第二百六十三話 新たな年
九州へ向けた準備は、年の瀬を迎えても止まることはなかった。
景継の前には、瀬戸内から九州までを記した地図が広げられている。
数か月前までは九州各地の勢力や島津の動きを知るために眺めることの多かった地図も、今では様相が違っていた。海路、兵糧を集める場所、船を出す港。それらが書き加えられ、九州への道筋は少しずつ形になっている。
準備は進んでいる。
だからこそ、景継には出陣前に確かめておきたい相手がいた。
「官兵衛殿」
「はい」
「毛利へ行っていただけますか」
官兵衛は地図から顔を上げた。
「九州へ渡る前に、ですな」
「ええ。以前の約定があります。ですが、あの時と今では状況が違う。実際に九州へ兵を出すのであれば、毛利がどこまで動けるのかを確認しておきたいのです」
景継は西へ指を滑らせた。
「兵だけではありません。船、兵糧、港、それに九州の情報。毛利が無理なく出せるものを聞いてきてください」
「主力を求める必要は?」
「ありません」
景継は即答した。
「毛利の軍をこちらの都合だけで動かせば、かえって西が不安定になります。必要なのは、九州で戦い続けられる形を作ることです」
官兵衛が頷く。
「承知しました」
「お願いします」
話はそれだけだった。
すでに一度、毛利とは条件を詰めている。改めて一から交渉する必要はない。
官兵衛は数日も置かず、西へ向かった。
◇ ◇ ◇
毛利領へ入った官兵衛を迎えたのは、毛利輝元、小早川隆景、吉川元春、そして安国寺恵瓊だった。
以前のような緊張した交渉ではない。
林道家が九州へ動く。
その時、毛利が約定に基づいて何を担うのか。
確認すべきことは、それだけだった。
「林道家として、毛利の主力すべてを求めているわけではございません」
官兵衛の言葉に、隆景が目を細めた。
「では、何を求められる?」
「九州へ兵を送り、戦わせ続けるために必要なものを」
官兵衛は淡々と答えた。
「出せる兵。使える船。兵糧を積み出せる港。それに、九州の情報。毛利殿が無理なく出せる範囲をお聞きしたい」
元春が腕を組む。
「兵を出せと言われる方が、話は早いのだがな」
「兵だけ多くても、海を越えられなければ意味がありませぬ」
「違いない」
元春は短く笑った。
隆景はすでに実務の方へ頭を切り替えていた。
どの港を使えるのか。どれだけの船を回せるのか。どの時期なら兵糧を出せるのか。毛利が持つ九州方面の情報を、どこまで林道側へ渡せるのか。
話は長引かなかった。
互いに以前の約定を理解しているからこそ、必要な部分だけを詰めていく。
輝元も最終的に頷いた。
「以前交わした話を違えるつもりはない。毛利にできることはしよう」
「景継様にも、そうお伝えいたします」
官兵衛が頭を下げた。
その日のうちに内容は整理され、景継のもとへ書状が送られた。
帰り際、恵瓊が官兵衛へ声をかける。
「また忙しくなりますな、官兵衛殿」
「戦が終われば、少しは暇になると思っていたのですが」
「貴殿が暇になる日は来ますかな」
官兵衛はわずかに笑った。
「それは私ではなく、景継様に聞いていただきたい」
それだけ言うと、官兵衛はその場を離れた。
◇ ◇ ◇
数日後。
官兵衛から届いた書状は、すぐに景継たちの前へ広げられた。
「大きな問題はなさそうですね」
景継が言うと、三成が書状の一か所を指した。
「ここだけ変えた方がよろしいかと」
「兵糧ですか?」
「はい。毛利側が積み出せる時期と、こちらが想定している兵の動きが少し合いません。数そのものは足りますので、こちらの集積分を先に使い、毛利からの分を後へ回した方が無駄がありません」
小西行長も別の箇所へ指を置く。
「船はこちらの港へ回してもらった方がよろしいでしょう。毛利側が示した場所でも使えますが、こちらの船と重なると出入りに時間がかかります」
景継は二人の意見を聞き、書状を読み直した。
「吉継殿は?」
大谷吉継は毛利が出せる兵の数を確認していた。
「問題ないでしょう。むしろ、この程度に留めてもらった方がよいかと。毛利まで大きく動かせば、西国全体が九州へ傾きすぎます」
「分かりました」
景継は頷いた。
「では、その二点を修正して毛利へ返してください」
修正した内容はその日のうちに毛利へ送られ、さらに数日後、了承の返書が届いた。
それで終わった。
長い評定も、新しい条件を巡る駆け引きもない。毛利が担う範囲は決まり、林道側もそれを前提に兵糧と船の配置を組み直した。
九州へ向かうために必要だった西側との大きな確認が、一つ片づいた。
