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『乱世にて、我は待つ』~知略を秘めた軍師は、やがて天下を動かす~  作者: ダイヤマ
第十二章 命運交錯編

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第二百六十二話 残された羽柴



天正十四年(1586年)十二月


但馬・出石。


冬の冷たい風が山々を抜け、城下へ吹き込んでいた。


藤堂高虎は廊下を歩きながら、腕に抱えた書付へ目を落とした。


米の収穫。


冬を越すための備え。


領内の普請。


家臣たちへの俸禄。


書かれているのは、どれも戦とは直接関係のないものばかりだった。


かつて羽柴秀吉のもとには、多くの兵と将が集まった。


天下へ手を伸ばそうとした男の周りには、金も、人も、情報も集まり続けていた。


だが、秀吉はもういない。


小牧・長久手で敗れ、その生涯を終えた。


あれから二年以上。


羽柴という名そのものが消えたわけではない。


しかし、かつての勢いはない。


残された領地と家臣を守りながら、崩れたものを一つずつ拾い集める。


その役目を背負ってきたのが、羽柴秀長だった。


高虎が部屋の前で足を止める。


「殿。高虎にございます」


「入れ」


返ってきた声は以前より細かった。


障子を開ける。


秀長は机の前に座っていた。


「また仕事をしておられたのですか」


「お前も人のことを言えんだろう」


秀長は笑った。


高虎が抱えている書付を見れば、何をしに来たのかなど分かる。


「それは?」


「領内の冬支度についてまとめたものにございます」


「見せてくれ」


高虎は一瞬ためらった。


その間を秀長は見逃さなかった。


「何だ?」


「いえ」


「高虎」


「……殿にお見せする前に、某と桑山殿で確認しておこうかと思いまして」


「なぜだ?」


高虎は答えなかった。


秀長が小さく息を吐く。


「皆、同じようなことをするようになったな」


「何がでございます?」


「わしに見せる書付を減らす」


高虎の眉がわずかに動いた。


「気づいておられましたか」


「わしを何だと思っている」


「御身体を休めていただきたいだけにございます」


「だからといって、何も知らされなくなれば余計に気になる」


そう言われ、高虎は仕方なく書付を差し出した。


秀長は受け取ると、一枚ずつ目を通していく。


読む速度は以前より遅い。


それでも、細かなところまで見ていることは変わらなかった。


「ここの道は、雪が積もれば使いにくくなる」


「はい。別の道を使わせます」


「村の負担は?」


「人足を出させすぎぬよう、こちらから銭を出します」


「それならよい」


秀長は次の紙を見る。


戦がなくても、領地は動き続ける。


百姓は田畑を守り、商人は品を運び、家臣たちは家族を養う。


主君が天下を望まなくなったからといって、彼らの暮らしが止まるわけではない。


だから秀長は、兄を失った後も羽柴家を投げ出さなかった。


「九州が騒がしいそうだな」


不意に秀長が言った。


高虎は顔を上げる。


「林道殿が兵を出すという話でございますか」


「まだ出してはいないようだがな」


秀長は書付を置いた。


「黒田官兵衛が動き、小西行長が船を集めている。石田三成も兵糧を整えているらしい」


「よく御存じで」


「これでも羽柴秀長だぞ」


弱った身体とは裏腹に、その目にはまだ光があった。


「仙石も参加したがっているとか」


高虎は苦笑する。


「秀久殿らしい話ですな」


「お前はどう思う?」


「九州についてでございますか?」


「ああ」


高虎は少し考えた。


「大軍を渡すなら、上陸した後が問題になるかと」


秀長の口元がわずかに上がる。


「やはり、お前はそこを見るか」


「船を降りて終わりではございません。城を落とせば、次へ進むための場所が必要になります。兵糧を置く場所も、傷ついた者を休ませる場所もいる。海を越えて戦うなら、後ろが崩れれば前も崩れます」


