第二百四十二話 茶々の選択
楓との話を終えた景継は、その日のうちに市へ使いを出した。
茶々との縁談について、自分の答えを直接伝えたい。
そう申し入れると、ほどなくして市から返事が届いた。
茶々も待っているという。
景継は手元の仕事を一段落させると、市と茶々のいる屋敷へ向かった。
返事を先延ばしにする理由は、もうなかった。
市から茶々との婚姻を持ちかけられた時には驚いたが、茶々自身の考えも聞き、楓とも話した。そのうえで、自分がどうしたいのかについても考えた。
答えはすでに決まっている。
それでも屋敷へ近づくにつれて、景継は自分が少し緊張していることに気づいた。
これまで茶々を一人の女性として意識したことが、ほとんどなかったからだろう。
幼い頃から知っている。
三姉妹の中でも特によく懐かれ、後ろをついて回られたこともあった。北ノ庄の一件を経てからは以前にも増して信頼されていることも感じていた。
だが、それと男女として向き合うことは別だった。
屋敷へ着いた景継を出迎えたのは市だった。
「お待ちしておりました」
「急に申し訳ありません」
「いえ。今日中に来られると思っていましたから」
「分かっていたのですか?」
「景継殿は、答えを出した後にこういうことを長引かせる方ではないでしょう?」
市はそう言って笑った。
景継には否定できない。
「茶々殿は?」
「奥におります」
市が廊下の先へ目を向ける。
「私は同席しない方がよろしいでしょうね」
「よろしいのですか?」
「私がお話しすることは、もうありません」
市は穏やかに答えた。
「ここから先は、茶々と景継殿のお話でしょう」
景継は一礼すると、案内された部屋へ向かった。
「茶々殿。景継です」
すぐに返事があった。
「どうぞ」
襖を開けると、茶々は一人で待っていた。
景継の姿を認め、立ち上がろうとする。
「そのままで結構ですよ」
「そうですか?」
茶々が座り直し、景継もその向かいへ腰を下ろした。
「母上は一緒ではないのですね」
「市殿から、ここからは二人で話すようにと言われました」
「母上らしいですね」
そう答えた茶々は笑っていたが、いつもより僅かに表情が硬い。
景継には、その理由が分かっていた。
「楓とも話しました」
その名前が出た瞬間、茶々の顔から笑みが消えた。
「……何と仰っていましたか?」
先ほど景継や市の前では堂々としていた茶々だが、やはり楓がどう受け止めたのかは気になっていたらしい。
「茶々殿」
「はい」
「まず、私からお答えしてもよろしいですか?」
茶々の背筋が伸びる。
「もちろんです」
膝の上に置かれた手には僅かに力が入っていた。
景継はそれを見て、茶々も緊張するのだなと妙なところで安心した。
「あなたのお話を聞いた後、楓と話しました。昔から私を慕ってくださっていたことも、北ノ庄のことを今でも覚えていることも、林道家へ来ることが織田家や柴田家のためにもなると考えていることも、すべて伝えています」
茶々は黙って聞いている。
「それから――あなたが政のために仕方なく嫁ぐのではなく、自分で私を選んだと言っていたことも」
そこで茶々の表情が少しだけ柔らかくなった。
「約束を守ってくださったのですね」
「約束しましたから」
「ありがとうございます」
茶々は小さく頭を下げた。
景継は続ける。
「楓も、何も感じていないわけではありません」
茶々の顔が上がった。
「……やはり、そうですよね」
「寂しいとも、少し妬くとも言っていました」
茶々は黙った。
当然だと思ったのだろう。
自分が逆の立場ならどう感じるか。それくらい想像できない女性ではない。
「それでも、反対はしないと言ってくれました」
茶々の目が大きくなる。
「本当ですか?」
「ええ」
景継は頷いた。
「ただし、一つ言われました」
「何でしょう?」
「私に対してです」
茶々は首を傾げる。
「あなたを迎えるのであれば、政略だからと形だけ妻にして放っておくようなことはするな、と」
茶々は何も言わなかった。
だが、その目が僅かに揺れた。
「自分で私を選んで林道家へ来るのだから、私も一人の妻としてきちんと向き合うようにと言われました」
「楓様が……」
茶々は視線を落とした。
先ほどまで緊張で固くなっていた手から、少しずつ力が抜けていく。
「……敵いませんね」
小さく呟いた。
「何がです?」
「何でもありません」
茶々は顔を上げた。
いつもの強さが少し戻っている。
「それで、景継様のお答えは?」
逃がしてはくれないらしい。
景継は一度だけ息を吐いた。
「茶々殿」
「はい」
「林道家へ来ていただけますか?」
茶々はしばらく景継を見つめていた。
待っていた言葉だったはずなのに、すぐには答えない。
やがて眉を寄せる。
「……それだけですか?」
今度は景継が戸惑った。
