第二百四十四話 老将の意地
滝川一益が景継のもとを訪れたのは、それから十日ほど後のことだった。
使者を送り、近いうちに顔を合わせたいと伝えたところ、一益から返ってきた答えは簡潔だった。
――ならば、俺が行く。
景継としては無理に足を運ばせるつもりなどなかったのだが、一益は日取りまで自分で決めてしまった。
そして当日。
「景継、久しいな」
部屋へ入ってきた一益の声は、以前と変わらずよく通った。
齢を重ねても背筋は伸びており、足取りにも目立った乱れはない。景継が書状を見て抱いた不安など、本人に話せば笑い飛ばされそうな姿だった。
「一益殿。わざわざこちらまで来ていただかなくても、私が伺いましたのに」
「馬鹿を言え。お前に来させたら、俺が動けなくなったみたいではないか」
一益は豪快に笑い、そのまま景継の向かいへ腰を下ろした。
「それで? わざわざ俺の顔を見たいと言い出した理由は何だ。まさか、茶々殿を妻に迎えたから祝いの言葉でも欲しくなったか?」
「その件はすでに書状でいただいております」
「なら何だ」
「まずは政の話をしましょう」
「なんだ、つまらん」
そう言いながらも、一益はすぐに表情を改めた。
二人は領内のことから兵糧、街道の整備、周辺諸国の動きへと順に話を進めていった。
一益の受け答えに淀みはない。
むしろ景継が一つ尋ねれば、二つ三つと先まで答えが返ってくる。長く織田家を支え、数え切れぬほどの戦場を経験してきた男の頭は、今も少しも鈍っていなかった。
景継は話を続けながら、自分の心配は杞憂だったのかもしれないと思い始めていた。
だが、半刻ほど経った頃だった。
一益が湯呑みへ手を伸ばそうとして、わずかに動きを止めた。
ほんの一瞬である。
すぐに何事もなかったように湯呑みを持ち上げたため、普通なら気にも留めなかっただろう。
景継は黙って一益を見た。
「……何だ?」
「いえ」
「さっきから俺の顔ばかり見ているな。何かついているか?」
「そういうわけではありません」
「なら話せ。気味が悪い」
景継は少し考えた末、机の端に置いていた一通の書状を取り出した。
一益が先日送ってきたものだった。
「こちらです」
「俺が送った書状ではないか」
「はい」
「それがどうした」
「字が乱れていました」
一益の眉が動いた。
景継は書状を開き、数か所を指で示す。
「この辺りです。以前の一益殿の字とは少し違う」
「……そんなものまで見ているのか、お前は」
「何度も書状をいただいておりますから」
一益は呆れたように鼻を鳴らすと、景継から書状を取り上げた。
しばらく眺めたあと、机へ戻す。
「これくらいで呼びつけたのか?」
「呼びつけてはいません。私が伺うと言ったのです」
「同じようなものだ」
「違います」
一益は苦笑した。
「歳を取れば、字くらい乱れる。俺ももう若くはない」
「身体の具合はいかがですか?」
「見て分からんか」
「分からないから聞いております」
一益の顔から、わずかに笑みが消えた。
それでも答えはすぐに返ってきた。
「何ともない」
「本当に?」
「しつこいな」
一益はそう言って姿勢を変えようとしたが、その途中で腰へ手を添えた。
今度は景継も見逃さなかった。
視線に気づいた一益が、露骨に嫌そうな顔をする。
「……見るな」
「腰ですか?」
「違う」
「今、腰を押さえましたが」
「座りっぱなしで凝っただけだ」
「では、立ってみていただけますか?」
「なぜだ」
「確認したいので」
「嫌だ」
「一益殿」
「お前はいつから医者になった」
言い返す声には力がある。
景継はそれ以上迫らず、静かに湯呑みへ手を伸ばした。
その様子を見た一益が、少し怪訝そうな顔をする。
「何だ。もう聞かんのか?」
「聞いても答えていただけないでしょう」
「分かっているではないか」
「ですから、次に一益殿の家臣へ聞きます」
「おい」
景継は平然と茶を口へ運んだ。
一益がしばらく睨んでいたが、やがて諦めたように大きく息を吐いた。
「……朝、少し腰が重いだけだ」
「いつからです?」
「覚えておらん」
「では、かなり前からですね」
「なぜそうなる」
「数日前なら覚えているでしょう」
一益が黙った。
図星らしい。
景継は表情を変えなかったが、胸の奥にあった小さな違和感が、形を持ち始めるのを感じていた。
「食事は?」
