第二百四十三話 新たな妻
茶々との話がまとまってから、婚儀の準備は思っていた以上の速さで進んでいった。
もっとも、景継自身が何かを急がせたわけではない。むしろ市と楓、それに双方の家臣たちが話を進めていくのを眺めながら、時折求められる判断に答えていただけである。
戦ならば、敵の兵数と地形を見れば、おおよそ何をすべきかは分かる。政であっても、相手の利害を読み、落としどころを探せばよい。
だが婚儀となると、どうにも勝手が違った。
「殿。こちらについてはいかがいたしましょう」
家臣から差し出された書付に目を落とした景継は、しばらく内容を読んだあと、静かに顔を上げた。
「……楓に聞いていただけますか」
「またでございますか」
傍らにいた弥兵衛が、呆れたように笑った。
景継が眉を寄せる。
「また、とは何です」
「ここ数日、そればかりではございませんか。殿に尋ねても、楓様に聞け、市様に確認せよ、茶々様のお考えを聞けと」
「分からないものを、分かったふりで決めるよりはよいでしょう」
「戦のことなら、誰にも聞かずに決められるというのに」
「だから困っているのです」
あまりにも真顔で返されたため、弥兵衛は堪えきれずに笑い声を漏らした。
「何がおかしいのです」
「いえ。天下のことなら平然と口になさる殿が、婚儀のこととなると随分と慎重になられるものだと思いまして」
「失敗しても兵を引けばよい、という話ではありませんからね」
「それを茶々様の前でも言えれば大したものです」
景継は答えなかった。
その沈黙を見た弥兵衛が、また笑った。
やがて日取りが定まり、茶々が正式に林道家へ入る日が訪れた。
盛大な宴を何日も続けるような婚儀にはしなかった。景継自身が華美なものを好まなかったこともあるが、茶々もまた、それを望まなかったからである。
とはいえ、市の娘であり、織田と浅井の血を引く茶々が林道家へ嫁ぐのだ。完全に内々で済ませられる話でもなく、関係する家々への知らせや挨拶だけでも相応のものとなった。
そして何より、茶々自身にとっては人生の大きな節目だった。
屋敷へ入ってきた彼女は、いつものように背筋を伸ばし、堂々としていた。
だが、出迎えた景継には分かった。
ほんのわずかに、表情が硬い。
長く知っている相手とはいえ、今日から暮らす場所も立場も変わる。しかも正室である楓と同じ家で生きていくのだから、何も感じないはずがなかった。
「茶々」
景継が声をかけると、茶々は振り返った。
「何でしょう」
「緊張していますか」
「……しておりません」
答えが妙に早い。
景継が黙って見ていると、茶々の眉がわずかに動いた。
「何ですか、その顔は」
「いえ。しているように見えましたので」
「景継様」
「はい」
「今日くらいは、気づいても黙っていてくださってもよろしいのではありませんか?」
景継は少し考えてから頷いた。
「なるほど。覚えておきます」
「今後のために、ぜひそうしてください」
茶々の口元にようやく笑みが浮かんだ。
その表情を見て、景継もわずかに肩の力を抜いた。
そこへ楓が姿を見せた。
腕には万代丸を抱いている。
「お待ちしておりました、茶々様」
茶々はすぐに表情を改め、楓へ頭を下げた。
「楓様。本日より、お世話になります」
「こちらこそ。先日も申し上げましたが、あまり堅くならないでください。同じ屋敷で毎日その調子では、私まで疲れてしまいます」
「……努力いたします」
「そこも堅いですね」
楓が笑うと、茶々も困ったように笑った。
以前二人だけで話したことが効いているのだろう。ぎこちなさは残っているものの、互いに距離を測っているような険しさはない。
すると、楓の腕の中にいた万代丸が茶々へ手を伸ばした。
「あら」
茶々の目が丸くなる。
万代丸は何かを掴もうとするように、小さな手を何度も動かしていた。
「茶々様が気になるようですね」
「私が、ですか?」
「抱いてみますか?」
その一言で、茶々の顔から先ほどまでの強気が消えた。
「え」
景継は思わず茶々を見る。
茶々もこちらを見た。
「……何ですか」
「いえ。そのような顔もされるのですね」
「景継様は少し黙っていてください」
先ほど自分が言われたばかりの言葉を返され、景継は素直に口を閉じた。
楓が笑いながら万代丸を茶々へ渡す。
茶々は恐る恐る腕を出し、教えられるまま万代丸を抱いた。普段なら迷いなく物を言う彼女が、この時ばかりは身体をほとんど動かさず、腕の中の赤子を凝視している。
「……軽い」
「でも、ずっと抱いていると重くなりますよ」
「そういうものなのですか」
「そういうものです」
万代丸はしばらく茶々を見上げていたが、やがて彼女の着物を小さな手で掴んだ。
