第二百五十一話 伊予蜂起
最初の知らせは、夜明け前に届いた。
土佐へ駆け込んできた使者は、馬から降りるなり足をもつれさせ、それでも休むことなく長宗我部元親への取次ぎを求めた。
ほどなくして起こされた元親は、身支度もそこそこに使者を前へ通した。
「申し上げます。伊予にて兵が立ちました」
元親の顔から眠気が消えた。
「どこだ」
使者が地名を告げる。
元親は黙ったまま、その名を頭の中で反芻した。
景継から四国の情勢について警戒を促す書状が届いてから、まだそれほど日は経っていない。その矢先の蜂起だった。
「数は」
「確認できているだけで五百ほど。しかし周辺の地侍が加わり始めており、さらに増えるものと思われます」
「城を狙っておるのか?」
「いえ。まず我らの役人を追い出し、街道を押さえております。また、近隣の村々へ使いを出しているとのこと」
元親は立ち上がった。
話し合いの余地が残っているのか。それとも、すでに刀で決着をつけるつもりなのか。
少なくとも、こちらが迷っている暇はなかった。
「兵を集めろ。ただし、村を焼くな。降る者まで斬る必要はない」
「はっ!」
家臣が動き出す。
元親は四国の地図を広げ、伊予へ視線を落とした。
五百。
その数だけなら恐れるほどではない。長宗我部が本気で兵を動かせば、押し潰すことはできる。
だが、気になるのは手際だった。
役人を追い出し、街道を塞ぎ、周辺へ使者を走らせる。それらを短時間で行っている以上、怒りに任せて突然立った者たちではない。
「誰がまとめておる」
「まだ分かりませぬ」
「探れ。兵を出すのと同時だ」
元親は甲冑の紐を締めながら、低い声で続けた。
「頭がいるなら頭を止める。そうでなければ、何を理由に集まったのかを調べろ。数だけ減らしても、また立たれては意味がない」
土佐から伊予へ、長宗我部の兵が動き始めた。
◇ ◇ ◇
蜂起の知らせは、瞬く間に伊予の各地へ広がった。
すぐに武器を持って加わる者もいれば、長宗我部への不満を抱えながらも家族を危険に晒すことを恐れ、動かない者もいる。
どちらが勝つか見極めようと、門を閉ざして様子を見る者も少なくなかった。
それでも、最初は五百ほどだった集団は二日後には千を超えた。
街道沿いには柵が設けられ、狭い道には倒木が並べられている。
正面から長宗我部軍とぶつかれば勝てない。その程度のことは、蜂起した側も理解していた。
だからこそ、まともには戦わない。
長宗我部軍が進めば林や山から矢を放ち、追撃されれば奥へ退く。相手の兵を疲れさせながら、少しでも時間を稼ごうとしていた。
報告を受けた元親は、苛立つ家臣たちを抑えた。
「追うな。山へ入れば向こうの思う壺だ」
「しかし、このままでは進軍が遅れます」
「構わん。まず街道を開けろ。それと、降る者には道を残しておけ」
家臣の一人が驚いた。
「ここまでしておきながら、許されるので?」
「首謀した者と、流されて武器を持った者まで同じに扱えば、最後まで戦わせることになる」
元親は前方の山々を見据えた。
ここは敵国ではない。
鎮圧した後も、自分が治めていかなければならない土地なのだ。
やがて、その判断が効き始めた。
日が傾く頃には、蜂起側から十人、二十人と離れる者が現れ始める。
長宗我部側に安堵が広がりかけた、その時だった。
後方から一騎の馬が駆け込んできた。
「申し上げます!」
伝令が馬から飛び降りる。
「讃岐にて騒乱! 港を押さえていた役人が襲われました!」
元親の眉が動いた。
「規模は」
「まだ分かりませぬ。ただ、複数の港でほぼ同時に動きがあったとのこと!」
周囲の空気が変わる。
伊予では土地を巡る不満。
讃岐では港を巡る不満。
原因は違う。
だが、火が上がった時期は重なった。
「……やられたな」
元親が低く呟いた。
ここで伊予の兵を割けば、ようやく崩れ始めた者たちが息を吹き返す。しかし讃岐を放置すれば、そちらの騒ぎが大きくなる。
「讃岐の守りへ現地の兵を集めさせろ。こちらから大軍はまだ動かさん」
「よろしいので?」
「まず伊予を崩す。二つとも中途半端に手を出す方が危うい」
元親はそう命じながら、東へ視線を向けた。