「それだけ、とは?」
「私はあれだけ色々と言ったのですよ?」
「覚えています」
「昔から慕っていたことも、北ノ庄のことも、自分から景継様を選んだことも」
「ええ」
「それに対して、景継様は『林道家へ来ていただけますか』だけなのですか?」
どうやら不満らしい。
景継は困った。
「では、何と申し上げれば」
「それを私に聞くのですか?」
「聞いた方が早いかと」
「そういうところです!」
茶々の声が少し大きくなった。
景継はますます分からない。
先ほど楓からも似たようなことを言われた気がする。
「私は軍議をしているのではありません」
「分かっています」
「分かっていません」
茶々は頬を膨らませた。
だが、しばらくすると自分でもおかしくなったのか、小さく笑った。
「……本当に、景継様は昔から変わりませんね」
「そうでしょうか」
「そうです。戦や政の話になると、誰よりも先のことまで考えるのに」
茶々が少し身を乗り出した。
「こういうことになると、何も分かっていません」
「今日は随分と言われますね」
「楓様にも言われたのですか?」
「似たようなことを」
茶々が笑う。
景継も苦笑した。
その笑いが収まった後、景継は改めて茶々を見る。
先ほどとは違い、今度はすぐに口を開かなかった。
自分が何を伝えるべきなのかを考える。
茶々は待っていた。
「……茶々殿」
「はい」
「市殿からお話を聞いた時は、本当に驚きました」
「それは見れば分かりました」
「最後まで聞いてください」
「はい」
茶々が少し姿勢を正す。
「私は、あなたが昔から懐いてくださっていることは知っていました。ですが、それ以上の気持ちを向けてくださっているとは思っていませんでした」
景継はそこで一度言葉を選んだ。
「ですから今すぐ、あなたと同じだけの気持ちを返せるとは申し上げられません」
茶々の表情が僅かに変わった。
景継はそれでも誤魔化さなかった。
ここで都合のいい言葉を並べる方が、茶々に対して失礼だと思ったからだ。
「ですが」
茶々の目を見る。
「あなたから、自分で私を選んだと言われたことは嬉しかったです」
茶々が黙って聞いている。
「北ノ庄のことを今でも覚えていてくださったことも。そして、私の家族まで見たうえで、それでも林道家へ来たいと言ってくださったことも」
景継の声は普段と変わらず穏やかだった。
だが、先ほどより言葉はずっと慎重だった。
「だから私も、政略だからあなたを迎えるのではありません」
茶々の目が少し大きくなる。
「今までとは違う形で、あなたと向き合ってみたいと思っています」
景継は小さく頭を下げた。
「それでもよろしければ、私の妻になってください」
茶々は何も言わなかった。
景継も返事を急かさない。
やがて茶々が俯いた。
肩が僅かに震えている。
「茶々殿?」
「……ずるいです」
「何がです?」
茶々が顔を上げる。
少しだけ目が潤んでいたが、それ以上に笑っていた。
「最初からそう言えばいいのです」
「難しいですね」
「何がですか」
「こういうことを言うのは」
茶々は呆れたように景継を見た後、ふっと笑った。
「では、仕方ありませんね」
「仕方ないのですか?」
「私が教えます」
「何をです?」
「色々です」
「……少し不安になってきました」
「今さら断っても遅いですよ」
茶々はそう言うと、姿勢を正した。
今度はふざけていなかった。
「喜んで、景継様のもとへ参ります」
そして深く頭を下げる。
「これから、よろしくお願いいたします」
景継も頭を下げた。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
二人が顔を上げる。
これまで何度も顔を合わせてきた相手だった。
それなのに今は、ほんの少しだけ違って見えた。
◇
話を終えた二人が部屋を出ると、市が待っていた。
「終わりましたか?」
「母上」
茶々が少し呆れた顔をする。
「まさか、ずっと待っていたのですか?」
「別の部屋にいただけですよ」
「聞いてはいませんよね?」
「聞いていません」
「本当ですか?」
「娘の大事な話を盗み聞きするほど、私は暇ではありません」
市はそう言った後、景継へ目を向けた。
その視線だけで、答えを尋ねられていることが分かる。
景継が頷いた。
「茶々殿を、林道家へお迎えしたいと思います」
市はしばらく景継を見つめた後、静かに頭を下げた。
「よろしくお願いいたします」
「こちらこそ」
景継も頭を下げる。
その横で、茶々が少し不満そうな顔をした。
「私には何もないのですか?」
市が娘を見る。
「何を言ってほしいのです?」
「もう少し何かあるでしょう」
「よかったですね?」
「……何だか軽いです」
市はそんな娘の顔をしばらく眺めていた。
