第二百四十一話 妻として
楓の部屋へ向かう途中、景継は何度か話の切り出し方を考えた。
市から茶々との婚姻を持ちかけられたこと。茶々自身もそれを望んでいること。そして、自分はまだ何も返事をしていないこと。
伝えるべきことは決まっている。
ならば、そのまま話せばいい。
そう思っていたはずなのだが、部屋が近づくにつれて、なぜか言葉を選んでいる自分に気づいた。
戦場なら、敵が何万いようと必要なことを考えればいい。ところが今回は、何を言えば正しいのかという答えそのものがない。
景継がそんなことを考えながら部屋へ入ると、楓は万代丸を膝に抱いていた。
「あら、お帰りなさいませ」
「ただいま戻りました」
万代丸も父親に気づいたらしく、小さな手を伸ばしてくる。
景継は自然と表情を緩め、その手を指先で握った。
「今日は随分と機嫌がいいですね」
「先ほどまで眠っていましたから。起きてからずっと元気です」
「そうですか」
景継が万代丸の頬を軽くつつくと、息子は何が面白いのか声を上げて笑った。
その様子を見ていた楓も笑う。
しばらくは、いつもと変わらない時間が流れた。
だが景継がなかなか立ち去らないことに、楓の方が先に気づいた。
「何かございましたか?」
景継の手が止まる。
「なぜです?」
「お仕事の途中でしょう?」
「ええ」
「でしたら、いつもなら万代丸の顔を見て、もう少し名残惜しそうにしてから戻られます」
「……よく見ていますね」
「妻ですから」
楓は当たり前のように答えた。
景継は少し困ったように笑い、万代丸から手を離す。
どうやら遠回しに話を始める方が難しそうだった。
「実は、先ほど市殿がいらっしゃいました」
「市様が?」
「はい。お話があると」
「何のお話でしょう」
景継は楓の向かいへ座った。
「茶々殿のことです」
楓の表情がわずかに変わった。
ほんの僅かな変化だったが、景継は見逃さなかった。
「……茶々殿ですか」
「はい」
景継はそこで一度言葉を止めた。
どう伝えるべきか考えた末、結局は余計な言葉を足さないことにした。
「市殿から、茶々殿を私の側室として迎えてはどうかというお話をいただきました」
楓は何も言わなかった。
腕の中の万代丸が衣を掴み、それを口へ持っていこうとする。
楓は慣れた手つきで止めながら、しばらく考えていた。
景継も急かさない。
やがて楓が顔を上げた。
「それで、どうお答えになったのですか?」
「まだ返事はしていません」
「そうなのですか?」
「私だけで決めることではありませんから」
楓は景継を見つめた。
「それで、私のところへ?」
「はい」
楓は再び黙った。
怒っているようには見えない。
かといって、何とも思っていないわけでもないことは景継にも分かった。
「市様がお考えになった縁談なのですか?」
「それだけではありません」
「と、申しますと?」
「茶々殿ご本人も来られていました」
今度こそ、楓の目が少し大きくなった。
「茶々殿も?」
「途中から部屋へ入ってこられました。正確には、最初から隣で話を聞いていたようですが」
楓の口元がわずかに緩んだ。
「茶々殿らしいですね」
「そうなのですか?」
「ええ」
迷わず返され、景継は少し不思議そうな顔をした。
楓はその顔を見て、今度ははっきり笑った。
「あなたは、本当にお気づきではなかったのですね」
「何にです?」
楓は答える前に、万代丸を抱き直した。
「茶々殿が、あなたをお慕いしていることです」
景継はしばらく黙った。
今日だけで二度、似たようなことを言われている。
「昔から懐かれているとは思っていました」
「それだけだと?」
「少なくとも、以前はそうだったでしょう」
「以前は、でしょうね」
楓は否定しなかった。
「私も最初からそういう目で見ていたわけではありません。でも茶々殿も、もう子供ではありませんから」
景継は何とも言えない顔になる。
「そんなに分かりやすかったですか?」
「女同士だから分かることもあります」
「そういうものですか」
「そういうものです」
楓は少し楽しそうだった。
だが景継は、笑って終わらせるつもりはなかった。
「茶々殿から、自分の意思で嫁ぎたいと言われました」
楓の笑みが少し薄くなる。
景継は茶々と交わした話を、できるだけそのまま伝えた。
幼い頃から景継を慕っていたこと。
北ノ庄で父母を救われたことを今でも強く感謝していること。
自分が織田と柴田に関わる立場であり、婚姻が政治と切り離せないことも理解していること。
