↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『乱世にて、我は待つ』~知略を秘めた軍師は、やがて天下を動かす~  作者: ダイヤマ
第十二章 命運交錯編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
260/284

第二百六十話 茶々の子



天正十四年(1586年)十月――。


九州へ向けた準備が、少しずつ形になり始めていた。


石田三成は瀬戸内を行き交う船と兵糧の流れを調べ、小西行長も商人や船を持つ者たちとの繋がりを使い始めている。仙石秀久は、まだ出陣が決まったわけでもないというのに、すでに自ら率いる兵のことを考えているらしい。


官兵衛から届く九州の報告も途切れない。


島津の勢力は依然として拡大を続けており、林道家が準備を進めている間にも、西の情勢は少しずつ変わっていた。


だからこそ、急がなければならない。


だが、急ぐからといって準備を疎かにするわけにもいかない。


景継はその日も、朝から九州に関する書状へ目を通していた。


「殿」


声をかけてきた弥兵衛へ、景継は顔を上げずに答える。


「どうしました?」


返事がない。


不審に思って顔を上げると、弥兵衛が妙な顔でこちらを見ていた。


「何です?」


「茶々様が」


その名を聞いた瞬間、景継の手が止まった。


「茶々が?」


「産気づかれたそうです」


景継は立ち上がった。


あまりにも勢いがよく、膝が机へ当たり、積まれていた書状が何枚か畳へ落ちる。


弥兵衛がそれを見下ろした。


「殿」


「拾っておいてください」


「某が?」


「お願いします」


「……承知しました」


景継はもう部屋を出ていた。


弥兵衛は散らばった書状を拾いながら、遠ざかっていく足音を聞く。


「戦の報せでも、あそこまで慌てぬのだがな」


◇ ◇ ◇


茶々の部屋の近くまで来ると、屋敷の空気が普段とは明らかに違っていた。


侍女たちが慌ただしく行き来し、湯や布が次々と運び込まれている。


景継が中へ入ろうとすると、侍女に止められた。


「殿、こちらでお待ちください」


「茶々は?」


「産婆がついております」


「具合は?」


「今のところ問題ございません」


それでも景継は部屋の方を見る。


当然ながら、何も見えない。


「どれくらいかかります?」


「それは……」


侍女が困った。


「分かりません」


「そうですか」


景継は座った。


だが、すぐに立ち上がった。


廊下を少し歩き、また戻ってくる。


「景継様」


声に振り返ると、楓がいた。


「楓」


懐妊が判明してからひと月ほど。


まだ外から見て大きな変化はないが、景継は以前よりも楓の身体を気にするようになっている。


「ここまで来て大丈夫なのですか?」


楓は呆れたように景継を見る。


「歩いてきただけですよ」


「ですが――」


「私は病人ではありません」


ぴしゃりと言われ、景継は口を閉じた。


楓は景継の隣へ座る。


「茶々殿は?」


「まだです」


「そうですか」


楓はそれだけ言うと、静かに待った。


対して景継は、しばらくするとまた部屋の方へ目を向ける。


「万代丸の時も、私はこんな感じでしたか?」


「もう少し落ち着いていたような気がします」


「本当ですか?」


「……いえ」


楓が少し考え直す。


「同じくらいでした」


「やはり」


「安心した顔をしないでください」


景継は小さく息を吐いた。


戦であれば、自分にできることがある。


敵の動きを読み、兵を動かし、罠を張り、退路を作る。


だが今は何もできない。


待つしかないという状況には慣れているはずなのに、こういう待ち時間だけは何度経験しても落ち着かなかった。


やがて部屋の中から茶々の声が聞こえた。


景継の背筋が伸びる。


苦しそうな声だった。


思わず立ち上がろうとした景継の袖を、楓が掴んだ。


「景継様」


「……分かっています」


「でしたら座っていてください」


「はい」


素直に座る。


少しして、楓がぽつりと言った。


「茶々殿も怖いでしょうね」


景継は横を見る。


楓は部屋の方を見つめていた。


「以前、少し話したことがあります。嬉しいけれど、怖くないと言えば嘘になると」


「……そうですか」


「初めてですから」


楓は自分の腹へ手を置いた。


「私も万代丸の時は怖かったですよ」


景継は何も言えなかった。


あの時も自分は近くにいた。


それでも、楓がどれほどの恐怖を抱えていたのかを、本当の意味では分かっていなかったのかもしれない。


「私には、何もできませんね」


「できますよ」


楓が言う。


「待っていてください」


景継は少しだけ目を見開いた。


「それだけですか?」


「それが大事なのです」


楓は穏やかに笑った。


「茶々殿が出てきた時、景継様がそこにいればよいのです」


景継はその言葉を聞き、今度こそ腰を据えた。


◇ ◇ ◇


時が過ぎていく。


昼を過ぎても、まだ終わらない。


