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『乱世にて、我は待つ』~知略を秘めた軍師は、やがて天下を動かす~  作者: ダイヤマ
第十二章 命運交錯編

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第二百四十七話 新たな命



翌朝。


景継はいつもより早く目を覚ました。


まだ外は薄暗く、屋敷の中にも人の気配は少ない。普段ならそのまま起きて政務へ向かうところだったが、この日はしばらく布団の上から動かなかった。


昨夜、茶々から聞いた言葉が頭に残っている。


まだ決まったわけではない。


本人もそう言っていたし、楓からも今の段階で騒がない方がよいと言われた。


それは分かっている。


分かってはいるのだが、万代丸の時とは少し違う。


あの時は、自分に子ができるという事実そのものが、どこか現実離れしていた。


前世の記憶を持ったまま、この時代で林道景継として生き、妻を迎え、その妻との間に子が生まれる。


万代丸を初めて抱いた時になって、ようやく自分が本当に父になったのだと実感したほどだ。


だが今回は違う。


赤子が生まれるとは、どういうことなのかを知っている。


だからこそ、期待も不安も前より具体的だった。


景継は静かに起き上がった。


結局その日の政務でも、いつものようには集中できなかった。


書状を読んでいても、ふと昨夜の茶々の顔が浮かぶ。一度読み終えたはずの書状を、気づけばまた最初から読んでいた。


「殿」


弥兵衛の声に顔を上げる。


「何でしょう」


「そちら、先ほどから三度ほど読んでおられますが」


景継は手元を見る。


「……そうでしたか?」


「何かございましたか?」


「いえ」


「ならばよろしいのですが」


弥兵衛はそう答えながらも、明らかに納得していない顔をしている。


景継は書状を置いた。


「弥兵衛」


「はい」


「まだ分からないことを、人に話すべきではありませんよね」


突然の問いに、弥兵衛が目を瞬かせた。


「何の話でございます?」


「一般論です」


「殿が一般論を尋ねてこられる時は、大抵何かございますな」


景継は答えなかった。


弥兵衛がじっとこちらを見る。


やがて、その表情がわずかに変わった。


「……茶々様ですか?」


景継の眉が動く。


それだけで十分だったらしい。


「まさか――」


「まだ分かりません」


景継はすぐに遮った。


「私はまだ何も申しておりませんが」


「顔が言っております」


景継は思わず眉間に皺を寄せた。


「とにかく、まだ誰にも話さないでください」


「もちろんでございます」


弥兵衛は頷いたものの、その口元は明らかに緩んでいる。


「何です、その顔は」


「いえ。殿も随分と父親らしくなられたものだと思いまして」


「万代丸がいるのですから、すでに父親です」


「そういう意味ではございません」


弥兵衛はそれ以上説明せず、何事もなかったかのように仕事へ戻った。


景継は少し納得がいかなかったが、追及するのはやめた。


それから数日。


茶々の体調は戻らなかった。


朝になると気分が優れず、食事も以前ほど進まない。日によっては匂いを嫌がることもあった。


楓はすでに確信に近いものを持っていたようだが、それでも断定はせず、茶々の身体を休ませながら様子を見ていた。


そして医師が呼ばれた。


診察が行われている間、景継は別室で待っていた。


本来なら政務の時間である。


机の上には書状も置かれていたが、一枚も開いていない。


やがて襖が開いた。


楓が入ってくる。


景継はすぐに立ち上がった。


「どうでした?」


その勢いに、楓が少し驚いたように目を瞬かせる。


それから、柔らかく笑った。


「おそらく、間違いないだろうとのことです」


景継は何も言わなかった。


「景継様?」


「……そうですか」


ようやく出た言葉は、それだけだった。


楓が笑う。


「もう少し喜ばれてもよろしいのでは?」


「喜んでいますよ」


「そうは見えません」


「どういう顔をすればよいのか分からないだけです」


「万代丸の時も、同じようなことを仰っていましたね」


言われてみれば、そうだったかもしれない。


景継は息を吐き、ようやく肩の力を抜いた。


「茶々は?」


「待っていますよ」


楓に促され、景継は茶々のいる部屋へ向かった。


襖を開けると、茶々は布団の上に身体を起こしていた。


いつもの強気な表情ではない。


不安と嬉しさが混ざったような顔で、景継を見る。


「聞きましたか?」


「はい」


景継は茶々の前へ座った。


「おめでとうございます」


茶々の眉が寄った。


「……景継様」


「はい」


「なぜ他人事のようなのです?」


「他人事ではありませんよ」


「では、もう少し喜んでください」


景継は困った。


万代丸の時もそうだったが、こういう時に何を言えばよいのか、やはり分からない。


しばらく茶々の顔を見たあと、その手へ自分の手を重ねた。


「嬉しいです」


今度は飾らずに言った。


茶々の表情が少し変わる。


「本当に?」


「はい」


「政のためになるから、とかではなく?」


景継は首を振った。


「そんなことは、今は考えていません」


茶々は黙って景継を見つめた。


「あなたとの子が生まれる。それが嬉しい。それだけです」


しばらく返事はなかった。


