第二百五十九話 九州への道
天正十四年(1586年)九月下旬
楓の懐妊が分かってから十日ほどが過ぎた。
林道家にとって喜ばしい出来事ではあったが、それで天下の動きが止まるわけではない。
景継のもとへ届く九州からの報告は、日を追うごとに増えていた。
島津の勢力拡大、それに備える諸勢力の動き、各地の港を出入りする船の数、兵糧となる米の流れ。戦場から離れた場所でも変化は起きており、九州で続く争いが西国全体へ影響を及ぼし始めていることは明らかだった。
その日、景継は官兵衛、石田三成、大谷吉継を呼び、九州について話し合うことにした。
部屋に広げられた地図には九州だけではなく、中国、四国、そして瀬戸内に点在する港まで記されている。
最初に口を開いたのは三成だった。
「兵そのものは集められます。清正殿、正則殿をはじめ、前へ出られる将もおります。必要となれば、さらに兵を増やすこともできましょう」
三成は地図の上へいくつかの駒を置く。
「ですが、問題は集めた後です。一万の兵を揃えることより、一万の兵を九州で戦わせ続ける方が難しい」
景継は黙って続きを促した。
「兵は毎日米を食います。馬にも餌が要る。矢も減り、武具も壊れる。負傷者が出れば後方へ戻さねばならず、戦が長引けば薬や衣類まで必要になる。それを海の向こうへ絶えず送り続けなければなりません」
そこで官兵衛が地図の一角を指した。
「しかも、その道が一つでは危うい」
三成が官兵衛を見る。
「船ですか」
「ええ。予定していた船が来ないこともあれば、海が荒れることもある。港を敵に押さえられることもありましょう。戦というものは、こちらの都合に合わせてはくれませぬ」
官兵衛の指が瀬戸内から九州へ向かって動く。
「九州へ渡った後で兵糧が届かぬとなれば、戦う前に負けます」
三成はすぐに地図へ視線を戻した。
「ならば兵糧を集める場所も分けます。船も一か所へ集めすぎない方がいい。主となる経路とは別に、最低でも二つは予備を作っておきたい」
「仕事が早いですな」
官兵衛が笑う。
「必要になると分かったなら、用意するだけです」
「三成殿らしい」
「官兵衛殿に褒められている気がしません」
二人のやり取りを聞いていた吉継が、地図の九州ではなく畿内へ目を向けた。
「もう一つ、決めておく必要があります」
景継が尋ねる。
「何でしょう?」
「どれほど九州へ連れていき、どれほど残すのかです」
部屋の空気がわずかに変わった。
吉継は言葉を続ける。
「四国はようやく落ち着いたばかり。毛利も今は約定を守っています。しかし殿が九州へ向かわれれば、その間に何が起きるかは分かりません。そして東には徳川と北条がいる」
景継の脳裏に、一益が残した言葉が蘇った。
――西ばかり見ていると、東を見失うぞ。
「全軍を西へ傾けるわけにはいかない、ということですね」
「はい。九州で勝つために畿内を空にしては意味がありません」
官兵衛も頷く。
「吉継殿の言う通りです。九州へ渡る軍と、こちらへ残す軍。その線引きは出陣前に決めておくべきでしょうな」
景継は地図全体を眺めた。
これまで以上に、本拠地から遠く離れて戦うことになる。
目の前の敵だけを見ていればよい戦ではなかった。
「九州へ渡る前から、随分と考えることがありますね」
景継の言葉に、官兵衛が笑みを浮かべた。
「当然でしょう」
「嬉しそうですね」
「面白いではありませぬか」
官兵衛は地図へ身を乗り出した。
「九州へ上陸してから九州平定が始まると思っていては遅い。どの港から入り、どこへ米を置き、どこで船を待たせ、傷ついた兵をどこへ戻すのか。敵と槍を交える前に、すでに勝負は始まっております」
その言葉を聞き、景継は以前の会話を思い出した。
「官兵衛殿」
「はい」
「最初の一戦の話、覚えていますか?」
官兵衛の口元が上がった。
「もちろん」
「圧勝する、と言いましたね」
「言いましたな」
迷いはなかった。
「その考えは変わっておりませぬ」
三成が二人を見る。
「そこまで最初の戦に拘るのですか?」
「拘ります」
官兵衛は即答した。
「我らと直接戦わぬ者まで、最初の結果を聞くからです。林道勢が苦戦したと伝われば、抗えば何とかなると考える者が出る。逆に、まともに抗うことすらできず敵が崩れたとなれば――」
吉継が静かに続けた。
「戦う前に態度を変える者も出る」
「そういうことです」
官兵衛は九州の地図へ指を置いた。
「だから最初の相手を誤ってはならぬ。強すぎればこちらも傷つく。弱すぎれば勝って当然と思われる。叩いた時、その音が九州全体へ響く相手を選ぶ必要があります」
景継は何も言わず、その指先を見つめた。
