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『乱世にて、我は待つ』~知略を秘めた軍師は、やがて天下を動かす~  作者: ダイヤマ
第十二章 命運交錯編

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第二百六十四話 最後に守るもの



天正十五年(1587年)一月


但馬・出石。


朝から降り続いていた雪は昼を過ぎてもやまず、城下を白く覆っていた。


城内では雪を払う音に混じり、いつもと変わらぬように家臣たちが行き交っている。書状が運ばれ、領内から届いた報告が整理され、必要な指示が各所へ送られていた。


表向きは、何も変わっていない。


だが、城にいる者の多くが知っていた。


羽柴秀長が床から起き上がれる時間は、日に日に短くなっている。


その日、藤堂高虎が秀長の部屋へ入ると、秀長は布団の上で身体を起こしていた。傍らには書付が置かれており、高虎はそれを見るなり眉を寄せる。


「また御覧になっていたのですか」


「見るくらいはいいだろう」


「昨日も同じことを申されました」


「昨日見たから、今日見てはいけないという決まりはない」


「そういう話ではございません」


高虎が書付を取ろうとすると、秀長は先に手を置いた。


以前なら、ここで笑いながら取り合うこともできただろう。だが、その手にはもう高虎と張り合えるほどの力がない。


高虎は無理に奪わず、手を止めた。


秀長が苦笑する。


「そんな顔をするな、高虎」


「どのような顔でしょう」


「俺が今にも死にそうな顔だ」


「そのような顔はしておりません」


「なら、一度鏡を見てこい」


高虎は答えなかった。


秀長はしばらくその顔を見ていたが、やがて書付から手を離した。


「皆を呼んでくれ」


「皆、と申されますと」


「ここに残ってくれている者たちだ」


その意味を、高虎はすぐに理解した。


◇ ◇ ◇


しばらくして、秀長の部屋には桑山重晴をはじめ、羽柴家に残った家臣たちが集まった。


秀吉が死んでから、すでに二年以上が過ぎている。


かつて天下へ手を伸ばしかけた羽柴家の勢力は、もうない。


小牧・長久手で秀吉が倒れ、その後の戦いと領地の再編によって、多くの者が別の道へ進んだ。


それでも秀長のもとには、残った者たちがいる。


秀長は一人ずつ、その顔を見た。


「兄者が死んだ時――」


静かな声が部屋に響いた。


「羽柴は終わったと思った者も多かっただろう」


誰も答えない。


秀長は責めるような言い方をしなかった。


「俺も何度も考えた。兄者がいないのに、羽柴という家を残すことに、どれだけ意味があるのかとな」


高虎が顔を上げる。


それは秀長が、これまで家臣たちにはほとんど見せなかった言葉だった。


秀長は秀吉の死後、残った領地と家臣をまとめ続けた。大きくなろうとはしなかったが、羽柴という家を簡単に潰すこともしなかった。


その男が今、自ら羽柴の終わりを口にしている。


「それでも今日まで残した。お前たちがいてくれたからだ」


桑山重晴が膝の上で拳を握った。


「殿――」


「最後まで聞いてくれ」


秀長の声は弱い。


それでも、その一言で重晴は口を閉じた。


「俺が死んだ後まで、羽柴という名に縛られる必要はない」


部屋の空気が変わった。


何人かが顔を上げる。


「それは……」


「殿、それでは――」


声が重なりかけた。


秀長は静かに手を上げた。


「羽柴を守るために、お前たちまで潰れる必要はない」


「しかし!」


一人の家臣が思わず声を上げた。


「我らは殿にお仕えして――」


「だからだ」


秀長はその男を見た。


「よく仕えてくれた。もう十分だ」


誰も言葉を返せなかった。


「領内の者たちが困らないようにする。家臣の家族も、できる限り行き先を整える。残りたい者は残ればいい。他家へ行きたい者は行けばいい。武士をやめたい者がいるなら、それでも構わない」


