第二百六十九話 九州へ
天正十五年(1587年)四月
出陣の日が来た。
まだ朝靄の残る中、街道には林道家の旗が並び、その間を兵たちが西へ向かって進んでいた。槍を担ぐ足軽の列に馬廻りが続き、荷駄には兵糧や武具が積まれている。
景継は馬上からその流れを眺めていた。
ここまで長かった。
毛利との戦を終えてからも、四国で争いが起こり、その火を鎮める必要があった。その間に滝川一益が逝き、羽柴秀長も世を去った。
一方で、凛と明という二つの命が生まれた。
そして藤堂高虎という新たな将も加わった。
人が去り、人が生まれ、人が新たな道を選ぶ。
それでも天下は待ってくれない。
「殿」
弥兵衛の声に、景継が振り向く。
「先陣、予定通り進んでおります」
「分かりました」
「三成殿からも、荷駄に遅れなしとのことです」
景継は頷き、もう一度前を見る。
今度の目的地は九州。
一つの城を取れば終わる戦ではない。
一度勝てば終わる戦でもない。
だが、だからといっていつまでも準備だけを続けるわけにはいかなかった。
景継は馬の腹を軽く蹴る。
「行きましょう」
林道軍は西へ進んだ。
◇ ◇ ◇
軍勢の中ほどでは、石田三成が何度も後方を振り返っていた。
「遅れている荷駄は?」
「ございません!」
「馬の具合は」
「今のところ問題ございません」
報告を受けても、三成の表情は緩まない。
隣を進んでいた小西行長が苦笑した。
「三成殿。まだ九州にも着いておりませんぞ」
「だからです」
「だから?」
「今遅れれば、その遅れを九州まで引きずります」
行長が少し笑う。
「相変わらず細かい」
「あなたに言われたくありません」
「私は銭には細かいですがな」
「それが必要だから連れてきたのです」
行長は肩をすくめた。
二人の後方では、兵糧を積んだ荷駄が途切れることなく続いている。
この先、それらの一部は船へ移される。
行長はすでに商人や船主との連絡を取り続けていた。三成が軍全体の必要量と時期を組み立て、行長が実際にそれを運ぶ人と船をつなぐ。
九州へ渡る前から、二人の戦は始まっていた。
一方、その少し前では別の会話が交わされていた。
「まだ戦わんのか」
仙石秀久が前方を見ながら呟く。
福島正則が呆れた顔を向けた。
「出たばかりだぞ」
「分かっておる」
「なら聞くな」
「九州へ行くのだろう。なら早く渡ればよい」
加藤清正が横から口を挟む。
「船は馬ではない。お前が急げと言って速くなるものでもない」
「分かっておるわ」
「さっきからそればかりだな」
正則が笑う。
秀久は不満そうに二人を見るが、やがて自分も笑った。
「ならば上陸したら先陣を任せてもらう」
「勝手に決めるな」
清正が即座に返す。
「戦場を決めるのは殿と官兵衛殿だ」
「なら、その二人に言えばよい」
「言うのは構わんが、聞いてもらえるとは限らんぞ」
「働きを見せれば次は任される」
秀久の返答に、清正はそれ以上何も言わなかった。
自信がある。
それ自体は悪くない。
実際、秀久にはそれだけの武勇も経験もある。
ただ、その自信がどこまで膨らむのか。
清正は一度だけ秀久を見てから、前へ視線を戻した。
その近くを進む藤堂高虎は、三人の会話には加わっていなかった。
高虎が見ているのは兵ではない。
街道。
川。
山。
そして軍勢が休めるだけの土地。
「高虎殿」
大谷吉継が馬を寄せた。
「先ほどから、随分と周りを見ておられますな」
「癖のようなものです」
「何を?」
高虎は前方の道を指した。
「これだけの兵が通れば、道は傷みます。雨が降ればなおさらでしょう」
吉継が道を見る。
「九州でも同じだと?」
