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『乱世にて、我は待つ』~知略を秘めた軍師は、やがて天下を動かす~  作者: ダイヤマ
第十二章 命運交錯編

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第二百七十一話 圧勝



宇都宮勢が城井谷を出たとの報せが届いてから、林道軍の動きは早かった。


だが、全軍が一斉に敵へ向かったわけではない。


海沿いにはまだ船から降ろされたばかりの兵糧があり、馬もすべてが本調子ではない。三成と行長は後方に残り、物資の整理と輸送を続け、高虎もまた上陸地点と街道を結ぶ道筋を確認していた。


動いたのは、すぐに戦える兵だけだった。


景継は馬上からその列を見渡す。


先頭近くには加藤清正と福島正則。その後方には仙石秀久が続き、弥兵衛も兵を率いている。


そして景継の隣では、官兵衛が地図と周囲の地形を交互に見ていた。


「官兵衛殿」


「はい」


「宇都宮勢は、どこまで来ますか?」


「それを確かめるため、物見を出しております」


「予想は?」


官兵衛は進行方向へ目を向けた。


街道の先には低い山々が連なり、その間を細い道が縫うように延びている。


「鎮房殿も馬鹿ではございませぬ。我らの本隊へ真正面からぶつかるつもりはないでしょう」


「ならば狙いは?」


「ここです」


官兵衛が地図を開き、一点を指した。


上陸地点と、これから林道軍が進もうとしている内陸部。その間をつなぐ場所だった。


「我らの先鋒を叩き、すぐ退く。勝てるならさらに押し、難しいなら城井谷へ戻る。おそらく、その程度でしょう」


「こちらの様子を見に来る意味もある」


「ええ。林道軍が九州でどれほど動けるのか、鎮房殿も見ておきたいはずです」


景継は地図から顔を上げた。


「では、見せて差し上げましょう」


官兵衛が横を見る。


景継の声は普段と変わらない。


だが、その目はすでに戦場を見ていた。


「我らが、どれほど動けるのかを」


◇ ◇ ◇


宇都宮鎮房もまた、林道軍の動きを探っていた。


山あいの道を進みながら、次々と届く報告に耳を傾ける。


「林道勢、およそ数千が内陸へ進んでおります」


「残りは?」


「海沿いにおります。荷を降ろしている兵も多いとのこと」


鎮房は馬を止めた。


「景継本人は」


「進軍する軍勢の中に旗が確認されております」


「黒田官兵衛は?」


「同じく」


その名を聞いた時だけ、鎮房の眉がわずかに動いた。


林道景継。


黒田官兵衛。


どちらも、遠く豊前まで名が届く男だった。


だからこそ、鎮房は敵を軽く見てはいない。


「殿」


家臣が馬を寄せる。


「今ならば、まだ敵はすべて揃っておりませぬ」


「分かっておる」


林道軍は大軍だ。


まともに全軍が揃ってから戦えば、兵数の差は覆しようがない。


ならば、上陸直後。


兵と荷が分かれ、馬が疲れ、土地にも慣れていない今しかない。


先鋒を叩き、一度退く。


それだけでもよい。


林道軍も無傷では九州を進めないと示せれば、周囲の国人たちも簡単には景継へ靡かない。


「深追いはするな」


鎮房が告げる。


「敵が崩れても追いすぎるな。林道景継と黒田官兵衛がいる。何を仕掛けてくるか分からぬ」


「はっ」


「一度噛みついて、肉を取れば退く。それでよい」


勝つための戦ではない。


生き残るための戦。


それを鎮房は理解していた。


だからこそ――。


彼はまだ知らなかった。


その考えまで、官兵衛に読まれていることを。


◇ ◇ ◇


最初に接触したのは、清正の兵だった。


前方から駆け戻ってきた物見が声を上げる。


「敵勢、確認! 宇都宮勢にございます!」


清正は馬上で槍を握り直した。


「数は」


「こちらより少数! ですが、山側にも兵影あり!」


「伏せているか」


清正はすぐ後ろへ使者を走らせた。


「殿へ伝えろ。敵を見つけた。こちらからはまだ仕掛けぬとな」


近くにいた正則が驚いた顔をする。


「お前が待つのか?」


「どういう意味だ」


「いつもなら真っ先に行くだろう」


「俺を何だと思っている」


「俺と同じようなものだと思っている」


清正が正則を睨んだ。


「だからこそ、お前にも言っておく。勝手に出るな」


「お前に言われたくないわ!」


そんな二人の横を、秀久が通り過ぎようとした。


清正が声を飛ばす。


「仙石!」


秀久の馬が止まる。


「……何だ」


「どこへ行く」


「少し前を見るだけだ」


「戻れ」


「まだ何もしておらんだろう!」


「何かする顔をしていた」


正則が吹き出した。


「清正、それは分かるぞ」


「正則、お前も同じ顔だ」


「何だと!」


兵たちの間にわずかな笑いが起きる。


だが次の瞬間、山側から矢が飛んだ。


一本ではない。