「食っている」
「酒は?」
「飲んでいる」
「量は?」
「……お前、本当にしつこくなったな」
「長秀殿にも、もう少ししつこくしておけばよかったと思っていますので」
その名が出た途端、一益の表情が変わった。
部屋に短い沈黙が落ちる。
丹羽長秀が逝ってから、まだ半年ほどしか経っていない。
一益にとっても、長秀は若い頃から同じ時代を生きてきた男だった。
「長秀と俺を一緒にするな」
低い声だった。
「一益殿」
「あいつはあいつだ。俺は俺だ」
景継は黙って一益を見る。
一益は視線を逸らさなかった。
「俺はまだ動ける。馬にも乗れるし、兵も率いられる。政もできる。腰が少し重いくらいで、年寄り扱いされてたまるか」
その声には怒りというより、意地が滲んでいた。
景継にも、それが分かった。
だからこそ、正面から否定はしなかった。
「誰も、一益殿に何もするなとは申しておりません」
「同じことだ。身体を労われ、仕事を減らせ、後は若い者に任せろ。その次に来る言葉は決まっている」
一益は吐き捨てるように言った。
「隠居しろ、だ」
景継は少しだけ目を細めた。
一益が何を恐れているのか、ようやく見えた気がした。
死そのものではない。
戦場からも政からも必要とされなくなり、自分だけが時代の外へ置いていかれることを嫌っているのだ。
長秀は自ら家督を長重へ譲り、残された時間で息子たちへ道を示した。
だが、一益は違う。
最後まで自分の足で立ち続けようとしている。
どちらが正しいという話ではなかった。
「私は、一益殿に隠居していただくつもりはありませんよ」
景継が言うと、一益の目がわずかに動いた。
「……本当か?」
「はい。少なくとも、今は」
「今は、か」
「身体を壊して倒れたなら、その時は止めます」
「結局止めるのではないか」
「当然でしょう」
景継は淡々と答えた。
「ですが、ご自身で歩き、考え、働けるうちから年齢だけを理由に退いていただくつもりはありません。一益殿の経験は、まだ必要です」
一益は何も言わなかった。
「ただし」
「まだあるのか」
「医師には診てもらってください」
一益の顔が一気に険しくなる。
「嫌だ」
「そこは譲りません」
「俺の身体だぞ」
「だからこそです」
「話が通じんな、お前は」
「一益殿にだけは言われたくありません」
しばらく二人は睨み合った。
やがて一益の方が先に視線を外し、深く息を吐いた。
「……一度だけだぞ」
「構いません」
「何もなければ、二度と身体のことで騒ぐな」
「それは結果を聞いてから考えます」
「約束になっておらんではないか」
景継の口元に、ごくわずかな笑みが浮かんだ。
一益はそれを見ると、呆れたように首を振る。
「長秀が、お前に息子たちを頼んだ理由が少し分かった気がするわ」
「そうですか?」
「しつこいからだ」
「褒め言葉として受け取っておきます」
「勝手にしろ」
その後、一益は何事もなかったように政の話へ戻った。
話す声には張りがあり、考えも鋭い。先ほどまでのやり取りがなければ、身体の衰えなど誰も疑わなかったかもしれない。
だが、話を終えて立ち上がった時だった。
一益の手が、ほんのわずかに畳へついた。
身体を支えるためだった。
すぐに立ち上がり、本人は何も言わなかった。
景継も、その場では何も言わなかった。
ただ、その姿を目に焼き付けた。
帰り際、一益が振り返る。
「景継」
「はい」
「俺はまだ働くぞ」
「分かっています」
「勝手に老いぼれ扱いするなよ」
景継は少しだけ笑った。
「では、一益殿も勝手に無理をなさらないでください」
「それは約束できんな」
そう言って一益は笑い、部屋を出ていった。
その背中は、まだ大きかった。
かつて織田家の先頭を駆け、幾度もの戦場を潜り抜けてきた老将の背中である。
だが景継は知っている。
どれほど強い者であっても、時だけには勝てない。
長秀を見送ったばかりだからこそ、その事実が以前よりも重く胸に残った。
廊下の向こうへ消えていく一益の背中を見つめながら、景継は静かに息を吐く。
「……まだ、先であってほしいものですね」
その呟きを聞く者はいなかった。
この時の滝川一益は、まだ自らの足で歩き、笑い、政を語ることができた。
そして本人も景継も知らない。
その身体に流れる時間が、少しずつ残酷な速さを増し始めていることを。




