第二百三十八話 上田開戦
徳川軍が上田へ姿を現した。
七千を超える軍勢が街道を埋めながら進んでくる光景には、それだけで見る者を圧するものがあった。風を受けた幟が延々と続き、その下では無数の槍が揺れている。先頭が見えてからしばらく経っても後続の兵は途切れず、最後尾がどこにいるのか、上田城からでは分からないほどだった。
対する真田勢は、およそ二千。
数の差は、こうして実際に目にすると残酷なほどはっきりしていた。
「……多いな」
上田城から敵を眺めていた家臣が、思わず本音を漏らした。
「今さら何を言っておる。七千を超えることは分かっていただろう」
隣の男にそう返されても、家臣の顔から強張りは消えない。
「分かっていた。だが、数字で聞くのと実際に見るのとでは違う」
その気持ちは、周囲にいる者たちも同じだった。
昌幸もまた、遠くから近づいてくる徳川勢を黙って眺めていたが、その横顔に動揺はない。
やがて家臣が近づき、低い声で尋ねた。
「殿。始めますか?」
「ああ。決めた通りにやれ」
「はっ」
使者が駆け出していく。
昌幸はその背中を見送ると、もう一度徳川軍へ目を向けた。
準備はした。
だが、戦場で敵がこちらの望み通りに動いてくれる保証などない。用意した策に固執すれば、むしろ自分たちが策に縛られることになる。
ここからは徳川の動きを見ながら変えていけばいい。
「さて……どこまで来てくれるかな」
昌幸の口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
◇
徳川勢もまた、兵力差だけを頼りに無警戒で進んでいたわけではない。
馬上の鳥居元忠は周囲へ何度も視線を巡らせながら、先陣の速度を抑えていた。
上田が近づいているにもかかわらず、妙に静かだった。
真田兵が慌ただしく動き回る様子は見えず、民が我先に城へ逃げ込む姿もほとんどない。
「妙ですな」
近くの武将が口にすると、元忠も頷いた。
「昌幸が何もせず待っているとは思えん」
「どこかに兵を伏せているのでしょうか」
「あり得る。周囲への警戒を怠るな」
大久保忠世らも同じように周囲を警戒している。
真田の兵が少ないことは分かっている。だからこそ、昌幸が兵力差を埋めるために何かを仕掛けてくることも予想できた。
その時、前方が騒がしくなった。
「真田勢!」
元忠が顔を上げると、数百ほどの兵が徳川軍の行く手を塞ぐように姿を現していた。
「……出てきたか」
「思ったより少ないですな。この程度ならば、一息に蹴散らせましょう」
元忠は答えず、真田勢を観察した。
なぜ、その程度の兵で出てくる。
時間稼ぎか。
こちらの出方を見るためか。
あるいは、別の狙いがあるのか。
疑えばいくらでも考えられるが、だからといって目の前の敵を放置することもできない。
「前を出せ。ただし深追いはするな。敵が退いても、勝手に追うことは許さん」
「はっ!」
命令が伝わり、徳川の先陣が動き始めた。
◇
両軍がぶつかると、静かだった上田の地に一気に怒号が広がった。
槍と槍がぶつかり、兵たちの叫び声が重なる。
真田勢も激しく抵抗したが、正面からぶつかり続ければ兵力の差は隠せない。徳川側が圧力を強めるにつれ、真田の前列が少しずつ押し込まれていった。
やがて一角が崩れ、数人の兵が後方へ走り始める。
「真田が退くぞ!」
徳川兵から声が上がった。
それを合図にしたように、別の場所でも真田兵が後退し始める。最初は少数だったものが次第に全体へ広がり、ついには上田城へ向けて退いていった。
「押せ! 逃がすな!」
勢いづいた徳川の先陣が追撃へ移る。
元忠からは深追いを禁じられている。
だが、目の前で敵が崩れていく光景を見れば、兵の気持ちも変わる。
一度追えば、また真田が退く。
さらに押せば、さらに下がる。
先ほどまで抱いていた警戒心は、勝っているという実感によって少しずつ薄れていった。
◇
一方、退く真田勢に余裕などなかった。
「速すぎる! 前の者は少し抑えろ!」
退却する兵へ、将の怒声が飛ぶ。
ただ逃げればいいわけではない。
徳川勢から離れすぎれば追撃をやめるかもしれず、かといって近づかせすぎれば本当に討たれる。
背後から迫る足音が大きくなり、時折飛んでくる矢が地面へ突き刺さった。
その一本が兵の背中を射抜き、男が声もなく倒れる。
周囲の兵たちの顔が引きつった。
策だと分かっていても、飛んでくる矢が偽物になるわけではない。
「振り返るな! 決めた場所まで退け! 勝手に城へ走るな!」
将が必死に声を張り上げる。
一人が恐怖に負けて走れば、周囲も引きずられる。
偽りの敗走が本物になった瞬間、昌幸の策は終わるのだ。
兵たちは恐怖を押し殺し、時折振り返って槍を合わせながら退いた。
少し抵抗しては崩れる。
徳川が迫れば、また退く。
その繰り返しによって、徳川勢は少しずつ上田城へ近づいていった。
◇
後方から戦況を見ていた元忠は、次第に違和感を強くしていた。
確かに真田は退いている。
先陣から届く報告を聞いても、こちらが押していることに間違いはない。
それなのに、何かがおかしい。
元忠はしばらく退却する真田勢を目で追い、やがてその理由に気づいた。
「……待て」
「どうされました?」
「崩れ方が綺麗すぎる」
本当に敗れた軍ならば、もっと乱れるはずだった。
