第二百三十七話 上田へ
徳川が兵を集めている。
その知らせが上田へ届いてから、真田家の動きは一気に慌ただしくなった。
城へ運び込まれる兵糧。
集められる武具。
周辺の村々を行き交う使者。
戦になるかもしれない。
そう考えて準備していた者たちも、実際に徳川軍が動くと知れば緊張は違う。
真田昌幸は朝から城内を歩き回っていた。
兵糧蔵を確認し、城壁を見て、兵たちの配置を確かめる。
「殿」
家臣が駆け寄ってきた。
「徳川勢について、新たな知らせが」
「聞こう」
「鳥居元忠殿、大久保忠世殿、平岩親吉殿らが兵を率いるとのこと」
昌幸の足が止まった。
「家康殿は?」
「今のところ、ご自身が出陣されるとの話はございません」
「そうか」
昌幸はわずかに笑った。
予想していた通りだった。
徳川家康自身は来ない。
真田一つを相手に、当主自ら出る必要はないと判断したのだろう。
それ自体は何もおかしくない。
「兵の数は?」
「まだ正確には分かりませぬ。ただ……」
家臣が言いにくそうに口を止める。
「何だ?」
「七千を超えるとの話がございます」
周囲にいた者たちがざわついた。
昌幸は表情を変えなかった。
「こちらは?」
「すぐに動かせる者を集めても、二千ほどかと」
三倍以上。
まともにぶつかれば、兵力差は明らかだった。
家臣の一人が尋ねる。
「上杉へ援軍を求めますか?」
昌幸は首を振った。
「頼めるものなら頼む。だが、それを当てにして戦支度をするな」
「しかし……」
「援軍が間に合わなかったらどうする?」
誰も答えられない。
「来るか分からぬ兵を数に入れるな。今ここにいる者だけで考えろ」
昌幸は城の外へ目を向けた。
「それに」
口元が少し上がる。
「七千なら、ちょうどいい」
「……ちょうどよい?」
家臣たちが顔を見合わせる。
どう考えても少なくはない。
むしろ多すぎる。
「殿。それはどういう――」
「そのうち分かる」
昌幸は歩き出した。
「徳川には、できるだけ多く連れてきてもらおう」
◇
評定の場に、上田周辺の地図が広げられた。
昌幸を囲む家臣たちの顔は固い。
「まず、一つ覚えておけ」
昌幸が地図を指した。
「徳川と正面から戦えば負ける」
あまりにあっさり言われ、何人かが昌幸を見る。
「殿……」
「何だ。勝てると思っていたのか?」
「いえ、それは……」
「なら同じだ」
昌幸は笑った。
「勝てぬ戦い方をしなければよい」
指が上田城から城下へ動く。
「敵は上田城を落としに来る。ならば、ここへ来る」
さらに指を動かす。
「だが、好きに進ませるつもりはない」
城だけで戦うのではない。
道。
川。
村。
田畑。
そして城下。
すべてを使う。
「敵が来たら、最初から城へ籠もるのではないのですか?」
家臣の問いに、昌幸は首を振った。
「最初から籠もれば、敵は落ち着いて城を囲める」
「では、野戦を?」
「まともにはやらん」
昌幸の指が城から少し離れた場所で止まる。
「兵を出す」
「二千で七千を?」
「だから、まともには戦わんと言っておる」
昌幸は顔を上げた。
「戦って、退く」
家臣たちが黙る。
「追わせるのですか?」
「そうだ」
ようやく一人が気づいた。
昌幸が笑う。
「徳川は我らより多い。こちらが崩れれば、追いたくなる」
勝っている。
敵が逃げている。
あと少し押せば、そのまま城へなだれ込める。
そう思わせる。
「だが、退く兵が本当に敗れているとは限らん」
昌幸の指が上田城へ戻った。
「どこまで追わせるかは、こちらが決める」
部屋の空気が変わった。
先ほどまで兵力差に怯えていた者たちが、地図を覗き込む。
「城下の道を、もう一度すべて確認しておけ」
「はっ」
「敵が大勢で入れば動きにくくなる場所を洗い出せ。兵を伏せられるところもだ」
「承知いたしました」
「それから、合図を間違えるな」
昌幸の声が低くなる。
「早すぎれば敵は入ってこない。遅すぎれば、こちらが本当に崩れる」
家臣たちが頷く。
簡単な策ではない。
逃げるふりをする兵が、本当に恐怖に呑まれれば終わる。
追う側に偽りだと見抜かれても失敗する。
敵味方の動きを見ながら、退く速度まで調整しなければならない。
「殿」
一人が尋ねた。
「もし徳川勢が追ってこなければ?」
昌幸は即答した。
「別の手を使う」
「……別の?」
「策など、相手が思った通りに動かなければ捨てればよい」
