第二百四十七話 新たな命
翌朝。
景継はいつもより早く目を覚ました。
まだ外は薄暗く、屋敷の中にも人の気配は少ない。普段ならそのまま起きて政務へ向かうところだったが、この日はしばらく布団の上から動かなかった。
昨夜、茶々から聞いた言葉が頭に残っている。
まだ決まったわけではない。
本人もそう言っていたし、楓からも今の段階で騒がない方がよいと言われた。
それは分かっている。
分かってはいるのだが、万代丸の時とは少し違う。
あの時は、自分に子ができるという事実そのものが、どこか現実離れしていた。
前世の記憶を持ったまま、この時代で林道景継として生き、妻を迎え、その妻との間に子が生まれる。
万代丸を初めて抱いた時になって、ようやく自分が本当に父になったのだと実感したほどだ。
だが今回は違う。
赤子が生まれるとは、どういうことなのかを知っている。
だからこそ、期待も不安も前より具体的だった。
景継は静かに起き上がった。
結局その日の政務でも、いつものようには集中できなかった。
書状を読んでいても、ふと昨夜の茶々の顔が浮かぶ。一度読み終えたはずの書状を、気づけばまた最初から読んでいた。
「殿」
弥兵衛の声に顔を上げる。
「何でしょう」
「そちら、先ほどから三度ほど読んでおられますが」
景継は手元を見る。
「……そうでしたか?」
「何かございましたか?」
「いえ」
「ならばよろしいのですが」
弥兵衛はそう答えながらも、明らかに納得していない顔をしている。
景継は書状を置いた。
「弥兵衛」
「はい」
「まだ分からないことを、人に話すべきではありませんよね」
突然の問いに、弥兵衛が目を瞬かせた。
「何の話でございます?」
「一般論です」
「殿が一般論を尋ねてこられる時は、大抵何かございますな」
景継は答えなかった。
弥兵衛がじっとこちらを見る。
やがて、その表情がわずかに変わった。
「……茶々様ですか?」
景継の眉が動く。
それだけで十分だったらしい。
「まさか――」
「まだ分かりません」
景継はすぐに遮った。
「私はまだ何も申しておりませんが」
「顔が言っております」
景継は思わず眉間に皺を寄せた。
「とにかく、まだ誰にも話さないでください」
「もちろんでございます」
弥兵衛は頷いたものの、その口元は明らかに緩んでいる。
「何です、その顔は」
「いえ。殿も随分と父親らしくなられたものだと思いまして」
「万代丸がいるのですから、すでに父親です」
「そういう意味ではございません」
弥兵衛はそれ以上説明せず、何事もなかったかのように仕事へ戻った。
景継は少し納得がいかなかったが、追及するのはやめた。
それから数日。
茶々の体調は戻らなかった。
朝になると気分が優れず、食事も以前ほど進まない。日によっては匂いを嫌がることもあった。
楓はすでに確信に近いものを持っていたようだが、それでも断定はせず、茶々の身体を休ませながら様子を見ていた。
そして医師が呼ばれた。
診察が行われている間、景継は別室で待っていた。
本来なら政務の時間である。
机の上には書状も置かれていたが、一枚も開いていない。
やがて襖が開いた。
楓が入ってくる。
景継はすぐに立ち上がった。
「どうでした?」
その勢いに、楓が少し驚いたように目を瞬かせる。
それから、柔らかく笑った。
「おそらく、間違いないだろうとのことです」
景継は何も言わなかった。
「景継様?」
「……そうですか」
ようやく出た言葉は、それだけだった。
楓が笑う。
「もう少し喜ばれてもよろしいのでは?」
「喜んでいますよ」
「そうは見えません」
「どういう顔をすればよいのか分からないだけです」
「万代丸の時も、同じようなことを仰っていましたね」
言われてみれば、そうだったかもしれない。
景継は息を吐き、ようやく肩の力を抜いた。
「茶々は?」
「待っていますよ」
楓に促され、景継は茶々のいる部屋へ向かった。
襖を開けると、茶々は布団の上に身体を起こしていた。
いつもの強気な表情ではない。
不安と嬉しさが混ざったような顔で、景継を見る。
「聞きましたか?」
「はい」
景継は茶々の前へ座った。
「おめでとうございます」
茶々の眉が寄った。
「……景継様」
「はい」
「なぜ他人事のようなのです?」
「他人事ではありませんよ」
「では、もう少し喜んでください」
景継は困った。
万代丸の時もそうだったが、こういう時に何を言えばよいのか、やはり分からない。
しばらく茶々の顔を見たあと、その手へ自分の手を重ねた。
「嬉しいです」
今度は飾らずに言った。
茶々の表情が少し変わる。
「本当に?」
「はい」
「政のためになるから、とかではなく?」
景継は首を振った。
「そんなことは、今は考えていません」
茶々は黙って景継を見つめた。
「あなたとの子が生まれる。それが嬉しい。それだけです」
しばらく返事はなかった。
茶々は重ねられた景継の手へ視線を落とし、やがて自分の指を絡めた。
「……私も、嬉しいです」