「城か」


「城だけではございません。陣、道、港。戦が長引けば、どこを押さえているかで動ける兵の数まで変わります」


秀長は黙って高虎を見ていた。


高虎が不思議そうな顔をする。


「何でございます?」


「いや」


秀長は笑った。


「大きくなったと思ってな」


「某はもう若造ではございませぬ」


「わしから見れば、まだ同じようなものだ」


高虎は困ったように頭を下げた。


秀長は笑っていたが、その笑みは長く続かなかった。


やがて視線を庭へ向ける。


冬の空は低く、今にも雪が落ちてきそうだった。


「兄者が生きていれば」


高虎は黙る。


「九州の話を聞けば、自分が行くと言い出しただろうな」


秀長の声には、懐かしさが混じっていた。


「誰より先に九州へ渡って、島津を倒して、そのまま九州まで自分のものにすると騒いだかもしれん」


「……秀吉様なら、あり得ますな」


「だろう?」


秀長は笑った。


今度は高虎も少しだけ笑う。


だが、部屋に残ったのは静けさだった。


秀吉はもういない。


それを二人とも知っているからこそ、それ以上は続かなかった。


◇ ◇ ◇


その日の夕刻。


高虎は城内の一室に桑山重晴らを集めていた。


「今年の雪は早い。山沿いの村から城下へ続く道は、先に人を入れておいた方がよい」


「承知した」


桑山が答える。


「それと、殿へ上げる書付は一度こちらへ回してくれ」


「また減らすのか?」


「減らすのではない。こちらで処理できるものは処理するだけだ」


「同じことではないか」


高虎が睨むと、桑山は肩をすくめた。


「殿に気づかれていたぞ」


「やはりな」


「笑っていた」


その一言で、桑山の表情からも笑みが消えた。


二人とも分かっている。


秀長の身体は以前とは違う。


それでも、本人の前で終わりを語る者はいなかった。


高虎は机に置かれた書付を手に取る。


「まだ殿はおられる」


「……ああ」


「ならば、我らが考えるのは今のことだ」


それだけ言って、高虎は次の仕事へ移った。


◇ ◇ ◇


数日後。


雪が降った。


庭を薄く白く染める程度の雪だったが、秀長は縁側からそれを眺めていた。


高虎が部屋へ入ると、秀長は振り向かずに言った。


「高虎」


「はい」


「お前は、この先どうする」


突然の問いだった。


高虎は秀長の横顔を見る。


「この先とは?」


「そのままの意味だ」


秀長は庭を見たままだった。


「羽柴は、もう昔の羽柴ではない」


「……」


「兄者がいた頃とは違う。わしが残ったものをまとめてはいるが、天下を争えるような家ではない。それはお前にも分かっているだろう」


高虎は否定しなかった。


「だから、わしがいなくなった後まで、お前が羽柴という名に縛られる必要はない」


「殿」


「最後まで聞け」


秀長の声は穏やかだった。


「桑山も、小堀も、他の者たちも同じだ。それぞれ家があり、家族がいる。わしが死んだ後まで、死んだ人間に付き合わせるつもりはない」


高虎は黙っていた。


「今の世を見れば、仕える先はいくらでもある」


秀長がそこで初めて高虎を見る。


「林道景継などは、お前と合うかもしれんな」


高虎の目が細くなった。


「なぜ林道殿なのです?」


「九州へ行くからだ」


秀長は笑った。


「お前なら、あの戦で必要とされる」


先日、高虎自身が話した。


海を渡った後に必要になる城。


陣。


道。


港。


前へ進むためには、その後ろを形にする者がいる。


「殿は、某を林道殿のもとへ行かせたいのでございますか」


「今すぐ行けとは言っておらん」


「では、いつです?」


「わしが死んだ後だ」


高虎の顔から表情が消えた。


秀長はそれを見ても、目を逸らさなかった。


「その話は、おやめください」


「高虎」


「某はまだ、殿に仕えております」


「分かっている」


「ならば、それで十分にございます」


秀長が何かを言おうとした。


だが、高虎は先に続けた。


「殿がおられる間に、次の主を探すつもりはございませぬ」


「……」


「林道殿がどれほど大きな領地を持とうと、九州でどれほど大きな戦が始まろうと、今の某の主は羽柴秀長様です」


秀長は黙った。


「その先のことは、その時になってから某自身が決めます」


「わしが命じてもか?」


「その命だけは、お聞きできませぬ」


しばらく二人の間に言葉はなかった。


庭に落ちる雪だけが、少しずつ白さを増していく。


やがて秀長が息を吐いた。


「頑固になったな」


「殿に鍛えていただきましたので」


「わしはそんなふうに育てた覚えはない」


「では、生まれつきでしょう」


秀長が吹き出した。


高虎もようやく表情を緩める。


「分かった」


秀長は庭へ視線を戻した。


「ならば、わしが生きている間は好きにしろ」


「はい」


「だが、その後は自分で選べ」


高虎はすぐには返事をしなかった。


やがて深く頭を下げる。


「……承知いたしました」


それ以上、秀長は何も言わなかった。


◇ ◇ ◇


同じ頃。


景継のもとにも、但馬からの報せが届いていた。


「秀長殿の御身体が?」


景継が書状から顔を上げる。


大谷吉継が頷いた。


「以前から良くはなかったようですが、この冬に入ってから体調を崩される日が増えたとのことです」


景継は再び書状へ目を落とした。


羽柴秀長。


兄である秀吉を失った後も、残された羽柴の者たちをまとめ続けた男。


敵として刃を交えたこともある。


立場が変わってからも、完全に近しい間柄になったわけではない。


それでも景継は、秀長という男を軽く見たことはなかった。


「九州への準備は止めません」


景継は書状を畳んだ。


「ですが、但馬の様子も引き続き知らせてください」


「承知しました」


吉継が下がろうとしたところで、景継が呼び止める。


「吉継殿」


「はい」


「秀長殿のそばに、藤堂高虎という者がいましたね」


「おります」


景継は以前に聞いたその名を思い出していた。


城や普請に明るく、戦場では前へ出るだけでなく、その後に何を残すかを見る男。


これから九州へ進むなら、確かに欲しい才だった。


だが――。


「今は何もしなくて結構です」


吉継がわずかに眉を上げる。


「声をかけられないので?」


「高虎殿は秀長殿の家臣です」


景継は静かに答えた。


「まだ主君がおられるのに、その家臣へ手を伸ばすつもりはありません」


「なるほど」


「それに」


景継は書状を机へ置いた。


「主が弱った途端に他家へ走るような方なら、私はそれほど欲しいとは思いません」


吉継は小さく笑った。


「では、動かぬ方が景継様には好ましいと」


「少なくとも、今は」


景継の視線が西へ向けられる。


九州では、島津が勢力を広げている。


三成と行長が海路を整え、官兵衛が最初の戦場を探している。


仙石秀久も、出陣の機会を待っている。


戦は近い。


その一方で、戦場から離れた但馬では、一つの時代を支えてきた男の身体が静かに弱り始めていた。


何かが始まろうとしている時、その裏では必ず何かが終わろうとしている。


景継は机の上の九州の地図と、畳まれた但馬からの書状を見比べた。


そして再び、九州の地図へ手を伸ばした。


まだ秀長は生きている。


ならば、高虎は秀長の家臣だ。


今はそれでよかった。



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