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『乱世にて、我は待つ』~知略を秘めた軍師は、やがて天下を動かす~  作者: ダイヤマ
第十二章 命運交錯編

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第二百五十七話 滝川一益



天正十四年九月九日。


朝から空には薄い雲が広がっていた。


夏の名残を残していた暑さも、この数日でようやく和らぎ始めている。開け放たれた障子から入る風には、わずかな涼しさが混じっていた。


滝川家の屋敷では、いつもと変わらぬ一日が始まろうとしていた。


一忠は朝早くから家臣の報告を受け、昨日までに届いた書状へ目を通していた。一時は蔵へ向かい、辰政も領内から来た者との話を始めている。


少し前までなら、その中心には必ず一益がいた。


だが今は違う。


父が姿を見せなくても、滝川家は動いていた。


昨夜、一益から言われた言葉が一忠の耳に残っている。


――明日のことは、お前が決めろ。


その意味を考えないようにして、一忠は目の前の仕事を続けた。


昼を迎える少し前だった。


廊下を駆けてくる足音が聞こえ、一忠は顔を上げた。


「一忠様」


部屋へ入ってきた家臣の表情を見た瞬間、一忠は立ち上がった。


「父上か」


「はい。先ほどから何度かお声をかけておりますが、ほとんどお返事がなく……」


最後まで聞く必要はなかった。


一忠は書状を置き、父の部屋へ向かった。


◇ ◇ ◇


一益は布団の中にいた。


眠っているようにも見えるが、その呼吸は浅く、胸が上下する間隔も昨日までとは違っていた。


一忠が傍らへ座ると、ほどなく一時と辰政も駆けつけた。


「父上」


呼びかける。


返事はない。


もう一度呼ぼうとしたところで、一益の瞼がわずかに動いた。


「……うるさいな」


掠れた声だった。


一忠は思わず息を吐いた。


「起きておられたのですか」


「今……起こされた」


「申し訳ありません」


「謝るくらいなら……静かにしろ」


声には力がなかったが、言うことはいつもの一益だった。


一時が堪えるように顔を伏せ、辰政も何か言おうとして、結局口を閉じた。


一益はゆっくりと三人へ目を向けた。


「揃って……何をしている」


「父上の様子を見に参りました」


一忠が答えると、一益はわずかに眉を寄せた。


「暇なのか、お前たちは」


「今日は一忠兄上が仕事を片づけております」


一時が答えた。


一益の視線が一忠へ移る。


「……そうか」


それだけだった。


昨日までなら、何を決めた、誰から報告が来たと尋ねていただろう。


だが今日は聞かなかった。


一忠は、そのことがかえって怖かった。


「父上」


「何だ」


「滝川家のことは、ご心配なさらず」


その言葉を聞いた一益が、ほんのわずかに笑った。


「随分……偉そうになったな」


「父上の息子ですから」


「それなら……仕方ない」


一忠も笑おうとした。


だが、うまく笑えなかった。


一益は三人の息子を順番に見た。


何か言葉を探しているようにも見えたが、やがて小さく息を吐く。


「昨日……言ったな」


一忠には分かった。


「はい」


「俺の後を……追うな」


一忠が父を見る。


「俺と同じ道を歩いても……俺にしかならん」


一益の声は途切れがちだったが、三人とも黙って聞いていた。


「滝川家を残せ。それでいい」


一忠は深く頭を下げた。


一時も、辰政も続く。


「承知しました」


一益はそれを見届けると、再び目を閉じた。


その後は、誰も言葉を発しなかった。


庭から虫の声が聞こえ、風が障子をわずかに揺らしている。


しばらくして、一益が小さく口を動かした。


「……景継は?」


一忠が顔を上げた。


「お呼びします」


「別に……呼べとは言っておらん」


「はい」


「ただ……聞いただけだ」


一忠は少し笑った。


「では、私の判断でお呼びします」


