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『乱世にて、我は待つ』~知略を秘めた軍師は、やがて天下を動かす~  作者: ダイヤマ
第十一章 乱世狭間編

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第二百四十三話 新たな妻



茶々との話がまとまってから、婚儀の準備は思っていた以上の速さで進んでいった。


もっとも、景継自身が何かを急がせたわけではない。むしろ市と楓、それに双方の家臣たちが話を進めていくのを眺めながら、時折求められる判断に答えていただけである。


戦ならば、敵の兵数と地形を見れば、おおよそ何をすべきかは分かる。政であっても、相手の利害を読み、落としどころを探せばよい。


だが婚儀となると、どうにも勝手が違った。


「殿。こちらについてはいかがいたしましょう」


家臣から差し出された書付に目を落とした景継は、しばらく内容を読んだあと、静かに顔を上げた。


「……楓に聞いていただけますか」


「またでございますか」


傍らにいた弥兵衛が、呆れたように笑った。


景継が眉を寄せる。


「また、とは何です」


「ここ数日、そればかりではございませんか。殿に尋ねても、楓様に聞け、市様に確認せよ、茶々様のお考えを聞けと」


「分からないものを、分かったふりで決めるよりはよいでしょう」


「戦のことなら、誰にも聞かずに決められるというのに」


「だから困っているのです」


あまりにも真顔で返されたため、弥兵衛は堪えきれずに笑い声を漏らした。


「何がおかしいのです」


「いえ。天下のことなら平然と口になさる殿が、婚儀のこととなると随分と慎重になられるものだと思いまして」


「失敗しても兵を引けばよい、という話ではありませんからね」


「それを茶々様の前でも言えれば大したものです」


景継は答えなかった。


その沈黙を見た弥兵衛が、また笑った。


やがて日取りが定まり、茶々が正式に林道家へ入る日が訪れた。


盛大な宴を何日も続けるような婚儀にはしなかった。景継自身が華美なものを好まなかったこともあるが、茶々もまた、それを望まなかったからである。


とはいえ、市の娘であり、織田と浅井の血を引く茶々が林道家へ嫁ぐのだ。完全に内々で済ませられる話でもなく、関係する家々への知らせや挨拶だけでも相応のものとなった。


そして何より、茶々自身にとっては人生の大きな節目だった。


屋敷へ入ってきた彼女は、いつものように背筋を伸ばし、堂々としていた。


だが、出迎えた景継には分かった。


ほんのわずかに、表情が硬い。


長く知っている相手とはいえ、今日から暮らす場所も立場も変わる。しかも正室である楓と同じ家で生きていくのだから、何も感じないはずがなかった。


「茶々」


景継が声をかけると、茶々は振り返った。


「何でしょう」


「緊張していますか」


「……しておりません」


答えが妙に早い。


景継が黙って見ていると、茶々の眉がわずかに動いた。


「何ですか、その顔は」


「いえ。しているように見えましたので」


「景継様」


「はい」


「今日くらいは、気づいても黙っていてくださってもよろしいのではありませんか?」


景継は少し考えてから頷いた。


「なるほど。覚えておきます」


「今後のために、ぜひそうしてください」


茶々の口元にようやく笑みが浮かんだ。


その表情を見て、景継もわずかに肩の力を抜いた。


そこへ楓が姿を見せた。


腕には万代丸を抱いている。


「お待ちしておりました、茶々様」


茶々はすぐに表情を改め、楓へ頭を下げた。


「楓様。本日より、お世話になります」


「こちらこそ。先日も申し上げましたが、あまり堅くならないでください。同じ屋敷で毎日その調子では、私まで疲れてしまいます」


「……努力いたします」


「そこも堅いですね」


楓が笑うと、茶々も困ったように笑った。


以前二人だけで話したことが効いているのだろう。ぎこちなさは残っているものの、互いに距離を測っているような険しさはない。


すると、楓の腕の中にいた万代丸が茶々へ手を伸ばした。


「あら」


茶々の目が丸くなる。


万代丸は何かを掴もうとするように、小さな手を何度も動かしていた。


「茶々様が気になるようですね」


「私が、ですか?」


「抱いてみますか?」


その一言で、茶々の顔から先ほどまでの強気が消えた。


「え」


景継は思わず茶々を見る。


茶々もこちらを見た。


「……何ですか」


「いえ。そのような顔もされるのですね」


「景継様は少し黙っていてください」


先ほど自分が言われたばかりの言葉を返され、景継は素直に口を閉じた。


楓が笑いながら万代丸を茶々へ渡す。


茶々は恐る恐る腕を出し、教えられるまま万代丸を抱いた。普段なら迷いなく物を言う彼女が、この時ばかりは身体をほとんど動かさず、腕の中の赤子を凝視している。


「……軽い」


「でも、ずっと抱いていると重くなりますよ」


「そういうものなのですか」


「そういうものです」


