第二百五十二話 三つの火
阿波からの知らせが長宗我部元親のもとへ届いたのは、讃岐で騒ぎが起きてから三日後のことだった。
伊予では未だ戦が続いている。
蜂起した者たちの一部は武器を捨て始めていたものの、山間部へ退いた者たちは頑強に抵抗し、街道のすべてを取り戻すには至っていない。
その間にも讃岐では港を襲った者たちが周辺の地侍を取り込み、騒乱の範囲を広げていた。
そして今度は――阿波だった。
「申し上げます。阿波にて国人衆の一部が兵を挙げました。すでに二つの城が襲われ、我らの役人が退いております」
元親は報告を聞き終えても、すぐには口を開かなかった。
伊予。
讃岐。
阿波。
机の上に広げられた四国の地図を見れば、三方から火が上がっているのが嫌でも分かる。
「土佐は」
「今のところ異変はございませぬ」
「今のところ、か」
元親は苦く笑った。
伊予へ送った兵を戻せば、ようやく弱まり始めた抵抗が息を吹き返す。
讃岐を放置すれば港を失い、兵糧や兵を海路で運ぶことが難しくなる。
さらに阿波まで動いた。
一つ一つなら鎮められる。
二つでも、時間をかければ何とかなる。
だが三つを同時に相手にすれば、その間に傷つくのは兵だけではない。田畑が荒れ、道が塞がれ、商いが止まる。
鎮圧した後に残るのが焼け野原では、勝ったところで何の意味もなかった。
「殿」
家臣の一人が膝を進める。
「土佐の兵をさらに出しましょう。阿波へ三千、讃岐へ二千。伊予にも増援を送れば――」
「どこからその兵を出す」
「それは……」
「土佐を空にするのか?」
家臣が黙った。
元親は責めなかった。
自分とて、最初に考えたのは兵を増やすことだったからだ。
だが、兵を増やせば終わるという段階を越え始めている。
「伊予の軍には今の方針を続けさせろ。追い詰めるな。降る者は受け入れよ」
「はっ」
「讃岐では港を取り返すことを優先する。ただし、町へ火を放つな。阿波は守りを固め、こちらから深く攻め込むな」
家臣たちが顔を見合わせた。
「阿波を攻めぬので?」
「今そこで大戦を始めれば、兵をさらに取られる」
元親は地図から顔を上げた。
悔しさはあった。
四国をまとめた自分が、自分の領内で起きた騒ぎを他人に助けてもらう。
その事実が面白いはずはない。
だが、意地のために四国を焼くつもりもなかった。
「紙と筆を持て」
「はっ」
家臣が用意する。
元親は一度だけ目を閉じ、それから告げた。
「林道殿へ使者を出す」
部屋の空気が変わった。
「援軍を……求められるので?」
「そうだ」
元親ははっきりと言った。
「伊予、讃岐、阿波。三方を同時に鎮めようとすれば、余計な血が流れる。林道殿には兵を借りたい」
少し間を置き、付け加える。
「ただし四国の戦だ。林道殿に丸投げするつもりはない。我らが先に立つ」
「はっ」
元親は筆を取った。
助けを求めることと、国を預けることは違う。
長宗我部が四国を治め続けるためにも、自分は戦場から退くわけにはいかなかった。
◇ ◇ ◇
数日後。
元親の使者が景継のもとへ到着した。
景継は書状を最後まで読み終えると、静かに机へ置いた。
「阿波も動きましたか」
傍らにいた弥兵衛が表情を険しくする。
「これで三つですな」
「ええ」
予想していなかったわけではない。
だから準備も始めていた。
それでも実際に阿波まで兵が立ったとなれば、話は別だった。
景継は元親の書状をもう一度見た。
そこには援軍を求める言葉とともに、長宗我部自身も戦い続けることが記されている。
助けてくれ、ではない。
共に鎮めてほしい。
元親の意地が、そのわずかな違いに表れていた。
「皆を呼んでください」
「すでに待たせております」
景継が弥兵衛を見る。
「早いですね」
「殿が呼ぶと思いましたので」
景継はわずかに笑った。
「では行きましょう」
評定の間には、すでに石田三成、大谷吉継、加藤清正、福島正則、池田恒興、丹羽長重が集まっていた。
景継が入ると、正則が真っ先に身を乗り出した。
「阿波も立ったそうですな」
「耳が早いですね」
「こういう話だけは」
「自慢することではないでしょう」
三成が呆れたように返す。
正則が何か言い返すより先に、景継は元親の書状を広げた。
「長宗我部殿から正式に援軍の要請が来ました」
空気が引き締まった。
前回とは違う。
これで林道家が四国へ兵を送る理由ができた。
三成は書状へ目を落としたあと、ふと部屋の中を見回した。
「殿。官兵衛殿はいかがされます?」
「今回は残っていただきます」
正則が意外そうに顔を上げた。
