第二百四十六話 西国を読む者たち
黒田官兵衛が景継のもとを訪れたのは、西国からの報告が届いてから数日後のことだった。
急ぎではないと伝えていたため、景継もわざわざ呼びつけたわけではない。別件の報告を兼ねて官兵衛が顔を出したところで、景継は先日届いた書状を机の上へ並べた。
「官兵衛殿。少し見ていただきたいものがあります」
「何でしょう」
官兵衛が腰を下ろす。
景継は四国、九州、中国地方から届いた三通の書状を順に差し出した。
官兵衛はまず中国地方からのものに目を通し、続いて四国、最後に九州の報告を読み始める。
その間、景継は何も言わなかった。
官兵衛も尋ねない。
部屋には紙をめくる音だけが続き、やがて最後まで読み終えた官兵衛が書状を机へ戻した。
「なるほど」
「どう見ますか?」
官兵衛はすぐには答えず、目の前に広げられた地図へ視線を落とした。
「どれからお聞きになりたいので?」
「官兵衛殿が一番気になったところから」
その答えを聞き、官兵衛の口元がわずかに緩んだ。
「それでは九州ですな」
景継も同じ場所を見ていた。
四国の不満も気になるが、あちらはまだ長宗我部元親の治め方次第で収まる余地がある。それに対して九州では、今なお複数の勢力が争い、戦そのものが終わっていない。
「島津の勢いが増しておりますな」
官兵衛の指が九州南部へ置かれる。
「一度や二度の勝利なら珍しくもありませぬが、これが続けば話は変わります。今後どこまで北へ勢力を伸ばすか、見ておく必要があるでしょう」
「九州をまとめるところまで行くと思われますか?」
「そこまでは、まだ何とも」
官兵衛は地図を眺めながら首を振った。
「九州は広い。南で勝つことと、その勢いのまま北まで押し切ることは別の話です。敵も一つではありませぬし、戦が長引けば別の問題も出てくるでしょう」
景継は頷いた。
今すぐ林道家が兵を出す理由はない。
だが、九州の勢力図が大きく変われば、中国や四国にも影響する。そうなれば遠い土地の争いとして眺めているだけでは済まなくなる可能性があった。
景継はしばらく地図を見つめたあと、ふと官兵衛へ問いかけた。
「官兵衛殿なら、どうします?」
「島津の立場なら、ということで?」
「いえ」
景継は九州全体を指した。
「九州を鎮めろと命じられたなら、です」
官兵衛の目が景継へ向いた。
「随分と大きな問いをなさいますな」
「考えるだけなら銭はかかりません」
「なるほど」
官兵衛は小さく笑ったものの、すぐに九州の地図へ視線を戻した。
しばらく答えはなかった。
どこから兵を入れるのか。どの勢力を先に叩くのか。景継はそのような答えが返ってくるのだろうと思っていた。
だが、官兵衛の口から出たのは少し違うものだった。
「最初の一戦だけは、絶対に負けませぬ」
「最初の一戦?」
「はい。それも、ただ勝つだけでは足りませぬな」
官兵衛の指が地図の上をゆっくりと動く。
「圧勝します」
景継の目がわずかに細くなった。
「そこまで最初の一戦に拘りますか」
「拘ります」
官兵衛は迷わなかった。
「九州へ我らの軍が入れば、戦う相手だけが見ているわけではございませぬ。島津も、大友も、そのほかの者たちも、我らがどれほどの軍なのかを見定めようとするでしょう」
景継は黙って続きを待った。
「そこで勝ったとしても、多くの兵を失い、何日も何日も苦しんだ末の勝利では足りませぬ。『林道勢とて、この程度か』と思われれば、その後の戦が重くなる」
「ならば最初から、力の差を見せつける」
「ええ」
官兵衛は頷いた。
「初戦だけは、勝てるという程度の相手を選びませぬ。こちらが最も得意な形で戦え、確実に叩き潰せる場所を選びます」
「随分と慎重ですね」
「最初だけは」
官兵衛の口元に笑みが戻った。
「その一戦で、九州全体へ挨拶をするのです」
景継もわずかに笑う。
「随分と物騒な挨拶ですね」
「戦場での挨拶など、そのくらいでちょうどよろしいでしょう」
官兵衛の指が地図の一点で止まった。
具体的な場所を示しているわけではない。まだ実際に九州へ兵を入れると決まったわけでもなく、現地の詳しい状況も足りていない。
それでも官兵衛の考えは明確だった。
「初戦で圧倒すれば、二戦目からはこちらを見る目が変わります。次に戦う者だけではない。まだ遠くにいる者まで、最初の勝ち方を知ることになる」
「戦場にいない者にまで勝つ、と」
景継が言うと、官兵衛の笑みが少し深くなった。
「その通りでございます」
景継は地図へ目を戻した。
なるほど、と素直に思う。
最初から九州全土をどう攻略するかを考えるのではない。
まず一戦。
その一戦を、後の十戦を有利にするために使う。
「では、最初に戦う相手は慎重に選ばなければなりませんね」
「ええ。九州平定の最初の一戦――」
官兵衛は地図から目を離さないまま言った。
「その相手だけは、間違えてはなりませぬ」
景継はその言葉を覚えておくことにした。
もっとも、この時の二人に九州へ兵を進める予定などない。
遠い土地の情勢を前に、もし自分ならどうするかを語っているだけだった。
「では、四国はどう見ますか?」
景継が話を変えると、官兵衛の視線も九州から四国へ移った。
「こちらは、まだ外から触れぬ方がよろしいでしょうな」
「やはり、そう思われますか」
「ええ。報告を見る限り、不満があることは確かでしょう。しかし、今すぐ大きな兵乱へつながると決めつけるには早い」
阿波、讃岐、伊予。
