第二百七十話 最初の敵
「まずは――宇都宮鎮房を叩きます」
海風の中でも、官兵衛の声ははっきりと聞こえた。
景継はすぐには答えず、船上に広げられた地図へ目を落とした。豊前国。その一角にある城井谷を指でなぞり、そこから周辺の街道、さらに西へと視線を移していく。
「宇都宮鎮房……城井谷ですか」
「はい」
「最初の相手として選んだ理由を聞きましょう」
景継がそう言うと、官兵衛は地図の上へ指を置いた。
「宇都宮は豊前に長く根を張る家。大友、毛利、そして島津。周囲の勢力が変わろうとも、その中を生き抜いてきました。簡単に頭を下げる相手ではございませぬ」
「弱くはない」
「ええ。だからこそです」
官兵衛の指が城井谷から動き、その周辺へ円を描く。
「我らが名も知らぬ小勢力を潰したところで、九州の者たちは何とも思いませぬ。大軍で弱者を踏み潰したと笑われるだけでしょう。ですが、宇都宮なら話は違います」
景継は官兵衛を見る。
「豊前の者なら、その名を知っている」
「豊前だけではありませぬ。少なくとも北部九州の国人たちは、宇都宮が簡単に折れる家ではないと知っております」
官兵衛はそこで言葉を切った。
「その宇都宮を、上陸直後に破る」
景継の目が細くなる。
以前、官兵衛が口にした言葉を思い出していた。
ただ勝つだけでは足りない。
圧勝する。
ようやく、その意味が具体的な形を持ち始めている。
「ですが、城井谷へ攻め込むつもりではありませんね?」
景継が尋ねると、官兵衛の口元がわずかに緩んだ。
「さすがに殿ですな」
「宇都宮を最初の相手に選んだ理由と、城井谷を攻める理由は別でしょう」
「その通りです」
官兵衛は地図を軽く叩いた。
「城井谷は宇都宮が長く守ってきた土地。山に入り込んで戦えば、我らの兵数はかえって邪魔になります。九州へ来て最初の戦から、敵の得意な場所へ付き合う必要はございませぬ」
「では、出てきてもらう」
「出てくるかどうかは鎮房殿次第ですがな」
官兵衛はそう言ったものの、その表情には確信があった。
景継はそれを見逃さない。
「出てくると思っているのでしょう?」
「私はまだ、鎮房殿と直接話したことがございませぬ」
「答えになっていません」
官兵衛が笑う。
「では、こう申しましょう。我らが豊前へ入り、そこで足場を固め始めれば、時間が経つほど宇都宮には不利になります」
「こちらの兵糧が揃い、周囲の勢力との話も始まる」
「さらに毛利からの船も続く。大友がこちらへ接触してくる可能性もある。そうなってからでは、宇都宮は動きにくい」
景継は頷いた。
「ならば、まだこちらが上陸したばかりのうちに叩く」
「そう考えてくだされば、こちらとしてはありがたい」
官兵衛の言葉に、景継はしばらく地図を見つめた。
そして顔を上げる。
「まず使者を出します」
官兵衛は反対しなかった。
「よろしいかと」
「戦わずに済むなら、それで構いません」
「ええ」
「……ずいぶん素直ですね」
「殿が使者を出すことまで、考えておりましたので」
景継は官兵衛を見た。
「それで断られるところまで?」
「さて」
官兵衛は海の向こうへ顔を向けた。
その先には、薄く陸地が見え始めていた。
「それは鎮房殿がお決めになることです」
◇ ◇ ◇
九州が近づくにつれ、船上の空気が変わった。
先ほどまで座っていた兵たちが立ち上がり、具足を確かめ、槍や弓へ手を伸ばしていく。船酔いで青い顔をしていた者まで、陸が見えると無理に背筋を伸ばした。
加藤清正は船縁から前方を見ていた。
「ようやくだな」
隣にいた福島正則が笑う。
「仙石みたいなことを言うな」
「一緒にするな。俺は船の上で騒いでおらん」
「聞こえておるぞ!」
少し離れた船から仙石秀久の声が飛んできた。
正則が声を上げて笑った。