一息に話したことで、秀長の呼吸がわずかに乱れた。


それでも言葉を止めなかった。


「俺と一緒に、お前たちまで終わる必要はないんだ」


高虎は黙って聞いていた。


二人だけの時、秀長から似た話はすでに聞いている。


だが今は違う。


これは高虎一人の将来についてではない。


秀長が最後まで抱えていた、羽柴家そのものの話だった。


秀長の視線が高虎へ向く。


だが、何も言わない。


高虎も何も言わなかった。


それで十分だった。


◇ ◇ ◇


家臣たちとの話を終えた後、秀長は深く息を吐いた。


疲労は隠せなくなっていた。


それでも、その日のうちにもう一人、会っておきたい者がいた。


寧々だった。


部屋へ入ってきた寧々は、布団の上の秀長を見ると、しばらく何も言わなかった。


秀長の方が先に口元を緩める。


「そんな顔をしないでください」


「どんな顔をしているというのです」


「高虎と同じ顔です」


「ならば、高虎殿は正しい顔をしているのでしょう」


「敵いませんな」


寧々は秀長のそばへ座った。


二人の間に、長い説明は必要なかった。


秀吉が生きていた頃から、あまりにも多くのことを共に見てきた。


勝った戦。


負けた戦。


人が集まり、領地が増え、秀吉の名が大きくなっていった日々。


そして、小牧・長久手。


秀吉が帰らなかった日。


「兄者がいなくなってから、随分と長かったような気がします」


秀長がぽつりと言った。


寧々は目を伏せる。


「二年ほどしか経っておりませんよ」


「そうでしたな」


秀長は天井を見た。


「十年くらい経ったような気がします」


「この二年で、いろいろありましたから」


「本当に」


秀長の口元に笑みが浮かぶ。


「兄者がいたら、何と言ったでしょうな」


寧々は少し考えた。


「お前は何を弱気になっておる、と怒るのではありませんか」


秀長が声を漏らして笑った。


しかし、その笑いはすぐに咳へ変わった。


寧々が背に手を添える。


しばらくして咳が収まると、秀長は呼吸を整えながら苦笑した。


「言いそうですな」


「でしょう?」


「自分は先に逝ったくせに」


寧々は返事をしなかった。


笑おうとしたのかもしれない。


だが、うまく笑えなかった。


秀長もそれに気づいたのだろう。


少し間を置いてから、寧々を見る。


「寧々様」


「はい」


「残った者たちを、お願いします」


寧々の表情が変わった。


「俺が行き先まで全部決めてしまうのは違うと思っています。ですが、迷う者もいるでしょう。兄者に仕えて、俺に仕えて……他へ行くことなど考えたこともない者もおります」


「……分かりました」


「清正も、正則も、もう自分の道を歩いている。あれでいいんです」


寧々の表情がわずかに揺れた。


秀吉の死後、二人は景継のもとで戦っている。


寧々にとって、それを簡単な気持ちで受け入れられたわけではない。


それでも二人が生きていることも、前へ進んでいることも知っていた。


「高虎殿も?」


寧々が尋ねた。


「高虎もです」


秀長は迷わなかった。


「自分で決めさせてやってください」


「あなたは、あの方がどこへ行くか分かっているような顔をしていますね」


「どうでしょうな」


秀長は少し笑った。


「俺の思った通りに動く男なら、もっと楽だったんですが」


その言葉に、寧々も今度はわずかに笑った。


◇ ◇ ◇


数日後。


出石の雪は止んでいた。


空は厚い雲に覆われたままだったが、城下では積もった雪が少しずつ解け始めている。


その朝、秀長の容体が急に悪化した。


知らせを受けた高虎が部屋へ駆け込んだ時には、すでに桑山重晴や近習たちが集まっていた。


高虎は人を押し退けるようなことはせず、そのまま秀長の枕元へ進んだ。


「殿」


秀長の目が動いた。


「……高虎か」


「はい」


「皆は」


「おります」


秀長は視線を動かそうとした。


だが、思うように身体が動かない。


高虎がわずかに身をずらす。


秀長から見える場所に、家臣たちがいる。


それを確認すると、秀長の表情が少しだけ緩んだ。


「そうか」


それから、秀長は高虎を見た。


「高虎」


「はい」


「もう……俺を守らなくていい」


高虎の喉が動いた。


すぐには答えられなかった。


秀長が弱々しく笑う。


「何だ。その顔は」


「……最後まで、お守りいたします」


「頑固だな、お前は」


「殿に言われたくはございません」


秀長の笑みが、ほんの少し深くなった。