「もっと悪いかもしれません」
高虎は淡々と答えた。
「戦に勝って前へ進んでも、後ろから兵糧が来られなければ止まります」
「三成殿が喜びそうな話です」
「なら、後で話しておきます」
吉継は小さく笑った。
新たに加わった男は、もう自分の仕事を探し始めている。
◇ ◇ ◇
数日をかけて西へ進んだ林道軍は、やがて毛利領へ入った。
以前とはまるで違う光景だった。
かつては互いに兵を向け、どこでぶつかるかを探り合った相手。
その毛利の領内を、今は林道家の大軍が堂々と進んでいる。
もちろん、勝手に通っているわけではない。
街道沿いには毛利側の案内役が置かれ、宿営地も事前に定められていた。兵糧の補給地点には米や塩が用意され、さらに西へ進めば、渡海に使う船も待っている。
官兵衛が先に詰めていた話が、形になっていた。
景継はその様子を見ながら言った。
「随分と整っていますね」
隣を進む官兵衛が答える。
「毛利も約束を果たしてくださっております」
「官兵衛殿が細かく頼みすぎたのでは?」
「必要なことしか申しておりませぬ」
「その必要なことが多いのでしょう」
官兵衛が笑った。
「戦とはそういうものです」
やがて、毛利側から迎えが来た。
◇ ◇ ◇
景継を迎えたのは毛利輝元だった。
その傍らには吉川元春、小早川隆景、そして安国寺恵瓊もいる。
景継が馬を降りる。
輝元も前へ出た。
「景継殿」
「輝元殿。この度は、お世話になります」
景継が頭を下げると、輝元も応じた。
「こちらこそ。約したことです」
そう言った後、輝元は景継の後方へ目を向けた。
林道家の旗が、遠くまで続いている。
「しかし……」
輝元が小さく息を吐いた。
「不思議なものですな」
「何がでしょう?」
「少し前まで、この軍勢が我らへ向かって来ぬことばかり考えておりました」
景継も後ろを振り返った。
「私も、毛利の軍勢がこちらへ来ないよう考えていました」
「それが今では、我らの領内を通って九州へ向かっておる」
「天下は思うようには進みませんね」
「まったくです」
輝元が苦笑した。
そこへ元春が口を挟む。
「昔話はそれくらいでよかろう。九州へ渡るなら、これからの話をした方がよい」
輝元が少し顔をしかめる。
「叔父上は相変わらずですな」
「戦が近いのに昔を懐かしんでどうする」
元春の視線が景継へ移る。
「景継殿。兵はどれほど疲れておる」
「まだ問題ありません。ただ、渡海前には一度しっかり休ませます」
「それがよい。海を渡った直後に戦となる可能性もある」
官兵衛が頷いた。
「そのつもりです」
今度は隆景が進み出た。
「船については、予定した数を揃えております。ただ、すべてを一度に動かす必要はありますまい」
「天候ですか?」
景継が尋ねる。
「それもあります。それに港へ兵を集めすぎれば、動きがかえって鈍ります」
隆景は近くに用意されていた地図を広げた。
「兵、馬、兵糧。分けて動かし、向こうで合わせた方がよいでしょう」
その言葉に三成と行長も近づいてくる。
「兵糧船は別にします」
三成が言った。
「兵と同じ速度で動かす必要はありません」
行長も地図を覗く。
「船主たちにはすでに話しております。風が変われば使う港も変える」
隆景が行長を見る。
「小西殿だったな」
「はい」
「話が早くて助かる」
「海の上で兵糧を腐らせれば、商人まで逃げますので」
元春が眉を上げた。
「商人の心配か」
「商人が逃げれば、次の船が来ません」
行長が平然と答える。
隆景が笑った。
「なるほど。官兵衛殿が連れてくるだけはある」
「私ではございませぬぞ」
官兵衛が言った。
「小西殿を見つけたのは三成殿です」