◇ ◇ ◇
その間にも、遠征軍の形は固まりつつあった。
三成が兵糧と全体の日程を詰め、行長が海路を整える。吉継は九州へ送る兵と、畿内や東へ残す兵の釣り合いを見ていた。
そして実際に海を渡った後、前へ出る者たちも決まり始めている。
加藤清正、福島正則。
さらに、以前から自分も連れていけと言い続けていた仙石秀久も、その中にいた。
「某も入っておりますな」
自分の名を見つけた秀久が、満足そうに言った。
「入れました」
景継が答える。
「ようやくですか」
「まだ喜ぶところではありませんよ」
「九州へ行けるのであれば十分です」
「戦場を見た途端、先に走らないでくださいね」
秀久は眉を寄せた。
「某を何だと思っておられるので?」
正則が横から口を挟む。
「勝てると思ったら、止める前に走る男」
「そこまでではない」
清正まで口を開いた。
「否定するまでが遅いぞ」
「お前たちは某を何だと思っている」
景継は三人のやり取りを聞きながら、秀久へ目を向けた。
秀久はただ血気にはやるだけの男ではない。戦場を見る目があり、兵を動かす判断も速い。
だからこそ使う。
そして、その判断の速さが危うさへ変わらないよう、見ておかなければならない。
「秀久殿」
「はい」
「勝てると思った時ほど、一度だけ周りを見てください」
秀久の表情から、わずかに笑みが消えた。
「……承知しました」
景継はそれ以上言わなかった。
誰を連れていくのか。
誰を残すのか。
何を、どこから運ぶのか。
一つずつ決まっていく。
あとは時を選ぶだけだった。
◇ ◇ ◇
天正十五年(1587年)正月。
新しい年を迎えた林道家の屋敷は、朝から人の出入りが続いていた。
家臣たちの挨拶が一段落した頃、景継はようやく政務の席を離れた。
その頃には、屋敷に懐かしい顔が揃っていた。
父。
母。
そして兄。
新年の挨拶も兼ねて訪れた三人だったが、凛が生まれてから揃って顔を見るのはこれが初めてだった。
茶々のそばでは凛が眠っている。
その少し離れたところには楓が座り、万代丸を自分のそばへ呼び寄せていた。
春に出産を控えた楓の腹は、衣の上からでも以前より大きくなっていることが分かる。
父が凛を見下ろした。
「この子が凛か」
「はい」
茶々が答える。
「今はよく眠っております」
父はしばらく凛を眺めていたが、手を伸ばそうとはしなかった。
景継が尋ねる。
「抱かないのですか?」
「せっかく寝ておるのに、起こしてどうする」
「父上でも、そのようなことを気にされるのですね」
父がゆっくり景継を見る。
「お前はわしを何だと思っておる」
「孫なら、泣いても構わず抱く方かと」
「随分と勝手な父親像を作ってくれたものだな」
景継が黙って茶を飲む。
その横で、楓が小さく笑った。
「景継様は、父上様には遠慮がありませんね」
「楓まで何を言うのです」
「見たままを申しただけです」
母がそんな二人を見て微笑んだ後、茶々へ向き直った。
「茶々殿。身体はもうよいのですか?」
「おかげさまで」
「子が元気だからといって、自分まで元に戻ったと思ってはいけませんよ。産んだ後の身体は、自分で思っているより疲れているものです」
茶々は少し驚いたようだったが、すぐに表情を和らげた。
「ありがとうございます」
母はそこで楓にも目を向けた。
「それと、楓殿も」
「私ですか?」
「もう一人で何でもなさろうとしてはいけませんよ。今は茶々殿とは違う意味で、身体を大事にしなければならない時なのですから」
楓は自分の腹へ手を添えた。
「はい。分かっております」
母はその返事を聞いても、すぐには頷かなかった。
「本当に?」
楓が困ったように笑う。
「……できるだけ」
「それでは私と同じことを言われていますよ」
茶々が横から口を挟んだ。
楓は茶々を見る。
「茶々殿に言われるとは思いませんでした」
「私はもう母上様から注意されましたから」
二人が顔を見合わせて笑う。
景継も口を挟んだ。
「私からも、無理はしないよう何度も」
「景継様は少し心配しすぎです」
楓に遮られた。
「私はまだ普通に歩けます」
「ですが」
「庭へ出ようとしただけで供を増やされた時は、さすがに驚きました」
茶々が笑いを堪える。
母まで景継を見る。
「それはやりすぎでしょう」
「何かあってからでは遅いでしょう」
景継は真面目に答えた。
楓は呆れながらも、どこか嬉しそうだった。
「そのお気持ちだけで十分です」
少し離れたところでは、兄が万代丸の前にしゃがんでいた。
「お前も兄になったのか」
