第二百六十六話 藤堂高虎
天正十五年(1587年)四月
明が生まれてから、十日あまりが過ぎた。
屋敷の中には新しい命を迎えた余韻が残っていたが、景継の日々はすでに九州へ向けて動き始めている。
毛利との協力は固まり、船と兵糧の手配も最終段階に入った。九州から届く報せは日に日に増え、官兵衛のもとでは各勢力の動きが整理されている。
そんな中、一人の男が景継を訪ねてきた。
「藤堂高虎殿がお見えです」
その名を聞いた景継は、手にしていた書状を置いた。
「お通ししてください」
やがて部屋へ入ってきた高虎は、景継の前で静かに頭を下げた。
二人がこうして向かい合うのは初めてではない。
だが、以前とは立場が違う。
高虎の後ろには、もう羽柴秀長はいなかった。
「藤堂高虎にございます」
「お久しぶりです、高虎殿」
「はい」
景継はすぐに用件を尋ねなかった。
秀長が亡くなってから、高虎が何をしていたのかは報告を受けている。葬儀を終えた後も出石に残り、家臣や領内の整理を続けていたことも知っていた。
だからこそ、景継から使者を送ることはしなかった。
高虎自身が何を選ぶのか。
それを待った。
「出石のことは、もうよろしいのですか?」
景継が尋ねる。
「すべてが終わったとは申しません。ただ、私がいなければ何も進まぬ状態ではなくなりました」
「そうですか」
「残る者、他家へ向かう者、それぞれの道筋もおおよそ決まりました。あとは桑山殿をはじめ、残った方々に任せることができます」
景継は頷いた。
「秀長殿も安心されるでしょう」
高虎の表情がわずかに動く。
「そうであればよいのですが」
短い沈黙が落ちた。
やがて高虎の方から口を開いた。
「景継様」
「はい」
「お願いがございます」
景継は姿勢を変えなかった。
「聞きましょう」
高虎は一度息を整える。
「私を、お使いいただけませんでしょうか」
予想していた言葉だった。
それでも景継は、すぐには答えなかった。
「一つ、確認してもよろしいですか?」
「何なりと」
「秀長殿から、私のもとへ行くよう言われたのですか?」
高虎は首を振った。
「秀長様から、景継様のもとが私に合うかもしれぬとは言われました」
そこで言葉を切り、景継をまっすぐ見る。
「ですが、ここへ来ると決めたのは私です」
景継の目がわずかに細くなった。
「秀長様は、最後まで私に次の主を命じませんでした。自分で見て、自分で決めろと仰せになった」
「それで、私を?」
「はい」
「理由を聞いても?」
高虎は少し考えた。
「景継様は、領地を増やすためだけに戦っておられない」
景継は黙って続きを待った。
「四国でも、長宗我部の地を奪わなかったと聞いております。毛利との戦でも、勝った後に何を残すかまで考えておられた。そして――」
高虎の視線が景継から外れない。
「秀長様が亡くなった後も、私へ使者を寄越されなかった」
「それが理由ですか?」
「大きな理由の一つです」
高虎は答えた。
「主を失った直後の家臣ならば、取り込むには好機だったはずです。それでも景継様は待たれた」
「高虎殿が、秀長殿の残されたものを放り出してこちらへ来る方なら、私は必要としていませんでしたから」
高虎の口元に、わずかな笑みが浮かんだ。
「やはり、来てよかったようです」
景継も小さく笑った。
「まだ仕えると決まったわけではありませんよ」
「これは手厳しい」
「私はこれから九州へ向かいます」
「存じております」
「戦になります」
「それも」
「仕える相手を選びに来たその日に、戦場へ連れて行かれるかもしれません」
高虎は一拍置いた。
「その方が都合がよろしいかと」
「都合が?」
「戦場なら、私が使える男かどうか、すぐにお分かりになるでしょう」
景継は高虎を見つめた後、とうとう笑った。
「分かりました」
そして、静かに頭を下げる。
「高虎殿。これから、よろしくお願いします」
高虎も深く頭を下げた。
「はっ」
藤堂高虎。
後に多くの城を築き、戦場のみならず、その後に残るものまで見据える男が、この日、自らの意思で林道景継を主として選んだ。
◇ ◇ ◇
その日の午後。
高虎は早くも景継の評定に加わっていた。
部屋には黒田官兵衛、石田三成、大谷吉継、小西行長がいる。
景継が高虎を紹介すると、官兵衛は面白そうにその大柄な男を見た。
「噂は聞いておりますぞ、高虎殿」
「どのような噂でしょう」
「城を見れば、どこが弱いか分かるとか」
「そこまでは申しません」
「では、分からぬ?」
「分かる城もございます」
官兵衛が笑った。
「なるほど。面白い御仁ですな」
三成は二人のやり取りには加わらず、高虎の前へ九州の地図を広げた。
「ちょうどよいところへ来られました」
高虎が地図を見る。
「ちょうどよい?」
「我らには、これから必要になるものがあります」
三成が指を置いたのは海だった。
そこから九州の沿岸部へ指を移す。
「兵を渡すだけなら船があればよい。しかし、何万という兵を九州で動かし続けるなら、それだけでは足りません」
高虎は地図へ顔を近づけた。
三成が続ける。
「兵糧を下ろす場所。傷兵を戻す場所。船を守る場所。そして、次の軍勢を送り込むための場所」
「拠点ですな」
高虎が答えた。
「ええ」
横から行長が口を挟む。
