第二百五十五話 西の火、老将の影
四国から戻った景継を最初に待っていたのは、勝利を祝う言葉ではなかった。
帰還した翌朝、評定の間へ入ると、すでに黒田官兵衛が待っていた。机の上には何通もの書状が並べられ、その傍らには九州を中心とした西国の地図まで広げられている。
「殿。四国を見ておられる間に、九州が少々面白くなってまいりました」
景継は席につきながら書状の束へ目を向け、その量を見て眉を上げた。
「少々、ですか?」
「私にとっては」
「では、私にとっては面倒な話なのでしょうね」
「おそらく」
官兵衛が笑うのを見ながら、景継は一番上に置かれていた書状を手に取った。
四国へ渡る前、九州から届く報告は官兵衛へ回すよう命じていた。毛利との関係も含め、西国全体の動きを見てもらうためだったが、その判断は間違っていなかったらしい。景継が四国にいる間にも、九州では各地の勢力が絶えず動いていた。
「やはり島津ですか」
「ええ。ただ、今見るべきは島津の戦そのものより、その周囲です」
官兵衛は九州の地図を景継の方へ向けると、いくつかの地点を順に指した。
「島津が勢力を広げれば、周囲の者たちは今までと同じではいられませぬ。こちらへ使者を出す者もいれば、島津との話を始める者もいる。港や街道の動きも、以前より慌ただしくなっております」
景継は別の書状へ目を移した。
そこに記されているのは、どこで何人が戦ったという報告ばかりではない。各地の米の値や港へ入る船の数、運び込まれる武具、それに大名や国人たちの間を往来する使者の動きまで細かく調べられていた。
「四国で起きたことと、少し似ていますね」
「似てはおります。ただ、九州は規模も事情も違います。四国には元親殿という、すでに島全体をまとめた者がおりました。しかし九州には、それぞれの領地と利害を抱えた大名がおりますからな」
官兵衛はそう答えると、今度は九州北部の海岸沿いへ指を滑らせた。
「今後、我らが九州へ兵を入れることになれば、この辺りの港が重要になります。兵を渡すだけなら船を集めればよい。しかし、何千、何万という兵を長く戦わせるとなれば話は別です。米も武具も送り続けねばならず、傷ついた兵を戻す道も必要になる」
「島津ばかり見ていてはいけない、と」
「島津と戦うことになってから海を見ても遅い、ということです」
景継は地図を見つめた。
官兵衛が考えているのは、どうやって敵の軍勢を破るかではない。九州という遠い土地で、どうすれば軍勢を動かし続けられるのか。そのための準備を、戦が始まる前から整えようとしている。
「今すぐ兵を出す必要は?」
「ありませぬ」
官兵衛は迷わず答えた。
「ですが、準備は始めるべきでしょうな。急いで九州へ渡る必要はありませんが、渡ると決めた時に一から始めるようでは遅すぎます」
景継は頷いた。
その言葉を聞いているうちに、以前官兵衛と交わした会話を思い出す。
九州へ入ることになれば、最初の一戦だけは絶対に負けない。ただ勝つだけでは足りず、九州中へ林道家の力を知らしめるほどの圧勝が必要になる。
あの時、官兵衛はそう言った。
だが景継は、その話をあえて口にはしなかった。まだ九州へ兵を入れると決まったわけではなく、官兵衛自身も今は戦い方より、戦える状態を作ることに意識を向けている。
「三成殿にも話しておきましょう。船と兵糧のことなら、早いうちから考えてもらった方がよいでしょうから」
「それがよろしいかと。あの御仁なら、私が十を頼めば十五ほど用意してくださるでしょう」
「そして、なぜ十五必要なのかを延々と説明されますよ」
「それは殿がお聞きください」
「官兵衛殿も一緒に聞いてください」
互いに顔を見合わせ、小さく笑った。
四国の戦は終わったばかりだったが、西のさらに先では次の大きな動きが始まりつつある。それでも今は、焦って兵を送り込む時ではない。いずれ動くことになった時、確実に軍勢を送り込み、戦い続けられるように準備を整えるべきだった。