何度か家臣が景継を呼びに来た。


九州から報告が届いた。


三成が確認したいことがある。


官兵衛から使者が来ている。


景継は必要なものだけその場で聞き、急ぎでないものは後へ回した。


普段なら自ら確認するようなことでも、今日は動かなかった。


夕刻が近づいた頃だった。


部屋の中から、それまでとは違う声が聞こえた。


赤子の泣き声。


しかも、思っていたよりずっと力強い。


景継が顔を上げる。


楓も同時に立ち上がった。


小さな身体のどこからこれほどの声が出るのかと思うほど、その泣き声は屋敷の中へ響いていた。


「……生まれた?」


景継が呟く。


楓の表情が緩んだ。


「ええ」


障子が開き、産婆が姿を見せた。その顔には安堵と笑みが浮かんでいる。


「殿、おめでとうございます」


景継はすぐに立ち上がった。


「茶々は?」


最初に出たのは、その言葉だった。


「御無事にございます。お疲れではございますが、御身体にも今のところ問題はございません」


景継の肩から、目に見えて力が抜けた。


だが、すぐにもう一つのことが気にかかる。


「子は?」


産婆の笑みがさらに深くなった。


「元気な姫君にございます。よく泣き、手足もしっかりと動かしておられます」


その言葉を聞いて、景継はようやく息を吐いた。


母も無事。


子も無事。


それを確かめて初めて、胸の奥に張りつめていたものがほどけていく。


「……そうですか。元気な女の子ですか」


景継は一度目を閉じ、噛みしめるように呟いた。


娘。


その言葉が、ゆっくりと胸へ落ちてくる。


「会えますか?」


「少々お待ちくださいませ」


「分かりました」


そう答えたものの、景継はまた落ち着かなくなった。


楓が隣で笑う。


「もう少しですよ」


「分かっています」


先ほどから、そればかり言っている気がした。


◇ ◇ ◇


しばらくして、景継は茶々のもとへ通された。


茶々は布団に横になっていた。


疲れ切った顔をしている。


髪も乱れ、いつもの気の強さは影を潜めていたが、景継を見ると小さく笑った。


「……遅いです」


景継は一瞬、言葉に詰まった。


「入れてもらえなかったのです」


「知っています」


「では、なぜ言うのです?」


「言いたかっただけです」


その返しに、景継もようやく笑った。


「身体は?」


「疲れました」


「それだけですか?」


「今は、それだけです」


茶々が目を細める。


「景継様」


「はい」


「また心配しすぎています」


景継は口を閉じた。


茶々の傍らには、小さな赤子が寝かされていた。


先ほどまであれほど大きな声で泣いていたというのに、今はすっかり静かになり、小さな胸だけが規則正しく上下している。


景継はそこで初めて、ゆっくりと娘を見る。


小さい。


万代丸が生まれた時にも同じことを思ったが、記憶にある以上に小さく感じた。


「抱かれますか?」


茶々が尋ねる。


「よいのですか?」


「父親でしょう」


侍女に教えられながら、景継は娘を腕へ抱いた。


一度経験しているはずなのに、身体に力が入る。


首を支え、落とさないように腕を回す。


「景継様、硬いです」


「分かっています」


「赤子より緊張していませんか?」


「……しているかもしれません」


茶々が疲れた顔のまま笑った。


景継は腕の中の娘を見る。


目を閉じている。


自分が誰なのかなど、当然知らない。


林道家が何なのかも、織田も、徳川も、島津も知らない。


天下がどう動いているかなど、この子には何の関係もない。


それでいい。


「茶々」


「はい」


「ありがとうございます」


茶々の目がわずかに大きくなった。


「無事に生んでくれて」


しばらく返事はなかった。


やがて茶々が顔を横へ向ける。


「……そういうことを急に言わないでください」


「なぜです?」


「今は疲れているのです」


声が少しだけ震えていた。


景継はそれ以上聞かなかった。


腕の中で、娘が小さく身じろぎする。握られた小さな手が開き、またゆっくりと閉じた。


景継はその手を見つめていたが、やがて思い出したように口を開いた。


「名前なのですが……一つ、考えていたものがあります」


茶々が景継を見る。


「もう考えていたのですか?」


「ええ。男の子か女の子か分からなかったので、どちらも考えていました」


「では、女の子なら?」


景継は腕の中の娘へ目を落とした。


「凛――というのは、どうでしょう」


「凛……」


茶々が確かめるように口にする。


しばらく娘の顔を眺めてから、もう一度その名を呼んだ。


「凛」


今度は先ほどより柔らかな声だった。


「私は好きです」


景継の表情がわずかに緩む。


「そうですか」


「ですが、どうして凛なのです?」


景継は娘の小さな手へ目を向けた。


「この子がどのような人生を選ぶのかは、私たちにも分かりません。ただ、誰かに言われたからではなく、自分で考え、自分で選び、その選んだ道にきちんと立てる人になってほしいと思いました」


