第二百三十九話 真田昌幸の戦
上田城の前では、真田勢の反撃を受けた徳川軍が大きく乱れていた。
前へ出た兵は下がろうとしているのに、後続は何が起きているのか分からないまま進もうとしている。そのため隊列のあちこちで兵がぶつかり合い、指揮官が声を張り上げても命令は思うように伝わらなかった。
そこへ、反転した真田勢が襲いかかる。
「押せ! 敵に立て直す暇を与えるな!」
真田の将が声を張り上げると、兵たちは槍を揃えて徳川勢へ食らいついた。
つい先ほどまで逃げ続けていた者たちだった。
矢に倒れた仲間もいる。徳川兵の足音が背後まで迫り、このまま本当に追いつかれるのではないかと恐怖した者も少なくない。
だからこそ、自分たちが耐えて退いた意味を目の前で知った時、その勢いは凄まじかった。
「ここまで引っ張ったんだ! 今度はこっちの番だぞ!」
誰かの叫びに、周囲から声が返る。
真田勢がさらに押し込んだ。
徳川の先陣も必死に槍を合わせるが、後ろへ退く余地がほとんどない。前列が押し返されれば、その背中が後列へぶつかり、後列はさらにその後ろを押す。
兵数の多さが、今は互いの動きを妨げていた。
◇
「前へ出るな! まず隊を整えろ!」
鳥居元忠は声を張り上げていた。
すでに状況は理解している。
昌幸は最初から、ここまで引き込むつもりだったのだ。
「伝令! 前方へ行け! 無理に戦わせるな。一度距離を取らせろ!」
「はっ!」
使者が走る。
その横では大久保忠世も兵をまとめようとしていた。
「左右へ広がれる場所を探せ! このまま固まっていては真田の思うつぼだ!」
徳川側にも歴戦の将はいる。
一度策にはまった程度で、軍全体が何もできなくなるわけではない。
元忠は前方を睨んだ。
「昌幸め……」
腹立たしさはある。
だが、それ以上に自分への苛立ちが強かった。
敵が妙だと気づいていた。
深追いするなとも命じた。
それでも止められなかった。
「まだ負けたわけではない」
元忠が言う。
七千の兵そのものが失われたわけではない。
前方の混乱さえ収めれば、兵力差は再び生きる。
「後方から順に下げるぞ。前の者を無理に動かすな。まず後ろに道を作れ!」
命令が伝わり始めた。
混乱していた徳川勢の後方が、少しずつ動きを取り戻していく。
◇
上田城から戦場を見ていた昌幸は、その変化を見逃さなかった。
「……さすがに早いな」
傍らの家臣が尋ねる。
「何がでございます?」
「徳川が立て直し始めておる」
家臣が遠くを見るが、目の前ではまだ真田勢が押している。
「こちらが優勢に見えますが」
「今はな」
昌幸は扇で徳川軍の後方を示した。
「見ろ。後ろの兵が少しずつ下がっておるだろう」
「あ……」
「前から全部下げようとすれば詰まる。だから後ろから空け始めた」
元忠か。
忠世か。
あるいは両方か。
誰が命じたにせよ、判断は正しい。
このままなら、やがて前方の兵にも退路ができる。
「殿、追撃を強めますか?」
「強める」
昌幸は答えたが、すぐに続けた。
「ただし、深く追うな」
家臣が一瞬、不思議そうな顔をする。
今度は自分たちが追う側である。
「徳川と同じことをするつもりはない」
その一言で、家臣も意味を理解した。
「はっ」
「押して、逃がせ」
「逃がすので?」
「逃げる者は逃がしてやればよい。全滅させる必要などない」
昌幸が欲しいのは、徳川兵の首ではない。
真田が徳川に呑み込まれず、生き残ることだ。
勝つために必要以上の血を流し、こちらまで立ち上がれなくなっては意味がない。
だが――ただ逃がすつもりもなかった。
昌幸は別の場所へ視線を移した。
「退く先が安全なら、の話だがな」
◇
やがて元忠の命令が前方にも届き始めた。
