第二百六十七話 西へ向かう前に
九州への出陣まで、残された日は多くなかった。
藤堂高虎が加わったことで、景継のもとでは出陣に向けた最後の動きが進んでいる。すでに各将へ役目は伝えられ、兵も順次集まり始めていた。
あとは動くだけ。
そう言ってしまってもよいところまで来ている。
だが景継には、西へ向かう前に会っておきたい者たちがいた。
そのうちの二人が、前田利家と佐々成政だった。
毛利との戦では、利家が福島正則と左翼を、成政が加藤清正と右翼を担った。両者とも林道家の家臣ではなく、柴田家と深い縁を持つ武将である。
だからこそ景継は、書状だけで済ませることをしなかった。
これから自分が長く西へ入る可能性がある以上、直接話しておきたかった。
◇ ◇ ◇
景継が二人と顔を合わせたのは、それから数日後のことだった。
「今度は九州か」
利家は景継の顔を見るなり、呆れたように笑った。
「お主も、よう戦を拾ってくる男じゃのう」
「拾っているつもりはないのですが」
景継が答えると、隣にいた成政が鼻で笑った。
「なら、戦の方から寄って来るんだろう」
「それならば、私にもどうしようもありませんね」
「否定せんのか」
「実際、そうなっていますので」
成政が利家を見る。
「こういうところじゃ。こやつは」
「昔から変わらんのう」
景継は二人のやり取りを聞きながら、わずかに口元を緩めた。
毛利との戦場では、互いに何度も兵を動かし合った。
利家と正則。
成政と清正。
それぞれ異なる家に属しながらも、一つの戦場で役割を果たした者たちである。
戦が終われば、再びそれぞれの場所へ戻る。
それでも、一度同じ戦場を経験した事実まで消えるわけではない。
利家が景継を見る。
「それで、わざわざ顔を見せに来たということは、世間話だけではあるまい」
「はい」
景継の表情が変わった。
「九州へ入れば、すぐに戻れるとは限りません」
成政が腕を組む。
「島津か」
「島津だけではありません。九州には多くの勢力があります。最初の戦がうまくいったとしても、その後がどう動くかまでは分からない」
「官兵衛がおってもか?」
利家の問いに、景継は頷いた。
「官兵衛殿がいるからこそ、かなりのところまでは読めています。ですが、戦場では読めないことが必ず起こります」
利家は少し黙った。
景継がこう言う時、それは弱気になっているわけではない。
勝つつもりでいるからこそ、勝つことだけを前提にしていない。
毛利との戦でも、何度かそれを見ている。
「それで?」
「私が西にいる間のことを、お二人にお願いしておきたいのです」
成政の眉が動いた。
「林道の留守を守れという話なら断るぞ」
「そのようなことを頼むつもりはありません」
景継はすぐに答えた。
「お二人には、それぞれ守るべき土地があります。私の家臣でもありません。それを離れてまで林道家のために動いていただこうとは思っていません」
「なら、何じゃ」
利家が尋ねる。
「中央や北陸で、大きな異変が起きた時です」
部屋の空気が少し変わった。
「私が九州にいることで、それまで動かなかった者が動く可能性はあります」
成政が景継を見た。
「誰か、気になる奴がおるのか」
「特定の誰かを疑っているわけではありません」
景継は答えた。
それは嘘ではなかった。
天下は今、一見すれば落ち着いている。
だが、その落ち着きが永遠に続く保証などどこにもない。
景継が大軍を率いて西へ向かう。
その事実だけで、中央や東の均衡がわずかに変わる。
「何も起こらなければ、それが一番です。ただ、何かが起きてから九州より戻っていては、間に合わないこともあるでしょう」
利家が顎へ手をやった。
「つまり、何かあれば知らせろと?」
「それもあります」
景継は一度言葉を区切った。
「必要であれば、動いていただきたい」
成政の目が細くなる。
「随分と大きな頼みだな」
「承知しています」
「俺たちが断ったら?」
「それならば、それまでです」
景継は平然と答えた。
「命令できる立場ではありませんから」
成政が景継を見つめる。
しばらくして、利家が声を上げて笑った。
「相変わらずじゃな」
「何がでしょう?」
「頼み事をしに来たくせに、断られても仕方ないという顔をしておる」
「実際、その通りです」
「それでは人にものを頼む態度ではないぞ」
「もう少し頭を下げましょうか?」
「そういう意味ではないわ」
利家が苦笑する。
成政も呆れたように息を吐いた。
「で、利家。どうする」
「どうするも何もあるまい」
利家の表情から笑みが消える。
