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『乱世にて、我は待つ』~知略を秘めた軍師は、やがて天下を動かす~  作者: ダイヤマ
第十二章 命運交錯編

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第二百七十話 最初の敵



「まずは――宇都宮鎮房を叩きます」


海風の中でも、官兵衛の声ははっきりと聞こえた。


景継はすぐには答えず、船上に広げられた地図へ目を落とした。豊前国。その一角にある城井谷を指でなぞり、そこから周辺の街道、さらに西へと視線を移していく。


「宇都宮鎮房……城井谷ですか」


「はい」


「最初の相手として選んだ理由を聞きましょう」


景継がそう言うと、官兵衛は地図の上へ指を置いた。


「宇都宮は豊前に長く根を張る家。大友、毛利、そして島津。周囲の勢力が変わろうとも、その中を生き抜いてきました。簡単に頭を下げる相手ではございませぬ」


「弱くはない」


「ええ。だからこそです」


官兵衛の指が城井谷から動き、その周辺へ円を描く。


「我らが名も知らぬ小勢力を潰したところで、九州の者たちは何とも思いませぬ。大軍で弱者を踏み潰したと笑われるだけでしょう。ですが、宇都宮なら話は違います」


景継は官兵衛を見る。


「豊前の者なら、その名を知っている」


「豊前だけではありませぬ。少なくとも北部九州の国人たちは、宇都宮が簡単に折れる家ではないと知っております」


官兵衛はそこで言葉を切った。


「その宇都宮を、上陸直後に破る」


景継の目が細くなる。


以前、官兵衛が口にした言葉を思い出していた。


ただ勝つだけでは足りない。


圧勝する。


ようやく、その意味が具体的な形を持ち始めている。


「ですが、城井谷へ攻め込むつもりではありませんね?」


景継が尋ねると、官兵衛の口元がわずかに緩んだ。


「さすがに殿ですな」


「宇都宮を最初の相手に選んだ理由と、城井谷を攻める理由は別でしょう」


「その通りです」


官兵衛は地図を軽く叩いた。


「城井谷は宇都宮が長く守ってきた土地。山に入り込んで戦えば、我らの兵数はかえって邪魔になります。九州へ来て最初の戦から、敵の得意な場所へ付き合う必要はございませぬ」