「退け! 一度下がって隊を整える!」
徳川兵の間に、その声が広がる。
最初は混乱していた退却も、後方に空間ができるにつれて少しずつ形を取り戻した。
「慌てるな! 順に下がれ!」
元忠自身も前へ出て兵を落ち着かせる。
真田勢はなお攻めてくるが、先ほどまでのように一方的に押され続けているわけではない。
「よし。このまま距離を――」
元忠が言いかけた時だった。
後方から、別の騒ぎが聞こえてきた。
「何だ?」
すぐに伝令が駆け込んでくる。
その顔は青ざめていた。
「後方で敵です!」
「何?」
「退路の先に真田勢が現れました!」
元忠の表情が変わった。
「数は!」
「多くはありませぬ! ですが、退却する兵へ攻撃を仕掛けております!」
元忠は歯を食いしばった。
「まだ置いていたか……!」
昌幸は、城前へすべての兵を出してはいなかった。
徳川が立て直し、退こうとすることまで考えて兵を残していたのだ。
◇
徳川軍の後方に現れた真田勢は、大軍ではなかった。
それでも十分だった。
ようやく退けると思ったところへ敵が現れたことで、兵たちの間に再び動揺が広がる。
「後ろにも敵だ!」
「囲まれたぞ!」
「違う! 数は少ない! 慌てるな!」
将が叫んでも、一度広がった言葉は簡単には消えない。
囲まれた。
その一言が兵から兵へ伝わっていく。
実際には完全な包囲などされていなかった。
それでも、前には真田勢。
後ろにも真田勢。
狭い場所に押し込まれ、周囲の状況が見えない兵にとっては、それだけで十分だった。
「道を開けろ!」
「早く下がれ!」
「押すな!」
再び隊列が乱れる。
元忠は必死に命令を飛ばした。
「囲まれてはおらん! 後方の敵は少数だ! 落ち着け!」
だが、今度は先ほどより悪かった。
一度目の混乱から立て直しかけた直後だったからこそ、兵たちの心に余裕がない。
さらに真田勢が前から圧力をかける。
徳川兵の一部が、ついに隊列を離れて走り始めた。
「戻れ!」
命令は届かなかった。
一人が走れば、二人目が続く。
その姿を見た別の隊まで動き始める。
元忠は唇を噛んだ。
ここで無理に留めれば、かえって被害が増える。
「……退くぞ」
近くにいた武将が振り返った。
「よろしいので?」
「このままでは兵を無駄に失う。真田の間を抜け、広いところまで下がる!」
勝つための退却ではない。
軍を残すための退却だった。
元忠自身、それを理解していた。
だからこそ悔しい。
七千を率いてきた。
相手は二千ほど。
それでも今、自分たちが退かされている。
「昌幸……!」
元忠は上田城の方角を睨みつけた。
◇
徳川勢が本格的に退き始めたとの報告を受けても、昌幸は喜びの声を上げなかった。
「追いますか?」
家臣が尋ねる。
「どこまで下がった?」
「先ほどの狭い場所を抜けようとしております」
昌幸は少し考えた。
「そこまでだ」
「しかし殿、今ならさらに――」
「欲を出すな」
家臣の言葉を遮る。
「徳川は敗れたが、潰れたわけではない」
鳥居元忠も大久保忠世も健在で、兵もまだ多数残っている。
こちらが勢いに任せて追えば、今度は真田が広い場所へ出ることになる。
そうなれば兵数の差が再び牙を剥く。
「追う者を戻せ。退く徳川には手を出しすぎるな」
「はっ」
家臣が走り去る。
昌幸はようやく小さく息を吐いた。
勝った。
少なくとも今日、この場所では。
だが、まだ笑う気にはならなかった。
「殿」
別の家臣が近づく。
その顔には隠しきれない喜びがあった。
「我らの勝ちにございますな」
昌幸はその男を見て、少しだけ笑った。
「そうだな」
家臣の顔が明るくなる。
だが昌幸は続けた。
「だから、浮かれるのは今日だけにしておけ」
「……今日だけ、でございますか?」
