第二百四十八話 伊予の火種
天正十四年
一五八六年。
年が明けても、景継の暮らしが大きく変わることはなかった。
朝になれば政務が始まり、各地から届く書状に目を通し、必要があれば家臣を呼ぶ。領内の訴えや年貢、街道や河川の整備について判断を下しているうちに、一日は驚くほど早く過ぎていく。
ただ、屋敷の中には確かな変化があった。
茶々の懐妊が正式に確認され、近しい者たちにも知らされるようになったのである。
体調は日によって差があり、朝から元気な日もあれば、食事の匂いだけで顔をしかめる日もある。それでも大きな問題はなく、医師からも今のところ心配はないと言われていた。
景継としては、それだけで十分だった。
もっとも、本人はそう思っていても、周囲から見れば少し違ったらしい。
「殿。茶々様のところへ行かれるので?」
政務を終えた景継へ、弥兵衛が声をかけた。
「そのつもりですが」
「本日、三度目では?」
景継の足が止まった。
「二度目です」
「朝に一度、昼に一度。これから行けば三度目でございます」
「……昼のあれは、様子を見に行ったわけではありません」
「では?」
「近くを通ったので」
弥兵衛は何も言わなかった。
ただ、その顔には明らかに「それを様子を見に行ったと言うのでは」と書いてある。
景継は視線を逸らした。
「何か問題がありますか?」
「ございません。茶々様も喜ばれるでしょう」
そう答えた弥兵衛の声に笑いが混じっていたため、景継は結局その日は三度目を諦めた。
代わりに、届いたばかりの書状へ目を通すことにした。
その中に、四国からのものがあった。
景継の表情が変わる。
以前から、四国については情報を集めさせている。
長宗我部元親が四国をまとめたとはいえ、阿波、讃岐、伊予の全てが土佐の支配を素直に受け入れているわけではない。
だからといって、すぐに戦が起きると考えていたわけでもなかった。
新たな支配への不満など、どこにでもある。
問題は、それがどこまで膨らむかだった。
景継は書状を開いた。
最初の数行を読み、指が止まる。
「弥兵衛」
「はい」
「これを」
渡された書状へ弥兵衛が目を通していく。
報告の中心は伊予だった。
長宗我部の支配下に入った後も、現地には旧来の繋がりを持つ者たちが多く残っている。その中で最近、土地の扱いを巡る不満が目立ち始めていた。
それだけなら珍しくない。
だが、気になることがある。
一部の地侍たちが、以前より頻繁に集まっているという。
「宴……ですか」
弥兵衛が書状の一文を読み上げた。
「表向きは」
景継は答えた。
「祝い事でもあったのでしょうか」
「報告にはありませんね」
「では、本当に酒を飲んでいるだけということも」
「もちろんあります」
景継は否定しなかった。
数人の武士が集まったからといって、謀反と決めつけることはできない。
むしろ、その程度の情報で騒げば余計な疑いを生む。
景継は続きを読んだ。
集まりは一度ではない。
場所を変え、人を変えながら続いている。
さらに、伊予の一部では長宗我部方の役人と地元の者との間で小さな衝突も起きていた。
死人が出るほどではない。
だが、以前より空気が悪くなっていることは確かだった。
「まだ火ではありませんね」
景継が呟く。
弥兵衛が顔を上げる。
「では、放っておきますか?」
「いいえ」
景継は書状を机へ置いた。
「煙が出ているのなら、どこから出ているのかくらいは調べておきましょう」
ただし、林道家の名を前へ出すつもりはなかった。
四国は長宗我部の領分である。
景継が勝手に家臣を送り込んで探らせれば、それ自体が疑念を招く。
「商人を使ってください」
「商人を?」
「伊予へ出入りしている者なら、米や塩の値だけでなく、人の動きも見ています。武器が急に売れ始めた、馬の値が上がった、米を大量に買い集める者がいる――そういう話がないか知りたい」
弥兵衛が頷いた。
「なるほど」
「それから港です」
伊予には海がある。
兵を集めれば食わせなければならず、武器も必要になる。大きな動きには、どこかに必ず痕跡が残る。
「船の出入りが急に増えていないか。普段とは違う荷を運んでいる者がいないか。その程度で構いません」
「長宗我部殿へは?」
景継は少し考えた。
すぐに知らせるべきか。
だが、今あるのは噂に近い情報だけである。
「まだ伝えません」
「よろしいので?」
「こちらが疑っていると知れば、元親殿も動かざるを得なくなるでしょう。何もなければ、余計な騒ぎを起こしただけになります」
景継は地図を広げた。
伊予。
その隣に讃岐、さらに阿波。
四国を一つにまとめたと言っても、土地ごとに事情は違う。
今は伊予だけだ。
それが他へ広がらなければ、大きな問題にはならない。
「まずは見ます」
景継はそう結論づけた。
「ただし、以前より近くから」
弥兵衛が一礼して部屋を出ていく。
一人になった景継は、しばらく四国の地図を眺めていた。
その時だった。
廊下の向こうから足音が近づいてくる。
「景継様」
聞き慣れた声だった。
「どうぞ」
襖が開き、楓が顔を覗かせた。
「お仕事中でしたか?」
「ちょうど終わったところです」
正確には終わっていなかったが、急ぎのものはない。
楓は部屋へ入り、景継の前に座った。
「茶々様のところへは行かれないのですか?」
景継の顔が止まった。
「……なぜそれを?」
「待っていましたよ」
「茶々が?」
「今日はまだ二度しか来ていない、と」
景継は眉間を押さえた。
弥兵衛だけではない。
どうやら本人にも数えられていたらしい。
楓が楽しそうに笑っている。
「行って差し上げてください」
「しかし、あまり行くと心配しすぎだと言われます」
「来なければ来ないで気になるのが女というものです」
「難しいですね」
「はい」
楓はあっさり認めた。
景継は四国の地図を畳み、立ち上がった。
「では、行ってきます」
「その方がよろしいかと」
部屋を出ようとして、景継は振り返った。
「楓」
「はい?」
「あなたのところにも、あとで行きます」
楓は少し驚いた顔をした。
それから何もからかわず、穏やかに頷いた。
「お待ちしております」
景継は今度こそ部屋を出た。
その夜。
伊予のある屋敷では、十数人の男たちが集まっていた。
灯りは少ない。
酒は置かれているが、ほとんど誰も口をつけていなかった。
「また土地を取り上げるそうだ」
低い声が響く。
「今度は誰だ」
「南の者たちだ。城の周りを固めるためだとよ」
別の男が拳を握った。
「土佐の連中は、いつまで我らを信用せぬつもりだ」
「信用していないから取り上げるのだろう」
吐き捨てるような声が返る。
部屋の空気が重くなる。
だが、上座に座る男は黙ったままだった。
「どうする」
誰かが尋ねる。
「このままでは、次は我らかもしれぬぞ」
それでも上座の男はすぐには答えなかった。
やがて、ゆっくりと口を開く。
「まだ動くな」
不満げな視線が集まる。
「なぜだ」
「我らだけで立てば潰される」
男は卓上に置かれた四国の簡素な地図へ目を落とした。
「伊予だけでは足りぬ」
誰かが息を呑んだ。
「……讃岐か?」
男は答えない。
ただ、指先が伊予から東へ動いた。
「向こうにも、土佐を快く思わぬ者はいる」
小さな火なら消される。
ならば、消せぬほど大きくすればよい。
まだ誰も兵を挙げてはいない。
城も焼けていない。
血も流れていない。
だが。
景継が遠くから見つけた煙の下で、確かに火種は赤くなり始めていた。




