第二百四十話 戦の後に
上田から届いた報せを前にしても、徳川家康はすぐには口を開かなかった。
真田を討つために送り出した軍勢は七千余。それに対して、昌幸が動かせた兵は二千ほどだったという。兵数だけを比べれば、結果を疑う余地などないはずだったが、実際に上田から退いたのは徳川だった。
鳥居元忠、大久保忠世らから届いた報告には、戦の経過が詳しく記されている。城外へ出てきた真田勢を押し、退く敵を追ったところで隊列が伸び、上田城近くで反撃を受けた。異変に気づいて立て直そうとしたものの、その動きさえ昌幸に利用され、退却へ移れば今度は後方からも揺さぶられた。
家康は同じ箇所を二度読み返してから、ようやく書状を置いた。
「元忠を責めるつもりはない」
最初に出た言葉がそれだったため、控えていた家臣たちが顔を上げる。
「しかし殿、七千余を率いながら二千ほどの真田に敗れたとなれば……」
「だからこそだ」
家康は静かに言葉を返した。
「元忠が何も考えず敵を追ったのなら、俺も叱る。だが途中で異変には気づいておるし、追撃を止めようともした。それでも間に合わなかった」
報告を読めば分かる。
鳥居元忠が無能だったから敗れたのではない。昌幸が、相手が異変に気づいた後まで考えていたのだ。
一度誘い込んで終わりではなく、徳川が立て直そうとすれば次の手を打ち、退こうとすればさらに乱す。それでいて、徳川勢が本格的に退いた後は必要以上に追っていない。
「……真田昌幸か」
家康がその名を口にした。
これまでも軽く見ていたつもりはない。武田が滅び、織田の力が信濃へ伸び、その織田まで崩れた後も、昌幸は小さな真田家を残し続けている。その時点で、ただの国人でないことくらい分かっていた。
それでも心のどこかに、兵を向ければ最後には従わせられるという考えがあったことは否定できない。
家康は膝に置いていた手をゆっくり握った。
「俺も甘かったな」
家臣たちが黙った。
敗北を他人だけの責任にする言葉ではなかったからだ。
「真田は小さい。ゆえに、こちらが大きければ押し潰せると思った。だが昌幸は、小さいからこその戦い方をした」
「再び兵を出されますか?」
家臣の問いに、家康はすぐには答えなかった。
感情だけで考えるなら、今度こそさらに大軍を率いて上田を攻めればいい。徳川の力をもってすれば、それも不可能ではない。
だが戦とは、負けた腹いせにするものではなかった。
「上杉との関係はどうなっている」
「真田は、すでにかなり接近しているものと思われます」
「ならば、真田だけを見て兵を出すわけにもいかんな」
家康は地図へ視線を移した。
真田の向こうには上杉がいる。さらに北条との関係もあり、一つの土地を巡る争いから始まったものが、下手に動けば周囲を巻き込んでより大きな戦へ変わる。
「昌幸は、それを狙って上杉へ近づいたのでしょうか」
「狙っていたであろうな。少なくとも、徳川と争うことになった時の逃げ道にはしていたはずだ」
家康の声に、先ほどまでの苛立ちはほとんど残っていなかった。
代わりにあるのは、昌幸という男を改めて見定めようとする冷静さだった。
「面倒な男だ」
その一言に、家臣の一人が苦笑する。
「殿がそのように仰る相手も珍しゅうございますな」
「そうか?」
「はい」
家康は少しだけ笑ったが、すぐに地図へ目を戻した。
「だが、覚えておけ。今回負けたからといって、次も同じように負けるつもりはない」
低い声だった。
「真田昌幸を、二度と兵数だけでは見ぬ」
敗北を恥じるだけでは何も残らない。なぜ負けたのかを知り、次に同じ間違いをしない。それができない者から、この乱世では消えていく。
家康は上田の位置をしばらく見つめた後、ゆっくりと視線を西へ動かした。
そこには林道家の領国がある。
昌幸と景継が一度会っていることも、いずれ家康の耳へ入るだろう。
「林道景継は、この戦をどう見たのであろうな」
誰に答えを求めるでもなく、家康はそう呟いた。
◇
その景継は、上田から届く新たな報告を読みながら、昌幸が勝利の後も兵を整え、上杉との関係をさらに固めようとしていることを知った。
予想通りだった。
戦に勝ったからといって、真田が徳川より強くなったわけではない。むしろ徳川から危険な存在として見られるようになった以上、真田を取り巻く状況は戦前より難しくなったとも言える。
昌幸も、それくらいは分かっている。
「祝いの使者でも出されますか?」
弥兵衛に尋ねられ、景継は書状から顔を上げた。
「出しませんよ」
「やはりですか」
「私が今それをすれば、林道家が真田と結んだと受け取る者もいるでしょう」
「北条にも徳川にも、余計な疑いを持たれますな」
