第二百六十一話 近づく時
天正十四年(1586年)十月。
凛が生まれてから数日後。
茶々の部屋には、いつもより柔らかな空気が流れていた。
「まあ……」
市は腕の中に抱いた赤子を見つめたまま、しばらく顔を上げようとしなかった。
生まれたばかりの凛は、祖母が誰であるかなど知るはずもない。目を閉じたまま、ときおり口元を動かしている。
「小さいですね」
市が呟く。
「万代丸も、生まれた時はこれくらいでしたよ」
少し離れたところに座っていた楓が答えると、市は顔を上げて笑った。
「そうでしたね。ですが、不思議なものです。しばらく見ないうちに大きくなってしまうから、生まれたばかりの頃が随分昔のことのように思えてしまいます」
その万代丸は景継のそばにいた。
祖母の腕に抱かれている凛が気になるらしく、先ほどから何度もそちらへ目を向けている。
「万代丸も見ますか?」
市が尋ねると、万代丸は景継の着物を掴んだまま凛を見た。
「りん」
今度は、前よりもはっきりと言えた。
「あら」
市の顔が綻ぶ。
「もう妹の名を覚えたのですか?」
万代丸は答えず、もう一度「りん」と言った。
茶々が嬉しそうに笑う。
「兄上らしくなってきましたね」
「まだ名前を呼んだだけですよ」
楓が笑いながら返した。
景継はそんな四人を眺めながら、茶を口へ運ぶ。
凛が生まれた日の慌ただしさが嘘のようだった。
母子ともに問題はなく、茶々も少しずつ身体を休めながら日常へ戻ろうとしている。
「それにしても……」
市が凛から茶々へ視線を移した。
「あなたが母になるのですね」
茶々の眉が動いた。
「どういう意味です?」
「そのままの意味ですよ」
「何か含みがあるように聞こえます」
「そうでしょうか」
市は楽しそうに笑った。
「昔は景継様の後ろをついて回ってばかりだった子が、こうして母になったのですから。私が感慨深くなるのも仕方がないでしょう?」
「母上」
茶々の声が低くなる。
景継は思わず市を見る。
「その話は初めて聞きました」
「景継様まで食いつかないでください」
「ですが、私は覚えていませんので」
「覚えていなくてよいのです」
「茶々は昔から景継様の姿を見つけると、すぐに――」
「母上!」
今度ははっきり遮った。
市が笑い、楓まで口元を押さえている。
景継だけが少し残念そうな顔をした。
「続きが気になりますが」
「気にしないでください」
「分かりました」
素直に引き下がった景継を見て、茶々は安心したように息を吐く。
だが、その直後だった。
「では、また今度、市殿から聞くことにします」
「景継様!」
部屋に笑い声が広がった。
その声に驚いたのか、市の腕の中で凛が身じろぎした。
「あら、ごめんなさい」
市はすぐに声を落とし、凛を抱き直した。
その顔から先ほどまでの楽しげな色が少しだけ消える。
凛の頬へ指先でそっと触れ、市は静かにその名を呼んだ。
「凛……」
茶々も市を見る。
「よい名ですね」
「景継様が考えてくださいました」
「そうなのですか」
市は景継を見た。
景継が頷くと、市は再び腕の中の孫へ目を落とした。
しばらく何も言わなかった。
浅井の家で生まれた三人の娘。
戦によって変わっていった暮らし。
織田と浅井、そして柴田。
市自身もまた、乱世によって何度も家族の行く末を左右されてきた。
だからなのかもしれない。
市が凛へ向けた言葉は、ひどく短かった。
「……よく生まれてきましたね、凛」
茶々の表情が少し変わった。
市はそれ以上、何も語らなかった。
ただ腕の中の孫を見つめている。
やがて凛が小さく欠伸をすると、市の顔に再び笑みが戻った。
「この子が大きくなる頃には、もう少し穏やかな世になっているとよいですね」
その言葉に、景継はすぐには答えなかった。
万代丸。
凛。
そして楓の腹に宿る、もう一つの命。
この子たちが大きくなるまでに、自分はどこまで進めるのだろう。
天下を一つにできるのか。
あるいは、また別の争いが待っているのか。
未来など読めない。
景継はそれを誰より知っている。