景継は地図から顔を上げた。
「引き続きお願いします。九州は官兵衛殿に見ていていただきたい」
「承知しました」
官兵衛は静かに頭を下げた。
◇ ◇ ◇
官兵衛との話を終えた景継は、その日の午後になってようやく屋敷へ戻った。
四国から帰還して以来、報告や処理すべき仕事に追われていたため、家族とゆっくり顔を合わせる時間も取れていない。
部屋へ入ると、楓の傍らにいた万代丸が景継に気づき、こちらへ顔を向けた。
天正十二年十二月に生まれた万代丸も、すでに一歳と八か月ほどになる。歩き始めた頃の危なっかしさは少しずつ消え、自分の足で部屋の中を動き回ることも増えた。それと同時に、口にする言葉もわずかながら増えてきている。
万代丸は景継の顔をじっと見つめると、何かを言おうとするように口を動かした。
「ちち……」
その幼い声を耳にした途端、景継は足を止めた。
「……今、私を呼びましたか?」
楓は驚いたまま動かない夫を見て、おかしそうに笑った。
「最近、父上と呼ぼうとするようになったのですよ」
「私がいない間に?」
「子は待ってくれませんから」
景継はどこか悔しそうな顔をしながら万代丸のもとへ歩み寄り、その身体を抱き上げた。突然持ち上げられた万代丸は、何が起きたのか分からない様子で父の顔を見つめている。
「もう一度言ってください」
万代丸は景継の顔を見つめ返したものの、今度は何も言わなかった。
「万代丸?」
「景継様、そう都合よく言ってはくれませんよ」
「先ほどは言ったではありませんか」
「だからといって、頼めば何度でも言うものではありません」
楓にそう言われても、景継は諦めきれないらしく、腕の中の万代丸をじっと見つめていた。
「……もう一度くらい」
「そのうち、顔を見るだけで逃げられますよ」
普段なら戦場でも評定でも滅多に表情を変えない景継が、幼い息子の一言にこれほど執着している。その様子がおかしかったのか、少し離れたところにいた茶々からも笑い声が漏れた。
景継がそちらへ目を向けると、茶々の腹は以前よりもわずかに目立つようになっている。すると先ほどまで万代丸へ向いていた意識が、すぐに茶々へ移った。
「体調はどうです?」
「良いですよ」
「本当に?」
茶々はすぐに呆れたような顔をした。
「景継様。四国へ行かれる前にも、同じことを何度も聞かれました」
「心配なので仕方ありません」
「それは分かっております。ですが、私は病人ではありませんし、医師からも問題ないと言われています。この子も元気です」
そう言って茶々が腹へ手を添えると、景継もようやく少し安心したように頷いた。
「ならよいのですが」
「万代丸には何度も呼ばせようとし、私には何度も体調を聞く。戦場から戻ってきたと思えば、随分と忙しい御方ですね」
楓が口元を押さえて笑う中、景継は腕の中の万代丸を見てから茶々へ目を向けた。
「戦場より難しいのですよ」
「何がです?」
「父親というものが」
思いがけない答えだったのだろう。茶々は目を丸くしたあと、堪えきれなくなったように笑い出した。
楓もそれにつられて笑い、景継自身も腕の中で自分の着物を掴んでいる万代丸を見ながら、わずかに頬を緩める。
西国の地図を前にしていた時とはまるで違う、穏やかな時間だった。
◇ ◇ ◇
その日の夕刻、景継のもとへ弥兵衛が一つの知らせを持ってきた。
「殿。滝川様のところから使いが参っております」
「一益殿に何か?」
弥兵衛は少し言葉を選んでから答えた。
「今朝、屋敷で足元を崩されたそうです。怪我はないとのことですが、近くにいた者が支えなければ、そのまま倒れていたかもしれぬと」
景継は黙って弥兵衛を見た。
「何をしていた時です?」
「庭へ出ようとされた時だそうです」
その答えを聞いて、景継の表情が変わった。
戦場でもなければ、長時間の評定を終えた後でもない。朝起きて身支度を済ませ、庭へ出ようと立ち上がった。ただそれだけの時だった。
