第二百三十三話 丹羽長秀
天正十三年四月。
丹羽長重が家督を継いでから、半月ほどが過ぎた。
最初の数日は、長重も何をするにも父へ確認しようとした。
届いた書状をどう扱うか。
誰をどこへ向かわせるか。
家臣から上がってきた訴えに、どう答えるか。
それまでなら父が決めていたことが、すべて自分の前へ運ばれてくる。
「これは父上に――」
そこまで言って、長重は何度も言葉を止めた。
当主は自分なのだ。
分からないからといって、すべて父に聞いていては家督を譲られた意味がない。
だから、まず家臣に聞いた。
自分でも考えた。
それでも分からなければ、父へ尋ねる。
長秀も答えをすぐには教えなかった。
「お前はどうしたい」
そう聞き返すことの方が多かった。
長重が答えれば、さらに問う。
なぜそう思った。
別の方法はないのか。
失敗した時はどうする。
長重が言葉に詰まると、長秀は笑った。
「分からんなら、分からんでいい。考えろ」
病床にありながら、父はまだ父だった。
だが、その声は日を追うごとに弱くなっていった。
◇
四月十六日。
朝。
長重は家臣たちと向き合っていた。
「こちらの三件は、昨日申し上げた通りに進めてくれ」
「はっ」
「こちらは待ってほしい。私だけでは判断できぬ。もう少し皆の意見を聞きたい」
以前なら、その言葉を口にすることを恥じていたかもしれない。
当主なのだから、自分が答えを出さなければならない。
そう思っていた。
だが今は違う。
分からぬことを、分かったふりで決める方が危うい。
父から教わったことだった。
「長重様」
老臣の一人が顔を上げる。
「何だ?」
「いえ」
男はわずかに笑った。
「少し、殿に似てこられたと思いまして」
長重は困った顔をした。
「父上に言えば、まだ早いと笑われる」
「左様でございましょうな」
部屋に小さな笑いが広がった。
その時だった。
廊下から足音が近づいてきた。
いつもより速い。
長重が顔を上げる。
襖が開いた。
「長重様」
入ってきた家臣の顔を見た瞬間、長重は立ち上がった。
「父上か?」
「……はい」
それ以上聞かなかった。
長重は部屋を飛び出した。
◇
長秀は眠っているように見えた。
長重が枕元へ座る。
「父上」
返事はない。
「父上。長重です」
しばらくして。
長秀の目が、ほんの少しだけ開いた。
「……聞こえておる」
掠れた声だった。
長重は息を吐いた。
「よかった……」
「何が、よかったんだ」
「朝から、ずっとお休みになっていると聞きましたので」
「病人が寝ておるだけだろう」
長重は何も言えなくなった。
父らしい。
こんな時まで、いつもと同じだった。
「仕事はどうした」
「先ほどまで家臣たちと話しておりました」
「放り出してきたのか?」
「……はい」
長秀の眉がわずかに動いた。
「当主がそれでは困るな」
「父上が倒れたと聞いて、仕事を続けられるほど私は立派ではありません」
少しの沈黙。
それから長秀が、かすかに笑った。
「それでいい」
「え?」
「今くらいはな」
長重は俯いた。
父の手が布団の上にある。
その手は、以前よりずっと細く見えた。
長重はそっと手を重ねた。
「父上」
「何だ」
「私は……ちゃんとできておりますか」
長秀はすぐには答えなかった。
「分からん」
「……分からないのですか」
「まだ半月だぞ」
長重は思わず顔を上げる。
「そんなに早く分かるものか」
「それは……そうですが」
「十年後に聞け」
「十年後……」
長重の声が止まった。
長秀も気づいたらしい。
しばらく何も言わなかった。
やがて長秀が目を閉じる。
「なら」
ゆっくりと言葉を続けた。
「十年後、自分で決めろ」
長重は唇を噛んだ。
「丹羽家が残っておるなら……少なくとも、何かはできたということだ」
「……はい」
「長正たちとも、仲良くしろ」
「はい」
「喧嘩はしてもいい」
長重の目から、とうとう涙がこぼれた。
「どちらなのですか」
「兄弟なんだから、喧嘩くらいするだろう」
長秀が少し笑う。
「最後に仲直りすればいい」
「……はい」
それ以上、長秀は何も言わなかった。
長重も聞かなかった。
もう十分だった。
◇
昼を過ぎた頃。
知らせを受けた景継が屋敷へ到着した。
部屋へ入ると、長重が枕元にいる。