幼い頃、景継を見つけるたびに嬉しそうに駆け寄っていた娘が、もう嫁ぐ年齢になっている。
そのことを思えば、母として何も感じないはずがなかった。
「茶々」
市の声が少しだけ変わる。
「あなたが選んだのですよ」
茶々の表情から不満が消えた。
「分かっています」
「景継殿が選んだだけではありません。あなたも景継殿を選んだ。ですから、この先何かあった時に『母上が嫁がせたから』とは言えませんよ」
茶々は一瞬だけ黙った後、真っ直ぐ母を見た。
「言いません」
「本当に?」
「はい」
迷いはなかった。
「私が決めたことですから」
市はその答えを聞き、ようやく満足そうに頷いた。
「ならば、私から言うことはありません」
茶々も小さく頷いたが、少ししてから母へ尋ねた。
「母上は……本当に私が景継様のところへ嫁いでもよいのですか?」
今度は市が黙った。
茶々が聞きたいのは、織田や柴田、林道家の話ではないのだろう。
母親としてどう思っているのか。
市は少し考えた後、娘の手へ自分の手を重ねた。
「寂しくないと言えば、嘘になります」
茶々の表情が柔らかくなる。
「ですが、どこの馬の骨とも分からない方のところへ送り出すよりは、ずっと安心しています」
茶々の顔が固まった。
「母上!」
市が笑う。
「あなたが言ったのでしょう?」
「忘れてください」
「嫌です」
「母上!」
景継は母娘のやり取りを横で聞きながら、笑いを堪えるように口元へ手を当てた。
すると茶々がすぐに気づく。
「景継様も笑わないでください」
「笑っていませんよ」
「笑っています」
「気のせいです」
「絶対に笑っています!」
先ほどまでの緊張は、もうどこにもなかった。
◇
数日後。
今度は茶々が楓を訪ねた。
景継も最初は同席するつもりだったが、楓から「女性同士で話します」と言われ、茶々からも「景継様がいると話しにくいです」と断られた。
「……私にも関係する話だと思うのですが」
そう呟く景継に、楓は笑いながら仕事へ戻るよう勧めた。
景継が部屋を出ると、楓と茶々は互いに顔を見合わせた。
最初に頭を下げたのは茶々だった。
「楓様」
「はい」
「ありがとうございます」
楓はすぐには答えなかった。
「何に対してですか?」
茶々が顔を上げる。
「私が林道家へ入ることを受け入れてくださったことです」
楓は少し考えてから首を横に振った。
「私が認めたから、あなたが来るわけではないでしょう?」
茶々が目を瞬く。
「あなたが景継様を選び、景継様もあなたを迎えると決めた。それなら、私だけが許す側のように振る舞うのは違うと思っています」
茶々はしばらく楓を見つめた。
「……景継様と似たことを仰るのですね」
「そうですか?」
「少しだけ」
二人の間にあった緊張が僅かに解ける。
だが楓は、そこで話を終わらせなかった。
「ただし、茶々殿」
「はい」
「私は、あなたに景継様を譲るつもりはありませんよ」
茶々の目が大きくなった。
楓は穏やかに笑っている。
だが、冗談ではない。
茶々もそれを察すると、ゆっくり口元を上げた。
「私も、譲っていただこうとは思っておりません」
「そうですか」
「はい」
「なら、よかったです」
二人はしばらく見つめ合った後、どちらからともなく笑った。
楓は景継の正室であり、万代丸の母である。
茶々もそれを奪うつもりはない。
だからといって、自分の気持ちまで遠慮するつもりもなかった。
「一つお願いがあります」
茶々が言う。
「何でしょう?」
「私が何か間違えた時には、きちんと言ってください」
「私が?」
「はい。私は林道家のことを、まだすべて知っているわけではありませんから」
気が強くとも、それだけで何もかも押し通そうとしているわけではない。
自分がこれから入る家のことを学ぶつもりでいる。
それが分かり、楓の表情が柔らかくなった。
「では、私からも一つ」
「はい」
「景継様は、戦や政のことになると何でも一人で考えようとなさいます」
「知っています」
茶々の返事があまりに早く、楓が笑った。
「昔からですから」
「でしたら話が早いですね」
楓は少し身を乗り出した。
「時々、止めるのを手伝ってください」
茶々も笑う。
「喜んで」
こうして、林道家へ新たな女性を迎える話は決まった。
政略だけで始まった婚姻ではない。
かといって、恋だけで決まったものでもない。
家と家の結びつきがあり、北ノ庄で生まれた恩と信頼があり、そのさらに前から積み重ねてきた時間がある。
そして最後に、茶々自身が自分の意思で景継を選んだ。
やがて市や家臣たちを交え、正式な婚姻の日取りについて話し合いが始まることになる。
その頃、景継はまだ知らなかった。
楓と茶々が、自分をどう扱うかについて早くも意気投合し始めていたことを。
林道家に、新しい家族が加わろうとしていた。