「では、出てきてもらう」


「出てくるかどうかは鎮房殿次第ですがな」


官兵衛はそう言ったものの、その表情には確信があった。


景継はそれを見逃さない。


「出てくると思っているのでしょう?」


「私はまだ、鎮房殿と直接話したことがございませぬ」


「答えになっていません」


官兵衛が笑う。


「では、こう申しましょう。我らが豊前へ入り、そこで足場を固め始めれば、時間が経つほど宇都宮には不利になります」


「こちらの兵糧が揃い、周囲の勢力との話も始まる」


「さらに毛利からの船も続く。大友がこちらへ接触してくる可能性もある。そうなってからでは、宇都宮は動きにくい」


景継は頷いた。


「ならば、まだこちらが上陸したばかりのうちに叩く」


「そう考えてくだされば、こちらとしてはありがたい」


官兵衛の言葉に、景継はしばらく地図を見つめた。


そして顔を上げる。


「まず使者を出します」


官兵衛は反対しなかった。


「よろしいかと」


「戦わずに済むなら、それで構いません」


「ええ」


「……ずいぶん素直ですね」


「殿が使者を出すことまで、考えておりましたので」


景継は官兵衛を見た。


「それで断られるところまで?」


「さて」


官兵衛は海の向こうへ顔を向けた。


その先には、薄く陸地が見え始めていた。


「それは鎮房殿がお決めになることです」


◇ ◇ ◇


九州が近づくにつれ、船上の空気が変わった。


先ほどまで座っていた兵たちが立ち上がり、具足を確かめ、槍や弓へ手を伸ばしていく。船酔いで青い顔をしていた者まで、陸が見えると無理に背筋を伸ばした。


加藤清正は船縁から前方を見ていた。


「ようやくだな」


隣にいた福島正則が笑う。


「仙石みたいなことを言うな」


「一緒にするな。俺は船の上で騒いでおらん」


「聞こえておるぞ!」


少し離れた船から仙石秀久の声が飛んできた。


正則が声を上げて笑った。


「耳だけはいいな!」


「正則! 陸へ上がったら覚えておけ!」


「敵より先に俺と戦うつもりか!」


周囲の兵から笑いが漏れる。


だが、その笑いも長くは続かなかった。


先頭の船から合図が上がった。


陸が近い。


清正の顔から笑みが消える。


正則も槍を取った。


秀久もまた、先ほどまでの軽口が嘘だったかのように前だけを見ている。


九州での戦が、いよいよ始まろうとしていた。


◇ ◇ ◇


林道軍は豊前へ上陸した。


最初に岸へ降りた兵が周囲を確保すると、次々に船が着き、人と物が陸へ移されていく。


景継も馬とともに九州の土を踏んだ。


振り返れば、海にはまだ無数の船が浮かんでいる。


「殿!」


三成が足早に近づいてきた。


「第一陣の兵糧、間もなくすべて降ろし終えます。第二陣については行長殿が船主と調整しております」


「馬は?」


「順次。ですが、慣れぬ船旅で弱っているものがございます。今日すぐに全軍を動かすのは避けた方がよろしいかと」


「分かりました。休ませてください」


三成が頭を下げて去っていく。


その反対側では、高虎が数人を連れて周囲を歩いていた。


地面を見て、海を見て、道を見る。


景継が声をかける。


「何か気になりますか?」


「上陸するには悪くありません。ただ、ここへ長く物を置くつもりなら手を入れる必要があります」


「もうですか?」


「もう、です」


高虎は即答した。


「敵が近くにいる状態で兵糧を積み上げておけば、焼いてくれと言っているようなものです。守るなら守る。次へ運ぶなら早く運ぶ。そのどちらかでしょう」


景継は高虎の見ていた場所へ視線を向けた。


「三成殿と話してください」


「承知しました」


高虎が去る。


入れ替わるように官兵衛がやって来た。


「もう働いておりますな」


「高虎殿ですか?」


「ええ。秀長殿が目をかけた理由が分かります」


景継は小さく頷いた。


「では、こちらも始めましょう」


「使者ですな」


「はい」


景継は弥兵衛を呼んだ。


「宇都宮鎮房殿へ使者を。こちらに城井谷を奪う意図はないこと、九州平定のため軍を進めることを伝えてください。その上で、我らへの敵対行動を取らないよう求めます」


弥兵衛が頭を下げる。


「服属は求められませんか?」


「最初から刀を首に当てて話す必要はありません」


その言葉を聞いた官兵衛は何も言わなかった。


景継が横目を向ける。


「何か?」


「いえ。殿らしいと思っただけです」


「褒めていますか?」


「もちろん」


官兵衛はそう答えたが、わずかに笑っていた。


景継は追及せず、海から運び込まれてくる兵糧へ視線を戻した。


まず話す。


それで済めばよい。


だが――。


景継自身も、それだけで終わるとは思っていなかった。


◇ ◇ ◇


豊前国、城井谷。


林道家からの使者が去った後も、宇都宮鎮房はしばらく口を開かなかった。


目の前には景継から届けられた書状が置かれている。


家臣の一人が重い声で尋ねた。


「いかがなさいます」


鎮房は書状を見たまま答えた。


「城井谷を取るつもりはない、か」


「そのように」


「今は、であろう」


家臣たちが黙る。


鎮房はようやく顔を上げた。


「大友が強ければ大友が来る。毛利が手を伸ばせば毛利が来る。島津が北へ進めば、今度は島津だ。そして次は林道景継か」


誰も答えない。


鎮房の声に怒りはなかった。


むしろ、長く同じ土地を守ってきた者の疲れに近いものが滲んでいた。


「外から来る者は、いつも同じことを言う。我らに従えとは言わぬ。敵になるな、道を空けろ、兵を出すな。それだけだとな」


「しかし、林道家の兵は多うございます」


別の家臣が慎重に口を挟む。


「毛利も協力しているとのこと。ここで敵に回すのは……」


「分かっておる」


鎮房は遮らなかった。


「分かっておるから厄介なのだ」


彼は立ち上がり、外へ目を向けた。


山々に囲まれた城井谷。


宇都宮家が長く生きてきた土地だった。


「一度道を譲れば、次も譲ることになる。次に兵を置かせろと言われ、その次には城を貸せと言われるかもしれぬ。その度に『今は従った方がよい』と頭を下げ続ければ、最後に何が残る」