一益が薄く目を開けた。


「勝手にしろ」


昨日までなら、その言葉をどう受け取ればよいのか迷ったかもしれない。


だが今の一忠には分かっていた。


「はい。勝手にいたします」


そう答えて立ち上がった。


◇ ◇ ◇


知らせを受けた景継は、すぐに滝川家の屋敷へ向かった。


一益の状態が良くない。


伝えられたのはそれだけだった。


馬を急がせながら、景継は何度も自分へ言い聞かせた。


まだ何も決まったわけではない。


数日前には話をしている。あの時も一益は自分の身体に腹を立てながら、九州だけではなく東も見ておけと、いつもの調子で口を出してきた。


それでも、胸の奥にある嫌な感覚は消えなかった。


屋敷へ着くと、一忠が自ら出迎えた。


その顔を見ただけで、景継は足を速めた。


部屋へ入る。


一益は目を閉じていた。


景継が枕元へ腰を下ろしても、すぐには反応しなかった。


「一益殿」


呼びかける。


しばらくして、一益の目がゆっくりと開いた。


「……来たか」


「はい」


「暇な奴だな」


景継は一瞬だけ言葉を失い、それから小さく笑った。


「一益殿が私を呼んだと聞きましたが」


「俺は……呼んでおらん」


「そうなのですか?」


「一忠が……勝手にやった」


少し離れた場所にいた一忠が頭を下げる。


景継は一忠を見てから、一益へ視線を戻した。


「では、一忠殿に感謝しなければなりませんね」


「勝手にしろ」


一益は目を閉じた。


だが、眠ったわけではないらしい。


「景継」


「はい」


「長秀の時も……お前はいたな」


景継は静かに頷いた。


「いました」


「そうか」


一益の口元がわずかに緩んだ。


「なら……あいつのところへ行ったら、何と言えばいい」


思いがけない問いに、景継はすぐには答えられなかった。


一益は目を開けないまま続ける。


「先に逝きやがって、とでも言ってやるか」


「一益殿なら、それでよいのではありませんか」


「怒るぞ、あいつ」


「怒らないでしょう」


「そうか?」


「長秀殿なら、何も言わずに笑うと思います」


一益はしばらく黙っていた。


やがて、


「……それも腹が立つな」


小さく笑った。


景継も笑った。


その笑みを消さないようにしながら、景継は一益の顔を見つめた。


初めて会った頃より、ずっと小さく見える。


信長のもとで数え切れないほどの戦場を駆け、何度も死地を越えてきた武将だった。その男が今、目の前で静かに横たわっている。


「一忠たちは……」


一益が言った。


景継は黙って続きを待った。


「馬鹿をやったら……叱ってやってくれ」


「分かりました」


「それ以外は……好きにやらせろ」


「はい」


「俺の息子だからと……特別扱いするな」


「いたしません」


一益が薄く目を開けた。


「即答か」


「一益殿がそう望んでおられるのでしょう?」


「まあな」


再び目を閉じる。


一益は息子たちを景継へ預けようとしているのではない。


滝川家は滝川家として歩いていく。ただ、その道を踏み外した時だけ、手を貸してほしい。


景継には、そう聞こえた。


「一益殿」


「何だ」


景継は何かを言おうとした。


これまでの礼か。


長く支えてくれたことへの感謝か。


それとも、まだ逝かないでほしいという言葉か。


どれも違う気がした。


一益は、そういう言葉を喜ぶ男ではない。


だから景継は、結局一つだけ尋ねた。


「何か、やり残したことはありますか?」


一益の眉がわずかに動いた。


長い沈黙があった。


「……ある」


景継は少し身を乗り出した。


「何でしょう」


一益がゆっくりと目を開ける。


「ありすぎて……分からん」


景継は何も言えなかった。


「九州も見たかった。お前が……この先どこまで行くのかもな」


掠れた声が続く。


「一忠たちが……何をするのかも」


一益は天井へ目を向けた。


「だから、死ぬというのは……面白くない」