「何もなければ、わしらは自分の領地を守る。それだけじゃ」
「はい」
「だが、景継が西におる間に、中央をひっくり返すような馬鹿が出てくるなら話は別じゃ」
景継は黙って利家を見る。
「できる範囲では動こう。少なくとも、何も知らぬふりはせん」
「ありがとうございます」
景継が頭を下げる。
成政はまだ何も言っていなかった。
景継がそちらを見る。
「成政殿は?」
「俺にも聞くのか」
「もちろんです」
「利家が今言っただろう」
「利家殿のお答えですから」
成政が鼻を鳴らす。
「面倒な男だな」
それでも、やがて答えた。
「俺も同じだ。お前の留守番をする気はない。だが、妙な奴が動けば見過ごすつもりもない」
「十分です」
「ただし」
成政が指を一本立てた。
「九州で好き勝手やって、こっちに全部押しつけるのは無しだ」
「好き勝手をする予定はありません」
「お前の予定ほど信用できんものはない」
「それは困りましたね」
「困るのはこっちだ」
利家がまた笑った。
重くなりかけた空気が少し緩む。
景継も二人に頭を下げた。
「よろしくお願いします」
今度は先ほどより、少し深く。
◇ ◇ ◇
話が一段落した後、利家が酒を持ってこさせた。
「九州へ行く前くらい、一杯付き合え」
「まだ昼ですが」
「戦場へ行けば昼も夜もなくなるじゃろう」
「それを言われると断りにくいですね」
景継の前にも盃が置かれる。
成政が横から言った。
「飲み過ぎるなよ。九州へ着く前に倒れたら笑い話にもならん」
「一杯で倒れるほど弱くありません」
「どうだかな」
三人が盃を取る。
利家が酒を口にした後、ふと思い出したように尋ねた。
「そういえば、子が生まれたそうじゃな」
景継が利家を見る。
「お耳に入っていましたか」
「噂は早いぞ。しかも一人ではないらしいな」
「昨年、茶々との間に娘が生まれました。凛と申します。そして先日、楓との間にも娘が生まれました」
「ほう」
成政も興味を示した。
「名前は?」
「明です」
「明?」
「明るいの明と書いて、あき、と読みます」
利家が頷く。
「万代丸がおって、凛がおって、今度は明か」
「はい」
「随分と賑やかになったのう」
景継は盃を見ながら、わずかに笑った。
「以前よりは、かなり」
「それで九州へ行くのか」
成政が言った。
その声から先ほどまでのからかいが消えていた。
景継は顔を上げる。
「行きます」
「子が生まれたばかりでも?」
「だからこそ、と言えば格好をつけすぎでしょうね」
景継は少し考えた。
「ですが、あの子たちが大きくなった時まで、今と同じように戦を続けていたいとは思いません」
利家は何も言わなかった。
景継が自分の子について語る姿を、昔の利家は想像できなかったかもしれない。
成政が盃を置く。
「なら、生きて帰ってこい」
景継が成政を見る。
「帰ってきますよ」
「簡単に言うな」
「難しい顔で言えば帰れるものでもありませんので」
「……本当に可愛げのない奴だな」
景継は笑った。
利家も盃を置く。
「まあ、帰ってこい。九州の土産話くらいは聞いてやる」
「では、長い話を用意しておきます」
「短くてよい」
「先に言ってください」
三人の笑い声が重なった。
◇ ◇ ◇
帰路。
景継は馬上から、遠ざかる景色を見ていた。
前田利家。
佐々成政。
二人とも、自分の命令で動く者ではない。
それでいい。
天下のすべてを林道家の命令で動かす必要などない。
何かが起きた時、それぞれの判断で動く者がいる。
それだけでも、自分が西へ向かう意味は変わる。
景継は懐から小さな書付を取り出した。
九州へ向かう前に、会っておくべき者の名が記されている。
利家と成政の名には、すでに印がついていた。
だが、まだ残っている。
上杉。
そして――北条。
楓の父、北条氏政。
凛が生まれ、明も生まれた。
その報告も、まだ直接できていない。
景継は書付をしまった。
「次は東ですか」
傍らの弥兵衛が尋ねる。
「ええ」
「九州とは反対でございますな」
「そうですね」
景継は苦笑した。
「ですが、西へ行ってしまえば、しばらく会えないでしょう」
だから、今のうちに会っておく。
ただ、それだけだった。
この時の景継にとっては。
北条氏政と顔を合わせることが、それほど特別なことだとは思っていなかった。
九州から戻れば、また会える。
万代丸や凛、そして生まれたばかりの明を連れて、次はもう少しゆっくり話せばいい。
そう考えていた。
西へ向かう前に交わす、いつもと変わらぬ挨拶になるはずだった。