景継はそれ以上詳しく尋ねず、その日のうちに一益の屋敷へ向かった。
屋敷に着いてみれば、思っていたより静かだった。慌ただしく人が行き交っているわけでもなく、誰かが声を荒らげている様子もない。
案内された部屋へ入ると、一益は布団の中ではなく、机の前に座って書状を読んでいた。
「何をしに来た」
顔を上げた一益は、景継を見るなり面倒そうに言った。
「随分な言い方ですね。顔を見に来ただけですよ」
「俺の顔なら、この前も見ただろう」
「今日は今日です」
「暇な奴だな」
口はいつもと変わらない。
それだけなら、弥兵衛から聞いた話など嘘だったのではないかと思えるほどだった。
だが、近くまで歩み寄れば違いは分かる。以前より頬が落ち、着物の上からでも身体が細くなったことが見て取れた。机の傍らにはまだ何通もの書状が積まれていたが、一益が手にしている一通には、途中まで目を通したところで止まったような跡が残っている。
景継は一益の向かいへ腰を下ろした。
「朝、足元を崩したそうですね」
「もう聞いたのか」
「ええ」
「大したことじゃない。立ち上がった時に、少し足が言うことを聞かなかっただけだ」
「そうですか」
それ以上、景継は何も言わなかった。
一益は何か小言を言われると思っていたのか、怪訝そうに景継を見る。
「何だ?」
「何がです?」
「今日は随分と素直じゃないか」
「何を言っても、一益殿はご自分で決めるでしょう」
「分かってきたな」
一益は満足そうに言うと、机に置いていた書状へ手を伸ばした。
ところが、指先が紙に触れる寸前で動きが止まった。
景継は何も言わずに見ていた。
一益はそのまま書状を取ろうとしたが、やがて諦めたように手を膝の上へ戻す。ほんのわずかな動きだったが、その顔に浮かんだ苛立ちを景継は見逃さなかった。
「……腹が立つな」
一益が呟いた。
「何がです?」
問いかけると、一益は自分の右手へ視線を落とした。
「こいつだ」
握ったり開いたりしながら、自嘲するように笑う。
「頭の中では、まだ次に何をするか分かっている。あの書状を読んだら返事を書いて、その次は一忠に話をして、明日はあちらを片づける。それくらいは考えられる」
そこで一益は一度言葉を切った。
「なのに、身体だけが勝手についてこなくなる」
景継は黙って聞いていた。
「昔なら、朝から馬に乗って一日走り回ったって何ともなかった。それが今じゃ、庭へ出ようとしただけで人に支えられる。手を伸ばせば、たったあれだけの書状を取ることさえ億劫になる」
一益は机の上の書状を見つめたまま、低く息を吐いた。
「頭だけ残って、身体から先に老いていくというのは……思ったより腹が立つものだ」
その言葉を聞いた時、景継の脳裏に丹羽長秀の姿が浮かんだ。
長秀もまた、自分の身体が以前のようには動かなくなっていくことを知っていた。しかし長秀は、それを受け入れたうえで残された時間を使い、家を整え、長重へ先を託した。
一益は違う。
身体の衰えに気づいていないのではない。誰よりも自分自身が分かっているからこそ、それを受け入れることができずにいる。
「笑えるだろう」
一益が不意に言った。
景継は首を横へ振った。
「いいえ」
「少しくらい笑え」
「笑うところがありません」
「相変わらず、つまらん奴だな」
一益は苦笑した。
景継もわずかに口元を緩めたが、それ以上の言葉は続けなかった。
励ますこともできた。
まだ大丈夫だと言うこともできた。
だが、それを口にしたところで、今朝自分の足が言うことを聞かなかったという事実を一益自身が一番よく知っている。
ならば、下手な慰めは必要ない。
しばらく二人の間に沈黙が流れた後、一益の方から口を開いた。
「一忠のことは、どう見ている?」
突然出てきた息子の名に、景継は一益を見た。
「一忠殿ですか?」
「ああ」
一益はそれだけ言うと、景継の答えを待った。