「官兵衛殿を連れていかないんですか?」
「ええ。四国へ主だった者を集めすぎるつもりはありません。それに、気になるのは四国だけではありませんから」
景継の指が地図の上を西へ動き、九州で止まった。
島津をはじめとする諸勢力の争いは収まるどころか激しさを増している。
四国へ目を奪われている間も、九州の情勢まで止まってくれるわけではない。
吉継が景継の意図を察した。
「殿が四国へ渡られる以上、こちらで西国全体を見る者が必要ということですな」
「はい。それに毛利もあります。今は約定を守っていますが、私が四国へ渡るからといって備後まで空にするわけにはいきません」
恒興が納得したように頷いた。
「四国へ全員で渡れば、別の場所で何か起きた時に動けぬからな」
「そういうことです」
三成が尋ねる。
「官兵衛殿には、すでにお伝えで?」
「今朝、話しました」
◇ ◇ ◇
その日の朝。
景継から元親の書状を渡された官兵衛は、最後まで目を通してから静かに机へ戻した。
「ついに阿波まで動きましたか」
「ええ。元親殿から援軍を求められました。私は四国へ渡ろうと思います」
「よろしいかと」
返答は早かった。
景継は地図を広げながら続ける。
「ですが、官兵衛殿には残っていただきたい」
官兵衛の目が景継へ向いた。
「四国へは連れていかぬ、と?」
「はい」
「理由を伺っても?」
「私も官兵衛殿も四国へ渡ってしまえば、西を見る者がいなくなります」
景継の指が四国を越え、さらに西へ動いた。
「四国の騒ぎは放っておけません。しかし、九州も動いています。毛利も今は静かですが、何も起こらないと決まったわけではありません」
官兵衛は黙って地図を眺めた。
その視線は四国で止まらず、九州へ向かう。
「なるほど。私は留守番というわけですな」
「その言い方をされると、随分と楽な仕事に聞こえますね」
官兵衛の口元に笑みが浮かんだ。
「違いますかな?」
「九州から届く報告はすべて官兵衛殿に回します。毛利についても何かあれば見ていただきたい」
官兵衛の笑みが薄くなる。
景継が自分へ任せようとしているものの重さを理解したのだろう。
「それはまた、随分と面倒な留守番ですな」
「ですから、官兵衛殿にお願いしています」
「そう言われては断りにくいですな」
官兵衛は地図の九州を指で軽く叩いた。
「承知しました。こちらはお任せを。殿がお戻りになるまでに九州で大きな動きがあれば、すぐに知らせます」
「お願いします」
景継が地図を畳もうとした時、官兵衛がその手を止めた。
「ただし、殿」
「何でしょう」
「四国で長居はなさらぬ方がよろしいかと」
官兵衛の目は、まだ九州へ向いていた。
「こちらは、いつまでも待ってはくれそうにありませぬ」
景継も九州へ視線を落とした。
以前、官兵衛と話した言葉を思い出す。
もし九州へ兵を入れることになったなら、最初の一戦はただ勝つだけでは足りない。
圧勝する。
あの男は、そう言った。
「分かっています。早く終わらせますよ」
「それがよろしい」
官兵衛はそう答えると、もう一度九州へ視線を落とした。
◇ ◇ ◇
「――というわけです」
景継が話し終えると、三成は納得したように頷いた。
「では官兵衛殿がこちらに残られるなら、四国への兵糧と船はこちらで整えます。殿は向こうのことに集中なさってください」
「頼りにしています」
「はい」
三成はすぐに手元の書付を開いた。
「兵三千であれば、先に押さえた船で対応できます。兵糧は当面二十日分を用意しております。馬は一度にすべて渡す必要はないでしょう。先陣を歩兵中心にすれば、さらに早くできます」
正則が目を丸くした。
「もう二十日分も用意したのか?」
「準備しろと言われたからな」
「お前、本当にこういう時だけは怖えな」
「こういう時『だけ』は余計だ」
清正が小さく笑った。
景継は三成へ尋ねる。
「出発まで何日必要です?」
「二日」
即答だった。
「急がせれば明日にも一部は出せます。ただ、無理に一日縮めて現地で兵糧が足りぬことになれば本末転倒です。二日いただきたい」
「分かりました。二日でお願いします」
「承知しました」
三成が頭を下げる。
次に景継は吉継を見た。
「吉継殿」
「一つ、気をつけるべきことがございます」
吉継は四国の地図へ手を伸ばした。
「我らが前へ出すぎぬことです」
正則が怪訝そうな顔をする。
「勝っちゃ駄目なのか?」
「そういう意味ではない」
吉継は苦笑した。
「この戦の後も四国を治めるのは長宗我部殿だ。我らが反乱をすべて鎮め、元親殿が後から入ってくるような形になれば、その威信を損なう」
