第二百五十六話 託されるもの
天正十四年九月。
夏の暑さがわずかに和らぎ始めた頃、滝川家の屋敷では、それまでとは異なる光景が当たり前になりつつあった。
一益の部屋へ運ばれてくる書状の数が減ったのである。
代わりに、その多くは嫡男の一忠のもとへ届けられていた。
領内で起きた争い、兵の配置、他家から届いた書状。それらを一忠が確認し、自ら判断できるものは処理する。必要に応じて弟たちにも仕事を振り分け、一時には兵糧や蔵の管理に関わる案件を、辰政には領内の細かな揉め事や各地から届く報告を任せるようになっていた。
誰かがそうしろと命じたわけではない。
一益が以前のように一日中仕事を続けられなくなったことで、自然と息子たちが動かなければならなくなったのだ。
その日も一忠は数通の書状を抱え、父の部屋を訪れた。
「父上」
返事がない。
眠っているのかと思い、一忠は声をかけずに中へ入った。
一益は横になっていたわけではなかった。窓際に座り、庭を眺めている。以前なら傍らに何通もの書状が置かれていたはずだが、今日は何もない。
「何だ」
一忠に気づいた一益が振り返った。
「こちらを」
一忠が差し出した書状を受け取ると、一益はゆっくりと目を通した。
領内の侍同士で起きた揉め事についての報告だった。
最後まで読み終えると、一益は顔を上げる。
「それで?」
「双方から話を聞きました。元々は土地の境を巡る争いですが、互いに譲らず、このまま放置すれば家臣同士の争いにまで広がりかねません」
「そんなことは読めば分かる。どうした」
一忠はわずかに間を置いた。
「私の判断で、境を改めて調べさせました。そのうえで両者に一部ずつ譲らせ、ひとまず話を収めています」
一益の眉が動いた。
「俺に聞かずにか?」
「はい」
部屋の空気が変わった。
一忠は父の顔をまっすぐ見ていた。
以前なら、先に相談しただろう。
一益が何を考え、どのように処理するのかを聞いてから動いたはずだ。
だが今回は違った。
「なぜだ」
「父上に聞いてからでなければ何も決められないのであれば、いつまで経っても私は父上の代わりにしかなれません」
一益は何も言わなかった。
一忠は続ける。
「父上なら、別のやり方をされたかもしれません。ですが、これから先もすべて父上と同じにすることはできません」
一益の目が細くなる。
叱られる。
一忠がそう思った時、一益は手にしていた書状を畳んだ。
「一時は何と言った」
思いがけない問いだった。
「この裁定で問題ないだろうと。ただし、秋の収穫を終えた後にもう一度境を確認した方がよいと言っております」
「辰政は?」
「両家の家臣が再び揉めぬよう、しばらく人を置くべきだと」
一益は小さく鼻を鳴らした。
「三人で勝手に決めたわけか」
「……申し訳ありません」
「誰が謝れと言った」
一忠が顔を上げる。
一益は書状を一忠へ返した。
「もう片づいた話を、わざわざ俺のところへ持ってくるな」
「父上?」
「お前が決めたんだろう。なら最後までお前が見ろ」
一忠は返された書状を受け取ったものの、すぐには動けなかった。
一益はそんな息子を見て、少し苛立ったように眉を寄せる。
「何だ」
「いえ……」
「俺が怒ると思ったか?」
一忠は答えなかった。
それだけで十分だったらしい。
一益は呆れたように息を吐いた。
「俺が死んだ後まで、いちいち墓へ聞きに来るつもりか」
一忠の表情が強張った。
「父上、そのようなことを――」
「死なん人間などおらん」
一益の声は淡々としていた。
数日前までなら、こうした言葉を自分から口にすることはなかったかもしれない。
「俺のやり方を覚えるのは構わん。だが、俺と同じになる必要はない。お前にはお前のやり方がある。一時にも、辰政にもな」
一忠は父の顔を見つめた。
一益はもう庭へ視線を戻していた。
「滝川家を残せ」
静かな声だった。
「俺を残そうとするな」
一忠はしばらく何も言えなかった。
やがて深く頭を下げる。
「……はい」
一益は振り返らなかった。
「分かったなら行け。まだ仕事があるんだろう」
「はい」
一忠はもう一度頭を下げ、部屋を出た。
廊下を歩き始めてから、一度だけ振り返る。
障子の向こうに父の姿は見えない。
それでも、一忠は手にした書状を強く握り締めた。
父から家督を譲ると言われたわけではない。
隠居すると告げられたわけでもない。
だが、一忠には分かっていた。
父はもう、自分たちが父の判断を待たずに動くことを許し始めている。
それが何を意味するのかも。
◇ ◇ ◇
数日後。
滝川家の屋敷を、もう一人の客が訪れた。
「よう。一益」
部屋へ入ってきた男の顔を見るなり、一益は露骨に嫌そうな顔をした。
「何だ、恒興か」
池田恒興はその反応を気にする様子もなく、一益の向かいへ腰を下ろした。
「随分な言い方だな。せっかく見舞いに来てやったというのに」
「誰が見舞いに来いと言った」
「誰にも言われておらん」
「なら帰れ」
「嫌だ」
一益が睨む。
恒興はまるで気にせず、一益の顔から身体まで遠慮なく眺めた。
「痩せたな」
「お前に言われたくない」
「俺はまだ元気だぞ」
「俺も元気だ」
「どこがだ」
遠慮というものがない。
景継や息子たちなら、一益の身体を気遣って言葉を選ぶ。しかし恒興には、その必要がなかった。
