第二百七十一話 圧勝
宇都宮勢が城井谷を出たとの報せが届いてから、林道軍の動きは早かった。
だが、全軍が一斉に敵へ向かったわけではない。
海沿いにはまだ船から降ろされたばかりの兵糧があり、馬もすべてが本調子ではない。三成と行長は後方に残り、物資の整理と輸送を続け、高虎もまた上陸地点と街道を結ぶ道筋を確認していた。
動いたのは、すぐに戦える兵だけだった。
景継は馬上からその列を見渡す。
先頭近くには加藤清正と福島正則。その後方には仙石秀久が続き、弥兵衛も兵を率いている。
そして景継の隣では、官兵衛が地図と周囲の地形を交互に見ていた。
「官兵衛殿」
「はい」
「宇都宮勢は、どこまで来ますか?」
「それを確かめるため、物見を出しております」
「予想は?」
官兵衛は進行方向へ目を向けた。
街道の先には低い山々が連なり、その間を細い道が縫うように延びている。
「鎮房殿も馬鹿ではございませぬ。我らの本隊へ真正面からぶつかるつもりはないでしょう」
「ならば狙いは?」
「ここです」
官兵衛が地図を開き、一点を指した。
上陸地点と、これから林道軍が進もうとしている内陸部。その間をつなぐ場所だった。
「我らの先鋒を叩き、すぐ退く。勝てるならさらに押し、難しいなら城井谷へ戻る。おそらく、その程度でしょう」
「こちらの様子を見に来る意味もある」
「ええ。林道軍が九州でどれほど動けるのか、鎮房殿も見ておきたいはずです」
景継は地図から顔を上げた。
「では、見せて差し上げましょう」
官兵衛が横を見る。
景継の声は普段と変わらない。
だが、その目はすでに戦場を見ていた。
「我らが、どれほど動けるのかを」
◇ ◇ ◇
宇都宮鎮房もまた、林道軍の動きを探っていた。
山あいの道を進みながら、次々と届く報告に耳を傾ける。
「林道勢、およそ数千が内陸へ進んでおります」
「残りは?」
「海沿いにおります。荷を降ろしている兵も多いとのこと」
鎮房は馬を止めた。
「景継本人は」
「進軍する軍勢の中に旗が確認されております」
「黒田官兵衛は?」
「同じく」
その名を聞いた時だけ、鎮房の眉がわずかに動いた。
林道景継。
黒田官兵衛。
どちらも、遠く豊前まで名が届く男だった。
だからこそ、鎮房は敵を軽く見てはいない。
「殿」
家臣が馬を寄せる。
「今ならば、まだ敵はすべて揃っておりませぬ」
「分かっておる」
林道軍は大軍だ。
まともに全軍が揃ってから戦えば、兵数の差は覆しようがない。
ならば、上陸直後。
兵と荷が分かれ、馬が疲れ、土地にも慣れていない今しかない。
先鋒を叩き、一度退く。
それだけでもよい。
林道軍も無傷では九州を進めないと示せれば、周囲の国人たちも簡単には景継へ靡かない。
「深追いはするな」
鎮房が告げる。
「敵が崩れても追いすぎるな。林道景継と黒田官兵衛がいる。何を仕掛けてくるか分からぬ」
「はっ」
「一度噛みついて、肉を取れば退く。それでよい」
勝つための戦ではない。
生き残るための戦。
それを鎮房は理解していた。
だからこそ――。
彼はまだ知らなかった。
その考えまで、官兵衛に読まれていることを。
◇ ◇ ◇
最初に接触したのは、清正の兵だった。
前方から駆け戻ってきた物見が声を上げる。
「敵勢、確認! 宇都宮勢にございます!」
清正は馬上で槍を握り直した。
「数は」
「こちらより少数! ですが、山側にも兵影あり!」
「伏せているか」
清正はすぐ後ろへ使者を走らせた。
「殿へ伝えろ。敵を見つけた。こちらからはまだ仕掛けぬとな」
近くにいた正則が驚いた顔をする。
「お前が待つのか?」
「どういう意味だ」
「いつもなら真っ先に行くだろう」
「俺を何だと思っている」
「俺と同じようなものだと思っている」
清正が正則を睨んだ。
「だからこそ、お前にも言っておく。勝手に出るな」
「お前に言われたくないわ!」
そんな二人の横を、秀久が通り過ぎようとした。
清正が声を飛ばす。
「仙石!」
秀久の馬が止まる。
「……何だ」
「どこへ行く」
「少し前を見るだけだ」
「戻れ」
「まだ何もしておらんだろう!」
「何かする顔をしていた」
正則が吹き出した。
「清正、それは分かるぞ」
「正則、お前も同じ顔だ」
「何だと!」
兵たちの間にわずかな笑いが起きる。
だが次の瞬間、山側から矢が飛んだ。
一本ではない。
何十本もの矢が空を走り、林道勢の前方へ降り注ぐ。
「盾!」
清正の声が響く。
足軽たちが即座に動き、前列が身を固めた。
