第二百三十二話 託すもの
翌日。
景継が再び丹羽長秀の屋敷を訪れると、昨日とは違う空気が漂っていた。
慌ただしいわけではない。
誰かが大声を上げているわけでもない。
それでも、廊下ですれ違う家臣たちの表情には一様に緊張が浮かんでいる。
「景継様」
昨日、景継を呼びに来た家臣が頭を下げた。
「長重殿は?」
「すでに殿のお部屋に」
「そうですか」
「殿も、朝からお待ちでございます」
その言葉に景継は眉を寄せた。
「朝から?」
「はい」
嫌な予感がした。
景継は足を速める。
部屋の前まで来ると、家臣が襖を開けた。
「景継様がお見えになりました」
中へ入る。
長秀は昨日と同じ場所にいた。
ただし今日は布団へ横になってはいない。
背後に置かれた脇息へ身体を預けながら、どうにか上体を起こしている。
その前には、一人の少年が座っていた。
丹羽長重。
長秀の嫡男である。
まだ若い。
だが、今日の長重の顔には年齢に似合わぬ緊張があった。
「長秀殿」
景継が声を掛けると、長秀がこちらを見る。
「来たか」
「起きていてよいのですか?」
「昨日、話を聞くと言っただろう」
「横になったままでも話はできます」
「格好がつかん」
景継は思わず息を吐いた。
「昨日、医師の言うことを聞くと仰いましたよね?」
「起きるなとは言われておらん」
「そういうところですよ」
長秀が小さく笑う。
「まあ座れ」
景継は長重の隣へ腰を下ろした。
「長重殿」
「景継様」
長重が深く頭を下げる。
「急に呼び出してすまんな」
長秀が息子を見る。
「いえ」
長重の返事は硬かった。
当然だろう。
父が病に伏している。
そこへ突然呼ばれ、景継まで同席している。
何か大切な話があることくらい、長重にも分かっているはずだ。
長秀はしばらく息子の顔を見つめていた。
やがて口を開く。
「長重」
「はい」
「今日から、お前が丹羽家の当主だ」
長重の目が見開かれた。
景継は黙って長秀を見た。
「父上……?」
「家督をお前に譲る」
「お待ちください」
長重の返事は早かった。
「父上はまだ――」
「生きておる」
長秀が遮る。
「だから今、譲るのだ」
長重が言葉を失った。
長秀は咳を一つすると、呼吸を整えてから続けた。
「死んでからでは遅い。俺が話せるうちに、お前に渡しておきたい」
「ですが、私はまだ……」
「若いな」
「……はい」
長重は俯いた。
「父上の代わりなど、とても務まりませぬ」
「当たり前だ」
思いがけない返事に、長重が顔を上げた。
長秀は少し笑っていた。
「お前が今すぐ俺と同じことをできると思っていたら、その方が心配だ」
「父上……」
「十三、四の小僧に何十年も戦ってきた俺と同じことをしろと言うほど、俺は無茶ではない」
景継が横から口を挟む。
「昨日は病の身で書状を取りに行こうとしていましたが」
「今は親子の話をしておる」
「失礼しました」
長重の口元がほんの少しだけ緩んだ。
それを見た長秀も笑う。
だが、その笑みはすぐに咳へ変わった。
「ごほっ……ごほっ……」
「父上」
長重が思わず身を乗り出す。
長秀は手を上げて制した。
「大丈夫だ」
咳が収まるまで、誰も話さなかった。
やがて長秀が再び息子を見る。
「長重。よく聞け」
「はい」
「俺の真似をする必要はない」
長重が瞬きをする。
「丹羽家を守るために、お前が俺になる必要はないということだ」
「……」
「分からぬことがあれば聞け。できぬことがあれば人を頼れ。間違えたと思えば直せ」
長秀の声は弱っている。
それでも、一つ一つの言葉ははっきりしていた。
「当主だからといって、何でも一人で決めようとするな。家は一人で背負うものではない」
長重は黙って聞いている。
「家臣がおる。弟たちもおる」
そこで長秀の目が、わずかに柔らかくなった。
「長正たちはまだ幼い。お前が兄として守ってやれ」
「……はい」
「だが、お前一人で守ろうとするな」
長重が父を見る。
「皆で丹羽家を残せ。それでよい」
長重の拳が膝の上で握られた。
「父上は……」
声が震える。
「もう、お戻りにならないおつもりなのですか」
部屋が静かになった。