まだ相手を決める段階ではない。
だが、官兵衛の中ではすでに最初の戦から先まで、一つの流れとして組み上げられ始めている。
「そのためにも船が必要です」
三成が話を戻した。
「兵糧を積むだけではありません。軍勢を渡し、馬を運び、負傷者を戻す。港同士を繋ぐ者も必要になる」
三成はそこで一度言葉を切った。
「一人、会っていただきたい者がおります」
「誰です?」
「小西行長という男です」
景継には馴染みの薄い名だった。
三成はそれを察したのか、すぐに説明を加える。
「商いと海運に通じ、商人との繋がりもある男です。戦場で槍を振るうだけなら、他に適した者はいくらでもおります。しかし九州へ渡るのであれば、あの男の知識は役に立つかと」
官兵衛が興味深そうに三成を見る。
「随分と買っておりますな」
「使えると思っているだけです」
「それを買っていると言うのでは?」
「言葉の問題です」
景継は二人を見ながら小さく笑った。
「分かりました。一度会いましょう」
◇ ◇ ◇
翌日。
三成は早くも、その男を景継の前へ連れてきた。
小西行長。
景継が最初に受けた印象は、武辺者らしくない男だった。
身体つきも、立ち居振る舞いも、清正や正則とはまるで違う。だが景継の前へ座った行長に、気後れした様子はなかった。
官兵衛と吉継も同席している。
「小西行長です」
三成が紹介する。
行長は深く頭を下げた。
「お目通りいただき、ありがとうございます」
「三成殿から聞きました。海と商いに詳しいそうですね」
「詳しい、というより、それで生きてきただけにございます」
景継は少し興味を持った。
「九州へ大軍を送るとすれば、何が一番必要だと思います?」
行長はすぐには答えなかった。
地図へ目を向け、しばらく考えてから口を開く。
「信用でしょうか」
三成がわずかに眉を動かした。
景継も予想していなかった答えだった。
「信用?」
「はい。船を持つ者、米を売る者、荷を運ぶ者。彼らが明日も林道家と商いをしてよいと思わなければ、いくら銭を積んでも長くは続きません」
行長は地図の港を指した。
「軍勢が通れば、港には負担がかかります。船を出せと言い、米を出せと言い、人を出せと言う。それを命令だけで続ければ、最初は従っても、やがて荷が集まらなくなる」
官兵衛が面白そうに尋ねた。
「では、どうする?」
「儲けさせます」
行長は平然と答えた。
三成が横から行長を見る。
景継は思わず聞き返した。
「商人を?」
「はい」
「戦なのですよ?」
「戦だからです」
行長は表情を変えない。
「命を懸けるのは武士だけではありません。船を出す者も、荷を運ぶ者も、敵に襲われれば死ぬ。危険を負わせるのであれば、それに見合うものを与える。その方が次の船も来ます」
官兵衛の笑みが深くなった。
「なるほど」
三成も頷く。
「だから呼びました」
景継は行長を見た。
戦場で何人斬れるかではない。
だが、こういう者がいなければ大軍は動かない。
「行長殿」
「はい」
「九州へ渡る準備に加わってください」
行長は静かに頭を下げた。
「承知いたしました」
その時だった。
廊下の向こうが妙に騒がしくなった。
景継が顔を上げる。
何やら家臣と言い争う声が聞こえる。
「何でしょう?」
吉継が障子へ目を向けた直後だった。
「殿!」
外から声が響いた。
「仙石秀久殿が参られております!」
三成が怪訝そうな顔をする。
「仙石殿?」
「約束がありましたか?」
景継が尋ねる。
「いえ。少なくとも私は聞いておりません」
外から再び声がした。
「九州のことで殿に直接話があると――」
官兵衛が景継を見る。
「随分と耳の早い御仁ですな」
景継は少し考えた後、苦笑した。
「ここまで来たのです。通してください」
◇ ◇ ◇
ほどなくして、仙石秀久が部屋へ入ってきた。
先ほどの行長とは、空気からして違っていた。
座るなり頭を下げたものの、その目はすでに景継を真っ直ぐ見ている。
「突然押しかけた無礼、申し訳ございませぬ」
「本当に突然ですね」
景継が返すと、秀久はわずかに笑った。
「申し訳ございませぬ」
反省しているのかどうか、景継には分からなかった。
「それで、九州について話があるとか」
「はい」
秀久は即座に答えた。
「九州へ兵を出されるのでしょう」
「まだ決めていません」
「ですが、出すおつもりはある」
「随分と決めつけますね」
「なければ、これほど船や兵糧について調べますまい」
三成が小さく息を吐いた。
どうやら準備の動きから嗅ぎつけたらしい。
秀久は続けた。
「その時は、某をお連れくだされ」
景継は秀久を見つめた。
