第二百四十五話 西からの報せ
滝川一益が医師の診察を受けたとの報せが届いたのは、景継と顔を合わせてから数日後のことだった。
結果だけを言えば、今すぐ命に関わるような異常は見つからなかった。
腰の重さや疲れやすさについても、齢を重ねたことによる衰えが大きいだろうという。ただし無理を重ねれば身体を崩す可能性は高く、酒を控え、休息を増やすようにと念を押されたらしい。
そこまで読んだ景継は、ひとまず胸を撫で下ろした。
「それで、一益殿は医師の言うことを聞いておられるのですか?」
報告を持ってきた弥兵衛へ尋ねると、何とも言えない顔が返ってきた。
「酒は減らされたそうでございます」
「それは結構ですね」
「ただし、仕事は減らしておられぬとか」
景継は黙って書状を置いた。
弥兵衛が苦笑する。
「予想通りでございますな」
「……まあ、一度で全てを聞いていただけるとは思っていませんでした」
「殿も似たようなものでは?」
「私は医師に止められてまで働いたことはありません」
「医師に診てもらわなければ、止められることもございませんからな」
景継が顔を上げると、弥兵衛は素知らぬ顔で視線を逸らした。
言い返そうとして、やめる。
少なくとも一益が今すぐ倒れるような状態ではない。それが分かっただけでも、今は十分だった。
景継は一益に仕事を減らせと命じるつもりもなかった。
あの男から役目を奪えば、身体より先に心が弱るかもしれない。
ならば、一益が自分で歩けるうちは歩かせればいい。ただし、倒れるところまで行かせない。
その加減を考えることも、これからは必要になるのだろう。
「一益殿のことは、しばらく様子を見ましょう。何か変わったことがあれば、すぐ知らせるよう伝えてください」
「承知いたしました」
弥兵衛が頭を下げたところで、廊下から別の家臣の声が聞こえた。
「殿、西国より報せが届いております」
「入ってください」
襖が開き、家臣が数通の書状を手に入ってくる。
景継はそれを受け取った。
一通目は四国。
二通目は九州。
そしてもう一通は、中国地方からのものだった。
「随分と西から重なりましたね」
弥兵衛が言う。
「ええ」
景継はまず四国からの書状を開いた。
長宗我部元親についての報告である。
四国では長宗我部による支配が広がり、かつて敵対していた土地にも新たな秩序が敷かれつつあった。大きな戦が続いているわけではなく、表面だけを見れば以前より落ち着いている。
だが、報告の中には気になる記述があった。
阿波、讃岐、伊予。
それぞれの土地で、旧来の国人やかつて力を持っていた家々の一部に不満が残っているという。
領地の扱い。
城や港の管理。
兵を出す際の負担。
そして、土佐から来た者たちが要所を押さえていくことへの反発。
どれも珍しい話ではなかった。
国を広げれば、必ずそれまでの秩序を失う者が出る。
「何かございましたか?」
景継が黙っているのを見て、弥兵衛が尋ねた。
「大事ではありません。ただ……四国で、少し不満が出ているようです」
書状を渡す。
弥兵衛も目を通したが、すぐには危険だとは感じなかったらしい。
「この程度なら、どこにでもある話では?」
「今は、でしょうね」
景継は地図を広げた。
四国へ目を落としながら、指先で阿波から讃岐、そして伊予へと辿る。
「長宗我部殿は短い間に大きく領地を広げました。それだけに、従った者全てが心まで従っているとは限りません」
「反乱になると?」
「そこまでは申していません」
景継は首を振った。
「不満があることと、兵を挙げることは別です。領地を取り上げられた者が愚痴をこぼす程度なら、何も起こりません。ただ――」
「ただ?」
「同じ不満を持つ者が、自分だけではないと知った時は少し変わります」
弥兵衛の表情から笑みが消えた。
景継は四国の地図を眺めたまま続ける。
「今はまだ、それぞれが別々に不満を抱いているだけでしょう。ならば元親殿が上手く治めれば、それで終わります」
「知らせますか?」
「いえ」
景継は少し考えてから答えた。
「長宗我部殿も、この程度のことは把握しているでしょう。こちらから口を挟めば、内政に干渉しているように受け取られかねません。今は情報だけ集めてください」
「承知いたしました」
景継は四国の書状を脇へ置き、次に九州から届いたものを開いた。
こちらは四国よりも、はっきりと血の臭いがした。
九州では大友、島津、龍造寺をはじめ、大小の勢力が長く争いを続けている。勢力の伸長と衰退が繰り返され、昨日まで味方だった者が明日には敵となることさえ珍しくない。
その中でも、島津の動きが目立ち始めていた。
南から少しずつ勢力を広げ、周辺への圧力を強めている。
景継が報告を読み進めていると、弥兵衛が横から地図を覗き込んだ。
「今度は九州ですか」
「ええ」
「こちらも何か?」
「四国とは違います。九州は、まだ戦そのものが終わっていません」
景継は書状を机へ置いた。
