第二百七十二話 岩石城
夜明け前、林道軍の陣ではすでに人が動き始めていた。
宇都宮勢との戦を終えてから、まだ半日ほどしか経っていない。眠りについている兵も多く、焚き火の周囲では具足を枕代わりに横になっている者の姿もあった。
その間を、石田三成が歩いている。
「こちらの米は動かすな。先に昨日運び込んだ分を前へ回せ」
「はっ」
「馬に積みすぎるな。岩石城まで行って終わりではないぞ」
指示を出し終えると、今度は別の荷駄へ向かう。
その姿を見つけた小西行長が声をかけた。
「三成殿。寝ましたか?」
「寝ました」
「どれほど?」
「必要なだけです」
行長はそれ以上聞かなかった。
聞けば、こちらまで眠くなるような答えが返ってきそうだった。
「船からの荷は予定通りです。こちらへ回す分についても話をつけました」
「早いですね」
「急げと言ったのはそちらでしょう」
「急いでくださいとは言いましたが、無理をしてくださいとは言っていません」
「同じようなものです」
行長が苦笑する。
戦場では清正や正則たちが敵を崩す。
だが彼らを翌日にも動かすためには、食わせ、矢を補い、傷んだ具足を直し、馬を休ませなければならない。
宇都宮勢に勝った勢いだけで、岩石城まで行けるわけではなかった。
だからこそ三成たちは、兵が眠っている間も動いている。
そこへ藤堂高虎が戻ってきた。
「三成殿」
「どうでした?」
「道は使えます。ただし、すべての荷駄を連れていけば遅れます」
三成が地図を開く。
「どれだけ置いていきます?」
「二日分あれば十分でしょう」
「二日?」
三成の眉が動いた。
「二日で落とせると?」
高虎は首を振った。
「二日で落とすのではありません」
「では?」
「二日以上かけるつもりなら、今攻める意味が薄れると言っているのです」
三成は高虎を見た。
その意味を理解すると、すぐに地図へ視線を戻す。
「……分かりました。持っていく物を減らします」
「お願いします」
「ただし」
「はい」
「二日で足りなくなった場合は、高虎殿にも荷を運んでもらいます」
高虎がわずかに笑う。
「それで済むなら、いくらでも」
◇ ◇ ◇
日が昇る頃には、先発隊が動き始めていた。
宇都宮勢との戦に参加したすべての兵を連れていくわけではない。
疲労の強い者は残す。
負傷者も残す。
代わりに昨日ほとんど戦っていない部隊を前へ回した。
景継は隊列を見ながら官兵衛へ尋ねる。
「思ったより少ないですね」
「城攻めだからといって、人数を連れていけばよいわけではございませぬ」
「道が詰まりますか」
「それもあります。それに、今回大切なのは速さです」
官兵衛は前方へ目を向けた。
「岩石城側にも、宇都宮勢敗北の報せはいずれ届きます。ですが、まさか翌朝には我らが次へ動いているとは思いますまい」
景継は馬を進めながら考える。
「宇都宮殿を破ったから岩石城へ向かうのではなく――」
「宇都宮殿と戦う前から、次を決めていたから動けるのです」
官兵衛の返答に、景継は小さく頷いた。
それが今回の速さの正体だった。
勝ってから次を考えているのではない。
勝つ前から、その後を用意している。
もちろん、宇都宮勢に敗れていればすべて崩れていた。
だから官兵衛は最初の一戦を、絶対に負けてはならない戦と位置づけていたのだ。
「殿!」
前方から清正が馬を寄せてくる。
「先陣、いつでも進めます」
「昨日戦ったばかりでしょう。身体は大丈夫ですか?」
清正は自分の胸を軽く叩いた。
「これくらいで動けなくなっていては、九州など取れませぬ」
後ろから正則もやって来る。
「俺も問題ないぞ」
「正則殿には聞いていません」
「なぜだ!」
清正が吹き出す。
少し離れたところでは、秀久までこちらを見ていた。
自分も呼ばれると思っているらしい。
景継は先に言った。
「秀久殿もお願いします」
「おう!」
返事だけは誰よりも早い。
官兵衛が小声で言う。
「元気ですな」
「元気なのは悪いことではありません」
「今のところは」
景継が官兵衛を見る。
「何か?」
「いえ」
官兵衛は何事もなかったように前を向いた。
◇ ◇ ◇
岩石城が見えたのは、それからしばらく後だった。
山上に築かれた城を見上げ、正則が顔をしかめる。
「……高いな」
「城なのだから当然だろう」
清正が答える。
「お前は何でも一言多い」
「事実を言っただけだ」
二人の横で、秀久はすでに攻め口を探していた。
