第二百三十六話 決裂
真田昌幸のもとへ徳川からの使者が訪れたのは、上杉との話が進み始めて間もなくのことだった。
昌幸はいつもと変わらぬ様子で使者を迎えた。
形式通りに挨拶を交わし、茶が置かれる。
だが、使者が持ってきた話もまた、これまでと大きく変わるものではなかった。
「沼田については、北条へ引き渡していただきたい」
使者の言葉を聞き終え、昌幸は黙って茶碗へ目を落とした。
「それが家康殿のお考えか?」
「はい」
「真田が沼田を得るまでに、どれほどの兵を失ったかは?」
使者がわずかに表情を強張らせる。
「承知しております」
「そうか」
昌幸は茶を一口飲んだ。
怒鳴りもしない。
机を叩きもしない。
「では、代わりは?」
「それについては――」
使者の返答を聞く前に、昌幸は察した。
十分な代わりはない。
徳川と北条の関係を保つため、真田が土地を差し出す。
結局のところ、話はそこから動いていなかった。
「分かった」
昌幸が言う。
使者の顔に、わずかな安堵が浮かんだ。
だが。
「沼田は渡さん」
その表情が固まった。
「昌幸殿」
「何度聞かれても答えは同じだ」
昌幸の声は穏やかだった。
「沼田は真田が自ら得た土地。徳川殿からいただいたものではない」
「しかし、北条との取り決めがございます」
「それは徳川と北条の取り決めだろう」
使者が言葉に詰まる。
昌幸は責めるような口調にはしなかった。
使者に怒ったところで何も変わらない。
「家康殿には、そのまま伝えてくれ」
「……よろしいのですか」
「何がだ?」
「このままでは、徳川家との関係そのものが……」
昌幸が笑った。
「それを決めるのは家康殿だ」
真田は沼田を渡さない。
それでも話を続けるのか。
力で従わせるのか。
次に選ぶのは徳川だった。
◇
使者が去った後。
昌幸は家臣たちを集めた。
誰もが、これまでとは違う空気を感じている。
「徳川は引きませんか」
家臣の一人が尋ねた。
「おそらくな」
昌幸は地図を広げた。
「こちらも引かん。ならば、いずれ話では済まなくなる」
「戦を覚悟されると?」
「覚悟だけなら、とっくにしておる」
昌幸の指が上田へ置かれた。
「問題は、戦うかどうかではない。戦うことになった時、どう生き残るかだ」
真田と徳川では、抱えている兵の数が違う。
まともに野戦を挑めば押し潰される。
それを理解していない者は、この部屋にはいなかった。
「上杉との話は?」
「進める」
昌幸は迷わず答えた。
徳川との道が狭くなればなるほど、別の道が必要になる。
上杉との関係を確かなものにできれば、徳川も簡単には真田だけを見て動けなくなる。
「それから、上田の守りを見直す」
家臣たちが地図を覗き込む。
「城だけを見るな」
昌幸が言った。
「徳川が来るなら、城へ真っすぐ来てもらう必要はない」
「と申されますと?」
「敵は多い」
昌幸は笑った。
「ならば、多いことを不利にしてやればよい」
道。
川。
村。
田畑。
城下。
上田そのものを使う。
どこで敵を止めるのか。
どこまで入れるのか。
どこで引くのか。
昌幸の指が地図の上をゆっくりと動いていった。
「今から準備する。兵を集めるだけが戦支度ではないぞ」
家臣たちが一斉に頭を下げた。
「はっ」
◇
一方。
徳川方へ戻った使者から報告を受けた家康は、しばらく黙っていた。
「そうか」
それだけだった。
怒りを表に出すこともない。
だが周囲にいる家臣たちは、主君が何を考えているのかを待った。
「昌幸は、はっきりと拒んだのだな」
「はい。沼田は真田が自ら得た土地ゆえ、渡すことはできぬ、と」
「上杉との動きは?」
「確かなところまでは掴めておりませぬ。ただ、接触しているとの話がございます」
家康の指が膝をゆっくり叩いた。
やはり。
ただ拒んでいたわけではない。
徳川以外の後ろ盾を作りながら時間を稼いでいた。
「昌幸め」
その声に、怒りよりも警戒が滲んだ。
家臣の一人が口を開く。
「これ以上許せば、信濃の者たちも真田にならうやもしれませぬ」
別の者も続く。
「徳川の命に従わずともよいと思われるのは、よろしくございません」
家康はすぐには答えなかった。
真田だけの問題なら、小さな家一つの反抗で済む。
だが支配とは、それだけでは成り立たない。
一つを許した結果、二つ、三つと続けば統制そのものが揺らぐ。
加えて北条との約束もある。
「もう一度だけ、使者を出す」
家臣たちが顔を上げた。
「それでも昌幸が変わらぬなら?」
家康は地図へ目を落とした。
「その時は、兵を出す」
部屋の空気が変わった。
「誰を向かわせます?」
問いに、家康は少し考える。
「まずは真田の動きをさらに調べよ。上杉との関係もだ」
「はっ」
「兵を出すにしても、相手を知らずに動かすつもりはない」
家康の視線が上田で止まった。
「昌幸は戦うつもりでおる。そのつもりで見ておけ」
◇
東国の動きは、ほどなく景継のもとへも届いた。
弥兵衛が運んできた報告に目を通し、景継は小さく息を吐く。
「……いよいよですか」
「徳川方で、出兵の話が出始めているようです」
「兵数は?」
「まだ分かりませぬ」
「上杉は?」
「真田との接触を続けているようですが、こちらも詳しいところまでは」