長く同じ時代を生きてきた。
互いの若い頃も、失敗も、戦場で泥にまみれた姿も知っている。
今さら取り繕ったところで仕方がない。
「長秀が逝ったと思えば、今度はお前が寝込んでいると聞いた」
「寝込んではおらん」
「似たようなものだ」
「全然違う」
恒興は笑った。
一益も不満そうな顔をしながら、どこか楽しそうだった。
「そういえば、お前と初めてまともに話したのはいつだったか」
恒興が何気なく尋ねる。
「知らん」
「覚えていないのか」
「昔すぎる」
「俺も覚えておらん」
「なら聞くな」
二人は顔を見合わせ、同時に笑った。
信長のもとで戦い始めた頃には、こんな日が来るとは考えもしなかった。
明日生きているかも分からない時代だった。
敵を破り、領地を広げ、また次の戦へ向かう。
それを繰り返しているうちに、いつしか若かった者たちは老将と呼ばれるようになっていた。
「長秀は、最後まで長秀だったな」
恒興が呟いた。
「ああ」
「きっちり後のことまで決めて逝きおった」
「あいつは昔からそうだ。何でも先に片づける」
一益は少し笑った。
「俺とは違う」
恒興は何も返さなかった。
一益も、それ以上は言わない。
二人の間に静かな時間が流れた。
昔話を延々とする必要はなかった。
互いに知っている。
どれだけの者が先に逝ったのかも、どれだけの戦場を越えてきたのかも。
やがて恒興が膝へ手を置いた。
「さて。長居しても仕方ないな」
「最初から来なくてよかったんだ」
「次に来た時には、もう少し愛想よくしろ」
「考えておく」
恒興が立ち上がり、部屋を出ようとする。
その背中を見ていた一益が、不意に口を開いた。
「恒興」
「何だ」
恒興は振り返らなかった。
一益も、すぐには続きを言わなかった。
ほんのわずかな沈黙の後、
「……達者でな」
恒興の肩が止まった。
部屋の空気が静まり返る。
冗談を返すこともできただろう。
縁起でもないと言って笑い飛ばすこともできた。
だが恒興は、そうしなかった。
「ああ」
前を向いたまま答える。
「お前もな」
それだけを残して、恒興は部屋を出た。
一益はその背中が見えなくなった後も、しばらく開いた障子を眺めていた。
◇ ◇ ◇
屋敷を出た恒興は、門の近くで景継と出会った。
「恒興殿」
「景継か」
「一益殿のところへ?」
「ああ。顔を見てきた」
景継は一益の部屋がある方へ目を向けた。
「どうでした?」
「口だけは元気だ」
恒興はそう言って笑ったが、その笑みはすぐに消えた。
「……だが、身体は正直だな」
景継は何も言わなかった。
恒興は歩き始め、景継もその隣へ並ぶ。
「長秀が逝って、一益まであの有様か」
「はい」
「気づけば、随分と減ったものだ」
誰が、と聞く必要はなかった。
信長のもとで戦っていた者たち。
乱世の中を駆け続けてきた者たち。
すでにこの世を去った者も多い。
恒興は自分の手を見ながら、小さく笑った。
「俺も人のことを言えん歳になったな」
景継が足を止めた。
恒興は数歩進んでから、それに気づいて振り返る。
「何だ、その顔は」
「いえ」
「俺まで明日死ぬような顔をするな」
「そのようなつもりでは」
「ならいい」
恒興は笑った。
「俺はまだ死なんぞ」
「そうしてください」
即座に返ってきた言葉に、今度は恒興の方が少し驚いた。
やがて豪快に笑う。
「お前がそんなことを言うようになったか」
「私を何だと思っているのです?」
「昔はもっと可愛げのない小僧だった」
「一益殿にも似たようなことを言われました」
「なら間違いない」
景継は困ったように息を吐いた。
恒興はその姿を見て、もう一度笑った。
だが、屋敷の門を出る直前、一度だけ振り返った。
先ほどまで自分がいた部屋の方を見つめる。
「……またな、一益」
その声は、隣にいた景継にようやく聞こえるほど小さかった。
◇ ◇ ◇
それから数日。
一益は以前よりも長く横になるようになった。
朝になれば起きようとする。
身体が動けば、書状にも目を通す。
一忠が何かを決めれば、頼まれてもいないのに口を挟むこともある。
だが、その時間は日に日に短くなっていた。
一忠が仕事をする。
一時がそれを支える。
辰政が領内を動き回る。
一益が自分で決めなくても、滝川家の一日は進んでいく。
そのことに気づくたび、一益は不満そうな顔をした。
それでも、もう「俺に聞け」とは言わなくなった。
九月八日の夜。
一忠が父の部屋を覗くと、一益はすでに横になっていた。
「父上」
一益が薄く目を開ける。
「……何だ」
「いえ。何か必要なものはないかと思いまして」
「ない」
いつもの答えだった。
一忠は小さく笑った。
「では、失礼します」
「一忠」
立ち上がろうとしたところで呼び止められた。
「はい」
一益は天井を見たまま、しばらく何も言わなかった。
やがて、
「明日のことは、お前が決めろ」
一忠の目がわずかに見開かれた。
「……はい」
一益はそれ以上何も言わず、目を閉じた。
一忠は父の寝顔を見つめた後、静かに部屋を出る。
障子を閉めたところで、胸の奥に何か重いものが残った。
だが、それが何なのかを考えることはしなかった。
考えたくなかったのかもしれない。
その夜、滝川家の屋敷は静かだった。
そして翌朝。
天正十四年九月九日を迎える。