三成がわずかに胸を張る。
「必要な者を呼んだだけです」
「こういう時だけ素直に手柄を取りますな」
官兵衛がからかうと、三成が顔をしかめた。
景継はそのやり取りを横目に、地図へ視線を戻した。
毛利の船。
林道の兵。
商人の運ぶ物資。
それぞれ別のものが、九州という一つの場所へ向かって動き始めている。
ようやく、ここまで来た。
◇ ◇ ◇
話が一段落したところで、恵瓊が官兵衛の隣へ来た。
「またお会いしましたな、官兵衛殿」
「この前お会いしたばかりではございませぬか」
「今度は随分と大勢を連れてこられた」
恵瓊は林道軍を見ながら言った。
官兵衛もそちらを見る。
「九州は広うございますからな」
「それだけで足りますかな」
「足りぬなら、足りるようにいたします」
恵瓊が笑う。
「やはり、官兵衛殿ですな」
「何がです?」
「始まる前から、終わった後の顔をしておられる」
官兵衛は少し考えてから首を振った。
「それは買い被りです」
「ほう」
「九州へ渡れば、何が起こるか分かりませぬ」
「官兵衛殿でも?」
「私を何だと思っておられる」
「天下でも指折りの、面倒な御仁かと」
官兵衛が声を出して笑った。
「それなら否定できませぬな」
二人の会話を少し離れた場所から景継が見ていた。
官兵衛が毛利へ先行した意味は大きかった。
兵や船を揃えただけではない。
人と人の間にある距離まで、以前より縮まっている。
それはこれから九州で戦う上で、間違いなく力になる。
景継はそう考え、二人から視線を外した。
◇ ◇ ◇
翌朝。
林道軍の一部が港へ入った。
海には数多くの船が浮かんでいる。
大きな船には兵や馬が乗せられ、別の船には米俵や武具が積み込まれていく。三成が次々と指示を出し、行長が船主たちと話しながら順番を調整していた。
高虎は港そのものを見ている。
「どうしました?」
景継が声をかける。
「いえ」
高虎は船着き場から周囲へ目を移した。
「こういう場所を向こうでも早く確保したいと思いまして」
「もう九州での仕事を考えていますか」
「そのために連れてきていただいたのでしょう」
「頼もしいですね」
少し離れた場所では、秀久が船を眺めていた。
「ようやくか」
正則がその声を聞きつける。
「お前、それ何回目だ」
「今度こそ本当に海を渡るのだからよいだろう」
「船の上で暴れるなよ」
「誰が暴れるか」
「お前だ」
清正の声が重なった。
秀久が振り返る。
「清正まで!」
兵たちの間から笑いが起こった。
景継はその声を聞きながら、船へ乗り込んだ。
やがて合図が上がる。
一艘。
また一艘。
船が港を離れていく。
岸には毛利の者たちが並んでいた。
輝元、元春、隆景、恵瓊。
景継は船上から彼らへ頭を下げる。
輝元もそれに応じた。
敵として向かい合った者たちに見送られながら、景継はさらに西へ進む。
船が沖へ出るにつれ、陸が遠ざかっていった。
潮の匂いが強くなる。
波に揺られながら、景継は前方へ目を向けた。
その隣へ官兵衛が立つ。
「殿」
「何でしょう」
官兵衛は海の向こうを見ていた。
その顔には、先ほどまで恵瓊と笑っていた時の柔らかさはない。
軍師の顔だった。
「最初に叩く相手を決めました」
景継の目が細くなる。
「決めましたか」
「はい」
「聞きましょう」
官兵衛はすぐには答えなかった。
海の向こう。
まだ見えぬ九州へ目を向ける。
これから始まる最初の一戦は、ただ領地を一つ得るための戦ではない。
九州の諸勢力が、林道景継という男を初めて測る戦になる。
官兵衛は静かに口を開いた。
「まずは――」
その声を、海風がさらっていった。