景継は書状を置いた。
予想していた流れではある。
それでも実際に徳川が兵を動かすとなれば、話は一段変わる。
「殿」
弥兵衛が尋ねる。
「このまま見ておかれるのですか?」
「ええ」
「北条から話が来る可能性もございます」
「あるでしょうね」
義父である北条氏政から援軍を求められる可能性。
あるいは、徳川との間を取り持ってほしいと言われる可能性もある。
だが今のところ、何も来ていない。
こちらから動く必要はなかった。
「昌幸殿も、私が兵を出すとは思っていないでしょう」
「それでも徳川と戦うと?」
「そこが気になるのです」
景継は地図を広げた。
真田の兵力は徳川より少ない。
そんなことは昌幸自身が最もよく理解している。
それでも沼田を渡さず、上杉へ接近し、上田の守りを固めている。
「徳川が来る場所を、上田に絞らせようとしているのかもしれませんね」
弥兵衛が景継を見る。
「絞らせる?」
「昌幸殿は、徳川と好きな場所で戦えるわけではありません」
兵が少ない。
ならば戦う場所を選ばなければならない。
「自分が勝ちやすい場所へ、相手を呼ぶ」
景継の指が上田に触れる。
「城を守るというより、上田そのものを戦場にするつもりかもしれません」
「そこまで読まれておりますか?」
「いえ」
景継は首を振った。
「私ならそうする、というだけです」
昌幸が同じことを考えている保証はない。
だから面白かった。
「徳川は何人ほど出すと思われます?」
「分かりません。ただ――」
景継は少し考える。
「多ければ多いほど有利、と昌幸殿が考えていない可能性はあります」
「兵が多い方が不利になると?」
「場所によっては」
狭い道。
川。
城下。
大軍は常に利点になるわけではない。
広く展開できなければ、その数を生かせない。
補給も増える。
指揮も複雑になる。
何より、相手が土地を知り尽くしている。
「家康殿自身が出てくれば、また違うのでしょうが」
景継が呟く。
「出てこないと?」
「真田一つに、家康殿自身が動くでしょうか」
弥兵衛は考え込んだ。
徳川から見れば、真田は決して大きな相手ではない。
家臣に兵を預ければ十分。
そう考えても不思議ではない。
「もし家康殿が出なければ?」
「昌幸殿には好都合でしょうね」
景継の言葉に、弥兵衛が少し笑った。
「殿は、随分と昌幸殿を高く見ておられますな」
「高く見ているのではありません」
「では?」
景継は少し間を置いた。
「分からないから、警戒しているのです」
官兵衛とは違う。
官兵衛の考えも深いが、長く接するうちに癖が見えるようになってきた。
昌幸とは、まだ一度じっくり話しただけだ。
それでも。
自分が問いを返せば、あの男は笑った。
答えを与えなくても、不満そうな顔一つしなかった。
むしろ、それを楽しんでいるようにさえ見えた。
「殿でも読めない方がおられるのですね」
「たくさんいますよ」
「そうは見えませぬが」
「弥兵衛も、時々何を考えているか分かりません」
「私は何も考えておりませぬ」
景継が弥兵衛を見る。
「それはそれで心配ですね」
弥兵衛が吹き出した。
張り詰めていた空気が、少しだけ緩む。
だが景継の目は、すぐに地図へ戻った。
「情報は絶やさないでください」
「承知いたしました」
「特に、徳川が誰を向かわせるのかを知りたい」
誰が総大将になるか。
どれほどの兵を連れてくるか。
それによって昌幸の打つ手も変わる。
そして、もう一つ。
「上杉の動きもです」
「はっ」
「真田が徳川から離れるとしても、そのまま独りで立つとは思えません」
景継の指が信濃から越後へ移った。
「昌幸殿がどこまで先を用意しているのか。それを見たい」
◇
その頃。
上田では、すでに戦の準備が始まっていた。
城の修繕。
兵糧の確認。
道の確認。
周辺の村々への指示。
昌幸は一つ一つ、自分の目で確かめていく。
「殿」
家臣が駆け寄ってきた。
「徳川方が兵を集め始めたとの知らせが」
昌幸は足を止めた。
「そうか」
驚きはなかった。
むしろ、ようやく来たかという顔だった。
「数は?」
「まだ分かりませぬ」
「構わん。いずれ分かる」
昌幸は上田城を見上げた。
大軍が来る。
おそらく、こちらより遥かに多い。
家臣たちの顔には緊張がある。
昌幸はそれを見回した。
「怖いか?」
誰も答えない。
「俺は怖いぞ」
思いがけない言葉に、何人かが顔を上げた。
昌幸は笑う。
「徳川だぞ。怖くない方がおかしい」
「殿……」
「だから準備する」
昌幸は城下へ目を向けた。
「怖くない者は、準備を怠る。怖いから、考える。考えるから、生き残れる」
家臣たちの顔から、わずかに強張りが消えた。
昌幸は歩き出す。
「徳川が来るなら、来てもらおう」
「迎え撃たれますか?」
昌幸は振り返った。
「違う」
その口元に笑みが浮かぶ。
「こちらが戦いたい場所まで、入ってきてもらうのだ」
戦はまだ始まっていない。
それでも。
徳川と真田の間では、すでに互いの手が動き始めていた。
大軍を動かす徳川。
土地と策を使う真田。
そして遠く西から、その双方を見つめる景継。
上田へ向けて
戦の足音が、少しずつ近づいていた。




