、次へ進みましょう」
「宇都宮と秋月ですな」
「ええ」
景継は城井谷を指した。
「宇都宮鎮房殿には、もう一度使者を送ります。先の戦で失った兵のこともあります。こちらから無理に臣従を迫るつもりはないと伝えてください」
「承知しました」
続いて、景継の指が秋月の領地へ動く。
「秋月種実殿には?」
官兵衛はしばらく地図を見つめた。
「使者を送ります。ただし、宇都宮と同じ条件ではありませぬ」
「その理由は?」
「秋月が我らに従えば、北部九州の戦は大きく片づきます。逆に島津へ頼り続ければ、我らは背後に敵を残したまま南へ進むことになる」
景継は頷いた。
「秋月には、立場を明らかにしてもらう必要がありますね」
「はい」
官兵衛の指が、秋月の領地からさらに南へ動いた。
その先には、島津の勢力が広がっている。
「殿。ここからが肝要です」
「聞きましょう」
「大友家との同盟を、単なる援軍の約束で終わらせてはなりませぬ。宇都宮を味方につけ、秋月を従わせれば、我らは北部九州に後顧の憂いを残さず南へ進めます」
景継は地図を見下ろした。
宇都宮鎮房。
秋月種実。
大友宗麟。
それぞれに守りたいものがあり、それぞれに譲れないものがある。
だが、そのすべてを敵に回す必要はない。
「では、官兵衛殿」
「はい」
「北部九州をまとめましょう」
官兵衛は深く頭を下げた。
「お任せください」
九州上陸から、まだわずかな日しか経っていない。
宇都宮勢を破り、岩石城を落とし、そして大友家との同盟を成立させた。
林道軍の進撃は、単なる城取りの戦から、九州全体の勢力を動かす戦へと変わり始めていた。
その変化を、最も早く感じ取ることになるのは
岩石城を失った、秋月種実であった。