家臣たちの表情が変わった。


「殿……」


「林道景継がどのような男か、俺は知らぬ」


鎮房は静かに続けた。


「名将だとも聞く。降った者を無闇に殺す男でもないらしい。それでも、我らの土地を守ってくれるのは林道景継ではない」


鎮房が振り返る。


「我らだ」


その言葉で、評定の空気が決まった。


◇ ◇ ◇


翌日。


鎮房からの返書が景継のもとへ届いた。


景継は最後まで読み、静かに書状を畳んだ。


「断られましたか」


官兵衛が尋ねる。


「ええ」


「どのように?」


「林道家と争うことを望んではいない。しかし、軍勢が宇都宮の勢力圏へ入ることは認めない、と」


官兵衛は驚かなかった。


「そうですか」


「嬉しそうですね」


「まさか」


「では、その顔は何です?」


官兵衛が自分の頬へ触れる。


「顔に出ておりましたか」


「少しだけ」


「気をつけましょう」


景継は小さく息を吐き、周囲に集まった将たちを見る。


清正。


正則。


秀久。


高虎。


三成。


吉継。


行長。


そして弥兵衛。


皆、景継の言葉を待っていた。


「宇都宮鎮房殿は、我らの進軍を認めませんでした」


秀久の目が鋭くなる。


清正と正則も表情を引き締めた。


「ならば、戦ですな」


秀久が言う。


「まだです」


景継の返答に、秀久が眉を寄せた。


「まだ?」


「鎮房殿は城井谷にいる。我らから山へ入り込む必要はありません」


そこで官兵衛が前へ出た。


「ですが、こちらが動けば、向こうも動きます」


高虎が地図を見る。


「どちらへ?」


官兵衛が地図上の街道を指でなぞった。


「我らが豊前に足場を築き、そのまま勢力を広げると鎮房殿が考えれば――」


指が止まる。


「この辺りでしょうな」


清正が地図を覗き込んだ。


「出てくると?」


「出てきていただきます」


正則が口元を上げる。


「ようやく戦か」


「正則殿」


三成が冷たい目を向ける。


「兵糧を運び終えるまでは勝手に出ないでください」


「分かっておる!」


「先ほど仙石殿にも同じことを言いました」


「なぜ俺まで同じ扱いなんだ!」


「日頃の行いではないか?」


清正の一言に、秀久が吹き出した。


張り詰めていた空気がわずかに緩む。


だが、官兵衛だけは地図から目を離していなかった。


景継はそれに気づく。


「官兵衛殿」


「はい」


「宇都宮勢を破った後のことまで考えていますね?」


官兵衛が顔を上げた。


「もちろんです」


「次はどこです?」


一瞬、官兵衛の視線が西へ動いた。


だが、すぐに首を振る。


「まずは目の前の相手を片づけましょう」


「珍しく教えてくれませんね」


「まだ早うございます」


景継はそれ以上聞かなかった。


その日の午後、物見から報せが入った。


宇都宮勢に動きあり。


城井谷から兵が出た。


報告を聞いた官兵衛は、驚くどころか静かに立ち上がった。


「殿」


景継も立つ。


官兵衛は地図の一点を指した。


「参りましょう」


「ええ」


景継は集まった将たちを見渡した。


九州へ渡って初めての戦。


ここでの勝ち方が、この先を左右する。


清正が槍を手にし、正則が立ち上がる。秀久の顔には隠しきれない闘志が浮かび、高虎は戦場となる場所の地形を確かめていた。


景継は静かに告げる。


「九州での最初の一戦です」


そして官兵衛を見る。


「ただ勝つだけでは、足りないのでしたね」


官兵衛の口元に、わずかな笑みが浮かんだ。


「はい」


その目はすでに、宇都宮勢のさらに先を見ていた。


「圧勝いたしましょう」



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