「ええ。それに昌幸殿も、そんなものを望んではいないでしょう」
以前会った時もそうだった。
昌幸は助力を求めなかった。徳川と争えば林道家が助けてくれるのかと確かめることもしなかった。
ただ景継という男が何を考え、どう判断するのかを見に来た。
ならば今も、余計な手出しはしない方がいい。
「ただし、真田の動きは引き続き見ておいてください」
「はっ」
弥兵衛が答え、少し考えてから景継を見る。
「また会われたいのですか?」
景継はすぐには答えず、机の上の書状を丁寧に畳んで他の書類とは分けて置いた。
「そうですね」
その仕草を見て、弥兵衛が笑う。
「やはり」
「何ですか、その顔は」
「いえ。殿にも、人を気に入られることがあるのだと思いまして」
「気に入ったとは言っていませんよ」
「では、嫌いですか?」
今度は景継が黙った。
弥兵衛の笑みが深くなる。
「仕事へ戻ってください」
「はっ」
追い払うように言われても、弥兵衛は楽しそうだった。
部屋を出ていく背中を見送り、景継は小さく息を吐く。
昌幸が何を考えているのかは、まだ分からない。だからこそ気になる。官兵衛とはまた違う意味で、長く見ておくべき男なのだろう。
そんなことを考えながら次の書状へ手を伸ばした時、廊下から足音が近づいてきた。
「殿」
「どうしました?」
「市様がお越しです。殿にお話があるとのことです」
景継の手が止まった。
「市殿が?」
市が自ら訪ねてくること自体は珍しくない。だが、わざわざ「話がある」と先に伝えさせる時は、大抵何か理由がある。
「分かりました。お通ししてください」
◇
しばらくして、市が部屋へ入ってきた。
景継は書類を端へ寄せて迎える。
「お忙しいところ、すみません」
「いえ。ちょうど一息つこうと思っていたところです」
「嘘ですね」
あっさり返され、景継は瞬きをした。
市は机の上に積まれた書類へ目を向ける。
「それで一息つくところだったと言われても、誰も信じませんよ」
「……では、今から一息つくところでした」
「それなら信じます」
市が小さく笑い、景継もわずかに口元を緩めた。
こうして市と二人でゆっくり話すのも、随分と久しぶりに感じる。
だが今日の市は、昔話をしに来たわけではなさそうだった。
「それで、お話とは?」
景継が尋ねると、市は出された茶を一口飲んでから静かに茶碗を置いた。
「景継殿。茶々のことで、話があります」
その名を聞かされても、景継はすぐには話の意図を掴めなかった。
「茶々殿が、どうかされましたか?」
「もう十八になります」
「そうですね」
「そろそろ、あの子の先のことも考えなければなりません」
そこまで聞いて、景継にもようやく話の方向が見えてきた。
茶々は信長の姪であり、市と浅井長政の娘でもある。その血筋を考えれば、婚姻が本人だけの問題では済まないことくらい景継にも分かる。
「縁談ですか」
「ええ」
「私に相手を探してほしい、ということでしょうか」
市は首を横に振った。
「相手なら、もう考えています」
「どなたです?」
「景継殿です」
あまりにも真っ直ぐ返され、景継はしばらく市の顔を見つめた。
冗談を言っているようには見えない。
「……私ですか?」
「はい」
「私は楓という妻がおりますし、万代丸もいます」
「もちろん存じています。楓殿を退けて茶々を正室に、などという話ではありません」
「では、側室として?」
市が頷いた。
景継は返事をせず、少しだけ視線を落とした。
政略として考えれば、意味のない話ではない。
茶々が林道家へ入れば、織田や柴田との結びつきはこれまで以上に深くなる。信長の姪を迎えることそのものも、周囲に小さくない意味を持つだろう。
それでも、利だけで決めていい話ではない。
「市殿のお考えですか?」
景継が尋ねると、市は少しだけ笑った。
「私の考えでもあります」
「でも、ある?」
「ええ」
市は廊下へ目を向けた。
「茶々」
景継が眉を上げる。
間もなく襖が開き、茶々が姿を現した。
「失礼いたします」
部屋へ入ってきた茶々を見て、景継は珍しく呆気に取られた。
「……いらしていたのですか」
「はい」
茶々は悪びれた様子もなく答える。
景継が市を見ると、市は涼しい顔をしていた。
「本人がいないところで、いつまでも本人の縁談を話していても仕方がないでしょう?」
「それはそうですが……」
「ですから連れてきました」
最初からこのつもりだったらしい。
茶々は市の隣へ座ると、景継を真っ直ぐ見た。
幼い頃から知っている顔だった。
浅井三姉妹の中でも、茶々は特に景継によく懐いていた。姿を見つければ近寄ってきて、話をせがまれたり、後をついて回られたりしたことも一度や二度ではない。
