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『乱世にて、我は待つ』~知略を秘めた軍師は、やがて天下を動かす~  作者: ダイヤマ
第十一章 乱世狭間編

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第二百三十四話 それぞれの道



丹羽長秀の死から、ひと月あまりが過ぎた。


季節は春から初夏へ移ろうとしていた。


長秀の死を悼む時間が終わったわけではない。それでも、残された者たちの日々は否応なく先へ進んでいく。


丹羽家も同じだった。


「殿。こちらの書状ですが」


「そこへ置いてくれ」


「はっ」


丹羽長重の前には、朝からいくつもの書状が積まれていた。


家臣からの報告。


領内の訴え。


金銭に関する相談。


兵や武具の確認。


父が生きていた頃には、長重の目に触れることさえなかったものも多い。


一つ片づければ、また一つ運ばれてくる。


長重は書状を読みながら、眉間を押さえた。


「……父上は、毎日これをやっていたのか」


近くに控えていた老臣が笑う。


「もっと多い日もございました」


「これより多いのか?」


「戦の前などは、それはもう」


長重は思わず書状の山を見る。


戦場で兵を率いる父の姿は、幼い頃から何度も想像した。


織田家の重臣として評定へ出る姿も見てきた。


だが、当主になって初めて分かった。


家を率いるというのは、戦場で采配を振るうことだけではない。


むしろ大半は、こうした地味な仕事なのだ。


「殿」


別の家臣が一通の書状を差し出した。


「こちらは、いかがいたしましょう」


長重が目を通す。


領内の二つの村が、水を巡って争っている。


双方とも、自分たちの言い分が正しいと訴えていた。


「……どちらが正しい?」


「それを殿にお決めいただきたく」


長重は顔を上げる。


「いや、そうではない。以前はどうしていた?」


「長秀様の頃でございますか?」


「ああ」


家臣が少し考える。


「双方の庄屋を呼び、事情を聞かれておりました」


「父上が直接?」


「必要とあれば」


長重はもう一度書状へ目を落とした。


書かれている内容だけなら、どちらにも理があるように見える。


片方を選べば、もう片方は不満を抱くだろう。


父ならどうする。


そう考えかけて、長重はやめた。


――俺の真似をする必要はない。


父に言われた言葉を思い出したからだ。


「双方を呼んでくれ」


「殿が直接お会いに?」


「ああ。書状だけでは分からん」


「承知いたしました」


家臣が頭を下げる。


長重は次の書状へ手を伸ばした。


だが。


「……いや、待て」


家臣が振り返る。


「どうされました?」


「その前に、過去十年ほどの水争いについて記録があれば持ってきてくれ。昔にも同じことが起きているかもしれん」


老臣が少し驚いた顔をした。


「ございます」


「なら、それも見たい」


「はっ」


家臣が部屋を出ていく。


長重は気づかなかった。


だが老臣は、ほんの少しだけ笑っていた。


          ◇


その日の午後。


長重は景継の屋敷を訪れた。


「珍しいですね」


景継は長重を前にして、穏やかに笑った。


「こちらから伺おうと思っていたのですが」


「いえ。景継様には父のことで何度も足を運んでいただきました。今日は私からと思いまして」


「そうですか」


二人の間に茶が置かれる。


長重が一口飲んだところで、景継が尋ねた。


「少しは慣れましたか?」


「まったくです」


あまりに即答だったため、景継が笑った。


長重も苦笑する。


「毎日、分からぬことばかりです。父上が何をしていたのか、今になって初めて知りました」


「長秀殿は、あまり苦労を見せる方ではありませんでしたからね」


「はい」


長重の表情に、一瞬だけ寂しさが浮かんだ。


それでも、以前のように俯きはしなかった。


「それで今日は、一つ景継様にお聞きしたいことがあります」


「何でしょう?」


長重は水争いについて説明した。


二つの村。


双方の主張。


過去の記録を調べていること。


庄屋を呼ぶつもりであること。


最後まで聞いた景継は、茶碗を置いた。


「それで、私に何を?」


「どちらを優先するべきか、お考えを聞きたいのです」


「分かりません」


長重が瞬きをした。


「……分からないのですか?」


「はい」


「景継様でも?」


「私はその二つの村を見たことがありませんから」


景継は平然と答えた。


「田畑がどこにあり、水がどのように流れ、何人が暮らしているのかも知りません。それで片方を選ぶのは無理でしょう」


長重は少し考える。


「では、やはり現地を見た方がよいでしょうか」


「長重殿は、どう思います?」


また返された。


長重は景継を見る。


父と同じだった。


答えを聞きに来たのに、逆に問いかけられる。


「……見た方がよいと思います」


「なぜです?」


「書状だけでは分からぬことがあるからです。双方の庄屋から話を聞いても、自分たちに都合のよいことを言うでしょう」


景継が頷く。


「なら、そうされてはいかがですか」


「ですが、私の判断が間違っていたら?」


「間違えるでしょうね」


長重が言葉を失った。


景継は何でもないことのように茶を飲んでいる。


「景継様」


「はい」


「そこは、もう少し……」


「安心させることを言った方がよかったですか?」


「……少しくらいは」


景継が笑った。


「長重殿。間違えない当主などいませんよ」


その声が少しだけ柔らかくなる。


「私も何度も間違えています」


「景継様が?」


「もちろんです」


長重には意外だった。