その少し後ろには、幼い弟たちの姿もあった。
景継は長重を見る。
長重が小さく首を振った。
まだ息はある。
だが、朝よりさらに弱くなっているという。
景継は静かに長秀のそばへ座った。
「長秀殿」
反応はない。
もう声を掛けても分からないのかもしれない。
そう思った時だった。
「……遅い」
小さな声が聞こえた。
景継は目を見開く。
「起きておられたのですか」
「今……起きた」
「それなら、遅いと言われても困ります」
長秀の口元が、わずかに動いた。
笑ったのだろう。
「長重は?」
「ここにおります」
長重が身を寄せる。
「父上」
長秀は息子の方へ顔を動かそうとしたが、うまく動かなかった。
それでも声のする方へ目を向けた。
「……朝の話は」
「終わらせました」
「そうか」
「父上に聞かず、自分で決めました」
「……そうか」
二度目の声は、少しだけ嬉しそうだった。
景継は黙ってその様子を見ていた。
長秀の目が、今度はこちらへ向く。
「景継」
「はい」
「約束……忘れるなよ」
景継は何のことか聞き返さなかった。
「忘れません」
「そうか」
「ですから、長秀殿はご自分のことだけ考えてください」
「難しいことを……言うな」
「そうでしょうか」
「ああ」
長秀はゆっくり息を吐いた。
「ずっと……人のことばかり考えてきたからな」
その言葉に、景継は何も返せなかった。
信長のこと。
織田家のこと。
家臣のこと。
丹羽家のこと。
息子たちのこと。
思えば、この男はいつも誰かの間に立っていた。
前へ出すぎず。
だからといって逃げもせず。
誰かが崩れそうになれば支え、争えば間へ入った。
それが丹羽長秀という男だった。
「景継」
「はい」
「勝家殿に会ったら……」
長秀がそこで息を止める。
景継は次の言葉を待った。
しばらくして。
「いや……やめておこう」
「何ですか。気になります」
「自分で言う」
景継は一瞬黙った。
「……そうですか」
「ああ」
長秀が小さく笑った。
「先に行って……待っておる」
景継の喉がわずかに詰まる。
それでも顔には出さなかった。
「あまり長く待つことになっても、怒らないでください」
「それは……困るな」
「困ってください」
「相変わらずだ」
「長秀殿ほどではありません」
「……言うようになった」
長秀の目がゆっくり閉じた。
それからは、もう言葉を交わさなかった。
長重が父の手を握っている。
長正たちも、兄のそばにいた。
景継は少し離れたところから、その親子を見守った。
夕刻。
長秀の呼吸が、少しずつ長くなる。
吸って。
吐く。
また吸うまでの間が長くなる。
誰も声を上げなかった。
長重だけが、父の手を握り続けている。
やがて。
長秀は一度だけ、ゆっくりと息を吐いた。
次の息は――来なかった。
「……父上?」
長重が呼ぶ。
返事はない。
「父上」
もう一度。
それでも返事はなかった。
長重は俯いた。
幼い弟たちの泣き声が、静かな部屋に広がっていく。
景継は目を閉じ、深く頭を下げた。
丹羽長秀。
織田家を長く支え続けた男は、その生涯を終えた。
享年五十一。
◇
翌朝。
丹羽家の屋敷には、すでに多くの者が出入りしていた。
父を失った悲しみに浸る暇など、当主には与えられない。
長重は一人、家臣たちの前に座っていた。
目は赤い。
ほとんど眠っていない。
それでも、その背筋は伸びていた。
「長重様」
家臣が書状を差し出す。
一瞬。
長重は隣を見そうになった。
いつもなら、そこに父がいた。
分からなければ聞けばいい。
間違えれば叱ってくれる。
だが、もういない。
長重は書状へ目を落とした。
しばらく読み、顔を上げる。
「皆の考えを聞かせてくれ」
家臣たちが顔を上げた。
「私一人では、まだ分からぬことが多い」
長重はそれを恥じなかった。
「だが、決めるべきことから逃げるつもりもない」
一人の老臣が、深く頭を下げた。
「はっ」
他の家臣たちも続く。
「我ら一同、殿をお支えいたします」
殿。
その呼び方に、長重の目がわずかに揺れた。
昨日まで、その言葉で呼ばれていたのは父だった。
長重は一度だけ目を閉じる。
そして開いた。
「……頼む」
丹羽長秀はいない。
それでも、丹羽家は残った。
父から子へ。
一つの時代が、静かに次へ渡されていった。