万代丸はしばらく茶々を見上げていたが、やがて彼女の着物を小さな手で掴んだ。


茶々の表情が柔らかくなる。


「万代丸様」


呼びかけても、当然返事はない。


それでも茶々は、しばらくその小さな顔を見つめていた。


景継は二人を眺めながら、不思議な感覚を覚えていた。


万代丸が生まれた時にも感じたことだが、前世では得られなかったものが、今世では少しずつ自分の周囲に増えている。


家族。


その言葉を、かつての自分が知らなかったわけではない。


だが今は、以前とはどこか違って感じられた。


天下を動かすこととは比べようもないほど小さな光景なのに、なぜか目を離したくない。


そんな景継の視線に気づいたのか、楓がこちらを見る。


「どうされました?」


「……いえ」


景継は首を振った。


「何でもありません」


楓は何も追及せず、ただ少しだけ笑った。


その日の夜。


一通りの挨拶を終えたあと、茶々と景継は二人になった。


昼間までの賑わいが嘘のように、屋敷の中は静かだった。


茶々は景継の前に座ると、しばらく何も言わなかった。


景継も急かさずに待つ。


やがて茶々が口を開いた。


「本当に、妻になったのですね」


「そうですね」


「……もう少し何かありませんか?」


「何か、とは?」


茶々がじっと景継を見る。


その目を見て、景継は昼間の弥兵衛の言葉を思い出した。


天下のことなら平然と口にするのに――。


どうやら、あながち間違ってはいなかったらしい。


「私は」


景継は言葉を探しながら、ゆっくり続けた。


「以前にも申し上げましたが、あなたを突然、昔から妻として見ていたことにはできません」


茶々は黙って聞いている。


「ですが、あなたが私を選んでくださったことは嬉しかった。それも嘘ではありません」


景継はそこで一度言葉を切った。


「ですから、これから知っていきたいと思っています。市様の娘としてでも、昔から私の後ろをついてきた少女としてでもなく……私の妻となった茶々という女性を」


茶々の目がわずかに見開かれた。


しばらくして、彼女は小さく息を吐く。


「……言えるではありませんか」


「何がです?」


「そういうことです」


「難しいですね」


「戦よりも?」


景継は少し考えた。


「場合によっては」


茶々が吹き出した。


「そこは迷わず私の方が大切だと言うところでしょう」


「なるほど」


「今覚えないでください」


また笑い声が漏れた。


昼間まであった緊張は、もう茶々の顔には残っていなかった。


景継もまた、その笑い声を聞きながら思う。


これでよいのだろう。


最初から完璧な夫婦である必要などない。


自分と楓がそうだったように、これから積み重ねていけばよい。


そうして茶々は、正式に林道家の一員となった。


季節は少しずつ秋へと深まり、景継の周囲にも新しい日常が生まれていく。


楓と茶々が同じ部屋で話している姿を見かけることもあれば、茶々が万代丸を抱き、その横で楓が笑っていることもあった。もちろん、いつも穏やかなわけではない。茶々が景継に遠慮なく物を言い、楓がそれを面白そうに眺めていることも増えた。


景継にとって、それは慣れないながらも悪くない時間だった。


しかし、天下が景継の家庭が落ち着くのを待ってくれるはずもない。


ある日のこと。


政務を終えようとしていた景継のもとへ、弥兵衛が一通の書状を持ってきた。


「殿。滝川様より使者が参っております」


「一益殿から?」


景継は書状を受け取り、目を通した。


内容そのものに、不自然なところはない。


領内の状況と、今後の軍備についての報告。それに景継へ確認しておきたいことが幾つか記されている。


いつもの一益らしい文面だった。


だが読み終えた景継は、書状を置かず、もう一度最初から目を通した。


「どうされました?」


「……いえ」


内容ではない。


字だった。


力強く、迷いなく筆を走らせる一益の字を、景継は何度も見てきた。


その筆跡が、ほんのわずかに乱れている。


老いと言ってしまえば、それまでなのかもしれない。


一益もすでに若くはない。


それでも景継は、なぜかその小さな違和感を見過ごすことができなかった。


「一益殿は、最近こちらへ来られましたか?」


「いえ。ここしばらくは」


「そうですか」


景継は書状を静かに畳んだ。


長秀を失ってから、まだ半年ほどしか経っていない。


だからこそ、気になったのかもしれない。


あるいは――。


「殿?」


「近いうちに、一益殿と会う機会を作ってください」


「承知いたしました」


弥兵衛が頭を下げる。


景継はもう一度、畳んだ書状へ目を落とした。


ただの思い過ごしなら、それでいい。


むしろ、そうであってほしい。


新しい家族を迎えた林道家の秋は、穏やかに過ぎようとしていた。


だが景継の知らぬところで、長く共に戦ってきた者たちにもまた、確実に時は流れていた。



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