目の前の男は、戦では常に何手も先を読んでいるように見える。


「大切なのは、間違えないことではありません」


景継は続ける。


「間違えた時、それを認められるか。直すことができるか。そして、同じ間違いを繰り返さないかです」


長重は黙って聞いていた。


「長秀殿も、似たようなことを仰っていました」


「でしょうね」


景継が少し笑う。


「私も随分、長秀殿に教えられましたから」


長重はその言葉に、ほんの少し嬉しそうな顔をした。


父がいなくなっても。


父が誰かに残したものは消えていない。


「分かりました」


長重は頭を下げる。


「一度、自分で見てきます」


「はい」


「それでも分からなければ、また来てもよろしいでしょうか」


「もちろんです」


景継は答えた後、少し考えた。


「ただし次は、答えを聞きに来るのではなく、ご自分の考えを持ってきてください」


長重が苦笑する。


「厳しいですね」


「長秀殿から頼まれていますので」


「父上は、景継様に何を頼んだのです?」


景継は少しだけ目を細めた。


「長重殿たちを見ていてほしい、と」


「それだけですか?」


「それだけです」


長重はしばらく景継を見ていた。


やがて小さく笑う。


「父上らしいですね」


「ええ」


景継も笑った。


「長秀殿らしい頼みでした」


          ◇


数日後。


長重は二つの村を訪れた。


供回りは最小限。


最初に庄屋から話を聞き、その後、自分の足で田畑を見て回った。


そこで初めて分かったことがある。


書状には書かれていなかった。


一方の村では近年、新たに田を広げていた。


そのため以前より多くの水を必要としている。


だが上流でそれだけの水を取れば、下流の村へ届く量が減る。


どちらかが嘘をついていたわけではない。


双方とも、自分たちが生きるために水を求めていたのだ。


「……なるほど」


長重は水路の前にしゃがみ込んだ。


一緒に来ていた家臣が尋ねる。


「いかがいたしましょう」


「まだ分からん」


以前なら、その言葉を口にするのが怖かった。


今は違う。


「だが、片方にすべて渡すのは駄目だということは分かった」


長重は立ち上がる。


「水を分ける方法を考えよう。それと、新しく広げた田についても調べたい」


「はっ」


「詳しい者を集めてくれ。俺一人で考えるより、その方が早い」


家臣が頭を下げた。


「承知いたしました、殿」


長重は水路を流れる水を見つめた。


まだ父のようにはできない。


景継のようにもできない。


それでいい。


今は一つずつ覚えていけばいい。


          ◇


長重が少しずつ当主として歩き始めた頃。


景継のもとには、別の知らせが届いていた。


「信濃からです」


家臣が差し出した書状を、景継は受け取った。


差出人を確認する。


真田からではない。


信濃の情勢を探らせている者からの報告だった。


景継は書状を開く。


読み進めるうちに、その目が少しずつ細くなっていく。


沼田を巡る問題。


徳川。


北条。


そして真田。


以前、昌幸が訪ねてきた時よりも、それぞれの思惑が絡み始めている。


『もし徳川殿から、沼田を北条へ渡せと言われたなら――景継殿なら、どうされます?』


あの日の昌幸の声が蘇った。


景継は書状を置いた。


「……なるほど」


やはり、あの男は何となく自分に会いに来たわけではない。


昌幸はあの時点で、こうなる可能性を見ていたのだろう。


景継は立ち上がり、壁に掛けられた地図の前へ移動する。


信濃。


上野。


甲斐。


北条領。


徳川領。


そして真田の勢力。


一つ一つを目で追う。


昌幸は何を選ぶ。


徳川に従うか。


北条と折り合うか。


それとも――。


景継の指が、信濃の北へ動いた。


上杉。


『待っている間に、選べる道を増やします』


自分が昌幸へ言った言葉だった。


「まさか……」


景継は小さく笑った。


「本当に増やすおつもりですか」


昌幸なら、やりかねない。


いや。


すでに動いている可能性すらある。


「殿」


背後から弥兵衛が声を掛ける。


「何かございましたか?」


景継は地図から目を離さなかった。


「少し、面白い方が動き始めたかもしれません」


「真田でございますか」


「ええ」


弥兵衛も地図を見る。


「兵を動かされますか?」


「いいえ」


景継は即座に答えた。


昌幸にも伝えている。


真田と徳川が争ったとしても、今の林道家はどちらにも兵を出さない。


その考えを変える理由は、まだない。


「見ておきましょう」


「見ておく?」


「昌幸殿が、何を選ぶのかです」


景継は再び信濃へ目を向けた。


丹羽家では、若い長重が自分の道を歩き始めた。


そして東では。


もう一人の男が、自らと真田家が生き残るための道を探し始めている。


人はそれぞれ、自分で選ばなければならない。


長重も。


昌幸も。


景継にできるのは、その選択を見極めることだけだった。


やがて起こる戦いが、東国の均衡を大きく揺らすことになるとは――。


この時、まだ誰も知らなかった。


いつも『乱世にて、我は待つ』を読んでいただき、ありがとうございます。


今回、新作の連載を始めました!


『人生勝ち組になるまで、俺の青春は先に進まない ~間違った選択をすると、また今日が始まる~』


何もない高校生活を終え、「人生を変える」と決意した主人公が、なぜか高校入学の日へ。


青春・恋愛・ループをテーマにした、これまでとは少し違った作品です!


『乱世にて、我は待つ』とあわせて、ぜひ読んでいただけると嬉しいです。


今後とも両作品をよろしくお願いします。



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