第二百六十五話 明
羽柴秀長の死後も、出石城から人の気配が消えることはなかった。
むしろ、主を失ったからこそ、やらなければならないことは増えていた。
葬儀を終えれば、それですべてが終わるわけではない。残された家臣、その家族、兵、領内の村々、蔵に蓄えられた米や金、さらに今後この地をどう治めていくのかまで、一つずつ整理していかなければならなかった。
その中心にいたのが、藤堂高虎だった。
「桑山殿。こちらの者たちは、できる限り同じ家中でまとめてください。家族まで離す必要はありません」
「分かった。こちらの者は?」
「本人は武士を続けることを望んでいます。他家への仕官先を探しましょう。急いで決める必要はありません」
机の上には、何枚もの書付が広げられている。
誰が残り、誰が去るのか。
誰が他家への仕官を望み、誰が武士を辞めるのか。
高虎は一人一人の希望を確認しながら、可能な限り無理のない形へ整えていった。
城のことだけではない。
雪解けを迎えれば、傷んだ道の補修も必要になる。領内の村々へ余計な混乱が広がらないよう、役人や代官の配置も急に変えすぎてはならない。
秀長がいなくなったからといって、領民の暮らしまで止まるわけではない。
高虎はそれを理解していた。
「高虎殿」
呼ばれて顔を上げると、寧々が立っていた。
高虎は書付を置いて頭を下げる。
「寧々様」
「少しは休まれているのですか?」
「休んでおります」
「その言葉は信用できませんね」
高虎はわずかに苦笑した。
「まだ終わっておりませんので」
寧々は机の上を見る。
秀長が生きていた頃よりも、むしろ書付の数は増えていた。
「秀長様がおられたなら、怒られるのではありませんか」
「何をでしょう」
「自分が死んだ後まで働きすぎだ、と」
「それでしたら、秀長様には言われたくありません」
高虎の返事に、寧々の口元が少し緩んだ。
それ以上、休めとは言わなかった。
高虎が何をしているのか、寧々にも分かっている。
これは羽柴家を再び大きくするための仕事ではない。
秀長が最後まで守ろうとした者たちを、それぞれの次の場所へ送り出すための仕事だった。
「高虎殿」
「はい」
「秀長様は、あなた自身の道についても考えておられました」
高虎の手が止まった。
「存じております」
「ならば、あなたもいつかは決めなければなりません」
「はい」
「どなたに仕えるかも含めて」
高虎は少し黙った後、目の前の書付へ視線を戻した。
「まず、ここを終わらせます」
それだけだった。
寧々も、それ以上は尋ねなかった。
◇ ◇ ◇
季節は進んだ。
九州へ向けた準備も止まってはいない。
毛利との協力内容はすでに固まり、石田三成と小西行長を中心に、兵糧と船の手配が進められている。黒田官兵衛は九州から届く情報を整理し、島津をはじめとする各勢力の動きを追っていた。
景継もまた、出陣へ向けた最後の確認を続けていた。
そして――。
天正十五年(1587年)四月。
九州とは別の意味で、景継には落ち着かない日が訪れていた。
「……景継様」
茶々の声が廊下に響いた。
景継が振り返る。
「何でしょう」
「先ほどから、そこを何度往復されているのです?」
「往復?」
景継は足元を見る。
「私はここにいただけですが」
「いいえ。少なくとも五度は行ったり来たりされました」
茶々は呆れたように笑った。
景継は何も言わず、再び廊下の奥を見る。
その向こうでは、楓の出産が始まっていた。
「凛の時よりは落ち着いておられると思っていたのですが」
「落ち着いています」
「そうでしょうか」
「はい」
「では、座られてはいかがです?」
「今は座る必要を感じません」
茶々はとうとう吹き出した。
「それを落ち着いていないと言うのではありませんか?」
景継が何か答えようとしたところで、裾を引かれた。
下を見る。
万代丸が立っている。
「ちち」
「どうしました?」
万代丸は奥の部屋を指差した。
「はは」
「母上は今、頑張っています」
万代丸が景継の顔を見上げる。
まだ状況をすべて理解しているわけではない。それでも、いつもとは違う空気を感じ取っているのだろう。
景継は膝をつき、息子と目線を合わせた。
「もうすぐ、万代丸にもう一人、妹ができます」
言った直後、景継はわずかに眉を動かした。
「……妹か弟かは、まだ分かりませんが」
それを聞いていた茶々が笑う。
「景継様でも、そのような間違いをされるのですね」
「忘れてください」
「嫌です」
茶々の腕の中では、凛が眠っている。
まだ半年ほどの小さな身体だった。
万代丸が凛を見る。
「りん」
「そうですよ」
茶々が答える。
「万代丸には、もう妹が一人いるでしょう?」
万代丸はしばらく凛を見た後、再び出産の行われている部屋へ顔を向けた。
その時だった。
奥から、赤子の泣き声が聞こえた。
景継の身体が止まる。
茶々の表情からも笑みが消え、代わりに柔らかな安堵が浮かんだ。
ほどなくして戸が開いた。
「殿」
出てきた女中の顔には笑みがあった。
「お生まれになりました」
景継はすぐに尋ねる。
「楓は?」
「ご無事でございます」
その言葉を聞いて、景継の肩から力が抜けた。
「子は?」
「姫君にございます。元気に泣いておられます」
娘。
景継は一度目を閉じた。
「……そうですか」
それだけ答えると、万代丸の頭へ手を置いた。
「今度こそ、本当に妹でしたね」
万代丸が意味を理解したかは分からない。
だが、父の顔を見て笑った。
◇ ◇ ◇
しばらくして、景継は楓のもとへ通された。