そして――知らない相手へ嫁ぐくらいなら、自分が知り、信頼している景継のもとへ行きたいと考えていること。
「『どこの馬の骨とも分からない方に嫁ぐくらいなら』と」
景継がそのまま伝えると、楓が吹き出した。
「本当に、そう言われたのですか?」
「ええ。市殿にも叱られていました」
「でしょうね」
楓はしばらく笑っていた。
景継もつられて口元を緩める。
だが、その後に伝える言葉だけは笑わなかった。
「茶々殿から頼まれました。政のために仕方なく嫁ぐようには、あなたへ伝えないでほしいと」
楓が景継を見る。
「自分で私を選んだのだと。それを楓にも、きちんと伝えてほしいと言われました」
今度は、楓もすぐには何も言わなかった。
先ほどまでとは違う沈黙だった。
景継は待った。
やがて楓は、眠そうに目を擦り始めた万代丸を見ながら口を開いた。
「……強い方ですね」
「私もそう思います」
「信長様の血でしょうか」
「少し思いました」
「やはり」
二人の間に小さな笑みが生まれた。
だが、それも長くは続かなかった。
楓が静かに尋ねる。
「あなたは、どうされたいのですか?」
景継は答えなかった。
「市様が望んでいるからでも、茶々殿が望んでいるからでもありません。あなた自身は、どう思われているのです?」
それは景継が、市と茶々の前では答えなかった問いだった。
政治的な意味なら分かる。
茶々の意思も聞いた。
残っているのは、自分自身の気持ちだった。
「……嫌ではありません」
ようやく出した答えに、楓が眉を上げる。
「随分と便利な答えですね」
「そう聞こえますか?」
「はい」
景継は困った。
戦の報告なら、もっと簡単に話せる。
「茶々殿のことは、昔から知っています。私を慕ってくれていたことも、今日改めて分かりました。林道家へ来ていただくことに、反対する理由もありません」
「それは当主としての答えでしょう?」
また止められた。
景継は楓を見る。
楓も目を逸らさない。
「妻として聞いております」
その言葉に、景継はようやく理解した。
これは林道家の正室と当主の話ではない。
楓と景継の話なのだ。
「……そうですね」
景継は少し考えた。
「嬉しかったです」
楓の表情が変わる。
「茶々殿から、昔から慕っていたと言われて。北ノ庄のことも覚えていてくださって。それから、自分で私を選んだと言われました」
口にしてみると、自分でもようやく分かった。
驚いただけではない。
あれほど真っ直ぐに気持ちを向けられて、何も感じなかったわけではなかった。
「嬉しかったのですね」
「はい」
景継は正直に頷いた。
「ただ、それであなたを不快にさせてまで話を進めたいとは思っていません」
楓は少し困ったような顔をした。
「そういう言い方をされると、私が嫌だと言えばすべて終わるように聞こえます」
「違いますか?」
「違います」
楓の返事は思ったより強かった。
景継が目を瞬く。
「私はあなたの妻です。でも、あなたのすることを許すか許さないか決めるだけの人ではありません」
その言葉に景継は黙った。
「林道家が大きくなれば、こういう話が出ることくらい、ずっと前から分かっていました」
楓は万代丸の小さな手を握った。
「むしろ、今までなかった方が不思議なくらいです」
「そうなのですか?」
「あなたが断りそうだから、皆様が言えなかっただけではありませんか?」
景継には心当たりがなかった。
楓はそんな夫の顔を見て、少し笑う。
「それに、茶々殿なら知らない方でもありません。昔から存じていますし、あの方があなたを慕っていることも知っています」
そこで言葉が止まった。
景継は、続きがあることを感じて待つ。
楓は少し迷ってから、静かに続けた。
「ですが……何も思わないわけではありませんよ」
景継の表情がわずかに引き締まった。
「あなたが別の女性を妻として迎えるのです。私が笑って『どうぞ』と言って、それだけで終われるほど出来た妻ではありません」
「楓……」
「嫌という意味ではありません」
楓は景継の言葉を待たずに続けた。
「ただ、寂しいとは思います」
その声には怒りも責める色もなかった。
だからこそ景継には重く聞こえた。
「これまで、あなたの妻は私一人でしたから」
景継は何も言えなかった。
万代丸が二人の空気など知らず、楓の指を握って遊んでいる。
楓は息子を見て、少し笑った。
「こういうことを言うと、困りますか?」
「いえ」
景継は首を横に振った。
