第二百三十五話 真田の選択
信濃。
真田昌幸の前には、一通の書状が置かれていた。
何度読み返しても、書かれている内容が変わるわけではない。
沼田。
北条。
徳川。
そして、真田。
昌幸は書状を置くと、腕を組んだ。
「随分と勝手な話だと思わんか?」
向かいに座る家臣が、返答に困ったように口を閉ざす。
「徳川と北条が話をまとめた。だから真田は沼田を渡せ、か」
昌幸の声は穏やかだった。
だが、その目は笑っていない。
沼田は徳川から与えられた土地ではない。
真田が自ら手を伸ばし、争いの中で確保してきた土地だった。
それを、当事者である真田を置き去りにして話が進んでいる。
「殿」
家臣が慎重に口を開く。
「徳川殿との関係を考えれば、拒むのも危険かと」
「分かっておる」
昌幸は即答した。
「家康殿を敵に回せば面倒だ」
「では……」
「だが、渡すとは言っておらん」
家臣が黙る。
昌幸は再び書状を見る。
一度渡した土地は簡単には戻らない。
それだけではない。
ここで命じられるまま沼田を差し出せば、次も同じことが起こる。
真田の土地は、真田以外の都合で動かせる。
そう思われる。
それを昌幸は何より嫌った。
「沼田を渡せば、徳川との関係は保てるかもしれん」
昌幸は独り言のように言う。
「北条とも争わずに済む」
「はい」
「だが、その後は?」
家臣が顔を上げる。
「その後、でございますか?」
「次に何かを差し出せと言われた時はどうする」
「……」
「今度は城か。人か。それとも真田そのものか」
昌幸が笑った。
「一度、自分で自分の値を下げれば、相手は次も同じ値で買えると思う」
家臣は返す言葉を失った。
昌幸は立ち上がると、部屋の隅に広げられた地図へ向かった。
徳川。
北条。
上杉。
その狭間に真田がいる。
小さい。
改めて見ても、小さな家だ。
「さて」
昌幸は地図を見下ろした。
「どう生き残るか」
◇
昌幸には、少し前に交わした会話が残っていた。
林道景継。
わざわざ会いに行った男。
――もし徳川殿から、沼田を北条へ渡せと言われたなら、景継殿ならどうされます?
あの時、景継はすぐに答えなかった。
まず昌幸自身に尋ねた。
沼田を手放すつもりなのか、と。
昌幸が否定すると、景継はこう答えた。
自分が苦労して得た土地を、他人同士の約束で渡せと言われれば、自分も腹が立つだろう。
ただし。
怒ることと、戦うことは別だとも言った。
徳川と話す。
北条とも話す。
必要ならば上杉も使う。
そして。
――待っている間に、選べる道を増やします。
「あれは、なかなか良い言葉だったな」
昌幸が呟く。
家臣が首を傾げる。
「何か?」
「いや」
昌幸は地図へ目を戻した。
「人から教わった通りに動くのは好かんが、同じ答えになったなら仕方あるまい」
指が北へ動く。
上杉。
「使者を出す」
「徳川へでございますか?」
「そちらもだ」
昌幸が答える。
「まだ話は終わっておらん。こちらから先に道を閉ざす必要はない」
「では、もう一方は?」
昌幸の指が止まった。
「上杉だ」
家臣の顔が強張った。
「上杉へ……」
「ああ」
「それを徳川が知れば」
「怒るだろうな」
昌幸は平然としていた。
「だから、知られるまでは知られぬようにする」
「……」
「何だ?」
「いえ」
家臣は小さく頭を下げた。
「殿らしいと思いまして」
昌幸が笑う。
「褒め言葉として受け取っておこう」
◇
徳川との交渉は続いた。
だが、両者の間にある溝は埋まらない。
徳川には徳川の事情がある。
北条との関係を維持するには、沼田の問題を片づけたい。
一方で昌幸にも譲れない事情がある。
真田が自ら確保してきた土地を、他家同士の取り決めだけで手放すことなどできない。
使者を通じて何度言葉を交わしても、根本が違っていた。
ある日。
徳川から戻った使者の報告を聞き終え、昌幸は静かに尋ねた。
「つまり、沼田を渡せと?」
「……はい」
「代わりは?」
使者が一瞬言葉に詰まった。
「十分な代替地については、まだ……」
昌幸が笑った。
「そうか」
その一言だけで、使者は顔を伏せた。
「ご苦労だった。休め」
「はっ」
使者が去る。
部屋に残っていた家臣が尋ねた。
「いかがなさいます?」
昌幸はしばらく答えなかった。
やがて立ち上がり、庭へ目を向ける。
「家康殿は、真田が従うと思っているのだろう」
「兵力を考えれば……そう考えるのも無理はないかと」
「そうだな」
昌幸はあっさり認めた。
徳川と真田。
正面から兵数を比べれば話にならない。
だからこそ、家康は真田が最後には折れると考える。
昌幸にもそれは分かっていた。
「だがな」
振り返る。
「弱いから従うというなら、真田はとっくに消えておる」
家臣たちが昌幸を見る。
武田が滅びた。
織田が来た。
その織田も崩れた。
北条がいる。
徳川がいる。
上杉もいる。
そのたびに真田は選んできた。
誰につくか。
誰から離れるか。
何を捨て、何を残すか。
「沼田は渡さん」
昌幸が言った。
家臣たちの表情が引き締まる。
「徳川との交渉は?」
「続ける」
「拒絶するのでは?」
「話すことと、従うことは違う」
昌幸は再び地図へ向かう。
「最後まで話す。それで向こうが諦めるならよい」
「諦めなければ?」
昌幸の指が上田へ置かれた。
「その時は、その時だ」
◇
同じ頃。