景継はゆっくり頷いた。
それは重要だった。
林道家が四国へ渡る目的は、領土を広げることではない。
「長宗我部軍を主として見せる必要があるということですね」
「はい。我らは必要な場所へ兵を入れ、元親殿が動きやすい状況を作る。それで十分でしょう」
恒興も頷いた。
「戦場で手柄を取りすぎて、戦が終わってから元親殿を困らせても仕方あるまい」
「なるほどな」
正則も納得したようだった。
その横で清正が地図を見つめる。
「では、俺たちはどこへ入ります?」
景継は元親から届いた報告を確認した。
伊予では長宗我部軍がすでに戦っている。
讃岐では港を巡る争い。
阿波では国人衆が城を襲い始めたばかり。
三つすべてへ林道軍を分ければ、かえって指揮が散る。
「讃岐へ入ります」
景継が告げた。
恒興が目を細める。
「港か」
「はい。讃岐の港を早く安定させれば、長宗我部殿も兵を動かしやすくなる。こちらも海路を使えます」
三成もすぐに意味を理解した。
「以後の兵糧輸送にも使えますな」
「ええ」
清正が口元を上げる。
「なら、港を取り返せばよいのですな」
「壊さずに、ですよ」
三成が釘を刺した。
「分かっている」
「本当か?」
「三成、お前は俺を何だと思っている」
「城攻めとなれば壁ごと壊しかねない男だと思っている」
「お前な」
正則が吹き出した。
「清正、今回は俺の方が向いてそうだな」
「なぜだ」
「港なら壁はねえだろ」
今度は恒興まで笑った。
景継はそのやり取りを眺めてから、清正と正則へ向き直った。
「お二人には先陣をお願いします。ただし、競争はしないように」
「……」
二人とも黙った。
恒興が眉を上げる。
「今の間は何だ」
「何でもありません」
清正が答える。
「仲良くやります」
正則も続けた。
「余計に不安ですね」
景継が返すと、評定の間に再び笑いが広がった。
その笑いが収まるのを待ってから、景継は長重へ向き直る。
「長重殿」
「はっ」
「丹羽勢にも出てもらいます。ただし先陣ではありません。讃岐へ渡った後、確保した道と港を守っていただきたい」
長重はわずかに目を見開いた。
清正や正則のように敵陣へ飛び込む役目ではない。
だが、港と道を守る者がいなければ、その先へ軍は進めない。
父・長秀が得意としていたのも、華々しい突撃だけではなく、軍全体を支える仕事だった。
長重は背筋を伸ばした。
「お任せください」
以前より力のある声だった。
景継は頷き、最後に恒興を見る。
「恒興殿には、私と共に全体を見ていただきたい」
「年寄り扱いか?」
「経験を買っているのです」
「なら、そういうことにしておこう」
恒興が笑う。
景継は立ち上がった。
「二日後、四国へ渡ります」
将たちの表情が変わる。
「この戦で四国の一寸たりとも林道家の領地にはしません。長宗我部殿を助け、騒ぎを鎮めたなら帰ります」
誰も異を唱えなかった。
「三成殿は兵糧と船を。吉継殿は私と共に元親殿との連絡をお願いします。清正殿、正則殿は先陣の準備を。長重殿も兵を整えてください」
「はっ!」
声が重なった。
◇ ◇ ◇
二日後。
港には、林道家の旗が並んでいた。
兵たちが次々と船へ乗り込み、俵に詰められた兵糧や武具が運び込まれていく。
三成は岸壁を歩き回りながら、積荷の数を確認していた。
「その俵は後の船だ! 先に水を積め! 馬を乗せる船へ余計な荷を入れるな!」
指示が次々と飛ぶ。
少し離れたところでは、清正と正則が自分たちの兵を整列させている。
「先に向こうへ着くのは俺だ」
正則が言った。
「競争するなと言われただろう」
清正が返す。
「まだ船だぞ。戦じゃねえ」
「同じことだ」
そんな二人を見て、恒興が首を振った。
「景継殿。あれを先陣にして本当に大丈夫か?」
「戦になれば頼りになります」
「戦になる前が心配なのだがな」
景継は苦笑した。
その少し後ろには、長重がいる。
丹羽家の旗を掲げた兵たちを前に、若い当主は自ら隊列を確認していた。
父はもういない。
それでも丹羽の旗は残り、その旗を率いる者もいる。
やがて三成が景継のところへ歩いてきた。
「殿。先発の船、すべて準備が整いました」
「ありがとうございます」
景継は海の向こうへ目を向けた。
その先にある四国では、三つの火が燃えている。
伊予。
讃岐。
阿波。
そして自分が四国へ渡っている間、西国を見ている者もいる。
官兵衛だ。
景継はそのことに何の不安も抱いていなかった。
「出ましょう」
景継の声とともに、船が岸を離れ始める。
林道家の軍勢が、四国へ向けて動き出した。