我先に逃げる者が現れ、武器を捨てる者も出る。命令など届かなくなり、最後には軍としての形そのものが消える。
ところが真田勢は、乱れているように見えて完全には崩れていない。
「先陣を止めろ!」
元忠の声が響く。
「これ以上追うなと伝えよ!」
使者が馬を走らせた。
だが、その頃には先頭の兵と元忠との間にはかなりの距離ができていた。
◇
「城が見えたぞ!」
徳川の先陣から歓声が上がった。
上田城が近い。
目の前では、真田勢がなおも退いている。
あと少し。
ここまで押したのなら、そのまま城まで追い込める。
そう考える者が増えていた。
「進め! このまま押し切るぞ!」
先頭の将が声を張り上げると、兵たちもそれに応じて前へ進んだ。
後方から元忠の使者が追撃を止めようと向かっていることなど、前方の兵たちはまだ知らない。
そして、一度勢いづいた数千の兵を止めるのは簡単ではなかった。
前の者が走れば、後ろも続く。
後ろから押されれば、前はさらに進む。
徳川軍の隊列は、次第に細長く伸びていった。
◇
「来ました」
上田城へ報告が届いた。
昌幸はすぐに立ち上がる。
「どこまでだ」
「先陣は予定していた場所を越えました。後続も次々と入ってきております」
「元忠殿は?」
「後方から止めようとしている様子です」
昌幸の目が細くなる。
「やはり気づいたか」
鳥居元忠ほどの男なら、途中で違和感を覚えるだろうとは思っていた。
問題は、気づくかどうかではない。
気づいた時に止められるかどうかだった。
「殿。そろそろ……」
家臣が焦りを滲ませる。
だが昌幸は首を振った。
「まだだ」
「しかし、退いている者たちにも被害が出ております」
「分かっておる」
その返事には、先ほどまでの軽さはなかった。
昌幸にも、今この瞬間に味方が命を落としていることは分かっている。
だからこそ、早すぎても遅すぎてもならない。
今仕掛ければ、前へ出た徳川兵は叩ける。
だが後続がまだ自由に動けるなら、すぐに立て直される。
もう少し。
あと少しだけ、徳川軍そのものが前へ前へと押し込まれるのを待つ。
昌幸は外から聞こえてくる怒号と太鼓、無数の足音に耳を澄ませた。
やがて新たな報告が飛び込んでくる。
「徳川の後続、前方の兵に詰まり始めております!」
昌幸の目が変わった。
「……よし」
◇
徳川軍の先頭では、すでに別の問題が起き始めていた。
上田へ近づくにつれて道幅が狭まり、多くの兵が一度に進めなくなっている。それでも前方では追撃が続いているため、後ろから来る兵も足を止められない。
「詰まるな! 前へ進め!」
「押すな! 前が止まっている!」
怒声が飛び交う。
後方の兵には、なぜ進めないのか分からない。
ただ前へ行けと言われ、押す。
前方の兵は後ろから押され、さらに奥へ進まざるを得なくなる。
そこへ元忠の使者がようやく追いついた。
「追撃を止めよ! 鳥居様の命である!」
だが、その声が届いたのは一部だけだった。
「今さら止まれるか!」
「真田は目の前だぞ!」
勝っている最中に退けと言われても、すぐに頭を切り替えられる者ばかりではない。
使者は顔を強張らせた。
その時。
上田城の方角から太鼓が鳴った。
腹の底へ響くような、低い音だった。
一度。
続けて、もう一度。
使者の顔から血の気が引く。
◇
城内でその音を聞いた昌幸は、扇を振り下ろした。
「始めろ」
城門が開く。
待機していた真田勢が一斉に飛び出した。
同時に、それまで必死に退いていた兵たちも太鼓の音を聞いて足を止める。
「合図だ!」
誰かが叫んだ。
兵たちが次々と振り返り、槍を構える。
つい先ほどまで逃げていた者たちの目から、恐怖が消えたわけではない。
それでも今度は、何をすればよいか分かっている。
「かかれぇっ!」
鬨の声とともに真田勢が反転した。
追っていた徳川兵が戸惑う。
「何だ!?」
「奴ら、戻ってくるぞ!」
その正面へ、城から出た新手の真田勢が襲いかかった。
徳川の先陣が押し返される。
反撃しようにも後ろから味方が次々と押し寄せ、十分な間合いを取れない。下がろうとすれば、今度は後続の兵が邪魔になる。
「退け! 一度下がれ!」
「下がれませぬ! 後ろが詰まっております!」
「道を開けろ!」
命令が重なり、怒号がさらに混乱を広げていく。
前方で何が起きているのか分からない兵まで、周囲につられて動き始めた。
真田勢はその隙を逃さなかった。
正面から槍を突き入れ、押しては引き、密集した徳川兵に自由な動きを許さない。
七千という兵数は変わっていない。
兵の強さが突然失われたわけでもない。
だが、この狭い場所では、その七千を同時に戦わせることができない。
昌幸は城から戦況を見つめていた。
徳川軍の後方では、元忠が必死に立て直そうとしているはずだ。
ならば時間は長くない。
「ここからだな」
昌幸は呟いた。
誘い込むだけなら成功した。
だが戦は、策にはまった瞬間に終わるものではない。
相手も立て直そうとする。
逃げ道を探す。
こちらの隙を突こうとする。
それをさらに崩して、初めて勝ちへ近づける。
昌幸の視線が、混乱する徳川軍のさらに後方へ向いた。
「さて……元忠殿」
わずかに口元を上げる。
「ここから、どうされる?」
真田二千。
徳川七千余。
圧倒的だったはずの兵力差は消えていない。
それでも戦場の流れは今、確かに真田の側へ傾き始めていた。




