第二百五十八話 重なる慶び
天正十四年(1586年)九月中旬――。
滝川一益がこの世を去ってから、数日が過ぎた。
滝川家では一忠を中心とした新たな日々が、すでに始まっていた。一時と辰政もそれぞれの役目を担い、一益がいなくなったからといって家中が大きく乱れることもない。
景継も、必要以上に口を挟まなかった。
一益が最後まで望んでいたのは、自分の死後も滝川家が自らの足で歩いていくことだった。一忠たちが助けを求めてこない限り、まずは見守る。それが一益に対してできる最後の礼だと景継は考えていた。
そして林道家でも、止まっていた仕事が再び動き始めている。
四国から戻って間もなく一益の死を迎えたこともあり、景継のもとには西国各地から届いた書状が積み上がっていた。
その中でも増えているのが、九州からの報せである。
島津の動き、各地の諸勢力の対応、港を出入りする船の数、兵糧となる米の流れ。
官兵衛から届いた書状には戦そのものよりも、そうした情報が細かく記されていた。
景継は一通ずつ目を通していたが、途中で手を止めた。
――西ばかり見ていると、東を見失うぞ。
一益から言われた言葉が、今も耳に残っている。
あの時の一益が何か具体的な異変を掴んでいたわけではない。ただ、西国に大きな火種があるからこそ、静かな場所から目を離すなと伝えたかったのだろう。
景継は九州からの書状を脇へ置き、別にまとめていた東国の報告へ手を伸ばした。
北条。
徳川。
そして、そのさらに北。
目立った異変はない。
少なくとも、今のところは。
「……静かですね」
それならば安心すればよい。
だが、何も起きていないことと、何も動いていないことは同じではない。
景継が報告へ目を落としていると、障子の向こうから声がした。
「殿」
「どうしました、弥兵衛」
障子が開き、弥兵衛が入ってくる。
「楓様がお呼びです」
景継は顔を上げた。
「楓が?」
「はい」
「何かありましたか?」
「某も詳しくは聞いておりませぬ。ただ、医師が来ております」
「医師?」
景継の表情が変わった。
「楓の具合が悪いのですか?」
「ですから、そこまでは……」
弥兵衛が答え終えるより先に、景継は書状を置いて立ち上がった。
「行ってきます」
「殿」
「何です?」
弥兵衛は机の上へ目を向ける。
「書状は逃げませぬ」
景継も積み上がった書状を振り返った。
「分かっています」
そう答えると、足早に部屋を出ていった。
弥兵衛はその背中を見送り、わずかに口元を緩める。
「……こういう時だけは、本当に分かりやすい御方だ」
◇ ◇ ◇
楓の部屋へ向かう間にも、景継の頭にはいくつもの可能性が浮かんでいた。
風邪でも引いたのか。
四国から戻って以降、自分も慌ただしくしていた。万代丸の世話もある中で、楓が無理をしていたとしても不思議ではない。
もし以前から身体の具合が悪かったのなら、なぜ気づかなかったのか。
考えれば考えるほど、自然と歩く速度が上がっていった。
部屋へ着くと、景継は一度だけ呼吸を整える。
「楓、入りますよ」
返事を待って障子を開けた。
楓は普段と変わらない様子で座っていた。
顔色も悪くない。
傍らには医師がいる。
「景継様」
「身体は?」
開口一番だった。
楓が目を瞬く。
「はい?」
「具合が悪いのではないのですか?」
「誰がそのようなことを?」
「医師が来ていると聞きました」
楓はしばらく景継の顔を見た後、困ったように笑った。
「それだけで、ここまで急いで来られたのですか?」
「医師が来ているのですよ。急ぐでしょう」
「そうでしょうか」
「そうです」
景継が断言する。
傍らの医師が笑いを堪えるように顔を伏せた。
そこでようやく景継も、部屋の空気が自分の想像していたものとは違うことに気づいた。
楓は落ち着いている。
医師にも緊張した様子はない。
「……何なのです?」
景継が尋ねる。
楓はすぐには答えず、自分の腹へそっと手を添えた。
その仕草を見た瞬間、景継の目が止まる。
つい最近にも、似た光景を見ていた。
「まさか……」
楓が微笑む。
医師が景継へ向き直り、深く頭を下げた。
「おめでとうございます。御懐妊にございます」
景継は動かなかった。
しばらく楓を見つめ、それから医師へ視線を移す。
「……本当に?」
「はい」
「間違いないのですか?」
「まず間違いないかと存じます」
再び楓を見る。
とうとう楓が笑い出した。
「景継様。茶々殿の時も、同じようなことを聞かれたのではありませんか?」
「聞いたかもしれません」