その先には阿波がある。
まだ静かだった。
それが今は、かえって不気味に思えた。
◇ ◇ ◇
伊予と讃岐の知らせが景継のもとへ届いた日の午後。
景継は、すぐに近くにいる者たちを集めた。
石田三成。
大谷吉継。
加藤清正。
福島正則。
池田恒興。
そして丹羽長重。
毛利との大戦のように各地の諸将を呼び集めたわけではない。まだ長宗我部から援軍を求められたわけでもなく、林道家が四国へ出兵すると決まったわけでもないからだ。
今必要なのは、状況を整理し、もしもの時に動ける支度をしておくことだった。
「伊予で兵が立ち、讃岐でも騒ぎが起きました」
景継が地図を広げると、恒興が身を乗り出した。
「元親殿からは?」
「まだ何も」
「ならば、こちらから兵を出すのは早いな」
恒興の答えに迷いはなかった。
「元親殿にも面目がある。自分の領内で騒ぎが起きた途端、他家の軍勢が海を渡ってきたのでは、助けに来たのか領地を狙っているのか分からぬ」
正則が腕を組んだ。
「景継様が四国を取る気なんざないことくらい、元親殿も知ってるでしょう」
「元親殿は知っていても、その下の者まで全員が知っているわけではない」
恒興に返され、正則は口を閉じた。
景継はそのやり取りを聞きながら頷いた。
「恒興殿の言う通りです。今はこちらから兵を入れるべきではありません」
「ただ、準備は必要でしょう」
吉継が静かに口を開いた。
「伊予だけなら長宗我部殿の力で十分に収められたでしょう。しかし讃岐でも同時に動いたとなれば、兵を分けなければならない。さらに別の場所まで動けば、話は変わります」
清正が地図の東へ目を向けた。
「阿波か」
「可能性はあります」
「三つ同時となれば、さすがの元親殿でも面倒だな」
正則が呟いた。
吉継は伊予と讃岐を交互に指した。
「もう一つ気になることがあります。伊予と讃岐では、騒ぎの理由が違います」
「伊予は土地、讃岐は港でしたね」
景継が言うと、吉継は頷いた。
「はい。互いに連絡を取っていたとしても、一つの集団として動いているとは限りません。もし我らが四国へ渡ることになったとしても、一方を鎮めればすべて終わるとは考えぬ方がよいでしょう」
景継は返事をせず、地図を眺めた。
伊予。
讃岐。
そして阿波。
同じ四国の中で起きていても、事情はそれぞれ違う。
実際に兵を出すことになれば、戦場だけを見て動くわけにはいかないだろう。
その時、紙をめくる音がした。
三成だった。
先ほどから四国の地図より、別の書付を熱心に確認している。
正則が怪訝そうに見る。
「三成、お前は何を見ている」
「船だ」
「船?」
「四国へ渡るなら必要だろう」
三成は当然のように答えた。
「まだ出陣すると決まってねえぞ」
「決まってから集めるのか?」
三成がようやく顔を上げた。
「兵を三千送るとしても、人だけを船へ詰め込めばよいわけではない。馬、武具、兵糧も渡さねばならん。どの港から出すかによって必要な日数も変わる」
正則が何か言い返そうとしたが、清正が先に笑った。
「三成の言う通りだ。お前なら出陣が決まった瞬間に槍を持って港へ走りかねん」
「お前にだけは言われたくねえ」
「俺は馬にも乗る」
「そういう話じゃねえ」
恒興が二人を見て、呆れたように笑った。
「お主ら、毛利との戦から何も変わっておらんな」
張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。
景継も口元を緩め、それから三成へ向き直った。
「数千をすぐに渡せる準備だけしておいてください。ただし、兵を集結させるところまでは必要ありません」
「承知しました。船と兵糧、それから馬を渡せる港も調べておきます」
「お願いします」
三成が書付へ筆を走らせる。
その横で、長重はほとんど口を開かず地図を見つめていた。
景継はしばらく待ってから声をかけた。
「長重殿はどう思われます?」
長重が顔を上げる。
父・丹羽長秀を亡くしてから、まだそれほど時は経っていない。
以前なら父の隣に座っていた若者が、今は丹羽家の当主として一人でこの場にいる。