何十本もの矢が空を走り、林道勢の前方へ降り注ぐ。


「盾!」


清正の声が響く。


足軽たちが即座に動き、前列が身を固めた。


同時に宇都宮勢が山際から姿を現した。


「来たぞ!」


正則が槍を構える。


清正はまだ動かない。


矢を防ぎながら、敵の数と位置を見る。


宇都宮勢は正面だけではない。


左右の高所にも兵がいる。


狭い場所へ林道勢を引き込み、横から削るつもりだ。


「なるほどな」


清正が呟いた。


「簡単にはやらせてくれんらしい」


その時、後方から伝令が駆け込んできた。


「加藤様! 殿より!」


「申せ!」


「正面を受け止めよ! 追う必要なし!」


清正の口元が上がる。


「それだけか?」


「福島様は左へ! 仙石様は右へ回れとのこと!」


正則が笑った。


「ようやく俺の番だな!」


秀久も馬首を返す。


「右だな。任せろ!」


「深追いするなよ!」


清正が叫ぶ。


秀久は振り返らなかった。


「分かっておる!」


正則が清正を見る。


「信用できるか?」


「今は信じるしかない」


「だな」


二人は別れた。


◇ ◇ ◇


少し離れた場所から、景継は戦場を見ていた。


正面で清正隊と宇都宮勢がぶつかり始めている。


だが、まだ清正は押していない。


押せるのに、押さない。


官兵衛が横で言った。


「よく我慢しておりますな」


「清正殿も、いつまでも突撃するだけの将ではありません」


「正則殿は?」


「……正則殿もです」


わずかな間があった。


官兵衛が笑う。


「今の間は何です?」


「気のせいでしょう」


景継は戦場から目を離さない。


宇都宮勢は清正が動かないと見ると、さらに前へ出てきた。


狙い通りだった。


敵は林道軍の先鋒を崩したい。


短時間で打撃を与え、退くつもりなら、清正が崩れない限り目的を果たせない。


だから、もう少し。


もう少しだけ前へ出なければならない。


「殿」


官兵衛の声が変わった。


景継も頷く。


「ええ」


宇都宮勢の正面が、当初の位置からかなり離れている。


そして左右の高所にいた兵も、清正隊を包もうと少しずつ前へ出ていた。


「弥兵衛」


「はっ」


「清正殿の後ろへ。敵が退こうとしたら、正面から押してください」


「承知!」


弥兵衛が兵を率いて動く。


景継は続けた。


「合図を」


旗が上がった。


それを見た正則隊が左から動いた。


ほぼ同時に秀久隊も右側へ回り込む。


完全な包囲ではない。


逃げ道は残している。


だが宇都宮勢から見れば、突然左右から林道軍が増えたように映った。


「敵、左より!」


「右にもおります!」


宇都宮勢の声が乱れる。


鎮房も異変に気づいた。


「退け!」


判断は早かった。


もともと長く戦うつもりはない。


林道軍の左右が動いた時点で、目的を捨てて退く。


それが正しい。


だが――。


「敵、退きます!」


報告を受けた清正が槍を前へ向けた。


今度は待たない。


「押せ!」


林道勢が一斉に前へ出た。


これまで宇都宮勢の攻撃を受け止めていた清正隊が、突然牙を剥いた。


「崩せ! 追い散らせ!」


清正が先頭近くまで出る。


宇都宮勢の前列が押し込まれた。


そこへ左から正則隊が突き刺さる。


「ここからは俺たちの番だ!」


正則の槍が敵兵の槍を弾き、足軽たちが続く。


右では秀久がさらに速かった。


「前へ出ろ! 敵を分断する!」


「仙石様! 深追いは――」


「分かっておる! だから横へ切る!」


秀久は退く敵を後ろから追い続けるのではなく、その流れを横から断ち切った。


逃げようとしていた宇都宮勢の一部が、本隊から切り離される。


それを見た景継がわずかに目を見開いた。


「ほう」


官兵衛も感心したように言う。


「考えておりますな」


「秀久殿に聞かれたら怒りますよ」


「聞こえぬところで申しております」


宇都宮勢は崩れ始めていた。


だが、鎮房はまだ冷静だった。


「旗を下げるな! 退く兵をまとめろ!」


自ら後方へ回り、逃げる兵を立て直す。


「山へ戻れ! ばらばらになるな!」


家臣が叫ぶ。


「殿もお退きください!」


「俺が先に逃げれば総崩れになる!」


鎮房は踏みとどまった。


敗れた。


それはもう分かっている。


だが、敗北と壊滅は違う。


一人でも多く城井谷へ連れ帰る。


その判断が、宇都宮家を救った。


景継も遠くから鎮房の旗を見ていた。


「まだ崩れませんね」


「さすがですな」


官兵衛の声にも侮りはなかった。


「追いますか?」


景継が尋ねる。


官兵衛は首を振った。


「必要ございませぬ」


景継も同じ考えだった。


「全軍へ。一定のところで追撃を止めます」


弥兵衛が景継を見る。


「よろしいのですか?」