「それも……そうだな」


その後、秀長はほとんど言葉を発しなかった。


誰か一人へ長い遺言を残すこともなく、昔の戦を語ることもなかった。ただ、自分のそばに残った者たちの顔を、時折確かめるように見ていた。


やがて呼吸の間隔が長くなる。


高虎は秀長の手を握った。


冷たくなり始めていた。


それでも離さなかった。


「殿」


返事はない。


もう一度、呼ぶ。


「殿」


部屋の中から音が消えた。


羽柴秀長は、静かにその生涯を終えた。


兄・秀吉が死んだ後も、残された羽柴家を支え続けた男だった。


天下を取ることはなかった。


兄のように、多くの者の前へ立つこともなかった。


それでも秀長が最後まで守ろうとしたものは、領地でも、羽柴という名でもない。


自分のもとに残った者たちが、自分の死後も生きていけること。


それが、秀長が最後に守ろうとしたものだった。


◇ ◇ ◇


秀長死去の報せが景継のもとへ届いたのは、それから数日後だった。


その場には加藤清正と福島正則もいた。


使者が秀長の死を告げた瞬間、正則は何も言わなかった。


いつもなら真っ先に声を上げる男が、膝の上へ置いた拳を握ったまま俯いている。


清正も動かなかった。


景継は二人へ声をかけなかった。


今は言葉をかけるべき時ではない。


やがて正則が、低い声を漏らした。


「……秀長様まで逝かれたか」


清正が目を閉じる。


「殿下が亡くなられてからも、ずっと残った者たちを支えておられた」


正則は唇を噛んだ。


「俺たちは……先に出たからな」


その声には、悔いとも寂しさともつかないものが混じっていた。


清正が正則を見る。


「だからこそ、秀長様は残られたのだろう」


正則は返事をしなかった。


景継は二人の会話を聞きながら、使者へ尋ねた。


「最期は?」


「藤堂高虎殿をはじめ、羽柴家の方々に見守られていたとのことです」


「そうですか」


景継は静かに頭を下げた。


かつて敵として向き合った羽柴家。


その中心にいた秀吉は、すでにいない。


そして今、弟の秀長も逝った。


一つの時代が、また少し遠ざかったように感じた。


しばらくして、吉継が景継へ尋ねる。


「殿。高虎殿には……」


景継は首を振った。


「まだです」


迷いはなかった。


「秀長殿が亡くなった直後に、私が声をかけるべきではありません」


「では」


「待ちます」


景継は答えた。


「高虎殿には、高虎殿が終わらせなければならないものがあります。秀長殿が残した家臣、領内のこと、これからの羽柴家のこと。それを放り出してこちらへ来るような方なら、私は欲しいとは思いません」


吉継が静かに頷いた。


清正も景継を見る。


「高虎は来ると思われますか?」


景継は少し考えた。


「分かりません」


それが答えだった。


「ですが、どこへ行くにしても、自分で決める方でしょう」


景継は使者が運んできた書状へ目を落とした。


「ならば、その答えを待ちます」


◇ ◇ ◇


その夜。


出石城の一室に、高虎は一人残っていた。


秀長の亡骸はすでに別の部屋へ移され、葬儀の準備が始まっている。


高虎の前には書付が積まれていた。


家臣たちの名、その家族、領内の村々、残された兵、蔵にある米。


これから処理しなければならないものは、あまりにも多い。


高虎は一枚ずつ目を通していった。


泣いている暇などなかった。


秀長は最後に、自分を守らなくていいと言った。


だが、高虎にとって秀長への奉公は、まだ終わっていない。


主を失ったからといって、翌日から自分の道だけを考えることなどできなかった。


残された者たちをどうするのか。


秀長が最後まで気にかけていた者たちを、どこへ送り出すのか。


領内をどう落ち着かせるのか。


それを終わらせるまでは、藤堂高虎は羽柴秀長の家臣だった。


ふと、以前の秀長の言葉が脳裏をよぎる。


――景継殿のところは、お前に合うかもしれん。


高虎は目を閉じた。


だが、すぐに開く。


今、考えることではない。


次の主を誰にするのか。


そもそも、誰かに仕えるのか。


それを決めるのは、秀長から託された最後の仕事を終えてからだ。


高虎は新しい書付を手に取った。


外では、屋根から雪が落ちる音がした。


羽柴秀長の戦は終わった。


だが、残された者たちは生きていかなければならない。


そして、それこそが秀長が最後まで守ろうとしたものだった。



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