「徳川家が滅んだわけではない。家康殿も生きておる」
今回退けたのは、徳川という巨大な家の一部にすぎない。
この勝利によって、むしろ家康から危険な相手だと認識される可能性もある。
「明日になれば、また生き残る方法を考えねばならん」
そう言ってから、昌幸は城下へ目を向けた。
そこには傷ついた兵たちが戻り始めている。
勝った側にも死者はいる。
倒れた者の肩を抱く者。
傷を押さえながら歩く者。
仲間の名を呼ぶ者。
昌幸の表情から笑みが消えた。
「まず、負傷した者を運べ。敵味方は後だ」
「徳川の兵もですか?」
「動けぬ者はな」
家臣が頷く。
「承知いたしました」
昌幸はもう一度、遠ざかっていく徳川勢を見た。
今日の勝利だけで、真田が安全になったわけではない。
それでも。
小さな真田が、大きな徳川に対して示したものは決して小さくなかった。
◇
数日後。
上田で徳川勢が退いたとの報せが、景継のもとへ届いた。
書状を読み進めていた景継の手が途中で止まる。
「……本当にやりましたか」
向かいにいた弥兵衛が身を乗り出した。
「真田が勝ったのですか?」
「ええ」
景継は書状を渡した。
弥兵衛が目を走らせ、やがて驚いたように顔を上げる。
「二千ほどで七千余を……」
「兵数だけなら、そうなりますね」
「殿が仰っていた通りではありませんか」
「何がです?」
「敵を誘い込んで、数を使えなくする、と」
景継は少し考えてから首を振った。
「似てはいますが、同じではありません」
「違うのですか?」
「私が見ていたのは、最初にどう誘うかまでです」
景継は再び書状を手に取った。
そこに記されているのは、その先だった。
徳川が異変に気づき、立て直そうとした後。
退却を始めた後。
昌幸は、その動きに合わせてさらに手を変えている。
「策にはめたことより、こちらの方が面白い」
「こちら?」
「一度成功した策に頼っていません」
昌幸は徳川が追えば誘い込んだ。
徳川が止まろうとすれば押した。
退こうとすれば、残していた兵を使って再び乱した。
そして本格的に退却すると見るや、深追いをやめた。
「相手が動くたびに、自分も変えています」
弥兵衛が書状へ目を落とす。
「……厄介な御仁ですな」
「ええ」
景継は迷わず頷いた。
その返事があまりに早かったため、弥兵衛が笑う。
「随分と嬉しそうですが」
「そう見えますか?」
「前にも同じことを申しましたな」
景継もそれを思い出し、わずかに口元を緩めた。
だが次に書状へ目を落とした時には、その表情はもう消えていた。
「家康殿は、どうしますかね」
真田は勝った。
それで終わりではない。
むしろ問題はここからだった。
徳川家康は、敗北を受けてなお真田を力で従わせようとするのか。
それとも別の道を選ぶのか。
そして昌幸は、勝った後にどう動くのか。
戦に勝つことと、家を残すことは同じではない。
昌幸自身が、それを誰より理解しているはずだった。
景継は書状を畳んだ。
一度会った時、昌幸は景継を見に来た。
助けを求めるでもなく、従うでもなく、ただ自分の目で確かめに来た。
今度は景継の方が、あの男をもう一度見たくなっていた。
「弥兵衛」
「はっ」
「真田の動きは、これまでより細かく知らせてください」
「承知いたしました」
景継は東へ目を向ける。
真田昌幸。
兵の少ない小さな家を率いながら、大きな徳川を相手に一歩も引かなかった男。
そして何より――勝った後でさえ、次にどう生き残るかを考えているであろう男。
景継は静かに呟いた。
「……やはり、面白い方ですね」
上田での戦は終わった。
だがこの一戦によって、景継の中で真田昌幸という男の存在は、それまでよりもはっきりと刻まれることになった。