長秀はすぐには答えなかった。
景継も口を挟まない。
やがて長秀は、自分の手を見た。
「分からん」
「……」
「治るかもしれん」
長秀は静かに言った。
「医師も、もう駄目だと言ったわけではない」
長重の顔がわずかに上がる。
「だがな」
長秀は息子を見る。
「治るかもしれんから何もしない、というのは俺の性に合わん」
「……」
「俺が元気になれば、その時は横からいくらでも口を出してやる」
「父上なら、本当にされそうです」
「するぞ」
今度は長重も少し笑った。
「うるさいと思うほどにな」
親子の間に、ほんの一瞬だけいつもの空気が戻った。
しかし長重の目は赤くなっていた。
長秀はそれに気づいても、何も言わなかった。
「長重」
「はい」
「受けるか?」
長重は膝の上の拳を一度強く握った。
迷っている。
怖いのだろう。
当然だった。
まだ父の背中を追っている年齢で、その背中の代わりに自分が先頭へ立てと言われたのだから。
それでも。
長重は顔を上げた。
「……お受けいたします」
長秀の目が細くなる。
「丹羽家は、私が継ぎます」
「そうか」
それだけだった。
褒めもしない。
大袈裟に喜びもしない。
ただ、長秀の表情が少しだけ安堵したように見えた。
「なら、今日からお前が当主だ」
「はい」
長重が深く頭を下げる。
「父上。これまで丹羽家をお守りくださり、ありがとうございました」
長秀は息子を見つめた。
そして、少し困ったように笑った。
「まだ死んでおらんぞ」
長重の肩がわずかに揺れた。
「……はい」
「そういう挨拶は、もう少し後にしろ」
「申し訳ございません」
「まったく」
長秀はそう言いながらも、どこか嬉しそうだった。
◇
話が終わると、長重は家臣たちへ家督相続を伝えるため部屋を出た。
襖が閉じる。
残ったのは、景継と長秀だけだった。
しばらく、どちらも話さなかった。
先に口を開いたのは景継だった。
「よかったのですか?」
「何がだ」
「長重殿へ家督を譲ったことです」
「昨日から、そのつもりだった」
「そうではありません」
景継は長秀を見る。
「本当は、もう少しご自分で丹羽家を率いたかったのではありませんか?」
長秀が黙った。
景継には分かっていた。
この男は、まだやれると思っている。
昨日、立つこともままならない身体で書状を読もうとしたのも、そのためだ。
戦場へ出たい。
家を率いたい。
まだ自分の役目があると思っている。
「……当たり前だろう」
長秀がぽつりと言った。
「まだやりたいことはいくらでもある」
「はい」
「長重に教えていないことも山ほどある。長正たちが大きくなるところも見たい」
一度言葉を止める。
「お前がこれから何をするのかもな」
景継が少し目を細めた。
「私ですか?」
「ああ」
長秀が笑う。
「勝家殿がいなくなって、お前がどこまで行くのか。俺なりに見届けてやろうと思っていた」
「それは……困りましたね」
「なぜだ」
「見張られているようです」
「見張っておったんだ」
「やはりそうでしたか」
二人が小さく笑う。
長秀はそのまま天井へ視線を向けた。
「だが、身体というのは思うようにはならんな」
その言葉だけは、笑っていなかった。
景継は何も言えない。
「景継」
「はい」
「頼みがある」
景継の表情が変わった。
「長重のことですか?」
「長重だけではない」
長秀はゆっくり景継へ顔を向けた。
「長正も、その下の弟もだ」
景継は黙って聞く。
「俺がこのまま戻れなかったとしても、あいつらをお前の家臣にしてくれとは言わん」
長秀の目は真っ直ぐだった。
「丹羽の子は丹羽の子だ。自分たちの家を、自分たちで背負わせたい」
「はい」
「だが、まだ若い」
長秀は小さく息を吐く。
「特に長重は、これから失敗するだろう。間違えることもある。家臣に舐められることだってあるかもしれん」
「そうでしょうね」
「そこは否定してやれ」
「ですが、若い当主なら当然でしょう」
「お前はこういう時だけ正直だな」
「長秀殿に教わりました」
「俺のせいにするな」
また、わずかな笑いが生まれる。
長秀は少し息を整えてから続けた。
