第二百四十九話 見えぬ者
伊予の様子を探るよう命じてから、十日ほどが過ぎた。
景継のもとへ最初の報告を持ち帰ったのは、武士ではなく商人だった。
瀬戸内を行き来し、米や塩、油などを扱っている男である。林道家と直接深い繋がりを持つ者ではないが、弥兵衛が間に人を立て、伊予で最近変わったことがないか尋ねさせていた。
男が持ち帰った話は、一つ一つを見れば大したものではなかった。
米を多めに買う者がいる。
馬の値が一部で上がっている。
鍛冶屋へ持ち込まれる仕事が増えた。
港では、普段あまり見ない者が船乗りと話している姿があった。
どれも戦の準備だと断定できるものではない。
米の値など豊作と凶作でいくらでも動く。馬も必要な者が重なれば高くなるし、鍛冶屋が忙しくなることも珍しくなかった。
だが、景継が気にしたのは、それらが同じ時期に重なっていることだった。
「もう一度、お願いします」
景継が言うと、弥兵衛が報告を書き留めた紙を広げ直した。
「米を買い集めている者が確認されたのは、伊予の南と中央。それから馬の値が上がっているのはこちら。鍛冶屋への注文が増えたという話は三か所から入っております」
弥兵衛の指が地図の上を移動する。
景継は黙って見ていた。
「同じ場所ではありませんね」
「はい。少し離れております」
「それが気になります」
弥兵衛が顔を上げた。
「同じ者たちが戦支度をしているなら、一か所に集まるはずだと?」
「少なくとも、もっと分かりやすい動きになります」
ところが実際には違う。
一つ一つは小さく、場所も離れている。
だからこそ、まだ長宗我部側も大きな異変として捉えていない可能性があった。
景継は以前届いた報告を取り出した。
地侍たちの集まり。
土地を巡る不満。
役人との小さな衝突。
そこへ今回の話を重ねる。
「一つの大きな動きがあるというより……あちらこちらで別々に動き始めているように見えますね」
「それでは、誰かが全てを操っているわけではないと?」
「今のところ、そのような者は見えません」
景継は地図の伊予へ視線を落とした。
一人の首謀者が全てを動かしているのなら、むしろ対処しやすい。
その者を止めれば、動きそのものが崩れる可能性がある。
だが、別々の理由で不満を持つ者たちが、それぞれ武器を取り始めているのなら話は違う。
一つを抑えても、別の場所で火が上がる。
「長宗我部殿へ知らせます」
前回とは違う判断だった。
弥兵衛が頷く。
「どこまでお伝えしますか?」
「確認できたことだけです。謀反が起きるなどとは書かなくてよいでしょう」
景継は筆を取った。
林道家が四国を疑っていると思われる必要はない。
あくまで瀬戸内を往来する者から気になる話が入ったため知らせる。それだけで十分だった。
書状を書き終えると、景継は筆を置いた。
「それと、伊予だけを見ないようにしてください」
「讃岐と阿波も?」
「はい」
前回の報告では、まだ目立った動きはない。
だからこそ今のうちに見ておく。
伊予の騒ぎが伊予だけで終わるのか。それとも別の土地まで揺らすのかで、意味は大きく変わる。
「兵を動かす準備もいたしますか?」
弥兵衛が尋ねた。
景継は首を振った。
「まだ早いでしょう」
「しかし、本当に兵乱となれば」
「その時に考えます」
長宗我部元親から助けを求められたわけでもない。
他家の領内で騒ぎが起きそうだからと、勝手に軍勢を集め始めれば、それは援軍ではなく圧力になる。
「今は元親殿がどう動くかを見るべきです」
「承知いたしました」
弥兵衛が書状を持って退出する。
その日の夕刻には、四国へ向かう使者が屋敷を発った。
――数日後。
土佐。
長宗我部元親は、景継から届いた書状を二度読んだ。
表情は変わらない。
だが、二度目を読み終えても、すぐには紙を置かなかった。
「伊予、か」
声が低い。
元親自身、不満があることを知らなかったわけではない。
四国を一つにするまで、多くの者と戦った。
敗れた者が昨日から急に忠臣へ変わるわけではないことくらい、理解している。
それでも領国を治めるには、どこかで線を引かなければならなかった。
城。
土地。
兵。
港。
旧来の権益を全てそのまま残していては、一つの国として動かすことができない。
だから手を入れた。
その結果、不満が出ることも覚悟していた。
問題は、その不満がどこまで育っているかである。
「景継殿は、どこまで掴んでおる」
元親が呟く。
書状には断定的なことは何も書かれていない。
伊予で米や馬の動きに気になるところがある。
念のため注意されたし。
それだけだった。
だからこそ、元親は気になった。
林道景継という男が、何の根拠もなくこんな書状を送ってくるとは思えない。
「伊予を調べろ」
家臣へ命じる。
「ただし、騒がせるな。兵を出す必要もない。誰が誰と会い、どこで物が動いているのか、それだけでよい」
「はっ」
家臣が下がっていく。
元親はもう一度、景継からの書状へ目を落とした。
「余計な心配であればよいがな」
そう呟き、紙を畳んだ。
しかし、伊予の動きは止まらなかった。
それから半月も経たぬうちに、新たな報告が景継のもとへ届いた。
今度は讃岐だった。
「讃岐?」
景継は書状を持ったまま、弥兵衛を見た。
「はい。ただし、伊予と同じ動きではございません」
讃岐で問題になっているのは、港だった。
長宗我部方が瀬戸内の港を以前より強く管理し始めたことで、古くから港の利を得ていた者たちとの間に摩擦が起きているという。
まだ武器を取った者はいない。
だが、役人との言い争いが増え、一部の商人が別の港へ移り始めていた。
景継は書状を読み終えると、伊予と讃岐を並べて見た。
同じではない。
伊予では土地と支配への不満。
讃岐では港と利益を巡る摩擦。
それでも、どちらも長宗我部が四国を一つにまとめようとした結果として生まれている。
「……これは少し厄介ですね」
弥兵衛も地図を見る。
「繋がっているのでしょうか」
「分かりません」
景継は正直に答えた。
「今のところ、無理に繋げて考えない方がよいでしょう」
同じ時期に起きているからといって、同じ者が動かしているとは限らない。
伊予の者が讃岐へ命令している証拠もない。
「ただ――」
景継の指が伊予から讃岐へ動いた。
「別々の火でも、風が吹けば一つになることはあります」
弥兵衛の表情が引き締まる。
景継はしばらく考えたあと、再び筆を取った。
今度は元親へではない。
瀬戸内を行き来する者たちへ、さらに情報を集めさせるための指示だった。
阿波も見る。
港を見る。
米を見る。
そして、人の移動を見る。
まだ林道家の兵は一人も動かさない。
だが景継の目は、確実に四国へ向き始めていた。
◇ ◇ ◇
同じ頃。
どことも知れぬ一室で、一人の男が地図を眺めていた。
灯火が揺れ、その顔の半分を影が覆っている。
地図の上には、いくつもの国がある。
争い、結び、裏切り、また争う。
男は長い間それを見つめていたが、やがて小さく息を漏らした。
「……変わらぬものだ」
その声を聞く者はいない。
男の指が地図の上をゆっくりと進む。
「時が移ろい、場所が変わろうとも……人が天下を争えば、行き着くところは似たようなものか」
指先が、ある場所で止まった。
「ならば」
わずかな沈黙が落ちる。
「今度は、どうなる」
男はそれ以上何も言わず、静かに地図を畳んだ。
灯火が揺れる。
その男が何者なのか。
この時、それを知る者はいなかった。