楓は疲れ切っていた。
それでも、その腕には小さな娘が抱かれている。
景継がそばへ座ると、楓は薄く笑った。
「随分と廊下を歩いておられたそうですね」
景継が茶々を見る。
茶々は凛を抱いたまま、何食わぬ顔をしている。
「……誰から聞きました?」
「聞かなくても分かります」
楓が答えた。
「万代丸の時も、落ち着いているように見せておられましたから」
「今回は本当に落ち着いていました」
「そういうことにしておきます」
景継は反論を諦めた。
そして、楓の腕の中を見る。
小さな娘は、先ほどまで大声で泣いていたとは思えないほど静かに眠っている。
景継がそっと手を伸ばすと、小さな指がその指先に触れた。
「……小さいですね」
「凛の時にも似たことを仰っていましたよ」
茶々が言う。
「そうでしたか?」
「はい」
「では、今回は言わなかったことにします」
楓が小さく笑った。
景継もわずかに口元を緩める。
その傍らへ万代丸が近づこうとしたため、楓が空いている手を伸ばした。
「そっとですよ」
万代丸は足を止めた。
眠っている妹を、不思議そうに見つめている。
茶々の腕の中では凛が眠り、その隣には新しく生まれた娘がいる。
景継はしばらく、その光景を眺めていた。
戦場では得られないものが、そこにはあった。
「名前は考えておられるのですか?」
楓が尋ねる。
景継は頷いた。
「一つ、考えていました」
「聞かせてください」
景継は眠る娘を見る。
「明――」
楓が瞬きをする。
「明?」
「はい。明と書いて、あき、と」
景継は娘の小さな手を見ながら続けた。
「この子がどのような道を歩むのかは、私には分かりません。私が決めることでもないでしょう」
楓は黙って聞いている。
「ただ、何かに迷った時、周りの言葉だけに流されるのではなく、自分の目で物事を見てほしい。何が正しいのか、何が大切なのかを、自分で明らかにして、自分の道を選べる人になってほしいと思います」
景継は楓を見る。
「それで、『明』です」
楓は腕の中の娘へ目を落とした。
「あき……」
確かめるように、その名を口にする。
やがて微笑んだ。
「私は好きです」
「では」
「この子は、明です」
景継が頷いた。
茶々も娘を覗き込む。
「明。良い名前ですね」
万代丸も周囲の声に反応したのか、口を開いた。
「あ……き?」
三人の大人が同時に万代丸を見た。
景継が珍しく目を見開く。
楓は疲れた顔のまま、それでも嬉しそうに笑った。
「そうですよ。明です」
万代丸はもう一度、眠っている妹を見る。
「あき」
今度は先ほどよりもはっきりしていた。
景継は何も言わず、息子の頭を撫でた。
万代丸。
凛。
そして、明。
三人の子が、同じ場所に揃った。
だが景継は、その子らに天下を望んでいるわけではない。
戦場へ出ることすら、望んでいなかった。
できることなら、自分たちの世代で争いを終わらせたい。
この子らが大人になる頃には、父のように戦場の地図を睨まずとも生きていける世であってほしい。
そう願っている。
だからこそ――自分は、これから九州へ行く。
景継は三人の子供を見ながら、静かにそう思った。
◇ ◇ ◇
それから数日後。
出石では、長く続いていた整理がようやく一つの区切りを迎えていた。
高虎は最後の書付を閉じた。
すべてが完全に片付いたわけではない。
だが、少なくとも秀長の死によって路頭に迷う者が出ないよう、できる限りの道筋は整えた。
残る者。
他家へ向かう者。
故郷へ帰る者。
それぞれが、それぞれの道へ進み始めている。
高虎は机の上へ両手を置き、長く息を吐いた。
「終わりましたか?」
背後から声がした。
寧々だった。
高虎は振り返る。
「ひとまずは」
「随分とかかりましたね」
「秀長様が残されたものが、それだけ多かったということでしょう」
寧々は静かに頷いた。
そして、しばらく何も言わず高虎を見ていた。
「これで、あなたも自由です」
高虎は答えなかった。
その言葉を聞く日が来ることは分かっていた。
秀長が死んだ時から、ずっと。
「高虎殿」
「はい」
「これから、どうされるのです?」
高虎は部屋の外へ目を向けた。
雪はもうない。
冬の白に覆われていた出石にも、春が来ていた。
「秀長様から、以前言われました」
「何と?」
「俺が死んだ後は、自分で主を決めろ、と」
寧々は何も言わない。
「ですから、自分で決めました」
高虎は立ち上がった。
「行ってまいります」
「どちらへ?」
高虎は迷わなかった。
「林道景継様のもとへ」
寧々の表情が、ほんのわずかに揺れた。
景継。
秀吉が死んだ小牧・長久手で、敵として立っていた男。
今は清正も、正則も、その男のもとで戦っている。
寧々が景継に対して抱くものは、決して単純ではない。
それでも、高虎の道を止めることはしなかった。
「そうですか」
それだけ言うと、高虎をまっすぐに見る。
「ならば、行ってらっしゃい」
高虎が深く頭を下げた。
「お世話になりました」
「私は何もしておりませんよ」
「いいえ」
高虎は顔を上げた。
「秀長様が最後まで心配されていた方々を、これからも見ていただける。それだけで十分です」
寧々は返事をしなかった。
高虎も、それ以上は言わなかった。
やがて踵を返し、部屋を出ていく。
秀吉に仕え、秀長に仕えた藤堂高虎。
その男が今、自ら次の主を選んだ。
向かう先は林道景継。
そして景継もまた、九州へ向かおうとしている。
春を迎えた天正十五年。
西国を覆う戦の気配は、もう遠くなかった。