同時に宇都宮勢が山際から姿を現した。
「来たぞ!」
正則が槍を構える。
清正はまだ動かない。
矢を防ぎながら、敵の数と位置を見る。
宇都宮勢は正面だけではない。
左右の高所にも兵がいる。
狭い場所へ林道勢を引き込み、横から削るつもりだ。
「なるほどな」
清正が呟いた。
「簡単にはやらせてくれんらしい」
その時、後方から伝令が駆け込んできた。
「加藤様! 殿より!」
「申せ!」
「正面を受け止めよ! 追う必要なし!」
清正の口元が上がる。
「それだけか?」
「福島様は左へ! 仙石様は右へ回れとのこと!」
正則が笑った。
「ようやく俺の番だな!」
秀久も馬首を返す。
「右だな。任せろ!」
「深追いするなよ!」
清正が叫ぶ。
秀久は振り返らなかった。
「分かっておる!」
正則が清正を見る。
「信用できるか?」
「今は信じるしかない」
「だな」
二人は別れた。
◇ ◇ ◇
少し離れた場所から、景継は戦場を見ていた。
正面で清正隊と宇都宮勢がぶつかり始めている。
だが、まだ清正は押していない。
押せるのに、押さない。
官兵衛が横で言った。
「よく我慢しておりますな」
「清正殿も、いつまでも突撃するだけの将ではありません」
「正則殿は?」
「……正則殿もです」
わずかな間があった。
官兵衛が笑う。
「今の間は何です?」
「気のせいでしょう」
景継は戦場から目を離さない。
宇都宮勢は清正が動かないと見ると、さらに前へ出てきた。
狙い通りだった。
敵は林道軍の先鋒を崩したい。
短時間で打撃を与え、退くつもりなら、清正が崩れない限り目的を果たせない。
だから、もう少し。
もう少しだけ前へ出なければならない。
「殿」
官兵衛の声が変わった。
景継も頷く。
「ええ」
宇都宮勢の正面が、当初の位置からかなり離れている。
そして左右の高所にいた兵も、清正隊を包もうと少しずつ前へ出ていた。
「弥兵衛」
「はっ」
「清正殿の後ろへ。敵が退こうとしたら、正面から押してください」
「承知!」
弥兵衛が兵を率いて動く。
景継は続けた。
「合図を」
旗が上がった。
それを見た正則隊が左から動いた。
ほぼ同時に秀久隊も右側へ回り込む。
完全な包囲ではない。
逃げ道は残している。
だが宇都宮勢から見れば、突然左右から林道軍が増えたように映った。
「敵、左より!」
「右にもおります!」
宇都宮勢の声が乱れる。
鎮房も異変に気づいた。
「退け!」
判断は早かった。
もともと長く戦うつもりはない。
林道軍の左右が動いた時点で、目的を捨てて退く。
それが正しい。
だが――。
「敵、退きます!」
報告を受けた清正が槍を前へ向けた。
今度は待たない。
「押せ!」
林道勢が一斉に前へ出た。
これまで宇都宮勢の攻撃を受け止めていた清正隊が、突然牙を剥いた。
「崩せ! 追い散らせ!」
清正が先頭近くまで出る。
宇都宮勢の前列が押し込まれた。
そこへ左から正則隊が突き刺さる。
「ここからは俺たちの番だ!」
正則の槍が敵兵の槍を弾き、足軽たちが続く。
右では秀久がさらに速かった。
「前へ出ろ! 敵を分断する!」
「仙石様! 深追いは――」
「分かっておる! だから横へ切る!」
秀久は退く敵を後ろから追い続けるのではなく、その流れを横から断ち切った。
逃げようとしていた宇都宮勢の一部が、本隊から切り離される。
それを見た景継がわずかに目を見開いた。
「ほう」
官兵衛も感心したように言う。
「考えておりますな」
「秀久殿に聞かれたら怒りますよ」
「聞こえぬところで申しております」
宇都宮勢は崩れ始めていた。
だが、鎮房はまだ冷静だった。
「旗を下げるな! 退く兵をまとめろ!」
自ら後方へ回り、逃げる兵を立て直す。
「山へ戻れ! ばらばらになるな!」
家臣が叫ぶ。
「殿もお退きください!」
「俺が先に逃げれば総崩れになる!」
鎮房は踏みとどまった。
敗れた。
それはもう分かっている。
だが、敗北と壊滅は違う。
一人でも多く城井谷へ連れ帰る。
その判断が、宇都宮家を救った。
景継も遠くから鎮房の旗を見ていた。
「まだ崩れませんね」
「さすがですな」
官兵衛の声にも侮りはなかった。
「追いますか?」
景継が尋ねる。
官兵衛は首を振った。
「必要ございませぬ」
景継も同じ考えだった。
「全軍へ。一定のところで追撃を止めます」
弥兵衛が景継を見る。
「よろしいのですか?」
「城井谷まで追えば、今度はこちらが鎮房殿の戦に付き合うことになります」