「城井谷まで追えば、今度はこちらが鎮房殿の戦に付き合うことになります」


官兵衛が続ける。


「それに、ここで宇都宮を滅ぼす必要はありませぬ」


戦場では、林道勢の鬨の声が上がり始めていた。


九州での最初の戦。


林道軍の損害は小さく、宇都宮勢は大きく崩された。


そして何より、上陸したばかりの軍とは思えない速さで敵の動きを捉え、左右から崩してみせた。


官兵衛が望んだ形だった。


圧勝。


その言葉に偽りはない。


◇ ◇ ◇


夕刻。


戦場の整理が進む中、清正たちが景継のもとへ戻ってきた。


清正の具足には泥が付き、正則の額には汗が残っている。


秀久は誰よりも機嫌がよかった。


「殿! いかがでしたか!」


「何がです?」


「我が働きです!」


景継は少し考えた。


「よかったですよ」


秀久の顔が明るくなる。


「ただし」


「……ただし?」


「もう少し進んでいたら、止めようと思っていました」


秀久の表情が固まった。


正則が声を上げて笑う。


「やはりな!」


「お前もだ、正則殿」


官兵衛が横から言った。


今度は正則の笑いが止まる。


清正が肩を揺らした。


「二人とも同じではないか」


「清正殿」


景継が呼ぶ。


「はい」


「よく待ってくれました」


清正は一度だけ目を瞬かせ、それから頭を下げた。


「命でございましたので」


短い返事だったが、その顔にはわずかな誇らしさがあった。


そこへ高虎が戻ってきた。


「殿」


「高虎殿。後方は?」


「三成殿と話しました。今夜のうちに兵糧の大半を次の場所へ移せます」


官兵衛が高虎を見る。


「今夜のうちに?」


「明日動くのでしょう?」


高虎の言葉に、その場の空気が変わった。


正則が眉を上げる。


「明日?」


「休むのではないのか?」


秀久も官兵衛を見る。


景継だけは何も言わなかった。


官兵衛が高虎へ尋ねる。


「なぜ、そう思われました?」


「この程度の勝利で終えるなら、上陸前からあれほど急いで物資を整える必要はないでしょう」


高虎は淡々と答えた。


「それに宇都宮勢を追わなかった。なら、別の場所へ行くと考える方が自然です」


官兵衛がしばらく高虎を見た後、笑った。


「秀長殿は、厄介な男を残してくださった」


「褒め言葉として受け取っておきます」


景継が口を開く。


「官兵衛殿」


「はい」


「次ですね」


「ええ」


官兵衛は地図を広げた。


宇都宮勢との戦場から、その指が西へ動いていく。


やがて、一つの場所で止まった。


「岩石城」


清正がその名を繰り返す。


「次は城攻めですか」


「はい」


正則が驚いた。


「今日戦ったばかりだぞ」


「ですから、今なのです」


官兵衛の指が岩石城から離れない。


「宇都宮勢が敗れたという報せは、すぐに周囲へ広がります。皆、まず我らがどう動くかを見るでしょう。兵を休めるか。宇都宮を追うか。城井谷を攻めるか」


官兵衛が顔を上げる。


「そのどれもしません」


景継はその先を理解した。


「考える時間を与えない」


「はい」


「岩石城側が守りを整える前に、次を叩く」


官兵衛の目に鋭い光が宿る。


「九州の者たちには、今日の勝利だけでは足りませぬ」


高虎が地図へ視線を落とす。


すでに城をどう攻めるか考え始めている顔だった。


清正が槍を握り直す。


正則も今度は笑わない。


秀久だけが、待っていたと言わんばかりに口元を上げた。


景継は三人を見てから、官兵衛へ尋ねる。


「兵は休ませますか?」


「もちろん」


「どれほど?」


「今夜いっぱい」


正則が思わず声を上げた。


「それだけか!」


官兵衛は平然と答える。


「足りませぬか?」


「いや……」


正則が言葉に詰まる。


景継は地図上の岩石城を見つめた。


宇都宮勢を破った。


普通なら、ここで勝利を確かめる。


兵を休ませ、敵の出方を見て、次の手を決める。


だが官兵衛は違った。


すでに次の一手を決めている。


「官兵衛殿」


「はい」


「以前、最初の一戦を九州への挨拶にすると言いましたね」


「そのつもりです」


景継は岩石城へ置かれた指を見る。


「ならば、宇都宮殿との戦だけでは、まだ挨拶は終わっていないということですか」


官兵衛の口元がゆっくりと上がった。


「ええ」


その夜、林道軍には休息が命じられた。


だが同時に、三成と行長のもとでは兵糧の移動が始まり、高虎は岩石城周辺の地形を知る者を集め、清正と正則の隊には翌朝の出陣が伝えられた。


九州での最初の勝利から、まだ一日も経っていない。


それでも林道軍は、もう次の敵へ向けて動き始めていた。


宇都宮鎮房敗北の報せが九州を駆け巡るより早く。


景継と官兵衛は、岩石城を落とすつもりだった。



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