だが、目の前に座っているのは、もうあの頃の幼い少女ではなかった。
「茶々殿」
「はい」
「今のお話は……」
「聞いておりました」
「最初からですか?」
「最初からです」
景継は市へ目を向けた。
市は何も言わず茶を飲んでいる。
どうやら母娘で話を決めた上で来たらしい。
「では、私が驚いていたところも?」
「もちろん」
茶々の口元が少し緩んだ。
「景継様でも、あんなお顔をなさるのですね」
「……忘れてください」
「嫌です」
即答だった。
市が堪えきれずに笑う。
景継は小さく息を吐いた。
「茶々殿」
改めて彼女を見る。
「市殿から言われたから、ここにいるのではありませんか?」
茶々の表情から笑みが消えた。
「違います」
答えは早かった。
「では、茶々殿自身も、この話を?」
「望んでおります」
迷いはなかった。
むしろ、言われた景継の方が言葉に詰まる。
そんな景継を見ながら、茶々は少し眉を寄せた。
「そんなに意外ですか?」
「……正直に申し上げれば」
「昔からあれだけ景継様に懐いていたでしょう?」
市が横から口を挟む。
「それは覚えています」
「三人の中でも、この子は特にあなたの後をついて回っていたではありませんか」
「それとこれとは違うでしょう」
景継が言うと、市は茶々と顔を見合わせた。
「景継殿にとっては、そうだったのでしょうね」
何やら含みのある言い方だった。
景継が意味を考えていると、茶々が口を開いた。
「昔は、ただ景継様と一緒にいるのが好きでした。いつも私たちを子供扱いしていましたけど」
「子供でしたからね」
「そういうところです」
茶々がむっとする。
景継には、なぜ怒られたのか分からない。
市がまた笑った。
しかし茶々の表情は、次第に真剣なものへ変わっていった。
「それに、北ノ庄のことがあります」
景継の顔からも自然と笑みが消えた。
「あの時、景継様がいなければ、父上も母上もどうなっていたか分かりませんでした」
茶々はあの日のことを、今でも鮮明に覚えている。
戦の中で、自分ではどうすることもできなかった。大切な者を失うかもしれない恐怖の中で、景継は動き、父と母を救った。
「あの時のことを、私は一度も忘れたことはありません」
「茶々殿。私は感謝していただくためにしたわけでは――」
「景継様がどう思っていたかは関係ありません」
強い言葉に、景継が口を閉じる。
茶々はそのまま続けた。
「助けた方はそう思えるのかもしれません。でも、助けてもらった私にとっては違います」
その目には迷いがなかった。
景継はふと、信長を思い出した。
顔が似ているわけではない。話し方も違う。それでも、自分がこうと決めたことを相手の都合で曲げさせないところには、確かに同じ血を感じる。
「ですが、それだけで景継様に嫁ぎたいと言っているのではありません」
茶々は姿勢を正した。
「私は織田の血を引いています。そして柴田の家とも無関係ではありません。だから、自分の婚姻が自分だけのものではないことくらい分かっています」
十八歳。
それでも戦国の世に生まれた姫として、自分がどういう立場にいるのかは十分理解している。
「いずれ誰かへ嫁げと言われるのでしょう?」
市がわずかに眉を寄せたが、茶々は止めなかった。
「でしたら私は――」
茶々が景継を見据える。
「どこの馬の骨とも分からない方に嫁ぐくらいなら、景継様のところへ嫁ぎます」
「茶々」
さすがに市が窘めた。
「言い方があります」
「ですが母上、本当のことでしょう?」
「本当かどうかではなく、言い方の話をしています」
「では、どこのどなたかも分からない方に」
「ほとんど変わっていませんよ」
母娘のやり取りに、景継は思わず口元を緩めた。
だが茶々は冗談を言っているわけではない。
すぐに景継へ向き直った。
「私は景継様を知っています」
その一言には力があった。
「幼い頃から知っています。父上と母上を救ってくださったことも知っています。楓様や万代丸様を大切にされていることも知っています。そして、景継様がどのような家を作ろうとしているのかも、少しくらいは見てきたつもりです」
知らない相手のもとへ行き、その家で何を求められるかも分からずに生きるより、自分が知り、信じられる男を選ぶ。
それが茶々の答えだった。
「それに、私が林道家へ嫁ぐことで、織田家や柴田家のためにもなるのでしょう?」
景継は否定しなかった。
「政治的な意味があることは確かです」
「でしたら、なおさらです」
茶々はきっぱりと言った。
「家のためになり、私自身も望んでいる。それの何が悪いのです?」
景継はすぐには答えられなかった。
確かに何も悪くない。
むしろ政略と本人の意思が同じ方向を向いているという意味では、これ以上ないほど都合の良い話なのかもしれない。