茶々は黙って聞いていた。


「強くあれ、と押しつけたいわけではありません。ですが、何かを選ばなければならない時、自分まで見失うような人にはなってほしくない。そういう願いを込めるなら――凛という名がよいかと」


茶々の視線が、景継から娘へ移った。


「……景継様らしいですね」


「そうでしょうか?」


「ええ。生まれたばかりの子に、もう自分で考えろと言っています」


景継は言葉に詰まった。


「そういう意味では……」


「分かっています」


茶々が笑った。


そして娘へ手を伸ばし、小さな頬へそっと触れる。


「凛」


その名を呼ぶ声には、今度は迷いがなかった。


「よい名です。この子は、凛にしましょう」


景継も娘を見つめる。


「凛」


初めて父と母から名を呼ばれた娘は、眠ったままだった。


「これからよろしくお願いします」


茶々が吹き出した。


「赤子に何を言っているのです?」


「最初の挨拶です」


「返事はありませんよ」


「いつかしてくれるでしょう」


景継はそう言って、もう一度娘を見つめた。


林道凛。


景継にとって、二人目の子だった。


◇ ◇ ◇


その日の夜。


楓に連れられ、万代丸も凛と対面した。


眠そうな顔をしていた万代丸だったが、見慣れない小さな存在を見つけると、目を丸くした。


「万代丸」


景継が息子を抱き上げる。


「妹の凛ですよ」


「……り?」


まだ上手く言えない。


だが、その一音だけで茶々の表情が明るくなった。


「そうです。凛です」


万代丸は凛の顔をじっと見つめている。


少しして手を伸ばしたため、景継は慌ててその手を支えた。


「優しくですよ」


「まだ分かりませんよ」


楓が笑う。


万代丸はもう一度妹へ手を伸ばし、今度は頬へ触れる寸前で止まった。


その時、凛が小さく声を上げる。


万代丸が驚き、景継の胸へ身体を寄せた。


部屋に笑いが広がった。


「兄上への道は遠そうですね」


茶々が言う。


「まだ一歳ですから」


楓が答える。


「これからですよ」


景継は腕の中の万代丸を見た。


その向こうには、生まれたばかりの凛。


そして楓の身体には、さらにもう一つの命が宿っている。


ほんの数年前には存在しなかった家族が、少しずつ増えている。


守るものが増えるということは、弱みが増えることなのかもしれない。


前世の自分なら、そう考えたこともあっただろう。


だが今は違った。


守りたいものがあるからこそ、終わらせなければならない戦もある。


景継は凛へ視線を移した。


この子たちが、自分と同じように乱世を生きなければならないのか。


それとも、自分たちの代で少しでも違う世へ近づけられるのか。


答えはまだない。


それでも、やるべきことは変わらなかった。


◇ ◇ ◇


翌朝。


景継は再び九州の地図の前に座っていた。


昨夜までとは、何も変わっていない。


島津は動いている。


官兵衛は戦の形を組み立て、三成と行長は海を越える道を整え始めている。仙石秀久も、いつ声がかかっても動けるよう準備を進めていた。


机の上には、東国から届いた報告も置かれている。


西だけを見るな。


一益の言葉も忘れてはいない。


それでも今、最も大きく燃え始めているのは九州だった。


そこへ弥兵衛が入ってくる。


「殿」


「何です?」


「今日は随分と落ち着いておられますな」


景継は怪訝そうに見る。


「いつも落ち着いているでしょう」


「昨日とは大違いです」


「昨日のことは忘れてください」


「机にぶつかって書状を撒き散らしたことも?」


景継の手が止まった。


「……誰から聞きました?」


「某が拾いました」


景継は黙った。


弥兵衛が笑う。


「凛様の御誕生、おめでとうございます」


景継の表情がわずかに緩んだ。


「ありがとうございます」


弥兵衛は一礼すると、仕事へ戻っていく。


景継も再び書状へ目を落とした。


凛が生まれたからといって、天下は待ってくれない。


九州へ渡るための準備。


その先に待つ戦。


そして、さらに東で続く静けさ。


これから自分が進む道の先に何が待っているのか、景継にもまだ分からない。


ただ一つだけ確かなことがある。


林道景継には、この乱世の先へ連れていきたい者が、また一人増えた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。