第二百六十話 茶々の子
天正十四年(1586年)十月――。
九州へ向けた準備が、少しずつ形になり始めていた。
石田三成は瀬戸内を行き交う船と兵糧の流れを調べ、小西行長も商人や船を持つ者たちとの繋がりを使い始めている。仙石秀久は、まだ出陣が決まったわけでもないというのに、すでに自ら率いる兵のことを考えているらしい。
官兵衛から届く九州の報告も途切れない。
島津の勢力は依然として拡大を続けており、林道家が準備を進めている間にも、西の情勢は少しずつ変わっていた。
だからこそ、急がなければならない。
だが、急ぐからといって準備を疎かにするわけにもいかない。
景継はその日も、朝から九州に関する書状へ目を通していた。
「殿」
声をかけてきた弥兵衛へ、景継は顔を上げずに答える。
「どうしました?」
返事がない。
不審に思って顔を上げると、弥兵衛が妙な顔でこちらを見ていた。
「何です?」
「茶々様が」
その名を聞いた瞬間、景継の手が止まった。
「茶々が?」
「産気づかれたそうです」
景継は立ち上がった。
あまりにも勢いがよく、膝が机へ当たり、積まれていた書状が何枚か畳へ落ちる。
弥兵衛がそれを見下ろした。
「殿」
「拾っておいてください」
「某が?」
「お願いします」
「……承知しました」
景継はもう部屋を出ていた。
弥兵衛は散らばった書状を拾いながら、遠ざかっていく足音を聞く。
「戦の報せでも、あそこまで慌てぬのだがな」
◇ ◇ ◇
茶々の部屋の近くまで来ると、屋敷の空気が普段とは明らかに違っていた。
侍女たちが慌ただしく行き来し、湯や布が次々と運び込まれている。
景継が中へ入ろうとすると、侍女に止められた。
「殿、こちらでお待ちください」
「茶々は?」
「産婆がついております」
「具合は?」
「今のところ問題ございません」
それでも景継は部屋の方を見る。
当然ながら、何も見えない。
「どれくらいかかります?」
「それは……」
侍女が困った。
「分かりません」
「そうですか」
景継は座った。
だが、すぐに立ち上がった。
廊下を少し歩き、また戻ってくる。
「景継様」
声に振り返ると、楓がいた。
「楓」
懐妊が判明してからひと月ほど。
まだ外から見て大きな変化はないが、景継は以前よりも楓の身体を気にするようになっている。
「ここまで来て大丈夫なのですか?」
楓は呆れたように景継を見る。
「歩いてきただけですよ」
「ですが――」
「私は病人ではありません」
ぴしゃりと言われ、景継は口を閉じた。
楓は景継の隣へ座る。
「茶々殿は?」
「まだです」
「そうですか」
楓はそれだけ言うと、静かに待った。
対して景継は、しばらくするとまた部屋の方へ目を向ける。
「万代丸の時も、私はこんな感じでしたか?」
「もう少し落ち着いていたような気がします」
「本当ですか?」
「……いえ」
楓が少し考え直す。
「同じくらいでした」
「やはり」
「安心した顔をしないでください」
景継は小さく息を吐いた。
戦であれば、自分にできることがある。
敵の動きを読み、兵を動かし、罠を張り、退路を作る。
だが今は何もできない。
待つしかないという状況には慣れているはずなのに、こういう待ち時間だけは何度経験しても落ち着かなかった。
やがて部屋の中から茶々の声が聞こえた。
景継の背筋が伸びる。
苦しそうな声だった。
思わず立ち上がろうとした景継の袖を、楓が掴んだ。
「景継様」
「……分かっています」
「でしたら座っていてください」
「はい」
素直に座る。
少しして、楓がぽつりと言った。
「茶々殿も怖いでしょうね」
景継は横を見る。
楓は部屋の方を見つめていた。
「以前、少し話したことがあります。嬉しいけれど、怖くないと言えば嘘になると」
「……そうですか」
「初めてですから」
楓は自分の腹へ手を置いた。
「私も万代丸の時は怖かったですよ」
景継は何も言えなかった。
あの時も自分は近くにいた。
それでも、楓がどれほどの恐怖を抱えていたのかを、本当の意味では分かっていなかったのかもしれない。
「私には、何もできませんね」
「できますよ」
楓が言う。
「待っていてください」
景継は少しだけ目を見開いた。
「それだけですか?」
「それが大事なのです」
楓は穏やかに笑った。
「茶々殿が出てきた時、景継様がそこにいればよいのです」
景継はその言葉を聞き、今度こそ腰を据えた。
◇ ◇ ◇
時が過ぎていく。
昼を過ぎても、まだ終わらない。