昌幸は平然と言った。
「一つの策に真田の命運を預けるつもりはない」
◇
その頃。
徳川方でも出陣の準備が進んでいた。
鳥居元忠は集まった兵を見ながら、腕を組んでいた。
真田の兵は多くない。
それに対して、こちらは七千を超える兵を動かせる。
数字だけを見れば、負ける理由はない。
だが。
「昌幸を侮るな」
元忠の言葉に、近くの武将が頷く。
「武田のもとで生き残った男ですからな」
「それだけではない」
主を変えながら、真田家を残してきた。
武田が滅んでも。
織田の力が信濃へ伸びても。
その織田が崩れても。
昌幸は生き残った。
「追い詰められた鼠というには、少々牙が鋭い」
元忠が呟く。
それでも。
徳川として、退くわけにはいかない。
真田が命に従わなければ、それを放置することもできない。
「上田へ向かう」
号令が伝わる。
兵たちが動き始めた。
◇
数日後。
西にいる景継のもとへも、徳川出陣の報が届いた。
「七千ほどですか」
「そのようです」
弥兵衛が答える。
景継は地図を見つめた。
「真田は?」
「二千ほどではないかと」
「三倍以上ですね」
「昌幸殿に勝ち目はあるのでしょうか」
景継はすぐには答えなかった。
七千対二千。
数字だけなら、徳川が圧倒的に有利だ。
だが、景継が気にしているのは別のことだった。
「誰が率いています?」
「鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉らと」
「家康殿は?」
「動いておられません」
景継は小さく頷いた。
「やはり」
「やはり?」
「昌幸殿も、そうなると考えていたのではないでしょうか」
弥兵衛が景継を見る。
「家康殿が来ないことを?」
「ええ」
真田は小さい。
徳川からすれば、当主自身が出るほどの相手とは見えない。
それは自然な判断だ。
「ですが、昌幸殿からすれば違う」
景継の指が上田へ触れる。
「家康殿がいない方が、やりやすい」
総大将が違えば、判断も違う。
敵をどこまで追うか。
危険を感じた時に止まれるか。
予定外の事態にどう対応するか。
「殿なら、どう戦われます?」
弥兵衛が尋ねた。
「私なら?」
「はい。二千で七千を相手にするなら」
景継は地図を眺める。
「正面からは戦いません」
「やはり」
「城だけにも籠もりません」
弥兵衛の眉が動く。
「では?」
「相手に勝っていると思わせます」
「勝っていると?」
「少ない兵が城の外へ出てきた。それを破った。敵が逃げた」
景継は指をゆっくり上田へ動かした。
「そうなれば、追いたくなるでしょう」
弥兵衛が地図を見つめる。
「城へ誘い込む……」
「私なら、ですが」
景継は念を押した。
「昌幸殿が同じことを考えているかは知りません」
だが、口元にはわずかな笑みがあった。
弥兵衛がそれに気づく。
「同じだと思っておられる顔ですな」
「そう見えますか?」
「はい」
景継は答えず、地図へ視線を戻した。
やがて、ぽつりと呟く。
「……見てみたいですね」
「戦を?」
「昌幸殿の戦い方を、です」
一度話しただけでは、まだ分からない。
何を考え。
何を捨て。
どこまで先を読む男なのか。
戦場ほど、それが現れる場所はない。
◇
徳川軍接近。
その知らせが上田城へ届いた。
昌幸は城から遠くを眺めていた。
まだ敵の姿は見えない。
だが、来る。
「殿」
背後から声がする。
「皆、配置につきました」
「そうか」
昌幸が振り返る。
集まった者たちの顔には緊張があった。
当然だ。
これから、自分たちの何倍もの兵と戦う。
昌幸は彼らを見回した。
「一つだけ言っておく」
皆が耳を傾ける。
「徳川の兵が多いことを恐れるな、とは言わん」
昌幸は静かに続けた。
「多いのだから、怖くて当然だ」
何人かの顔がわずかに緩む。
「だが――」
昌幸が城下へ目を向けた。
「ここは上田だ」
自分たちが歩いてきた道。
自分たちが知る川。
自分たちが暮らしてきた土地。
「徳川は七千の兵を連れてくる」
昌幸の口元が上がった。
「ならば、その七千すべてに迷ってもらおう」
遠く。
徳川の軍勢が、少しずつ上田へ近づいていた。
真田二千。
徳川七千余。
数だけを見れば、勝敗は明らかに思えた。
だが昌幸は、数を見てはいなかった。
どこで戦うか。
どこで退くか。
そしてどこまで敵を入れるか。
すでに昌幸の戦は始まっていた。