「前へ出ることを恐れない方だと思っています。戦場では頼りになるでしょう。ただ、一益殿ほど何でも自分で抱えるようには見えません」
「それでいい」
一益は即座に答えた。
「俺の真似をする必要はない」
先ほどまで身体の衰えに苛立っていた男が、息子の話になると不思議なほど落ち着いた声を出した。
景継はその変化に気づいたものの、何も指摘しなかった。
「一時殿もおります」
「一時は一忠とは違う。あいつは前で槍を振るうより、後ろを整えた方が役に立つ」
「辰政殿も、それぞれの場所を持てばよいでしょう」
「そうだな」
一益は短く答えたあと、机の上に積まれた書状へ目を向けた。
これまでなら、自分がまだ働けるという話を続けていただろう。
だが今日は違った。
ほんのわずかではあるが、一益の目が自分の先にいる者たちへ向き始めている。
景継は、そのことを言葉にはしなかった。
「三人とも、一益殿と同じである必要はありません」
「同じだったら困る。滝川家に俺が何人もいたら、毎日喧嘩になるぞ」
「それは確かに」
景継が笑うと、一益も喉の奥で笑った。
その直後、一益が軽く咳き込み、口元を手で覆った。
以前にも見た咳だった。
ただ、今回は治まるまでに少し時間がかかった。
景継が何も言わず待っていると、一益は呼吸を整えながら顔を上げた。
「そんな顔をするな」
「どんな顔です?」
「年寄りを見る顔だ」
「一益殿より年下なのですから、それは仕方ありません」
「言うようになったな」
少しだけ、昔の一益らしい表情が戻った。
やがて景継が立ち上がると、一益は机の上の書状ではなく、景継の顔へ視線を向けた。
「四国は片づいたんだろう」
「ひとまずは。元親殿がこれからどう治めるかにかかっています」
「それで、次は九州か」
景継は少し驚いた。
「耳が早いですね」
「まだ兵を出すと決めたわけじゃない顔だな」
「官兵衛殿と準備について話したところです」
「黒田か」
一益はそう呟くと、しばらく何かを考えるように黙った。
やがて視線を景継から外し、庭の方へ向ける。
「西ばかり見ていると、東を見失うぞ」
景継は眉を寄せた。
「東?」
「ああ」
「何か聞いているのですか?」
「何も聞いておらん」
一益はあっさり答えた。
「だから言っている」
景継には、その意味がすぐには分からなかった。
一益は庭へ向けていた視線を戻す。
「西では島津が動いている。だから誰でも西を見る。四国で火が上がれば四国を見る。目立つものがあれば、人はそちらへ顔を向けるものだ」
そこで一益は、景継をまっすぐ見た。
「だが、何も起きていない場所を見なくていい理由にはならん」
長く乱世を生きてきた男の言葉だった。
具体的な情報があるわけでも、誰かの動きを疑っているわけでもない。それでも景継には、一益の忠告を軽く扱う気にはなれなかった。
「……覚えておきます」
「ああ。それでいい」
一益はそう答えると、再び机の上へ目を向けた。
景継は部屋を出ようとしたが、障子へ手をかける直前に一度だけ振り返った。
一益はまだ書状を読もうとはしていなかった。
机の上に置かれた自分の手を、ただ静かに見つめている。
その横顔に、先ほどまでの苛立ちはなかった。
代わりに浮かんでいたものが何なのか、景継には分からない。
ただ、以前会った時とは何かが違っていた。
身体の衰えに抗い続けてきた男が、ほんのわずかではあるが、自分がいなくなった後へ目を向け始めている。
景継は声をかけず、そのまま障子を閉めた。
屋敷を出ると、夏の終わりを感じさせる風が頬を撫でていった。
九州では島津の勢いが増し、官兵衛はすでに海の向こうを見据えている。一方で、景継のすぐ近くでは、長く乱世を駆け抜けてきた一人の老将が、静かに自らの身体との戦いを続けていた。
そして、一益が口にした言葉だけが、景継の胸に残っている。
西ばかり見ていると、東を見失うぞ。
その意味を考えながら、景継は空を見上げた。
天正十四年の夏も、終わりへ近づこうとしていた。