「言っていただいた方がいいです」
「そうですか」
「何も思わないと言われる方が、私は困ります」
楓は少し驚いた後、柔らかく笑った。
「では、言っておきます」
「はい」
「少し嫌です」
景継の眉が動く。
楓はその反応を見ながら続けた。
「少し寂しいですし、少し妬きます」
「……はい」
「ですが、それでも茶々殿を迎えることには反対しません」
景継は楓を見つめた。
「よろしいのですか?」
「よろしい、という言い方も少し違います」
楓は考えながら言葉を選ぶ。
「茶々殿が自分であなたを選んだのでしょう? そして、あなたも嫌ではない。それに林道家だけでなく、織田家や柴田家にとっても意味がある」
そこまで条件が揃っているのに、自分が妬くからという理由だけで拒むつもりはなかった。
それが楓の答えだった。
「ただし」
声が少し強くなる。
景継は自然と姿勢を正した。
「茶々殿を迎えるなら、中途半端な扱いはなさらないでください」
「中途半端?」
「政略だからと、形だけ妻にして放っておくようなことです」
景継は黙って聞く。
「茶々殿は、自分であなたを選んで来られるのでしょう。それならあなたも、きちんと一人の妻として向き合ってください」
楓はそこで少しだけ笑った。
「そうでなければ、茶々殿が可哀想です」
景継はしばらく楓を見つめた後、深く頷いた。
「分かりました」
「本当に?」
「ええ」
「戦の約束より、こちらを忘れないでくださいね」
「それは随分と難しい注文ですね」
「難しいのですか?」
楓の目が細くなる。
「……忘れません」
返事が早くなった。
楓が笑う。
景継もようやく肩の力を抜いた。
すると、その時まで大人しくしていた万代丸が、突然景継へ両手を伸ばした。
「おや」
楓から受け取り、景継が抱き上げる。
万代丸は父の胸元を掴むと、何が嬉しいのか声を上げた。
「あなたは何も分かっていなさそうですね」
楓が息子へ話しかける。
景継は万代丸を抱いたまま、楓を見る。
「楓」
「はい?」
「ありがとうございます」
楓は少しだけ目を見開いた。
だが、すぐには笑わなかった。
「まだ早いです」
「何がです?」
「私に礼を言って終わりではないでしょう?」
景継は首を傾げる。
楓は呆れたように息を吐いた。
「茶々殿に返事をしなければならないでしょう」
「……そうでした」
「本当に戦以外では抜けていますね」
「そこまで言われますか」
「今日は言います」
景継は苦笑した。
楓もようやく笑う。
その笑顔を見ながら、景継は万代丸を抱く腕に少し力を込めた。
妻が増える。
言葉にすれば、それだけのことなのかもしれない。
だが、一人の人間が家へ加わるということは、盤上の駒を一つ増やすこととはまるで違う。
楓には楓の思いがある。
茶々には茶々の思いがある。
そして、自分にも。
それぞれ違うものを抱えながら、それでも同じ家で生きていくことになる。
景継は腕の中の万代丸へ目を落とした。
この子が大きくなる頃、今日の選択がどのような意味を持つのか。
今の景継には、まだ分からない。
ただ一つだけ、決めたことがあった。
茶々を迎えるのであれば、政略のために置いておくだけの存在にはしない。
林道家へ来る一人の女性として。
自分を選んだ一人の妻として。
きちんと向き合う。
「では、茶々殿へ返事をしてきます」
景継が万代丸を楓へ返しながら立ち上がる。
「はい」
「楓も一緒に来ますか?」
何気なく尋ねると、楓は少し考えた後、首を横に振った。
「今日はお二人でお話しください」
「二人で?」
「茶々殿は市様の娘としてではなく、自分の意思であなたを選ばれたのでしょう?」
景継は頷いた。
「でしたら、返事もあなた自身からしてあげてください」
「……分かりました」
景継が部屋を出ようとした時、背後から楓に呼び止められた。
「あなた」
振り返る。
楓は万代丸を抱きながら、ほんの少しだけ意地悪そうに笑っていた。
「茶々殿は、かなり気の強い方ですよ」
「今日、よく分かりました」
「本当に分かっています?」
「おそらく」
「でしたら、これから大変ですね」
景継は少し考えた。
楓と茶々。
二人が同じ家で暮らす光景を想像する。
「……戦より難しくなりそうですね」
「それは知りません」
楓は楽しそうに笑った。
景継も苦笑しながら部屋を出る。
向かう先は戦場でも評定の間でもない。
自分を選んだと言い切った一人の女性へ、自分の答えを伝えるためだった。