何度か家臣が景継を呼びに来た。
九州から報告が届いた。
三成が確認したいことがある。
官兵衛から使者が来ている。
景継は必要なものだけその場で聞き、急ぎでないものは後へ回した。
普段なら自ら確認するようなことでも、今日は動かなかった。
夕刻が近づいた頃だった。
部屋の中から、それまでとは違う声が聞こえた。
赤子の泣き声。
しかも、思っていたよりずっと力強い。
景継が顔を上げる。
楓も同時に立ち上がった。
小さな身体のどこからこれほどの声が出るのかと思うほど、その泣き声は屋敷の中へ響いていた。
「……生まれた?」
景継が呟く。
楓の表情が緩んだ。
「ええ」
障子が開き、産婆が姿を見せた。その顔には安堵と笑みが浮かんでいる。
「殿、おめでとうございます」
景継はすぐに立ち上がった。
「茶々は?」
最初に出たのは、その言葉だった。
「御無事にございます。お疲れではございますが、御身体にも今のところ問題はございません」
景継の肩から、目に見えて力が抜けた。
だが、すぐにもう一つのことが気にかかる。
「子は?」
産婆の笑みがさらに深くなった。
「元気な姫君にございます。よく泣き、手足もしっかりと動かしておられます」
その言葉を聞いて、景継はようやく息を吐いた。
母も無事。
子も無事。
それを確かめて初めて、胸の奥に張りつめていたものがほどけていく。
「……そうですか。元気な女の子ですか」
景継は一度目を閉じ、噛みしめるように呟いた。
娘。
その言葉が、ゆっくりと胸へ落ちてくる。
「会えますか?」
「少々お待ちくださいませ」
「分かりました」
そう答えたものの、景継はまた落ち着かなくなった。
楓が隣で笑う。
「もう少しですよ」
「分かっています」
先ほどから、そればかり言っている気がした。
◇ ◇ ◇
しばらくして、景継は茶々のもとへ通された。
茶々は布団に横になっていた。
疲れ切った顔をしている。
髪も乱れ、いつもの気の強さは影を潜めていたが、景継を見ると小さく笑った。
「……遅いです」
景継は一瞬、言葉に詰まった。
「入れてもらえなかったのです」
「知っています」
「では、なぜ言うのです?」
「言いたかっただけです」
その返しに、景継もようやく笑った。
「身体は?」
「疲れました」
「それだけですか?」
「今は、それだけです」
茶々が目を細める。
「景継様」
「はい」
「また心配しすぎています」
景継は口を閉じた。
茶々の傍らには、小さな赤子が寝かされていた。
先ほどまであれほど大きな声で泣いていたというのに、今はすっかり静かになり、小さな胸だけが規則正しく上下している。
景継はそこで初めて、ゆっくりと娘を見る。
小さい。
万代丸が生まれた時にも同じことを思ったが、記憶にある以上に小さく感じた。
「抱かれますか?」
茶々が尋ねる。
「よいのですか?」
「父親でしょう」
侍女に教えられながら、景継は娘を腕へ抱いた。
一度経験しているはずなのに、身体に力が入る。
首を支え、落とさないように腕を回す。
「景継様、硬いです」
「分かっています」
「赤子より緊張していませんか?」
「……しているかもしれません」
茶々が疲れた顔のまま笑った。
景継は腕の中の娘を見る。
目を閉じている。
自分が誰なのかなど、当然知らない。
林道家が何なのかも、織田も、徳川も、島津も知らない。
天下がどう動いているかなど、この子には何の関係もない。
それでいい。
「茶々」
「はい」
「ありがとうございます」
茶々の目がわずかに大きくなった。
「無事に生んでくれて」
しばらく返事はなかった。
やがて茶々が顔を横へ向ける。
「……そういうことを急に言わないでください」
「なぜです?」
「今は疲れているのです」
声が少しだけ震えていた。
景継はそれ以上聞かなかった。
腕の中で、娘が小さく身じろぎする。握られた小さな手が開き、またゆっくりと閉じた。
景継はその手を見つめていたが、やがて思い出したように口を開いた。
「名前なのですが……一つ、考えていたものがあります」
茶々が景継を見る。
「もう考えていたのですか?」
「ええ。男の子か女の子か分からなかったので、どちらも考えていました」
「では、女の子なら?」
景継は腕の中の娘へ目を落とした。
「凛――というのは、どうでしょう」
「凛……」
茶々が確かめるように口にする。
しばらく娘の顔を眺めてから、もう一度その名を呼んだ。
「凛」
今度は先ほどより柔らかな声だった。
「私は好きです」