「耳だけはいいな!」
「正則! 陸へ上がったら覚えておけ!」
「敵より先に俺と戦うつもりか!」
周囲の兵から笑いが漏れる。
だが、その笑いも長くは続かなかった。
先頭の船から合図が上がった。
陸が近い。
清正の顔から笑みが消える。
正則も槍を取った。
秀久もまた、先ほどまでの軽口が嘘だったかのように前だけを見ている。
九州での戦が、いよいよ始まろうとしていた。
◇ ◇ ◇
林道軍は豊前へ上陸した。
最初に岸へ降りた兵が周囲を確保すると、次々に船が着き、人と物が陸へ移されていく。
景継も馬とともに九州の土を踏んだ。
振り返れば、海にはまだ無数の船が浮かんでいる。
「殿!」
三成が足早に近づいてきた。
「第一陣の兵糧、間もなくすべて降ろし終えます。第二陣については行長殿が船主と調整しております」
「馬は?」
「順次。ですが、慣れぬ船旅で弱っているものがございます。今日すぐに全軍を動かすのは避けた方がよろしいかと」
「分かりました。休ませてください」
三成が頭を下げて去っていく。
その反対側では、高虎が数人を連れて周囲を歩いていた。
地面を見て、海を見て、道を見る。
景継が声をかける。
「何か気になりますか?」
「上陸するには悪くありません。ただ、ここへ長く物を置くつもりなら手を入れる必要があります」
「もうですか?」
「もう、です」
高虎は即答した。
「敵が近くにいる状態で兵糧を積み上げておけば、焼いてくれと言っているようなものです。守るなら守る。次へ運ぶなら早く運ぶ。そのどちらかでしょう」
景継は高虎の見ていた場所へ視線を向けた。
「三成殿と話してください」
「承知しました」
高虎が去る。
入れ替わるように官兵衛がやって来た。
「もう働いておりますな」
「高虎殿ですか?」
「ええ。秀長殿が目をかけた理由が分かります」
景継は小さく頷いた。
「では、こちらも始めましょう」
「使者ですな」
「はい」
景継は弥兵衛を呼んだ。
「宇都宮鎮房殿へ使者を。こちらに城井谷を奪う意図はないこと、九州平定のため軍を進めることを伝えてください。その上で、我らへの敵対行動を取らないよう求めます」
弥兵衛が頭を下げる。
「服属は求められませんか?」
「最初から刀を首に当てて話す必要はありません」
その言葉を聞いた官兵衛は何も言わなかった。
景継が横目を向ける。
「何か?」
「いえ。殿らしいと思っただけです」
「褒めていますか?」
「もちろん」
官兵衛はそう答えたが、わずかに笑っていた。
景継は追及せず、海から運び込まれてくる兵糧へ視線を戻した。
まず話す。
それで済めばよい。
だが――。
景継自身も、それだけで終わるとは思っていなかった。
◇ ◇ ◇
豊前国、城井谷。
林道家からの使者が去った後も、宇都宮鎮房はしばらく口を開かなかった。
目の前には景継から届けられた書状が置かれている。
家臣の一人が重い声で尋ねた。
「いかがなさいます」
鎮房は書状を見たまま答えた。
「城井谷を取るつもりはない、か」
「そのように」
「今は、であろう」
家臣たちが黙る。
鎮房はようやく顔を上げた。
「大友が強ければ大友が来る。毛利が手を伸ばせば毛利が来る。島津が北へ進めば、今度は島津だ。そして次は林道景継か」
誰も答えない。
鎮房の声に怒りはなかった。
むしろ、長く同じ土地を守ってきた者の疲れに近いものが滲んでいた。
「外から来る者は、いつも同じことを言う。我らに従えとは言わぬ。敵になるな、道を空けろ、兵を出すな。それだけだとな」
「しかし、林道家の兵は多うございます」
別の家臣が慎重に口を挟む。
「毛利も協力しているとのこと。ここで敵に回すのは……」
「分かっておる」
鎮房は遮らなかった。
「分かっておるから厄介なのだ」