茶々は重ねられた景継の手へ視線を落とし、やがて自分の指を絡めた。


「……私も、嬉しいです」


それだけ口にすると、茶々はもう片方の手を自分の腹へそっと添えた。


まだ外から見ても、何も変わってはいない。


「景継様の妻になって、こうして子まで授かるかもしれないなんて……少し前の私なら、考えてもいませんでした」


その声には喜びがあった。


だが、それだけではない。


茶々は自分の腹へ目を落としたまま、しばらく黙っていた。


「嬉しいのです。でも……少し怖くもあります」


景継は意外に思った。


普段の茶々なら、不安があっても簡単には口にしない。


「私もです」


茶々が顔を上げた。


「景継様も?」


「万代丸がいるのだから、二度目ならもう少し落ち着いていられると思っていました」


景継は茶々の腹へ視線を落とす。


「そうでもないようです」


茶々はしばらく景継を見つめたあと、その表情をわずかに緩めた。


「……それを聞けただけでも、よかったです」


二人の間に、それ以上の言葉はなかった。


ただ茶々の指は、景継の手を離さなかった。


その様子を、少し離れたところから楓が見ていた。


笑ってはいる。


だが、その笑顔の奥にほんの少しだけ別のものが混じっていることに、景継は気づいた。


茶々との話を終えたあと、景継は廊下へ出た楓を追った。


「楓」


「はい?」


楓が振り返る。


「ありがとうございます」


「何がです?」


「茶々のことです。私よりも先に気づいて、いろいろとしてくださったのでしょう」


「同じ女ですから。それに、一度経験していますので」


楓は穏やかに答えた。


景継はその顔を見たまま、少し迷った。


「……それだけですか?」


「何がでしょう」


「先ほど、何か考えていたように見えました」


楓の目がわずかに揺れた。


すぐにいつもの笑顔へ戻ったが、景継は待った。


やがて楓は小さく息を吐いた。


「景継様は、こういう時だけ妙に鋭いのですね」


「こういう時だけ、は余計です」


「では、普段から鋭いということにしておきます」


そう言ってから、楓は庭へ目を向けた。


「嬉しいのですよ。本当に」


「はい」


「茶々様に子ができたことも、万代丸に弟か妹ができることも。林道家にとっても、喜ばしいことでしょう」


そこで言葉が止まった。


景継は急かさなかった。


「でも……ほんの少しだけ、寂しいと思ったのです」


楓は苦笑した。


「おかしいでしょう?」


「いいえ」


景継はすぐに答えた。


楓がこちらを見る。


「万代丸を身籠った時は、私と景継様だけの喜びでした。それが今度は、茶々様と景継様の間にも生まれる。頭では当然だと分かっていたのですが……実際にその時が来ると、少しだけ違いました」


「楓」


「茶々様が嫌なのではありませんよ」


「分かっています」


楓はそこで黙った。


景継もすぐには言葉を返さなかった。


何を言えばよいのか考えてから、楓の隣へ並ぶ。


「万代丸が生まれた時のことは、誰とも分けられません」


楓が景継を見る。


「あの時、あなたが私にくださったものも、私が感じたものも、茶々に子ができたからといって薄くなることはありません」


景継自身、口にしてから少し驚いていた。


以前の自分なら、こんな言葉を素直に伝えられただろうか。


楓はしばらく何も言わなかった。


やがて小さく笑う。


「……茶々様のおかげかもしれませんね」


「何がです?」


「景継様が、少しだけこういうことを言えるようになったことです」


景継は返事に困った。


楓はそんな景継を見て、今度は自然に笑った。


「でも、あまり上手になられても困ります」


「なぜです?」


「妻が増えるかもしれませんから」


景継は即座に首を振った。


「それは勘弁してください」


あまりにも返事が早かったため、楓が声を上げて笑った。


「そこまで嫌なのですか?」


「嫌なのではありません。二人でも私には十分すぎるという意味です」


笑いながら歩き出した楓の横を、景継もゆっくりと歩いた。


その日の夕刻。


景継は一人、万代丸のそばに座っていた。


一歳を迎えようとしている息子は、父が何を考えているかなど知るはずもなく、目の前の木片を掴んでは何度も床へ落としている。


景継が拾う。


万代丸がまた落とす。


もう一度拾うと、また落とした。


三度目になって、景継は息子の顔を見る。


万代丸は楽しそうに笑っている。


どうやら父親に拾わせること自体が面白いらしい。


景継は諦めて、もう一度木片を拾った。


やがて、この子に弟か妹ができる。


そして自分は、もう一度父になる。


前世では天下を巡る戦いの中で、人の命を数字として見ることも少なくなかった。


だが今は、一つの命が生まれるというだけで、これほど心が揺れる。


不思議なものだと思う。


「万代丸」


呼びかけると、息子が顔を上げた。


「兄になりますよ」


意味など分かっていない。


それでも万代丸は景継を見て笑った。


景継もわずかに笑い返す。


天正十三年

一五八五年の暮れ。


林道家に、新たな命が宿った。


その子がどのような顔で生まれ、どのような道を歩むのか。


景継には、まだ何も分からない。


ただ一つ確かなのは、万代丸とはまた違う新しい命が、今この時も静かに育ち始めているということだけだった。



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