それでも、市の願いには頷いた。
「そうできるよう、努めます」
◇ ◇ ◇
それから数日後。
景継の前に広げられていたのは、赤子を包む布ではなく、瀬戸内から九州へ至る海路を記した地図だった。
「思ったより集まりましたな」
黒田官兵衛が、三成の持ってきた書付へ目を落とす。
三成は頷いた。
「船の数だけなら、当初の見込みを上回っております。行長殿が各地の商人へ話を通したことで、こちらとの取引に応じる者が増えました」
その隣に座る小西行長が、わずかに首を振る。
「まだ安心するには早いかと」
「何か問題が?」
景継が尋ねると、行長は地図の一角を指した。
「船があれば兵を運べるわけではございません。船を動かす者がおり、港で荷を積む者がおり、壊れれば直す者もいる。さらに一度九州へ渡った後も、兵糧を運び続けなければならない」
三成が続ける。
「一万の兵を一度渡すだけならば、今でもできます。問題は、その一万を九州で戦わせ続けられるかです」
景継は二人の話を聞きながら地図を見る。
以前は計画にすぎなかった線が、少しずつ現実の道へ変わっていた。
どこへ兵糧を集めるか。
どの港から船を出すか。
悪天候の際にはどこへ退避するか。
一つの港が敵に妨害された場合、どの航路へ切り替えるか。
その一つ一つが決まり始めている。
大谷吉継が書付を一枚取り上げた。
「こちらも忘れてはなりません」
そこには、九州ではなく畿内や東国に残す兵の数が記されていた。
「九州へ兵を送りすぎれば、こちらが薄くなります。四国は落ち着きましたが、それがいつまでも続く保証はない。毛利も今は約定に従っておりますが、だからといって西を空にするわけにはいきません」
「東も、ですね」
景継が言う。
吉継が頷いた。
「はい」
滝川一益が残した言葉が、景継の頭をよぎる。
――西ばかり見ていると、東を見失うぞ。
九州が大きく動こうとしている今だからこそ、あの言葉は以前より重く感じられた。
官兵衛が地図の西端へ指を置く。
「とはいえ、いつまでも準備だけを続けるわけにもいきませぬ」
景継が顔を上げる。
官兵衛の指先は九州へ向けられていた。
「何かありましたか?」
「先ほど、新しい報せが届きました」
官兵衛が一通の書状を差し出す。
景継は受け取り、目を通した。
表情こそ変わらない。
だが、読み進める速度が少しずつ遅くなっていく。
三成がそれに気づいた。
「殿?」
景継は最後まで読み終えてから、書状を置いた。
「島津が、また動いたようです」
部屋の空気が変わる。
行長が身を乗り出した。
「どちらへ?」
「まだ確かなところまでは分かりません。ただ、これまで島津に距離を置いていた勢力の中に、態度を変えようとしている者が出ています」
吉継の眉が寄る。
「こちらが動く前に、島津へつくと?」
「その可能性があります」
景継は地図を見る。
島津が一つ動けば、その周囲も動く。
恐怖から従う者もいる。
勝ち馬と見て近づく者もいる。
林道家が九州へ渡るつもりだと知っていても、本当に来るか分からない軍勢を待ち続けることなどできない者もいるだろう。
官兵衛が静かに言った。
「殿。そろそろ、準備だけをしていられる時間も少なくなってきましたな」
「ええ」
景継も同じことを考えていた。
「ですが、焦って渡れば島津の思う壺です」
官兵衛の口元がわずかに上がった。
「もちろん」
「最初の一戦」
景継がそう言うと、官兵衛は何を指しているのかすぐに理解した。
「覚えております」
ただ勝つだけでは足りない。
最初の戦で、九州全体へ知らせる。
林道家が来た。
島津に抗してもよいのだと。
こちらへついてもよいのだと。
そう思わせるほどの勝利が必要になる。
「圧勝するのでしょう?」
景継が尋ねる。
官兵衛は迷わなかった。
「そのつもりです」
行長が二人を交互に見る。
「それほどの勝ち方を最初から求められるのですか」
「最初だからです」
官兵衛が答えた。
「二度目、三度目では遅い。こちらを知らぬ者が多いからこそ、最初に何を見せるかで後が変わる」