「理由を聞いても?」
「戦があるからです」
あまりにも迷いのない返答だった。
隣で行長が秀久を見る。
「それだけですか?」
秀久も初めて行長へ視線を向けた。
「武士が戦場を求めるのに、他に理由が要るか?」
「私は要ると思いますが」
「商人ならそうであろうな」
「武士でも考えた方がよろしいかと」
初対面とは思えないほど、二人の間に妙な空気が生まれた。
三成が額へ手を当てる。
官兵衛だけが楽しそうだった。
「これはまた、随分と違う二人が揃いましたな」
景継は秀久へ視線を戻した。
「九州へ行けば、大きな戦になるでしょう。しかし、ただ前へ出ればよい戦ではありません」
「承知しております」
秀久の返答は早かった。
「本当に?」
景継は敢えて聞いた。
秀久はそこで初めて少し考えた。
「……某が前へ出ることで味方が崩れるなら、出ませぬ」
先ほどまでとは違う答えだった。
「ですが、勝てると見た時に前へ出ることを躊躇するつもりもございませぬ。そのために戦場へ行くのですから」
景継は黙って秀久を見る。
ただの猪武者ではない。
少なくとも、自分が何を求めているかは分かっている。
戦場で働く力もあるのだろう。
だが――。
自分が「勝てる」と判断した時、この男はどこまで周囲を待てるのか。
景継が気になったのは、そこだった。
「分かりました」
「では!」
「まだ九州へ行くとは決めていません」
勢いよく身を乗り出しかけた秀久が止まる。
景継は続けた。
「ですが、行くと決めた時には、秀久殿のことも考えましょう」
秀久はしばらく景継を見た後、笑った。
「その言葉、忘れませぬぞ」
「私より先に九州へ行かないでくださいね」
「それは……」
秀久が一瞬だけ言葉を濁した。
官兵衛がとうとう声を上げて笑った。
「殿。今の間は覚えておいた方がよろしいですぞ」
「私もそう思いました」
「いや、勝手には行きませぬ!」
秀久が慌てて否定する。
「たぶん」
行長が横から付け加えた。
「お主は黙っておれ」
部屋に笑いが広がった。
◇ ◇ ◇
行長と秀久が退出した後。
三成は疲れたように息を吐いた。
「なぜ一日にあれほど違う二人と話さねばならないのです」
吉継が笑う。
「どちらも九州では役に立つでしょう」
「それは分かっています」
官兵衛は二人が出ていった障子を見ながら、楽しそうに言った。
「行長殿は、兵が戦場へ着くまでの道を作れる。秀久殿は、着いた後に敵へ食らいつける」
景継が続ける。
「使う場所を間違えなければ、ですね」
官兵衛が景継を見る。
「秀久殿が気になりますか」
「悪い意味だけではありません」
景継は答えた。
「力はあるでしょう。前へ出る勇気もある。ただ、自分の判断に自信がある人です」
「殿にも覚えがあるのでは?」
「私はあそこまで前へ出ません」
「確かに」
官兵衛が笑う。
景継は再び地図へ目を落とした。
九州へ向けて、少しずつ人が集まり始めている。
清正。
正則。
三成。
吉継。
そして今日、新たに加わった行長と秀久。
だが、まだ足りない。
船を繋ぎ、兵糧を運び、戦場で敵を破る者は揃いつつある。
それでも、九州の各地に攻略の足場を築き、取った土地を次の戦へ繋げていく役目を担う者が必要になる。
景継はまだ、その人物の名を知らなかった。
その者が今はまだ、別の主君のもとにいることも。
◇ ◇ ◇
その日の夕刻。
九州方面から、新たな報告が届いた。
景継と官兵衛は並んで書状へ目を通す。
島津の圧力に耐えきれず、態度を変えようとしている勢力が出始めている。
まだ九州全体を揺るがすほどではない。
しかし、一つが崩れれば次が続く。
官兵衛は読み終えた書状を地図の横へ置いた。
「思ったより早いですな」
「ええ」
景継は九州を見つめた。
こちらが船を揃え、人を集め、兵糧を整えている間にも、向こうでは勢力図が変わっていく。
「時間は、こちらの都合では待ってくれませんね」
官兵衛は地図の端に置かれていた駒を一つ手に取り、九州の手前へ置いた。
「だからこそ、急いで渡ってはなりませぬ」
景継が官兵衛を見る。
「急いで負けるより――」
官兵衛の指が駒から離れた。
「勝てる形を急いで作るのです」
景継は静かに頷いた。
まだ林道軍は九州へ渡っていない。
最初に戦う相手すら決まっていない。
それでも、戦はすでに始まっている。
船を集めることも。
米を運ぶことも。
人を選ぶことも。
すべてが、やがて訪れる最初の一戦へ繋がっていく。
そしてその一戦で、官兵衛は言った。
ただ勝つだけでは足りない。
圧勝する。
その言葉が現実となる日は、少しずつ近づいていた。