その言葉には恐怖よりも、悔しさが滲んでいた。


もっと見たい。


もっと働きたい。


もっと先へ行きたい。


最後まで、それが滝川一益だった。


景継は俯きかけた顔を上げた。


「でしたら、見ていてください」


「どこからだ」


「長秀殿の隣からでも」


一益が鼻で笑った。


「嫌だな」


「では、お好きなところから」


「考えておく」


それが、二人が交わした最後の冗談になった。


◇ ◇ ◇


午後になると、一益の呼吸はさらに浅くなった。


一忠、一時、辰政が枕元にいる。


景継も少し離れたところに座っていた。


誰も大声で泣かなかった。


ただ、時折聞こえる一益の呼吸に、皆が耳を澄ませていた。


やがて一益の目が開いた。


視線がゆっくりと動く。


息子たちを見た。


景継を見た。


そして、開かれた障子の向こうへ目を向けた。


庭の木々が風に揺れている。


数日前、そこへ出ようとして足に力が入らなかった。


あの日から、一益はほとんど庭へ出ていない。


「……いい風だな」


一忠が障子をもう少し開けた。


涼しい風が部屋へ入り、一益の白くなった髪をわずかに揺らした。


「父上」


一忠が呼びかける。


一益は庭を見たまま、ほんの少し口元を緩めた。


「……外へ……出たかったな」


「では――」


一忠が立ち上がろうとする。


だが一益は、小さく首を横へ振った。


「もう……いい」


風が再び入ってくる。


一益はゆっくりと目を閉じた。


その呼吸が少しずつ長くなり、間隔が空いていく。


一忠が父の手を握った。


「父上」


返事はない。


一時が唇を噛み、辰政は俯いた。


景継は動かなかった。


やがて一益が、一度だけ深く息を吸った。


そして、静かに吐いた。


次の息は来なかった。


部屋には、庭から吹き込む風の音だけが残った。


一忠は父の手を握ったまま、長い間顔を上げなかった。


景継もまた、目の前に横たわる一益を見つめ続けた。


何か言わなければならないと思った。


だが、言葉が出てこない。


丹羽長秀を失ってから、まだ一年半も経っていない。


また一人。


信長と共に戦い、自分の若い頃を知る者が、この世から去った。


やがて景継は静かに頭を下げた。


「……お疲れ様でした。一益殿」


それだけだった。


それ以上の言葉は必要なかった。


天正十四年九月九日。


織田信長のもとで幾多の戦場を駆け、長く乱世を生き抜いた武将――滝川一益。


死去。


享年六十二。


◇ ◇ ◇


その日の夕刻。


知らせは池田恒興のもとにも届いた。


使者から報告を受けた恒興は、すぐには何も言わなかった。


少し前に会ったばかりだった。


痩せたと笑い、まだ元気だと言い張り、最後には互いに「達者でな」と言葉を交わした。


恒興は目を閉じた。


あの時、一益は分かっていたのだろうか。


次に会うことはないと。


しばらくして、恒興は目を開けた。


「……そうか」


使者が頭を下げる。


恒興は窓の外へ目を向けた。


「一益も逝ったか」


長秀が逝った。


そして、一益も逝った。


かつて同じ主のもとに集まり、天下を駆け回った者たちが、一人、また一人と姿を消していく。


恒興はしばらく空を見つめた後、小さく息を吐いた。


「先に行きすぎだ、馬鹿者どもが」


その声を聞く者はいなかった。


夕暮れの空の下、風だけが静かに吹いていた。


一人の武将が、またこの乱世から去った。


だが乱世は、人の死を待ってはくれない。


海の向こうでは島津が勢力を広げ、西国では新たな戦の気配が日に日に濃くなっている。


そして一益が最期の時を迎える少し前、景継へ残した言葉もまた消えてはいなかった。


西ばかり見ていると、東を見失うぞ。


古い時代が静かに遠ざかる一方で、まだ誰にも見えていない次の争いは、すでに動き始めていた。



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