三成は腕を組み、地図を見つめた。
「ならば、その一戦に必要なものを逆算した方がよさそうですな」
「そうしてください」
景継が答える。
「戦場が決まってから兵糧を考えるのでは遅い。どこで戦うことになっても、こちらが選べるようにしておきたい」
行長も頷いた。
「船の方は、さらに詰めておきます」
「お願いします」
話はその後も続いた。
必要な兵。
残す兵。
船。
兵糧。
港。
そして、まだ見ぬ最初の戦場。
少し前まで遠くに見えていた九州への道が、確実に近づいている。
◇ ◇ ◇
同じ頃――。
別の場所でも、一人の男が書状へ目を通していた。
部屋には男以外、誰もいない。
机の上にはいくつもの報告が並べられている。
その中心にあるのは、一人の男について集められたものだった。
林道景継。
男は一枚ずつ手に取り、その歩みを追っていく。
北ノ庄。
小牧、長久手。
毛利。
四国。
戦の規模も、敵も、景継が置かれていた立場も、それぞれ違う。
それでも男は、結果だけを見ているわけではなかった。
何を選んだのか。
どこで動き、どこで動かなかったのか。
敵を追い詰めた時、どこまで追ったのか。
戦が終わった後、何を残したのか。
その一つ一つを辿っていた。
中でも、小牧と長久手だけは他とは違う。
紙の上で知った出来事ではない。
あの時、自分もそこにいた。
同じ戦場で、林道景継という男が何を考え、どう兵を動かすのかを、自らの目で見ている。
その時には、まだここまで強く感じてはいなかった。
だが、北ノ庄から始まり、小牧・長久手を経て、毛利、四国と景継の選択を重ねて見るほど、胸の奥にある違和感は大きくなっていた。
男の指が、一枚の書状の上で止まる。
「……やはり、似ている」
誰に聞かせるでもなく、言葉が漏れた。
誰に似ているのか。
男はその名を口にはしなかった。
目を閉じる。
その瞬間、脳裏に浮かんだのは日本の景色ではなかった。
乾いた大地。
遠くまで続く陣。
風に揺れる、見慣れぬ旗。
地平の向こうまで連なる兵。
そして、その向こう側にいる誰か。
顔は見えない。
それでも、不思議なほどよく知っているような気がした。
あと少し。
あと少しで何かを思い出せそうになる。
だが、そこまでだった。
景色は霧が晴れるように消え、男はゆっくりと目を開けた。
目の前には、いつもの部屋がある。
秋の風が障子をわずかに揺らしていた。
「……」
夢なのか。
記憶なのか。
それとも、自分が勝手に作り上げたものなのか。
以前なら、そう考えて終わらせていた。
だが、今は違う。
何度も見る。
少しずつ繋がる。
そして林道景継という男の歩みを追えば追うほど、自分の中にあるものまで形を持ち始めている。
男は再び書状へ視線を落とした。
戦場での勝ち方だけではない。
進むべき時に進み、退くべき時には退く。
相手の動きを読みながら、自らは容易に手の内を見せない。
そして必要ならば、勝つために待つことさえ選ぶ。
そこに引っかかるものがある。
懐かしいという言葉では足りない。
むしろ、思い出したくないものまで一緒に掘り起こされていくような、奇妙な感覚だった。
男は机の上に置かれた紙へ目を落とした。
林道景継。
長い間、その名を見てきた。
小牧・長久手では、その姿を自ら見た。
だが、今は以前とは違う意味を持ち始めている。
男はしばらく考えた後、その紙を伏せた。
「いや……」
まだ早い。
似ているだけかもしれない。
自分の中にあるものすら、すべて理解できているわけではない。
まして、相手まで同じだと決めつけるには材料が足りなかった。
「まだ、決めつけるには早いか」
男は立ち上がり、障子の向こうへ目を向けた。
九州では島津が動き、西国では林道景継がその九州を見ている。
そして東では。
まだ誰も、大きく動いてはいない。
少なくとも、表向きは。
男は再び机へ視線を戻した。
伏せられた紙の下には、林道景継の名がある。
その名の奥にあるものを確かめる時が来るのは、まだ先。
だが、その時は確実に近づいていた。