徳川方にも、真田が容易には従わないという報告が届いていた。
家康は書状へ目を通した後、しばらく何も言わなかった。
真田昌幸。
武田の旧臣。
情勢に応じて主を変えながら、信濃と上野の狭間で生き残ってきた男。
扱いにくいことは、家康も理解していた。
だが北条との約定も軽くはない。
「まだ拒んでおるか」
家康の問いに、家臣が頭を下げる。
「はい。沼田は真田が自ら得た土地である、と」
「間違ってはおらんな」
家臣がわずかに顔を上げた。
家康は書状を置く。
「真田から見れば、こちらの都合で土地を渡せと言われているのだ。当然、面白くはあるまい」
「では……」
「だからといって、放っておける話でもない」
家康の声は変わらなかった。
北条との関係。
信濃の安定。
上野の情勢。
一つを譲れば、別の場所へ影響する。
「もう一度、話をせよ」
「はっ」
「ただし」
家康が顔を上げた。
「昌幸の周囲も見ておけ」
「周囲、でございますか?」
「あの男が、何の備えもせずに拒んでいるとは思えん」
家康の目が細くなる。
「誰かと話をしているかもしれぬ」
「北条でしょうか」
「北条だけとは限らん」
家康はそれ以上言わなかった。
◇
数日後。
真田のもとへ、密かに知らせが入った。
上杉との話が進み始めた。
まだ同盟と呼べるものではない。
真田が上杉へ完全に従ったわけでもない。
それでも、一つの道が開きつつある。
報告を聞いた昌幸は、満足そうに頷いた。
「これで一つ増えた」
家臣が尋ねる。
「道が、でございますか」
「ああ」
徳川だけではない。
北条だけでもない。
上杉という道もある。
必要なら、さらに別の道を探せばよい。
「殿」
「何だ?」
「林道殿へは?」
昌幸の動きが止まった。
「景継殿にも、知らせを送られますか?」
昌幸は少し考えた。
そして首を振る。
「いらん」
「よろしいので?」
「あの男は、こちらから言わずとも見ておるだろう」
昌幸の口元に笑みが浮かぶ。
「それに、助けを求めに行ったと思われるのも癪だ」
「以前、わざわざ会いに行かれたではありませんか」
「見に行っただけだ」
「何をです?」
「林道景継という男をだ」
家臣が黙る。
昌幸は楽しそうに続けた。
「面白い男だった」
「それほどでございますか?」
「ああ。こちらが何をするべきか、一度も言わなかった」
徳川に従えとも。
戦えとも。
北条へ沼田を渡せとも。
上杉につけとも言わなかった。
ただ自分ならどうするかを話し、最後は昌幸自身に選ばせた。
「だから今度はこちらの番だ」
「こちらの?」
「景継殿に見てもらおうではないか」
昌幸は地図の上田を指で叩いた。
「真田がどう生き残るのかをな」
◇
そして西。
昌幸の予想通り。
景継のもとには、少しずつ東国からの報告が集まり始めていた。
「真田が上杉との接触を始めた可能性がございます」
弥兵衛の報告に、景継は驚かなかった。
「やはり」
「予想されていたので?」
「可能性の一つとしては」
景継は書状を受け取る。
確定した情報ではない。
だが複数の動きを合わせれば、真田が徳川以外の道を探しているのは間違いなさそうだった。
「昌幸殿からは?」
「何も」
景継が少し笑う。
「そうでしょうね」
「こちらから使者を?」
「必要ありません」
前にも決めたことだ。
今、林道家から手を伸ばせば、昌幸自身の選択に余計なものを加えてしまう。
「それより、徳川方の動きを」
「すでに探らせております」
「ありがとうございます」
景継は報告へ目を戻した。
徳川と真田の間には、まだ使者が往来している。
つまり完全に決裂したわけではない。
それでも。
一度生まれた亀裂は、確実に広がっている。
「殿は、どちらが折れると思われます?」
弥兵衛が尋ねた。
景継は少し考えた。
「家康殿は、真田が最後には従うと考えているでしょう」
「昌幸殿は?」
「家康殿が諦めるとは思っていないでしょうね」
弥兵衛が眉を寄せる。
「では、互いに折れぬと?」
「おそらく」
「それでは……」
「戦になるでしょう」
景継は静かに言った。
だが、すぐに付け加える。
「このまま進めば、ですが」
まだ変わる余地はある。
交渉がまとまる可能性も残っている。
だから景継は断定しなかった。
「もし戦になれば、徳川が圧倒的に有利では?」
「兵の数だけなら」
景継は答えた。
「ですが、昌幸殿もそれくらい分かっています」
分かったうえで拒んでいる。
そこが重要だった。
勝てると思っているのか。
負けても真田を残す方法があるのか。
あるいは、戦そのものを別の交渉材料にするつもりなのか。
「……読めませんね」
景継が小さく呟く。
「殿でも?」
「ええ」
昌幸と直接会った時にも感じた。
考えのすべてが見えない。
自分と似ている部分がある。
だからこそ、逆に読みづらい。
景継は地図の上田へ視線を落とした。
「もう少し見ていましょう」
徳川が動くのが先か。
真田がさらに手を打つのが先か。
上杉がどこまで関わるのか。
そして北条は、沼田をどう見るのか。
東国では、四つの思惑が少しずつ絡み始めていた。
その中心にいるのは、大大名ではない。
信濃の小さな国衆。
真田昌幸。
やがて徳川の大軍を上田へ引き寄せることになる男は、この時すでに戦の前から動き始めていた。
戦場で勝つためではない。
真田という家を生き残らせるために。