茶々の表情が柔らかくなる。
「万代丸様」
呼びかけても、当然返事はない。
それでも茶々は、しばらくその小さな顔を見つめていた。
景継は二人を眺めながら、不思議な感覚を覚えていた。
万代丸が生まれた時にも感じたことだが、前世では得られなかったものが、今世では少しずつ自分の周囲に増えている。
家族。
その言葉を、かつての自分が知らなかったわけではない。
だが今は、以前とはどこか違って感じられた。
天下を動かすこととは比べようもないほど小さな光景なのに、なぜか目を離したくない。
そんな景継の視線に気づいたのか、楓がこちらを見る。
「どうされました?」
「……いえ」
景継は首を振った。
「何でもありません」
楓は何も追及せず、ただ少しだけ笑った。
その日の夜。
一通りの挨拶を終えたあと、茶々と景継は二人になった。
昼間までの賑わいが嘘のように、屋敷の中は静かだった。
茶々は景継の前に座ると、しばらく何も言わなかった。
景継も急かさずに待つ。
やがて茶々が口を開いた。
「本当に、妻になったのですね」
「そうですね」
「……もう少し何かありませんか?」
「何か、とは?」
茶々がじっと景継を見る。
その目を見て、景継は昼間の弥兵衛の言葉を思い出した。
天下のことなら平然と口にするのに――。
どうやら、あながち間違ってはいなかったらしい。
「私は」
景継は言葉を探しながら、ゆっくり続けた。
「以前にも申し上げましたが、あなたを突然、昔から妻として見ていたことにはできません」
茶々は黙って聞いている。
「ですが、あなたが私を選んでくださったことは嬉しかった。それも嘘ではありません」
景継はそこで一度言葉を切った。
「ですから、これから知っていきたいと思っています。市様の娘としてでも、昔から私の後ろをついてきた少女としてでもなく……私の妻となった茶々という女性を」
茶々の目がわずかに見開かれた。
しばらくして、彼女は小さく息を吐く。
「……言えるではありませんか」
「何がです?」
「そういうことです」
「難しいですね」
「戦よりも?」
景継は少し考えた。
「場合によっては」
茶々が吹き出した。
「そこは迷わず私の方が大切だと言うところでしょう」
「なるほど」
「今覚えないでください」
また笑い声が漏れた。
昼間まであった緊張は、もう茶々の顔には残っていなかった。
景継もまた、その笑い声を聞きながら思う。
これでよいのだろう。
最初から完璧な夫婦である必要などない。
自分と楓がそうだったように、これから積み重ねていけばよい。
そうして茶々は、正式に林道家の一員となった。
季節は少しずつ秋へと深まり、景継の周囲にも新しい日常が生まれていく。
楓と茶々が同じ部屋で話している姿を見かけることもあれば、茶々が万代丸を抱き、その横で楓が笑っていることもあった。もちろん、いつも穏やかなわけではない。茶々が景継に遠慮なく物を言い、楓がそれを面白そうに眺めていることも増えた。
景継にとって、それは慣れないながらも悪くない時間だった。
しかし、天下が景継の家庭が落ち着くのを待ってくれるはずもない。
ある日のこと。
政務を終えようとしていた景継のもとへ、弥兵衛が一通の書状を持ってきた。
「殿。滝川様より使者が参っております」
「一益殿から?」
景継は書状を受け取り、目を通した。
内容そのものに、不自然なところはない。
領内の状況と、今後の軍備についての報告。それに景継へ確認しておきたいことが幾つか記されている。
いつもの一益らしい文面だった。
だが読み終えた景継は、書状を置かず、もう一度最初から目を通した。
「どうされました?」
「……いえ」
内容ではない。
字だった。
力強く、迷いなく筆を走らせる一益の字を、景継は何度も見てきた。
その筆跡が、ほんのわずかに乱れている。
老いと言ってしまえば、それまでなのかもしれない。
一益もすでに若くはない。
それでも景継は、なぜかその小さな違和感を見過ごすことができなかった。
「一益殿は、最近こちらへ来られましたか?」
「いえ。ここしばらくは」
「そうですか」
景継は書状を静かに畳んだ。
長秀を失ってから、まだ半年ほどしか経っていない。
だからこそ、気になったのかもしれない。
あるいは――。
「殿?」
「近いうちに、一益殿と会う機会を作ってください」
「承知いたしました」
弥兵衛が頭を下げる。
景継はもう一度、畳んだ書状へ目を落とした。
ただの思い過ごしなら、それでいい。
むしろ、そうであってほしい。
新しい家族を迎えた林道家の秋は、穏やかに過ぎようとしていた。
だが景継の知らぬところで、長く共に戦ってきた者たちにもまた、確実に時は流れていた。