それだけ口にすると、茶々はもう片方の手を自分の腹へそっと添えた。
まだ外から見ても、何も変わってはいない。
「景継様の妻になって、こうして子まで授かるかもしれないなんて……少し前の私なら、考えてもいませんでした」
その声には喜びがあった。
だが、それだけではない。
茶々は自分の腹へ目を落としたまま、しばらく黙っていた。
「嬉しいのです。でも……少し怖くもあります」
景継は意外に思った。
普段の茶々なら、不安があっても簡単には口にしない。
「私もです」
茶々が顔を上げた。
「景継様も?」
「万代丸がいるのだから、二度目ならもう少し落ち着いていられると思っていました」
景継は茶々の腹へ視線を落とす。
「そうでもないようです」
茶々はしばらく景継を見つめたあと、その表情をわずかに緩めた。
「……それを聞けただけでも、よかったです」
二人の間に、それ以上の言葉はなかった。
ただ茶々の指は、景継の手を離さなかった。
その様子を、少し離れたところから楓が見ていた。
笑ってはいる。
だが、その笑顔の奥にほんの少しだけ別のものが混じっていることに、景継は気づいた。
茶々との話を終えたあと、景継は廊下へ出た楓を追った。
「楓」
「はい?」
楓が振り返る。
「ありがとうございます」
「何がです?」
「茶々のことです。私よりも先に気づいて、いろいろとしてくださったのでしょう」
「同じ女ですから。それに、一度経験していますので」
楓は穏やかに答えた。
景継はその顔を見たまま、少し迷った。
「……それだけですか?」
「何がでしょう」
「先ほど、何か考えていたように見えました」
楓の目がわずかに揺れた。
すぐにいつもの笑顔へ戻ったが、景継は待った。
やがて楓は小さく息を吐いた。
「景継様は、こういう時だけ妙に鋭いのですね」
「こういう時だけ、は余計です」
「では、普段から鋭いということにしておきます」
そう言ってから、楓は庭へ目を向けた。
「嬉しいのですよ。本当に」
「はい」
「茶々様に子ができたことも、万代丸に弟か妹ができることも。林道家にとっても、喜ばしいことでしょう」
そこで言葉が止まった。
景継は急かさなかった。
「でも……ほんの少しだけ、寂しいと思ったのです」
楓は苦笑した。
「おかしいでしょう?」
「いいえ」
景継はすぐに答えた。
楓がこちらを見る。
「万代丸を身籠った時は、私と景継様だけの喜びでした。それが今度は、茶々様と景継様の間にも生まれる。頭では当然だと分かっていたのですが……実際にその時が来ると、少しだけ違いました」
「楓」
「茶々様が嫌なのではありませんよ」
「分かっています」
楓はそこで黙った。
景継もすぐには言葉を返さなかった。
何を言えばよいのか考えてから、楓の隣へ並ぶ。
「万代丸が生まれた時のことは、誰とも分けられません」
楓が景継を見る。
「あの時、あなたが私にくださったものも、私が感じたものも、茶々に子ができたからといって薄くなることはありません」
景継自身、口にしてから少し驚いていた。
以前の自分なら、こんな言葉を素直に伝えられただろうか。
楓はしばらく何も言わなかった。
やがて小さく笑う。
「……茶々様のおかげかもしれませんね」
「何がです?」
「景継様が、少しだけこういうことを言えるようになったことです」
景継は返事に困った。
楓はそんな景継を見て、今度は自然に笑った。
「でも、あまり上手になられても困ります」
「なぜです?」
「妻が増えるかもしれませんから」
景継は即座に首を振った。
「それは勘弁してください」
あまりにも返事が早かったため、楓が声を上げて笑った。
「そこまで嫌なのですか?」
「嫌なのではありません。二人でも私には十分すぎるという意味です」
笑いながら歩き出した楓の横を、景継もゆっくりと歩いた。
その日の夕刻。
景継は一人、万代丸のそばに座っていた。
一歳を迎えようとしている息子は、父が何を考えているかなど知るはずもなく、目の前の木片を掴んでは何度も床へ落としている。
景継が拾う。
万代丸がまた落とす。
もう一度拾うと、また落とした。
三度目になって、景継は息子の顔を見る。
万代丸は楽しそうに笑っている。
どうやら父親に拾わせること自体が面白いらしい。
景継は諦めて、もう一度木片を拾った。
やがて、この子に弟か妹ができる。
そして自分は、もう一度父になる。
前世では天下を巡る戦いの中で、人の命を数字として見ることも少なくなかった。
だが今は、一つの命が生まれるというだけで、これほど心が揺れる。
不思議なものだと思う。
「万代丸」
呼びかけると、息子が顔を上げた。
「兄になりますよ」
意味など分かっていない。
それでも万代丸は景継を見て笑った。
景継もわずかに笑い返す。
天正十三年
一五八五年の暮れ。
林道家に、新たな命が宿った。
その子がどのような顔で生まれ、どのような道を歩むのか。
景継には、まだ何も分からない。
ただ一つ確かなのは、万代丸とはまた違う新しい命が、今この時も静かに育ち始めているということだけだった。