万代丸は兄の顔を見た後、眠っている凛を指す。
「りん」
「知っている。お前の妹だろう」
「りん」
「大事にしてやれよ」
万代丸がどこまで理解したのかは分からない。
それでも兄の言葉を聞いた後、凛の方へ歩いていこうとする。
楓が慌てることなく、その小さな手を取った。
「そっとですよ」
万代丸は母を見上げ、それから歩く速度を少し落とした。
兄がその様子を見て笑う。
「景継より素直そうだな」
「兄上」
「何だ?」
「本人の前で言うことではないでしょう」
「本人がいるから言っている」
「私もそう思います」
楓がさらりと加えた。
景継が振り向く。
「楓まで兄上の味方ですか?」
「味方というわけではありません」
「では?」
「正しい方に頷いただけです」
今度は茶々まで吹き出した。
景継が何か返そうとした時、凛が小さく声を上げる。
部屋にいた者たちの視線が一斉にそちらへ向いた。
茶々が凛を覗き込んだ。
「凛に止められましたね」
「どうやら、そのようです」
景継もそれ以上は言わなかった。
楓が万代丸の手を握り、茶々が凛を抱く。
その二人を父と母、兄が眺めている。
そして楓の腹には、もう一つの命がいる。
以前より人数が増えた分だけ、部屋の中には声も増えた。
景継はその光景を眺めながら、しばらく席を立たなかった。
◇ ◇ ◇
その後、景継は父と二人で廊下を歩いていた。
庭には薄く雪が残っている。
「九州へ行くそうだな」
父が前を見たまま言った。
「まだ日は決めておりません」
「行くかどうかは?」
「行きます」
景継は迷わず答えた。
父も歩みを止めなかった。
「そうか」
それだけだった。
景継は横を見る。
「止めないのですか?」
「止めてほしいのか?」
「いえ」
「なら聞くな」
景継は苦笑した。
しばらく歩いたところで、父が再び口を開く。
「凛の顔を見に来たつもりだったがな」
「はい」
「お前の顔を見る方が気になったわ」
「私ですか?」
「また考えておる顔をしている」
「いつも通りですよ」
「そう言うところは昔から変わらんな」
父は庭へ目を向けた。
「昔なら、お前がどこへ行こうと、お前一人が帰ってくればよかった」
景継は黙る。
「今は違う」
それ以上、父は誰の名も出さなかった。
出す必要もなかった。
屋敷へ戻れば、待っている者たちがいる。
「行くなら行ってこい」
父が足を止める。
「ただし、帰ってこい」
景継は父を見た。
天下を争う大名に向けた言葉ではない。
父が、息子へ言っている。
景継も余計な言葉は返さなかった。
「はい」
父はそれだけ聞くと、再び歩き始めた。
◇ ◇ ◇
正月の賑わいが落ち着き始めた頃。
景継は再び政務へ戻っていた。
毛利との調整は終わった。
船も集まりつつある。
兵糧の動かし方も決まった。
遠征へ加わる将たちも、ほぼ固まった。
机の上に積まれている書付は多いが、以前のように「何を準備すればよいのか」を考えるためのものではない。
決めたものを、実際に動かすための書付へ変わっている。
そこへ大谷吉継が入ってきた。
「殿」
景継は顔を上げた。
吉継の表情を見て、筆を置く。
「何かありましたか?」
「但馬より報せがございます」
景継の目がわずかに細くなる。
「秀長殿ですか?」
「はい」
吉継が書状を差し出した。
「年が明けてから、御身体がさらに優れぬとのことです。床に伏せられる日も増えたと」
景継は黙って書状を受け取った。
先月の時点でも、秀長の身体が弱っていることは聞いていた。
年を越せば持ち直す可能性もあると思っていたが、どうやら逆だったらしい。
「高虎殿は?」
「変わらず秀長殿のそばにおります。周囲の者たちと政務を分担しながら、秀長殿を支えているようです」
景継は書状を畳んだ。
「……そうですか」
「声をかけますか?」
景継は首を振る。
「いいえ」
答えは変わらない。
「秀長殿はまだ生きておられます。ならば、高虎殿は秀長殿の家臣です」
「承知しました」
「但馬の様子だけ、引き続き知らせてください」
吉継が頭を下げる。
景継は机の上へ視線を戻した。
九州へ向かうための大きな準備は、ほぼ終わった。
毛利との連携も決まった。
残るのは、最後の調整と出陣の時を定めること。
その一方で、但馬では羽柴秀長という男の時間が、少しずつ残り少なくなっている。
景継は但馬から届いた書状を脇へ置き、九州の地図を広げた。
これ以上、準備という言葉の陰に留まり続けるつもりはなかった。
天正十五年。
新しい年は、すでに動き始めていた。