それでも景継には、一つだけ確認しておきたいことがあった。
「茶々殿」
「はい」
「北ノ庄でのことに恩を感じているから、私へ嫁がなければならないと思ってはいませんか?」
茶々の眉が上がった。
「景継様」
「はい」
「私を、そこまで殊勝な女だと思っていたのですか?」
今度は景継が目を瞬いた。
市がとうとう声を立てて笑う。
「母上、笑わないでください」
「ごめんなさい。でも、茶々らしくて」
茶々は少し頬を膨らませた後、景継へ向き直った。
「感謝はしています。今でも、とても」
そこで一度だけ声が柔らかくなる。
「ですが、恩返しのために一生を差し出すほど、私はおとなしい女ではありません」
景継は茶々を見つめた。
「私が嫌な相手なら、父上と母上を百回救っていただいても嫌です」
「百回も救うような状況にはなりたくありませんね」
「私もです」
二人の間に自然と笑みが生まれた。
茶々はそのまま続ける。
「私は、自分で景継様を選んでいます」
今度の言葉は静かだった。
だからこそ、景継には強く響いた。
幼い頃から慕っていたことも、北ノ庄での恩も、自分が背負っている家の事情も、そのどれか一つだけで決めたわけではない。
すべてを理解した上で、茶々は自分で選んだのだ。
景継はしばらく黙っていたが、やがて市へ目を向けた。
「……最初から、こうなると分かっていて連れてこられましたね」
「さて、どうでしょう」
「市殿」
「母親ですから」
それだけ言って、市は微笑んだ。
景継は敵わないとでも言うように息を吐いた。
だが、だからといって今ここで返事をすることはできない。
「茶々殿のお気持ちは、分かりました」
「では――」
「ただ、少し待ってください」
茶々の眉がわずかに寄る。
景継はその反応を見ながら続けた。
「私一人で決めることではありません」
茶々もすぐに意味を理解した。
「楓様ですね」
「はい」
正室である楓を置き去りにして進める話ではない。それは林道家のためでもなければ、茶々のためにもならない。
すると茶々は意外にも、あっさり頷いた。
「分かりました」
景継は少し驚いた。
もっと食い下がられると思っていたのだろう。
そんな景継の考えを読んだのか、茶々が口元を上げる。
「私、気が強いだけで、何も考えていないわけではありませんよ?」
「そこまでは思っていません」
「今、少し思っていたでしょう」
「……どうでしょう」
「景継様」
その言い方に、景継は昔を思い出した。
自分の後ろをついて回っていた幼い少女。
だが、その少女はもういない。
目の前にいるのは、自分が置かれた立場を理解し、そのうえで自分の生き方を選ぼうとしている一人の女性だった。
「楓様には、景継様からお話しください」
「そのつもりです」
「ですが、一つだけ約束してください」
「何でしょう」
茶々の目に、再び強い光が戻った。
「政のために、私が仕方なく嫁ぐような言い方はしないでください」
景継は黙って茶々を見る。
「私は、自分で景継様を選んだのです」
茶々は一度も目を逸らさなかった。
「それは楓様にも、きちんとお伝えください」
「……分かりました」
「本当ですね?」
「ええ。茶々殿が望まれていることも、その理由も、私から楓に話します」
そこでようやく、茶々の表情が柔らかくなった。
「お願いします」
市も何も言わず、その娘の横顔を見ていた。
その日の話し合いは、それで終わった。
市と茶々が去った後も、景継はしばらく席を立てずにいた。
昔から懐かれていたことは知っていた。
北ノ庄の一件を今でも感謝されていることも、何となく分かっていた。
それでも、その気持ちがいつの間にか一人の男へ向けられるものに変わっていたことには、まるで気づいていなかった。
戦場では、相手のわずかな動きから次の手を読む。
国同士の交渉なら、一つの言葉の裏にある思惑まで考える。
それなのに、自分へ向けられていた気持ちだけは随分長い間、見落としていたらしい。
「……茶々殿が、ですか」
思わず漏れた声に自分で苦笑し、景継はようやく立ち上がった。
次に向き合う相手は、茶々よりもずっと長くそばにいる。
そして、おそらく茶々以上に誤魔化しの利かない相手だった。
楓に何をどう伝えるべきか。
部屋を出た景継は廊下を歩きながら考えたが、すぐにその考えをやめた。
下手に言葉を整える必要はない。
市から何を言われたのか。
茶々が何を望んでいるのか。
そして、自分がまだ返事をしていないこと。
まずは、そのまま話せばいい。
景継は楓と万代丸のいる場所へ向かった。
上田で七千の徳川勢が動いた時でさえ、これほど言葉を選んだ覚えはなかった。