官兵衛が続ける。
「それに、ここで宇都宮を滅ぼす必要はありませぬ」
戦場では、林道勢の鬨の声が上がり始めていた。
九州での最初の戦。
林道軍の損害は小さく、宇都宮勢は大きく崩された。
そして何より、上陸したばかりの軍とは思えない速さで敵の動きを捉え、左右から崩してみせた。
官兵衛が望んだ形だった。
圧勝。
その言葉に偽りはない。
◇ ◇ ◇
夕刻。
戦場の整理が進む中、清正たちが景継のもとへ戻ってきた。
清正の具足には泥が付き、正則の額には汗が残っている。
秀久は誰よりも機嫌がよかった。
「殿! いかがでしたか!」
「何がです?」
「我が働きです!」
景継は少し考えた。
「よかったですよ」
秀久の顔が明るくなる。
「ただし」
「……ただし?」
「もう少し進んでいたら、止めようと思っていました」
秀久の表情が固まった。
正則が声を上げて笑う。
「やはりな!」
「お前もだ、正則殿」
官兵衛が横から言った。
今度は正則の笑いが止まる。
清正が肩を揺らした。
「二人とも同じではないか」
「清正殿」
景継が呼ぶ。
「はい」
「よく待ってくれました」
清正は一度だけ目を瞬かせ、それから頭を下げた。
「命でございましたので」
短い返事だったが、その顔にはわずかな誇らしさがあった。
そこへ高虎が戻ってきた。
「殿」
「高虎殿。後方は?」
「三成殿と話しました。今夜のうちに兵糧の大半を次の場所へ移せます」
官兵衛が高虎を見る。
「今夜のうちに?」
「明日動くのでしょう?」
高虎の言葉に、その場の空気が変わった。
正則が眉を上げる。
「明日?」
「休むのではないのか?」
秀久も官兵衛を見る。
景継だけは何も言わなかった。
官兵衛が高虎へ尋ねる。
「なぜ、そう思われました?」
「この程度の勝利で終えるなら、上陸前からあれほど急いで物資を整える必要はないでしょう」
高虎は淡々と答えた。
「それに宇都宮勢を追わなかった。なら、別の場所へ行くと考える方が自然です」
官兵衛がしばらく高虎を見た後、笑った。
「秀長殿は、厄介な男を残してくださった」
「褒め言葉として受け取っておきます」
景継が口を開く。
「官兵衛殿」
「はい」
「次ですね」
「ええ」
官兵衛は地図を広げた。
宇都宮勢との戦場から、その指が西へ動いていく。
やがて、一つの場所で止まった。
「岩石城」
清正がその名を繰り返す。
「次は城攻めですか」
「はい」
正則が驚いた。
「今日戦ったばかりだぞ」
「ですから、今なのです」
官兵衛の指が岩石城から離れない。
「宇都宮勢が敗れたという報せは、すぐに周囲へ広がります。皆、まず我らがどう動くかを見るでしょう。兵を休めるか。宇都宮を追うか。城井谷を攻めるか」
官兵衛が顔を上げる。
「そのどれもしません」
景継はその先を理解した。
「考える時間を与えない」
「はい」
「岩石城側が守りを整える前に、次を叩く」
官兵衛の目に鋭い光が宿る。
「九州の者たちには、今日の勝利だけでは足りませぬ」
高虎が地図へ視線を落とす。
すでに城をどう攻めるか考え始めている顔だった。
清正が槍を握り直す。
正則も今度は笑わない。
秀久だけが、待っていたと言わんばかりに口元を上げた。
景継は三人を見てから、官兵衛へ尋ねる。
「兵は休ませますか?」
「もちろん」
「どれほど?」
「今夜いっぱい」
正則が思わず声を上げた。
「それだけか!」
官兵衛は平然と答える。
「足りませぬか?」
「いや……」
正則が言葉に詰まる。
景継は地図上の岩石城を見つめた。
宇都宮勢を破った。
普通なら、ここで勝利を確かめる。
兵を休ませ、敵の出方を見て、次の手を決める。
だが官兵衛は違った。
すでに次の一手を決めている。
「官兵衛殿」
「はい」
「以前、最初の一戦を九州への挨拶にすると言いましたね」
「そのつもりです」
景継は岩石城へ置かれた指を見る。
「ならば、宇都宮殿との戦だけでは、まだ挨拶は終わっていないということですか」
官兵衛の口元がゆっくりと上がった。
「ええ」
その夜、林道軍には休息が命じられた。
だが同時に、三成と行長のもとでは兵糧の移動が始まり、高虎は岩石城周辺の地形を知る者を集め、清正と正則の隊には翌朝の出陣が伝えられた。
九州での最初の勝利から、まだ一日も経っていない。
それでも林道軍は、もう次の敵へ向けて動き始めていた。
宇都宮鎮房敗北の報せが九州を駆け巡るより早く。
景継と官兵衛は、岩石城を落とすつもりだった。