「……私も、今は動かぬ方がよいと思います」
長重は慎重に言葉を選んだ。
「ただ、元親殿から援軍を求められてから支度を始めたのでは遅い。兵を集める場所だけでも決めておけば、要請が届いた時にすぐ動けます」
「どこがよいと思われます?」
景継が重ねて尋ねる。
長重は地図へ目を落とした。
迷ったあと、一か所を指す。
「ここなら、瀬戸内へ出やすいかと。三成殿が船を用意する港とも合わせやすいでしょう」
三成が長重の指した場所を見る。
「悪くない」
短い言葉だった。
だが、長重はわずかに表情を緩めた。
景継はそれを見ても、あえて何も言わなかった。
父の代わりとして扱うつもりはない。
長重には長重自身の考えで、この場に座ってもらえばよい。
「では、その場所も候補に入れてください」
「はっ」
長重が頭を下げた。
恒興はそんな若い当主を横目で見てから、景継へ視線を戻した。
「景継殿」
「はい」
「もし元親殿から助けを求められたなら、お主自身が行くつもりか?」
「そのつもりです」
景継は即答した。
「四国の領地を得るためではありません。長宗我部殿を助けるために渡るのですから、私自身が行った方が余計な疑いを生まずに済むでしょう」
恒興は髭に手をやり、しばらく考えた。
「なら、連れていく兵は多すぎぬ方がよいかもしれんな」
正則が目を丸くする。
「少ない方がいいんですか?」
「長宗我部を滅ぼしに行くわけではないからな」
「なるほど」
珍しく正則が素直に頷く。
清正は地図を眺めながら口を開いた。
「それでも戦になるなら、数だけ減らして弱い兵を連れていくわけにはいきませんな」
「その時は、清正殿と正則殿にも働いていただきます」
景継が言う。
二人が同時に顔を上げた。
「お任せを」
「待ってました」
「まだ出陣は決まっていませんよ」
景継が念を押すと、恒興が声を上げて笑った。
「この二人にそれを言っても無駄だろう」
正則は不満そうだったが、清正まで笑っているのを見て何も言い返さなかった。
景継は改めて全員を見渡した。
「今は準備だけです。長宗我部殿から求められない限り、こちらから兵は出しません」
三成は船と兵糧を整え、吉継は四国から届く情報を整理する。
清正と正則には、いつでも兵を動かせるよう自軍の状態を確認させる。
恒興には出陣した場合の兵数や動かし方について意見を求め、長重にも丹羽家の兵の状態を確認してもらう。
それぞれの役目を伝えると、将たちは次々に席を立った。
その中で、吉継だけが地図の前に残った。
視線は阿波へ向いている。
「気になりますか」
景継が尋ねる。
「少々」
吉継は地図から目を離さなかった。
「伊予が動き、讃岐も動いた。それでも阿波だけが静かなままというのは、良い意味であればよいのですが」
景継も阿波を見る。
「私も同じことを考えていました」
「では?」
「すでに報告を急がせています」
吉継はそれを聞いて頷いた。
「杞憂であればよいですな」
「ええ。本当に」
それが本心だった。
四国で大きな戦など起こらない方がいい。
元親自身の手で伊予と讃岐を収められるなら、それに越したことはない。
だが――。
その願いは、三日後に届いた一報によって崩れることになる。
◇ ◇ ◇
阿波の山中にある小さな屋敷。
夜が深まった頃、数人の男たちが顔を揃えていた。
一人が伊予から届いた書状を読み終え、机へ置く。
別の男の前には、讃岐から届いた知らせがあった。
「伊予が立った」
誰かが呟く。
「讃岐もだ」
室内には長い沈黙が落ちた。
これまでなら、長宗我部への不満を口にするだけで終わっていた。
戦って敗れた者。
土地を減らされた者。
新たな支配に馴染めぬ者。
胸の内に抱えているものは、それぞれ違う。
だが、伊予と讃岐が同時に動いたことで、状況は変わった。
最も年長の男が、ゆっくり顔を上げる。
「長宗我部の兵は伊予へ向いている。讃岐にも兵を割かねばならぬ」
誰も反論しない。
「ならば」
男の手が、机の上に置かれた刀へ伸びた。
「我らだけが黙っている理由もあるまい」
伊予から上がった火は、讃岐へ移った。
そして今。
三つ目の火が、阿波で灯ろうとしていた。