景継の表情がわずかに緩む。
「そうですか」
「ですが、どうして凛なのです?」
景継は娘の小さな手へ目を向けた。
「この子がどのような人生を選ぶのかは、私たちにも分かりません。ただ、誰かに言われたからではなく、自分で考え、自分で選び、その選んだ道にきちんと立てる人になってほしいと思いました」
茶々は黙って聞いていた。
「強くあれ、と押しつけたいわけではありません。ですが、何かを選ばなければならない時、自分まで見失うような人にはなってほしくない。そういう願いを込めるなら――凛という名がよいかと」
茶々の視線が、景継から娘へ移った。
「……景継様らしいですね」
「そうでしょうか?」
「ええ。生まれたばかりの子に、もう自分で考えろと言っています」
景継は言葉に詰まった。
「そういう意味では……」
「分かっています」
茶々が笑った。
そして娘へ手を伸ばし、小さな頬へそっと触れる。
「凛」
その名を呼ぶ声には、今度は迷いがなかった。
「よい名です。この子は、凛にしましょう」
景継も娘を見つめる。
「凛」
初めて父と母から名を呼ばれた娘は、眠ったままだった。
「これからよろしくお願いします」
茶々が吹き出した。
「赤子に何を言っているのです?」
「最初の挨拶です」
「返事はありませんよ」
「いつかしてくれるでしょう」
景継はそう言って、もう一度娘を見つめた。
林道凛。
景継にとって、二人目の子だった。
◇ ◇ ◇
その日の夜。
楓に連れられ、万代丸も凛と対面した。
眠そうな顔をしていた万代丸だったが、見慣れない小さな存在を見つけると、目を丸くした。
「万代丸」
景継が息子を抱き上げる。
「妹の凛ですよ」
「……り?」
まだ上手く言えない。
だが、その一音だけで茶々の表情が明るくなった。
「そうです。凛です」
万代丸は凛の顔をじっと見つめている。
少しして手を伸ばしたため、景継は慌ててその手を支えた。
「優しくですよ」
「まだ分かりませんよ」
楓が笑う。
万代丸はもう一度妹へ手を伸ばし、今度は頬へ触れる寸前で止まった。
その時、凛が小さく声を上げる。
万代丸が驚き、景継の胸へ身体を寄せた。
部屋に笑いが広がった。
「兄上への道は遠そうですね」
茶々が言う。
「まだ一歳ですから」
楓が答える。
「これからですよ」
景継は腕の中の万代丸を見た。
その向こうには、生まれたばかりの凛。
そして楓の身体には、さらにもう一つの命が宿っている。
ほんの数年前には存在しなかった家族が、少しずつ増えている。
守るものが増えるということは、弱みが増えることなのかもしれない。
前世の自分なら、そう考えたこともあっただろう。
だが今は違った。
守りたいものがあるからこそ、終わらせなければならない戦もある。
景継は凛へ視線を移した。
この子たちが、自分と同じように乱世を生きなければならないのか。
それとも、自分たちの代で少しでも違う世へ近づけられるのか。
答えはまだない。
それでも、やるべきことは変わらなかった。
◇ ◇ ◇
翌朝。
景継は再び九州の地図の前に座っていた。
昨夜までとは、何も変わっていない。
島津は動いている。
官兵衛は戦の形を組み立て、三成と行長は海を越える道を整え始めている。仙石秀久も、いつ声がかかっても動けるよう準備を進めていた。
机の上には、東国から届いた報告も置かれている。
西だけを見るな。
一益の言葉も忘れてはいない。
それでも今、最も大きく燃え始めているのは九州だった。
そこへ弥兵衛が入ってくる。
「殿」
「何です?」
「今日は随分と落ち着いておられますな」
景継は怪訝そうに見る。
「いつも落ち着いているでしょう」
「昨日とは大違いです」
「昨日のことは忘れてください」
「机にぶつかって書状を撒き散らしたことも?」
景継の手が止まった。
「……誰から聞きました?」
「某が拾いました」
景継は黙った。
弥兵衛が笑う。
「凛様の御誕生、おめでとうございます」
景継の表情がわずかに緩んだ。
「ありがとうございます」
弥兵衛は一礼すると、仕事へ戻っていく。
景継も再び書状へ目を落とした。
凛が生まれたからといって、天下は待ってくれない。
九州へ渡るための準備。
その先に待つ戦。
そして、さらに東で続く静けさ。
これから自分が進む道の先に何が待っているのか、景継にもまだ分からない。
ただ一つだけ確かなことがある。
林道景継には、この乱世の先へ連れていきたい者が、また一人増えた。