「港もです。大きければよいわけではありません。船を入れられても、そこから荷を運べなければ意味がない」
高虎は行長を見る。
「道まで必要になる」
「その通りです」
二人はそれだけ交わすと、再び地図へ視線を落とした。
高虎の指が沿岸をゆっくり動く。
「ここへ上陸するとして――最初の拠点をどこに置くおつもりです?」
官兵衛が答える。
「それを含めて、まだ敵には教えられませぬな」
「私にもですか?」
「今日から味方になった御仁ですからな。あと半刻ほどは疑っておきましょう」
高虎が官兵衛を見る。
「では、半刻後にもう一度尋ねます」
吉継が小さく笑った。
景継はそのやり取りを聞きながら、地図の上へ手を置いた。
「高虎殿」
「はい」
「あなたには、城を一つ落とした、敵を何人討ったという働きだけを求めるつもりはありません」
高虎が景継を見る。
「では、何を?」
「我々が前へ進める場所を作っていただきたい」
部屋が静かになる。
景継は九州の地図を指した。
「九州は広い。上陸して一度勝てば終わる戦ではありません。軍が進めば、兵糧も進まなければならない。傷ついた兵を戻す場所も必要になる。雨が続けば道も変わるでしょう」
高虎は黙って聞いている。
「敵の城を奪ったなら、次の戦に使える城にする。港を取ったなら、次の船を迎えられる港にする。必要なら陣を築き、道を直す」
景継はそこで高虎を見る。
「できますか?」
高虎はすぐには答えなかった。
地図を見つめる。
その目が先ほどまでとは変わっていた。
やがて、一つの場所を指で押さえる。
「攻め落とすだけなら、私でなくともできます」
官兵衛の眉が上がった。
景継が尋ねる。
「では、高虎殿なら?」
「次に使える形で取ります」
三成が高虎を見る。
行長もわずかに口元を上げた。
「それなら、こちらも船を入れやすくなる」
「入れられるようにするのが私の仕事でしょう」
「話が早くて助かります」
景継は二人のやり取りを見ながら頷いた。
高虎を待ったのは間違いではなかった。
戦に勝つ者はいる。
城を落とす者もいる。
だが、勝った場所を次の勝利へつなげられる者は多くない。
これから九州を進むなら、その力は必ず必要になる。
◇ ◇ ◇
翌日。
別の部屋では、加藤清正と福島正則が高虎を迎えていた。
「まさか、お前までこっちへ来るとはな」
正則が腕を組む。
高虎は平然と答えた。
「お前に言われたくはない」
「何だと?」
「お前の方が先に景継様のもとへ来ただろう」
「俺には俺の事情があったんだよ」
「俺にもある」
正則が言葉に詰まる。
その横で、清正がわずかに笑った。
「正則。お前では勝てん。諦めろ」
「清正、お前はどっちの味方だ」
「面白い方だ」
「それが一番腹立つわ!」
久しぶりに、羽柴の頃を思わせる空気が戻った。
だが、三人とも分かっている。
もう昔には戻れない。
秀吉はいない。
秀長もいない。
それぞれが自分で道を選び、今ここにいる。
正則が高虎の肩を軽く叩いた。
「まあ……来たからには働けよ」
高虎がその手を見る。
「お前よりは働く」
「やっぱり気に入らん!」
今度は清正も声を出して笑った。
少し離れた場所でそれを見ていた景継は、何も言わなかった。
秀長が守ろうとした者たちは、こうして次の場所へ進み始めている。
そのことだけで十分だった。
◇ ◇ ◇
数日後。
九州出陣に関わる主だった者たちが集められた。
景継の右には官兵衛。
三成、吉継、清正、正則、小西行長、仙石秀久、そして新たに加わった高虎。
全員を集めて長々と準備を確認するためではない。
すでに、それぞれが自分の役目を理解している。
三成と行長は兵と物資を海の向こうへ送り続ける。
清正と正則は前線を担う。
高虎は奪った場所を次の戦へつなげる。
秀久には、その武勇を前線で使う場所が用意される。
吉継は全体を見ながら、景継のもとで各方面から届く情報を整理する。
そして官兵衛は――最初の戦を見ていた。
景継が一同を見渡す。
「これまで、長く待たせました」
誰も口を開かない。
「毛利との話もつきました。船も兵糧も整いつつあります。九州からの情報も十分に集まった」
景継は一度、官兵衛を見る。
官兵衛が頷く。
もう待つ理由はない。
「出陣の日を決めます」
空気が変わった。
秀久の顔に、隠しきれない笑みが浮かぶ。
清正が背筋を伸ばし、正則も表情を引き締めた。
高虎は黙って景継を見ている。
景継は告げた。
「十日後――九州へ向けて出陣します」
ついに、その言葉が出た。
官兵衛が静かに笑う。
「ようやくですな」
「待たせましたか?」
「少々」
「その分、最初の戦では働いていただきます」
官兵衛の笑みが深くなる。
「無論です」
景継は九州の地図へ目を落とした。
長い準備だった。
毛利との戦を終え、四国の火を鎮め、一益を見送り、秀長も逝った。
その間にも、新しい命が生まれ、新しい者が加わった。
天下は止まっていない。
そして今度は、自分たちが動く。
「九州へ参ります」
景継の言葉に、諸将が一斉に頭を下げた。
十日後。
林道景継は、黒田官兵衛をはじめとする諸将を率い、西へ向かう。
その先に待つ最初の戦が、九州全土へ何を知らせることになるのか。
まだ、それを知る者はいなかった。