「今すぐ我々が動く話ではありませんが、このまま一つの勢力が大きくなれば、いずれ西国全体の均衡に影響します」
「島津でございますか」
「今のところは」
その言葉を口にしながら、景継は九州の地図を見つめた。
遠い。
畿内から見れば、まだ直接手を伸ばす必要のない土地である。
毛利との関係もあり、備後を得たことで以前より西への影響力は増したとはいえ、九州の争いへ安易に兵を入れる理由はない。
それでも、無視してよい土地でもなかった。
「官兵衛殿にも見せましょう」
「官兵衛殿に?」
「九州の情勢については、あの方の意見を聞いておきたい」
弥兵衛が頷く。
「では、お呼びいたしますか?」
「急ぎではありません。次にこちらへ来られた時で構いませんよ」
そう答えてから、景継は三通目の書状を手に取った。
こちらは毛利に関する報告だった。
先の戦を経て結ばれた取り決めは、今のところ守られている。
毛利輝元も無用な東進を避け、吉川元春、小早川隆景らも領内の立て直しを優先しているらしい。安国寺恵瓊についても、目立った動きはない。
景継はそこまで確認すると、書状を畳んだ。
「西は静かでございますな」
弥兵衛が言った。
「そう見えますね」
「違うので?」
「いえ。今は本当に静かなのでしょう」
景継は四国、九州、中国地方を描いた地図を順に見た。
毛利は戦の傷を癒やしている。
四国では長宗我部が広げた領地を固めようとしている。
九州では諸勢力の争いが続いている。
それぞれ別の話だった。
少なくとも今は。
「ただ、天下というものは面白いですね」
「何がでございます?」
「一つが動けば、隣も動きます。その隣もまた、別の判断を迫られる」
景継は指先を九州へ置いた。
「例えば九州で一つの勢力が大きくなれば、毛利は西を警戒するかもしれない」
そこから指を中国地方へ移し、さらに四国へ滑らせる。
「毛利が動けば、四国も無関係ではいられない。そして四国が乱れれば、畿内にも影響する」
「随分と先まで考えられますな」
「考えるだけなら銭はかかりませんから」
弥兵衛が笑った。
「それを言われると、殿は一日中でも考えておられそうです」
「一日中は困ります。最近は家へ戻らないと、二人から怒られますので」
弥兵衛が目を瞬かせた。
「……二人から?」
「楓と茶々です」
「殿」
弥兵衛は何やら感慨深そうに景継を見た。
「何です?」
「いやあ、変わられるものですな」
「どういう意味です」
「以前なら、政務が残っていれば夜まで平然と座っておられたではございませんか」
「今も必要ならそうします」
「しかし?」
景継は一度口を閉じた。
昨日の夜、政務が長引いて戻りが遅くなったところ、楓には身体を休めるよう穏やかに諭され、茶々からは「家に妻が二人もいるのに、なぜ書状と夜を過ごしておられるのですか」と呆れられた。
それを説明する気にはなれなかった。
「……この話は終わりです」
「承知いたしました」
弥兵衛の口元は笑っていた。
景継はそれを無視し、再び九州からの書状へ目を落とした。
今はまだ、遠い土地の話である。
四国の不満も、九州の争いも、景継が兵を動かす理由にはならない。
だが、何かが変わり始めている。
そんな感覚だけが残った。
その日の夕刻。
景継が珍しく陽のあるうちに居室へ戻ると、茶々が万代丸を抱いていた。
すっかり慣れたのかと思ったが、よく見ると身体はまだ少し硬い。
その隣では楓が笑っている。
「もう少し力を抜いてください」
「抜いております」
「それでは万代丸より茶々様の方が疲れてしまいますよ」
「この子が急に動くのです」
「赤子ですから」
景継は入口で足を止めた。
茶々がこちらに気づく。
「景継様」
「はい」
「見ていないで、何とかしてください」
「何をです?」
「万代丸様が私の髪を離してくださいません」
見ると、小さな手が茶々の髪をしっかり握っている。
景継は近づき、その指を一本ずつゆっくりと外してやった。
ようやく解放された茶々が息を吐く。
「……強いですね、この子」
「最近、何でも掴むのです」
楓が笑う。
景継は万代丸の小さな手を見た。
この手が刀を握る日は、まだ遥か先だ。
できることなら、その日など来なくてもよい。
だが、乱世が終わらなければ、いつかこの子も自分と同じように何かを選ばなければならなくなる。
ふと、昼間見た西国の地図が頭をよぎった。
景継は万代丸の手をそっと包む。
「景継様?」
楓の声に、景継は顔を上げた。
「何でもありません」
そう答えると、茶々が怪訝そうにこちらを見る。
「また一人で何か考えておられたのでしょう」
「少しだけです」
「帰ってまで政のことを考えるのは禁止です」
「いつ決まったのですか?」
「今です」
あまりに当然のように言われ、景継は返す言葉を失った。
楓が隣で笑っている。
その声を聞きながら、景継も小さく息を吐いた。
今は、この時間を大切にすればよい。
四国も九州も、まだ遠い。
だが西の地で生まれ始めた小さな綻びは、誰にも気づかれぬまま、少しずつ大きくなろうとしていた。