「正面から行けぬこともない」
その言葉に高虎が反応した。
「行けぬことはないでしょう」
「だろう?」
「兵が多く死んでもよければ」
秀久が高虎を見る。
「……なら、どこから行く」
高虎は答えず、城を見上げた。
周囲の地形を知る者から話を聞き、さらに場所を変えて城を見る。
景継も急かさなかった。
高虎を林道家へ迎えた時、この男は言った。
――次に使える形で取ります。
ならば見せてもらおう。
しばらくして、高虎が戻ってきた。
「殿」
「どうです?」
「攻められます」
官兵衛が尋ねる。
「どこから?」
高虎は地図へ指を置いた。
「正面にも兵を出します。ただし、主攻にはしません」
清正が覗き込む。
「囮か」
「敵に正面を守らせます」
高虎の指が城の側面へ動く。
「こちらから別働隊を上げます」
正則が山を見上げる。
「通れるのか?」
「大軍は無理です」
「なら何人だ」
「多くはいりません」
秀久が口を挟む。
「俺が行こう」
高虎は即答しなかった。
秀久が眉を寄せる。
「何だ。不満か」
「いえ」
高虎は地図を指した。
「ここを登った後、敵を追って勝手に奥まで入らないと約束していただけるなら」
正則が横を向いて笑いを堪える。
秀久の額に青筋が浮かぶ。
「昨日から皆して俺を何だと思っておる!」
「前へ出るのが好きな方かと」
「清正と正則も同じだ!」
「だから二人にも別の役目をお願いしています」
高虎は淡々としている。
景継が口元をわずかに緩めた。
「秀久殿」
「……何でしょう」
「できますか?」
景継に聞かれると、秀久も冗談では返さなかった。
もう一度、城を見る。
「できます」
「では、お願いします」
「はっ」
その返事を聞き、高虎は次へ進んだ。
「清正殿には正面を。強く攻めてください。ただし、無理に登り切る必要はありません」
「敵をこちらへ寄せるのだな」
「はい」
「分かった」
「正則殿は少し遅れて別方向から。敵が秀久殿の動きに気づいた時、そちらへ兵を回させないでください」
正則が頷く。
「任せろ」
景継は高虎の説明を最後まで聞いた。
「城は?」
その問いに、高虎は一度岩石城を見た。
「できるだけ焼きません」
「理由は?」
「この先も九州を進むのでしょう」
高虎は当然のことを言うように答えた。
「なら、落とした翌日から我らが使います」
官兵衛が笑った。
「やはり、そう申しますか」
高虎が官兵衛を見る。
「何か?」
「いえ。殿から聞いておりましたので」
景継も城を見上げる。
「では、そのように」
命令が下った。
◇ ◇ ◇
最初に動いたのは清正だった。
鬨の声とともに、正面から兵を進める。
岩石城側もすぐに反応した。
山上から矢が降り、石が落とされる。
「止まるな!」
清正の声が山に響いた。
だが、無闇に登らない。
敵が姿を見せれば弓と鉄砲で圧力をかけ、こちらへ意識を向け続ける。
城兵から見れば、どう見ても正面が主攻だった。
やがて別方向から正則隊も姿を現した。
「こっちも忘れるな!」
兵が山裾へ広がる。
守る側は二方向へ兵を割かなければならなくなった。
その間に、秀久は動いていた。
道と呼ぶには細すぎる山道。
足元を取られれば、そのまま斜面を滑り落ちかねない。
「本当にここか」
秀久が前方を見る。
案内役が頷いた。
「間違いございません」
後ろから家臣が声をかける。
「仙石様、急ぎすぎませぬよう」
「分かっておる」
昨日も何度言ったか分からない言葉だった。
だが今日は、本当に速度を抑えた。
ここで自分だけ先へ出ても意味がない。
兵が続かなければ城内へ入ったところで潰される。
秀久は何度も後ろを確認しながら登った。
やがて前方に、城の防備が見えた。
守兵はいる。
しかし少ない。
正面へ兵を取られている。
秀久の口元が上がった。
「高虎の奴……当てたな」
刀を抜く。
「行くぞ」
今度は止まらなかった。
◇ ◇ ◇
「右手より敵!」
岩石城内に声が響いた時には、すでに遅かった。
秀久隊が防備の薄い一角へ食いついていた。
城兵が慌てて兵を回そうとする。
その動きを、高虎は下から見ていた。
「正則殿へ」
伝令が走る。
間もなく、正則隊の攻撃が激しくなった。
「押せ!」
正則自身が前へ出る。
城側は兵を動かせない。
正面では清正。
別方向では正則。
さらに側面から秀久。
一つを防げば、別の場所が薄くなる。
「殿」
官兵衛が景継へ声をかけた。