「では、二度目です」
「何度聞いても驚くものは驚きます」
景継はそう言いながら、楓の前へ座った。
外から見て分かるような変化はまだない。
それでも、その身体には確かに新しい命が宿っている。
「いつから気づいていたのです?」
「私も、はっきりそう思ったのは最近です。朝に身体が重かったり、食べ物の匂いが気になったりして……万代丸の時にも似たことがありましたから」
「なぜすぐに言わなかったのです?」
「まだ分かりませんでしたから。それに――」
楓が景継を見る。
「四国から戻ったばかりの景継様に、確かでもないことで心配をかけたくありませんでした」
景継は何か言おうとしたが、やめた。
楓がこういう人であることは、よく知っている。
「ですが、次からは言ってください」
「確かでなくても?」
「確かでなくてもです」
「では、少し眠いだけでも?」
「それは……」
景継が詰まる。
楓の口元が緩んだ。
「冗談です」
「楓」
「景継様が心配しすぎるからですよ」
二人のやり取りを見ていた医師が、頃合いを見て口を開いた。
「今のところ、特に心配するようなことはございません。ただ、まだ御身体を大切にしていただきたい時期ではございます」
「分かりました」
景継が先に答えた。
楓が横から視線を向ける。
「私への言葉ですよ」
「私も聞いておく必要があります」
「景継様が私の代わりに休むのですか?」
「そういう意味ではありません」
「でしたら、私が返事をいたします」
楓は医師へ向き直った。
「分かりました。気をつけます」
医師が頭を下げる。
景継は少し不満そうだったが、今度は口を挟まなかった。
◇ ◇ ◇
医師が退出した後も、景継は楓の部屋に残った。
二人の間には、しばらく穏やかな沈黙が流れていた。
「……また子が生まれるのですね」
景継がぽつりと言う。
楓が笑う。
「まだ随分先ですよ」
「分かっています」
万代丸が生まれたのは、天正十二年(1584年)十二月。
初めてその小さな身体を抱いた時のことを、景継は今でも覚えている。
あれから二年も経っていない。
万代丸は少しずつ自分の足で歩くようになり、口にする言葉も増え始めた。
そして今、茶々も子を宿している。
さらに楓の身体にも、新しい命が宿った。
「茶々には?」
「まだ話していません」
「では、私から――」
「一緒に伝えましょう」
景継は楓を見る。
「よいのですか?」
「何がです?」
「茶々も今、子を宿していますから」
楓は少しだけ目を細めた。
茶々の腹は、今では着物の上からでも分かるほど大きくなっている。
その子が生まれて間もないうちに、今度は自分が出産を迎えることになる。
「不思議ですね」
「何がです?」
「少し前まで、この屋敷で子どもといえば万代丸だけだったのに」
楓は穏やかに笑った。
「もうしばらくすれば、あの子には弟か妹が増える。それから少し経てば、またもう一人増えるのですね」
景継もその光景を想像した。
今ですら万代丸一人で屋敷の空気は大きく変わった。
それが三人になれば、どれほど賑やかになるのだろう。
「……騒がしくなりそうですね」
「嫌ですか?」
「まさか」
景継は即答した。
楓はその返事を聞いて、嬉しそうに笑った。
◇ ◇ ◇
その日の夕方。
茶々は楓から話を聞くと、驚きで目を大きくした。
「楓様も?」
「はい」
「本当に?」
「景継様と同じことを聞くのですね」
楓が笑う。
茶々は一度景継へ目を向けた。
「景継様も聞いたのですか?」
「……聞きました」
「やはり」
茶々は笑ったものの、やがてその表情を柔らかくした。
自分の腹へ手を添える。
すでに茶々の身体には、外から見ても分かるほどの変化が現れている。
対して楓は、まだ普段とほとんど変わらない。
「では、この子に弟か妹ができるのですね」
茶々の言葉に、景継が少し首を傾げた。
「生まれる順番では、そうなりますね」
「何だか妙な感じです」
「私もです」
楓が答える。
茶々は楓の隣へ座った。
「おめでとうございます、楓様」
今度は冗談を交えなかった。
楓も静かに頭を下げる。
「ありがとうございます、茶々殿」
二人は互いの腹へ目を向けた。
同じ男の子を宿している。
だが、そこに張り合うような空気はなかった。
今はただ、二つの命が無事に生まれてくること。
それだけで十分だった。
「私の方が先ですね」
茶々が言った。
「そうなりますね」
「では、私が先に経験しておきます」
「万代丸の時に、私が先に経験していますよ」
