第二百六十八話 東国への挨拶
前田利家、佐々成政との話を終えた景継は、その足を東へ向けた。
九州へ出陣すれば、いつ戻れるかは分からない。
毛利との取り決めは整い、四国もひとまず落ち着いた。中央には利家や成政がおり、林道家にも留守を任せられる者たちがいる。
それでも、東国まで同じように静かである保証はなかった。
景継が西へ大軍を動かす。
それだけで、天下の力の偏りは変わる。
だからこそ、出陣前に直接会っておきたい者がいた。
◇ ◇ ◇
上杉景勝は、景継の話を最後まで黙って聞いていた。
九州へ本格的に兵を進めること。
毛利からも必要な協力を得られること。
そして、自分がしばらく西に留まる可能性があること。
一通り話し終えると、景勝は低い声で尋ねた。
「長くなると思うか」
「短く終わらせたいとは思っています」
景継は苦笑した。
「ですが、それを決めるのは我々だけではありません」
「島津か」
「それだけなら、まだ分かりやすいのですが」
九州には島津以外にも多くの勢力がある。
どこが従い、どこが抗い、どこが途中で態度を変えるのか。
官兵衛とともに可能な限り読んではいるが、実際に軍が動き始めなければ見えてこないものも多い。
景勝はしばらく考えた後、景継を見た。
「それで、上杉に何を望む」
景継も遠回しには言わなかった。
「私が西にいる間、東国で大きな異変があった場合には、力を貸していただきたい」
「林道のためにか」
「いいえ」
景継は首を振る。
「林道家だけの問題なら、こちらで対処します。ただ、天下の均衡そのものが崩れるような動きがあった時は、見過ごさないでいただきたい」
景勝は景継を見つめた。
やがて小さく頷く。
「分かった」
それだけだった。
余計な約束を重ねることも、恩を売るような言葉もない。
景継も、それ以上を求めなかった。
「ありがとうございます」
「礼は、何かが起きてからでよい」
「何も起きないことを願っています」
「ならば、その方がよい」
景継は頭を下げた。
上杉との話は、それで終わった。
そして次に景継が向かったのは――北条だった。
◇ ◇ ◇
北条氏政は、景継の顔を見るなり九州の話をしたわけではなかった。
「また生まれたそうだな」
挨拶を終えた直後の第一声がそれだった。
景継は思わず笑う。
「もうご存じでしたか」
「楓のことだ。知らぬわけがあるまい」
「それもそうですね」
氏政の表情が緩んだ。
「母子ともに無事なのか」
「はい。楓も元気にしております」
「そうか」
氏政はそれだけ答えると、一度目を伏せた。
娘が嫁ぎ、その娘が子を産む。
戦国の世では、それだけのことさえ当たり前ではない。
まして楓が嫁いだ相手は、天下の争いの中心へ近づき続けている男である。
氏政にとって、心配が消える日はなかっただろう。
「名は?」
「明としました」
「あき?」
「はい。明るいの明です」
氏政がその名を口の中で確かめる。
「明……か。よい名だ」
「ありがとうございます」
「お主が考えたのか」
「はい」
「万代丸の時もそうだったな」
「今回も随分考えました」
「顔に似合わず、そういうところでは悩む男だ」
「顔は関係ないでしょう」
氏政が笑った。
景継もつられて口元を緩める。
「それと、直接ご報告できておりませんでしたが、昨年には茶々との間にも娘が生まれました」
「聞いておる。凛だったか」
「はい。凛です」
「そうか。凛に、明か」
氏政は二つの名を続けて口にした。
「万代丸もおる。随分と賑やかになったものだな」
「以前とは、屋敷の様子がまるで違います」
「お主が子供に囲まれておる姿は、少々想像しにくいがな」
「よく言われます」
「だろうな」
また笑いが起きる。
氏政にとって凛は血のつながった孫ではない。
だが、そんなことをわざわざ口にする様子はなかった。
楓の子である万代丸と明。
茶々の子である凛。
景継の屋敷でともに育つ三人を、そのまま景継の子らとして受け止めている。
「楓は、母親らしくなったか」
「十分に。ただ、万代丸が動き回るようになってきましたので、以前より忙しそうです」
「お主は手伝っておるのか」
「できる範囲では」
「怪しいものだ」
「そこまで信用がありませんか」
「天下のことを考えながら子守ができる男には見えん」
景継は返す言葉を探したが、すぐには出てこなかった。
氏政がそれを見て楽しそうに笑う。
「まあよい。楓が元気なら、それでよい」
「はい」
家族の話が一段落したところで、氏政の表情が変わった。
「それで――九州へ行くのだな」
景継も姿勢を正す。
「はい」
「どこまでやる」
「中途半端に終わらせるつもりはありません」
氏政の目が細くなった。
「九州を平らげるか」
「そのつもりです」
軽く言ったわけではない。
氏政にも、それは分かった。
景継がここまで直接顔を見せに来た理由も、おそらく察している。
「どれほどかかる」
「分かりません」
景継は正直に答えた。
「数か月で大勢が決まる可能性もあります。しかし、島津の抵抗や他勢力の動き次第では長引くでしょう」
「官兵衛も連れて行くのだろう」
「はい」
「ならば、西に随分と力を寄せることになるな」