彼は立ち上がり、外へ目を向けた。
山々に囲まれた城井谷。
宇都宮家が長く生きてきた土地だった。
「一度道を譲れば、次も譲ることになる。次に兵を置かせろと言われ、その次には城を貸せと言われるかもしれぬ。その度に『今は従った方がよい』と頭を下げ続ければ、最後に何が残る」
家臣たちの表情が変わった。
「殿……」
「林道景継がどのような男か、俺は知らぬ」
鎮房は静かに続けた。
「名将だとも聞く。降った者を無闇に殺す男でもないらしい。それでも、我らの土地を守ってくれるのは林道景継ではない」
鎮房が振り返る。
「我らだ」
その言葉で、評定の空気が決まった。
◇ ◇ ◇
翌日。
鎮房からの返書が景継のもとへ届いた。
景継は最後まで読み、静かに書状を畳んだ。
「断られましたか」
官兵衛が尋ねる。
「ええ」
「どのように?」
「林道家と争うことを望んではいない。しかし、軍勢が宇都宮の勢力圏へ入ることは認めない、と」
官兵衛は驚かなかった。
「そうですか」
「嬉しそうですね」
「まさか」
「では、その顔は何です?」
官兵衛が自分の頬へ触れる。
「顔に出ておりましたか」
「少しだけ」
「気をつけましょう」
景継は小さく息を吐き、周囲に集まった将たちを見る。
清正。
正則。
秀久。
高虎。
三成。
吉継。
行長。
そして弥兵衛。
皆、景継の言葉を待っていた。
「宇都宮鎮房殿は、我らの進軍を認めませんでした」
秀久の目が鋭くなる。
清正と正則も表情を引き締めた。
「ならば、戦ですな」
秀久が言う。
「まだです」
景継の返答に、秀久が眉を寄せた。
「まだ?」
「鎮房殿は城井谷にいる。我らから山へ入り込む必要はありません」
そこで官兵衛が前へ出た。
「ですが、こちらが動けば、向こうも動きます」
高虎が地図を見る。
「どちらへ?」
官兵衛が地図上の街道を指でなぞった。
「我らが豊前に足場を築き、そのまま勢力を広げると鎮房殿が考えれば――」
指が止まる。
「この辺りでしょうな」
清正が地図を覗き込んだ。
「出てくると?」
「出てきていただきます」
正則が口元を上げる。
「ようやく戦か」
「正則殿」
三成が冷たい目を向ける。
「兵糧を運び終えるまでは勝手に出ないでください」
「分かっておる!」
「先ほど仙石殿にも同じことを言いました」
「なぜ俺まで同じ扱いなんだ!」
「日頃の行いではないか?」
清正の一言に、秀久が吹き出した。
張り詰めていた空気がわずかに緩む。
だが、官兵衛だけは地図から目を離していなかった。
景継はそれに気づく。
「官兵衛殿」
「はい」
「宇都宮勢を破った後のことまで考えていますね?」
官兵衛が顔を上げた。
「もちろんです」
「次はどこです?」
一瞬、官兵衛の視線が西へ動いた。
だが、すぐに首を振る。
「まずは目の前の相手を片づけましょう」
「珍しく教えてくれませんね」
「まだ早うございます」
景継はそれ以上聞かなかった。
その日の午後、物見から報せが入った。
宇都宮勢に動きあり。
城井谷から兵が出た。
報告を聞いた官兵衛は、驚くどころか静かに立ち上がった。
「殿」
景継も立つ。
官兵衛は地図の一点を指した。
「参りましょう」
「ええ」
景継は集まった将たちを見渡した。
九州へ渡って初めての戦。
ここでの勝ち方が、この先を左右する。
清正が槍を手にし、正則が立ち上がる。秀久の顔には隠しきれない闘志が浮かび、高虎は戦場となる場所の地形を確かめていた。
景継は静かに告げる。
「九州での最初の一戦です」
そして官兵衛を見る。
「ただ勝つだけでは、足りないのでしたね」
官兵衛の口元に、わずかな笑みが浮かんだ。
「はい」
その目はすでに、宇都宮勢のさらに先を見ていた。
「圧勝いたしましょう」