「崩れますぞ」
景継にも分かった。
城兵の動きが変わっている。
最初はそれぞれが持ち場へ向かっていた。
今は違う。
どこへ行けばよいのか迷い始めている。
命令が追いついていない。
「清正殿へ。ここからは押して構わないと」
「はっ!」
伝令が走った。
ほどなくして、正面から大きな鬨の声が上がる。
清正が一気に攻勢へ転じた。
「ここからだ! 登れ!」
林道兵が斜面を駆け上がる。
秀久隊も一角を突破した。
正則も守備兵を押し込む。
三方向から同時に圧力を受け、岩石城の防備は急速に崩れていった。
それでも城兵は抵抗した。
狭い場所では槍がぶつかり、矢が飛び、怒号が重なる。
簡単な戦ではない。
だが、流れはもう変わらなかった。
高虎が景継へ言う。
「殿。火を使わせぬようお願いします」
「分かっています」
景継はすぐ命じた。
「城内へ入った者に伝えてください。必要のない火は放つな。建物を壊しすぎる必要もありません」
弥兵衛が走る。
官兵衛はその様子を見ながら高虎へ尋ねた。
「もう落ちた後のことを考えておられるのですか」
「落とすために来たのでしょう」
「まだ戦っておりますぞ」
「だから今決めるのです。落ちてからでは遅い」
官兵衛は一度目を細め、それから笑った。
「なるほど」
◇ ◇ ◇
昼を過ぎた頃。
岩石城内から戦の音が消え始めた。
林道家の旗が上がる。
清正が大きく息を吐き、槍を地面へ立てた。
正則はその場へ座り込みそうになりながら笑っている。
秀久は泥だらけになっていた。
「どうだ!」
誰に向けたのか分からない声を上げる。
そこへ高虎が歩いてきた。
秀久が胸を張った。
「言われた通り、奥まで勝手に行かなかったぞ」
「見ておりました」
「なら何か言え」
高虎は少し考える。
「助かりました」
「それだけか!」
正則の笑い声が城内に響いた。
清正も堪えきれず笑う。
秀久は不満そうだったが、やがて自分まで笑い始めた。
少し遅れて、景継と官兵衛も城へ入った。
景継は周囲を見る。
損傷はある。
だが城そのものは残っている。
兵を置くこともできる。
物資を集めることもできる。
次の戦への拠点として使える。
高虎が景継の前へ来た。
「殿」
「見事でした、高虎殿」
「私は道を考えただけです。登ったのは兵たちです」
「その道を考える者がいなければ、もっと血が流れていました」
高虎は何も返さず、頭を下げた。
官兵衛は城から遠くを眺めていた。
景継が隣へ立つ。
「これで、挨拶は終わりですか?」
官兵衛はすぐには答えなかった。
昨日、宇都宮鎮房の軍を破った。
そして今日、岩石城を落とした。
林道軍が九州へ上陸してから、まだほとんど時は経っていない。
「ええ」
官兵衛がようやく答えた。
「ひとまずは」
「ひとまず?」
「これ以上続ければ、挨拶ではなくなります」
景継がわずかに笑った。
その時、三成が城内へ入ってきた。
戦勝を祝う顔ではない。
「殿」
「どうしました?」
「すでに物見を出しております。また、この城へ運び込む兵糧についても行長殿と話を始めました」
官兵衛が呆れたように三成を見る。
「三成殿も高虎殿も、勝った余韻というものを味わわれてはいかがです?」
「余韻で兵は食えません」
即答だった。
景継は思わず笑った。
「では、次へ備えましょう」
九州での戦は始まったばかりだ。
◇ ◇ ◇
その日のうちに、早馬が各地へ走った。
最初に伝わったのは、宇都宮勢敗北の報せ。
だが、それを聞いた者たちが林道軍の次の動きを考えるより先に、二つ目の報せが届いた。
――岩石城、陥落。
「もうか?」
ある国人は聞き返した。
「宇都宮と戦ったばかりではなかったのか」
別の地では、届けられた書状を何度も読み返す者がいた。
「間違いではないのか?」
そして、さらに南。
島津の勢力下にも同じ報せが届き始める。
林道景継が九州へ来た。
それだけなら、誰もが知っていた。
大軍を率いていることも分かっていた。
だが、実際に戦ってみなければ、その軍がどれほどのものかは分からない。
その答えが、わずかな間に二つ届けられた。
宇都宮勢敗北。
岩石城陥落。
二つの報せを前にして、九州の諸将は初めて理解し始めていた。
恐れるべきなのは、林道軍の数だけではない。
一つの戦が終わった時には
すでに次の戦が始まっている。
黒田官兵衛が望んだ最初の一手は、確かに九州へ届き始めていた。