「そのために参りました」
氏政が景継を見る。
「北条にも留守を頼みに来たか」
「留守をお願いするつもりはありません」
「前田や佐々にも同じことを言ったのだろう?」
景継が目を細める。
「よくご存じですね」
「お主が九州へ行くと聞けば、その前に何をするかくらい考える」
氏政は少し得意そうに笑った。
「それで、上杉にも会ったか」
「……氏政殿に隠し事はできませんね」
「隠しておったのか?」
「いいえ」
「なら問題あるまい」
景継は小さく息を吐いた。
こういうところは、やはり侮れない。
「お察しの通りです。私が西にいる間、中央や東国で大きな異変が起きた場合には、できる範囲で力を貸していただきたい」
「誰かが動くと思っておるのか」
「分かりません」
景継は即答した。
「今のところ、明確に怪しい動きがあるわけではありません。ただ――」
景継はわずかに視線を落とした。
「私と官兵衛殿がそろって九州へ入れば、それを好機と思う者がいても不思議ではない」
氏政は否定しなかった。
戦とは、兵の数だけで起こるものではない。
誰がどこにいるのか。
誰が留守なのか。
それだけで動く者もいる。
「分かった」
氏政の返事は早かった。
景継が顔を上げる。
「よろしいのですか?」
「何を今さら言っておる」
氏政は呆れたように言った。
「お主は楓の夫だ。万代丸と明の父でもある。だからといって北条の兵を好きに使わせるつもりはないが、何か起きた時に知らぬ顔をするほど薄情でもない」
景継は黙って聞いていた。
「それに、お主が西をまとめることが東にとって悪いとは限らぬ。西が荒れ続ければ、いずれこちらにも影響は来る」
「ありがとうございます」
景継は深く頭を下げた。
氏政は手を振る。
「頭を下げるのは九州を片付けてからにせよ」
「それでは、随分先になるかもしれません」
「なら、早く片付けろ」
「簡単に仰いますね」
「お主なら簡単なのだろう?」
「官兵衛殿が聞けば喜びそうです」
「お主は喜ばんのか」
「重圧を感じます」
「嘘をつけ」
二人は笑った。
政治の話は、それ以上長く続かなかった。
必要なことは伝えた。
氏政も了承した。
ならば、あとは九州へ向かうだけである。
◇ ◇ ◇
帰る時になって、氏政が景継を呼び止めた。
「景継」
「はい?」
景継が振り返る。
氏政は先ほどまでと変わらぬ顔をしていた。
「今度来る時は、一人で来るな」
「と申しますと?」
「子らも連れてこい」
景継は瞬きをした。
氏政が指を折る。
「万代丸も、凛も、明もな」
景継は少しだけ目を見開いた。
「三人ともですか」
「何か問題でもあるか」
「かなり騒がしくなると思いますが」
「それくらいでちょうどよい」
氏政は平然と言った。
「万代丸も大きくなったのだろう。明はまだ無理でも、凛の顔も見てみたい」
「凛は茶々の娘ですよ」
景継が念のために言うと、氏政は眉をひそめた。
「知っておる」
「それでも?」
「お主の娘だろう」
あまりにも当然のように返され、景継は言葉を失った。
氏政は続ける。
「楓の腹から生まれたかどうかで、わしが子供への態度を変えれば、楓の方が気を遣うではないか」
景継は氏政を見つめた。
「……そうですね」
「そうだ」
氏政は頷く。
「楓にも伝えておけ。次は皆で来いとな」
「承知しました」
「九州の土産も忘れるな」
「そちらが本命ですか?」
「孫に会うのが本命だ」
「凛は孫ではないのでは?」
「細かい男だな、お主は」
氏政が笑う。
景継も笑った。
「では、三人を連れて参ります」
「ああ」
「楓も一緒に」
「当然だ」
「随分な大人数になりますね」
「北条の屋敷が狭いとでも思っておるのか」
「まさか」
景継はもう一度、氏政へ頭を下げた。
「では、行って参ります」
「ああ。行ってこい」
それだけだった。
特別な言葉はなかった。
氏政は景継の無事を大げさに願うこともなく、景継も別れを惜しむことはなかった。
九州が終われば、また会う。
次は楓を連れて。
万代丸を連れて。
凛と明も連れて。
その時には、明も今より少し大きくなっているだろう。
景継はそんなことを考えながら、北条の地を後にした。
氏政もまた、次に会う時には孫たちへ何を用意してやろうかと、そんなことを考えていた。
二人とも――次があることを疑ってはいなかった。
◇ ◇ ◇
帰還した景継を待っていたのは、九州へ向かう軍勢だった。
旗が並び、馬が揃い、船と兵糧の最終確認も進んでいる。
官兵衛が景継を迎えた。
「随分と遠くまで挨拶に行かれましたな」
「しばらく戻れないかもしれませんから」
「これで心残りは?」
景継は少し考えた。
利家と成政。
上杉景勝。
北条氏政。
話しておきたかった者には話した。
家には楓がいる。
茶々がいる。
万代丸、凛、明がいる。
そして、自分が戻る場所もある。
「ありません」
景継は答えた。
官兵衛が頷く。
「では」
その一言で十分だった。
景継は並ぶ軍勢へ目を向ける。
長かった準備は終わった。
今度こそ、本当に西へ向かう。
九州へ。
景継は静かに息を吸った。
「出陣しましょう」
「はっ」
林道家の軍勢が、動き始めようとしていた。