「だから景継。あいつらが本当にどうしようもなくなった時だけ、手を貸してやってくれ」
「……」
「何でも助ける必要はない。転びそうになるたび支えていたら、自分で歩けん男になる」
景継は静かに頷いた。
「転んだだけなら、自分で立たせます」
「そうしてくれ」
「ですが」
景継は少し考えた。
「立てないほどの傷を負いそうなら、その前に止めます」
長秀の目が細くなる。
「それでいい」
「それに、私だけではありません」
「何?」
「丹羽家には家臣の方々がおられます。長重殿にも、これから信頼できる者が増えていくでしょう」
景継は穏やかに続けた。
「私が長秀殿の代わりになる必要はありません」
長秀が黙る。
「長秀殿の代わりなど、誰にもできませんから」
しばらくして。
「……お前にしては、ずいぶん気の利いたことを言うな」
「たまには言います」
「そうか」
「はい」
長秀は目を閉じた。
「なら、安心した」
その声は小さかった。
景継は何も返さなかった。
安心した。
その言葉が、妙に胸に引っかかった。
まるで――。
自分がいなくなった後のことを、一つずつ片づけているようだった。
「長秀殿」
「何だ」
「もう一つ、約束してください」
「今度は何だ」
「明日は何もしないでください」
長秀が目を開けた。
「……明日もか?」
「明日もです」
「家督を譲ったばかりだぞ。長重が何をするか――」
「だからです」
景継は遮った。
「今日から長重殿が当主なのでしょう?」
「……」
「なら、最初の一日は任せてみてはいかがですか」
長秀は不満そうな顔をした。
「いきなりか?」
「先ほど、ご自分で仰ったではありませんか。家は一人で背負うものではないと」
「自分の言葉を使われると腹が立つな」
「便利なので」
長秀はしばらく景継を睨んでいた。
だが、やがて諦めたように笑った。
「分かった」
「本当ですか?」
「明日は何もせん」
「書状も?」
「読まん」
「評定にも?」
「出ん」
「家臣を呼びつけて指図するのも?」
「……それくらいは」
「長秀殿」
「分かった、分かった」
長秀が面倒そうに手を振った。
「何もせん。それでよいだろう」
「はい」
景継はようやく笑った。
「では、今日はもう休んでください」
「お前も帰れ」
「そうします」
景継は立ち上がった。
襖へ向かって歩き出す。
「景継」
背後から呼び止められた。
振り返る。
長秀は布団の上から景継を見ていた。
「……ありがとうな」
景継は少しだけ目を見開いた。
長秀がそんな言葉を口にするとは思わなかった。
だから、すぐには返事ができなかった。
「何だ、その顔は」
「いえ」
景継は小さく笑う。
「礼を言われるようなことは、まだ何もしていません」
「そうか」
「はい」
「なら、これからしてくれ」
「……分かりました」
景継は深く頭を下げた。
「お休みください、長秀殿」
「ああ」
襖を閉じる。
廊下には、長重が立っていた。
「景継様」
「長重殿」
少年の顔には、先ほどまでとは違う緊張があった。
今日から丹羽家の当主。
そう言われたところで、人間が一瞬で変わるわけではない。
「これから家臣たちと話を?」
「はい」
「緊張していますか?」
長重は少し迷ってから頷いた。
「……しております」
「それでいいと思います」
「よいのですか?」
「怖くない方が、私は心配です」
長重が景継を見る。
景継は部屋の中へ一度だけ視線を向けた。
「分からないことがあれば、まず丹羽家の皆さんに聞いてください」
「はい」
「それでも分からなければ、私にも聞いてください」
「……よろしいのですか?」
「もちろんです」
長重は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
景継はその姿を見つめた。
昨日まで。
この少年は、丹羽長秀の嫡男だった。
今日からは違う。
丹羽家を背負う者となった。
それでも、まだ父は生きている。
まだ話せる。
まだ教わることができる。
景継はそれを幸運だと思った。
そして同時にその時間が、少しでも長く続いてほしいとも思った。