「あ……」
茶々が口を閉じる。
楓が笑い、景継もつられて笑った。
「それはずるいです」
「何がずるいのです?」
「私だけ何も知りません」
「なら、分からないことがあれば聞いてください」
楓の言葉に、茶々は少し驚いたようだった。
それから、ゆっくりと頷く。
「……はい」
その時、廊下から小さな足音が聞こえてきた。
侍女に付き添われた万代丸が、部屋を覗いている。
「万代丸」
楓が呼ぶと、万代丸は嬉しそうに中へ入ってきた。
まず母のところへ向かい、それから茶々の腹へ目を向ける。
最近、腹が大きくなってきたことが気になるのか、万代丸は時折こうして不思議そうに見つめていた。
茶々が笑って手招きする。
「万代丸、こちらへおいで」
万代丸は少し迷ってから茶々の前へ行った。
「もうすぐ、あなたは兄上になるのですよ」
もちろん、言葉の意味までは分からない。
万代丸は茶々の顔を見上げ、それから大きくなった腹へ目を向けた。
そっと手を伸ばそうとして、途中で止める。
茶々がその小さな手を取り、自分の腹へ優しく触れさせた。
「ここにいるのです」
万代丸は目を丸くした。
何か分かったわけではないだろう。
それでも手を離さず、不思議そうに茶々の腹を見つめている。
楓がその姿を見ながら、自分の腹へ手を添えた。
「万代丸」
呼ばれて、息子が母を振り返る。
「そちらだけではありませんよ」
景継が思わず楓を見る。
「今、それを言って分かりますか?」
「分からないでしょうね」
「では、なぜ?」
「言ってみたかっただけです」
楓は楽しそうに笑った。
景継もそれ以上は何も言わなかった。
やがて万代丸は茶々から離れ、今度は楓の膝へ身体を寄せた。
その頭を楓が優しく撫でる。
景継は三人を見つめていた。
茶々の腹には、もう間もなくこの世へ生まれてくる命がある。
楓の腹には、まだ芽生えたばかりの命がある。
そして、その間に万代丸がいる。
ほんの数年前まで、景継には想像もできなかった光景だった。
前世では天下の行方を読み、多くの者を疑い、生き残るために待ち続けた。
この世へ生まれ変わってからも、戦と謀略から離れたことはない。
それでも今は、自分の目の前で育っていく家族がいる。
「景継様?」
楓の声で我に返る。
「どうされました?」
「いえ」
景継は小さく首を振った。
「少し……不思議に思っただけです」
「何をです?」
景継は答えようとして、やめた。
言葉にすれば、かえって大袈裟になる気がした。
代わりに万代丸の頭へ手を置く。
「万代丸も忙しくなりますね」
楓が首を傾げる。
「この子が?」
「兄として二人の面倒を見なければならないのでしょう?」
茶々が笑った。
「まだ自分の面倒も見られませんよ」
「それもそうですね」
万代丸だけが、自分のことを話されているとも知らず、景継の手を掴んで遊んでいた。
◇ ◇ ◇
その夜。
景継は一人、縁側へ出ていた。
九月の風には、もう夏の熱気はほとんど残っていない。
庭を眺めていると、数日前に見た一益の最期が頭に浮かんだ。
あの日、一益は静かに息を引き取った。
そして今日、楓の身体に新しい命が宿っていることを知った。
一つの命を見送った直後に、また一つの命が自分の前へ現れた。
景継は夜空へ目を向けた。
「……一益殿」
返事などあるはずもない。
それでも、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「こちらは、さらに騒がしくなりそうです」
一益なら何と言うだろう。
子どもばかり増やしている暇があるなら仕事をしろ、とでも言うかもしれない。
あるいは、何も言わず笑うだろうか。
景継には分からなかった。
部屋の中から万代丸の声が聞こえた。
どうやらまだ眠っていないらしい。
続いて楓の声も聞こえる。
景継は立ち上がった。
天下では、次の戦が少しずつ近づいている。
西では九州が揺れ、東には静かな時間が流れている。その静けさがいつまで続くのか、景継にもまだ分からない。
だが今夜くらいは、先の戦ではなく家族のことを考えてもよいだろう。
景継は障子へ手をかけた。
その向こうには万代丸がいる。
間もなく生まれてくる茶々の子がいる。
そして楓の身体には、さらに新しい命が宿っている。
「景継様?」
中から楓の声がした。
「今、行きます」
景継はそう答え、障子を開けた。
天正十四年(1586年)の秋。
戦の気配が再び西から近づく中、林道家には、もう一つの小さな慶びが加わっていた。