長宗我部によって一つにまとめられたとはいえ、それまで別々の歴史を歩んできた土地である。支配する側が変わったからといって、すぐに全てが馴染むはずもなかった。
「長宗我部殿自身が治められるなら、それが一番です。こちらが今から余計な口を挟めば、かえって話を大きくするかもしれませぬ」
「では、情報だけ集める」
「それで十分かと」
二人の意見は一致した。
景継は四国から中国、そして九州へと視線を動かした。
東では徳川と真田の争いが一度止まり、西では毛利が戦後の立て直しを進めている。以前に比べれば、天下は少し落ち着いたようにも見える。
だが、静かな時ほど見えないところで何かが動く。
「景継様」
官兵衛の声で、景継は顔を上げた。
「何でしょう」
「随分と西を気になさっておりますな」
「そう見えますか?」
「ええ」
官兵衛は笑っていたが、その目は景継を観察していた。
「まさか、次は九州をお望みで?」
「欲しいとは思っていませんよ」
景継は即答した。
「九州まで直接治めようとすれば、得るもの以上に抱えるものが増えるでしょう」
「では、なぜ?」
「今は遠くとも、九州が大きく動けば毛利も動く。毛利が動けば四国も無関係ではいられない。その先には我々がいます」
官兵衛が小さく頷く。
「火がこちらへ届いてから考えるより、その前から見ておいた方がよいでしょう」
「相変わらずでございますな」
「何がです?」
「天下が欲しいのか、欲しくないのか、時々分からなくなります」
景継も笑った。
「私にも、まだ分かりませんよ」
「それは困りましたな。仕える側としては、目指す場所くらい教えていただきたいものです」
「官兵衛殿なら、私が決める前に勝手に道を考えているでしょう」
「否定はいたしませぬ」
二人の間に笑いが生まれた。
長く共に戦ってきた者同士の、いつもの空気だった。
この時の官兵衛に、景継のもとを離れる考えなどない。
景継もまた、目の前の男がいつか自分とは別の旗を掲げるなど、想像すらしていなかった。
官兵衛は頼れる軍師であり、景継は官兵衛が自ら選んだ主である。
少なくとも、この日の二人にとっては、それが全てだった。
話を終えた官兵衛が立ち上がる。
「では、九州については引き続き情報を集めておきましょう」
「お願いします」
「四国も?」
「そちらも。ただし、今は見るだけで」
「承知いたしました」
官兵衛が部屋を出ようとしたところで、景継が呼び止めた。
「官兵衛殿」
「はい」
「先ほどの話ですが」
官兵衛が振り返る。
「もし本当に九州へ向かう日が来たなら――」
景継は少し笑った。
「その最初の一戦、楽しみにしていますよ」
官兵衛は一瞬だけ目を丸くしたあと、不敵に笑った。
「覚えておられましたら、お見せいたしましょう」
「忘れませんよ」
「では、その時は――」
官兵衛は軽く頭を下げた。
「圧勝してみせます」
迷いのない返事だった。
やがて秋が過ぎ、冷たい風が吹く日が増えていった。
一益は相変わらず仕事を減らそうとはせず、時折腰の重さを訴えながらも政務を続けていた。景継が何度か休むよう書状を送ったが、返ってくるのは「心配する暇があるなら自分の仕事をしろ」という、いかにも一益らしい返事ばかりだった。
四国から届く報告にも、まだ大きな変化はない。
九州では争いが続いていたが、それも今のところ遠い土地の戦でしかなかった。
そして年の暮れが近づいた頃。
景継の屋敷にも、冬の気配が濃くなっていた。
万代丸は間もなく一歳を迎える。
以前よりもよく動くようになり、目を離せばすぐに何かへ手を伸ばす。茶々もすっかり抱くことには慣れたが、髪だけは掴まれないよう以前より慎重になっていた。
そんなある夜。
景継が政務を終えて戻ると、楓が万代丸を寝かしつけているところだった。
「お帰りなさいませ」
「ただいま戻りました」
声を抑えて答え、景継も万代丸の寝顔を見る。
その横では茶々が座っていたが、いつもより静かだった。
「茶々?」
呼びかけると、茶々が顔を上げた。
「何でしょう」
「いえ。今日は随分と静かですので」
「私がいつもうるさいような言い方ですね」
「そういう意味ではありません」
「では、どういう意味です?」
早速いつもの調子に戻ったため、景継は少し安心した。
ところが楓は、二人のやり取りを聞きながら口元を押さえている。
「楓?」
「いえ、何でもありません」
「何か知っているのですか?」
「私から申し上げることではありませんので」
景継は茶々を見る。
茶々は視線を逸らした。
妙だった。
戦場で敵の動きを読むよりも、こういう時の方が分からない。
「……何でしょう」
しばらくして、茶々が観念したように景継へ向き直った。
「まだ、決まったわけではありません」
「はい」
「ですから、あまり大げさに受け取らないでください」
「分かりました」
茶々は一度息を整えた。
「ここ数日、少し身体の調子が普段と違うのです」
景継の表情が変わる。
「具合が悪いのですか?」
「そうではありません。少し気分が優れない時があるだけで……」
そこで楓が、堪えきれないように微笑んだ。
景継は楓と茶々を交互に見る。
そして、ようやく一つの可能性へ辿り着いた。
「……まさか」
茶々は頬をわずかに赤くしながらも、景継から目を逸らさなかった。
「ですから、まだ分かりません」
屋敷の外では、冬の風が木々を揺らしている。
天正十三年
一五八五年も、終わりへ近づいていた。
天下の西では、まだ誰の目にも見えない火種が燻り始めている。
そして林道家でもまた、新しい命の兆しが、静かに芽生えようとしていた。




