第二百三十一話 消えぬもの
清正と正則が帰った後も、寧々はしばらく一人で庭を眺めていた。
先ほどまで二人の笑い声で賑やかだった部屋は、嘘のように静かになっている。
あなたたち二人が、揃ってこれほど素直に誰かに従っていることが、です。
自分で口にした言葉を思い出す。
昔から、あの二人のことはよく知っている。
秀吉を慕い、秀長を敬ってはいたが、何でも黙って従うような性格ではなかった。戦のことになれば自分の考えを曲げず、時には叱られても納得するまで食い下がった。
そんな二人が今は、景継を信じているという。
不思議なものだと思う。
そして同時に、胸の奥には今も消えないものが残っていた。
寧々はゆっくりと目を閉じる。
思い出したのは、一年前。
秀吉が死んで間もない頃のことだった。
◇
天正十二年。
羽柴秀吉の死は、あまりにも突然だった。
出陣する時には生きていた。
いつものように大きなことを言い、勝って帰ってくると笑っていた。
寧々は何度も、そんな背中を見送ってきた。
だから今回も帰ってくると思っていた。
それが帰ってこなかった。
代わりに届いたのは、夫の死を告げる知らせだった。
それからの日々を、寧々はすべて覚えているわけではない。
泣いたことは覚えている。
誰かに声を掛けられたことも覚えている。
それでも、何を食べたのか、いつ眠ったのか、誰と何を話したのか。ところどころ、霧がかかったように記憶が抜けていた。
ただ一つ。
はっきりと残った名前がある。
林道景継。
その名を聞くたび、胸の奥に冷たいものが広がった。
そしてある日。
その男が寧々のもとを訪れた。
「林道景継にございます」
景継は寧々の前で深く頭を下げた。
寧々は黙ってその姿を見ていた。
想像していたより若い。
秀吉と戦い、あの人を死へ追いやった男。
もっと恐ろしい顔をしているのだと思っていた。
けれど目の前にいる景継は、静かに頭を下げているだけだった。
「……顔を上げてください」
「はい」
景継が顔を上げる。
寧々はその目を見た。
「あなたが……あの人を殺したのですね」
部屋の空気が止まった。
近くに控えていた侍女が、わずかに息を呑む。
景継は目を逸らさなかった。
「はい」
短い返事だった。
言い訳はない。
寧々の指先に力が入った。
「そうですか」
もっと何か言うと思っていた。
戦だった。
秀吉も景継を討とうとしていた。
自分が生き残るためだった。
いくらでも言えるはずだ。
だが景継は何も言わない。
だからこそ、寧々の方から尋ねた。
「何も言わないのですか?」
「何を、でしょうか」
「理由です」
景継は少し黙った。
「理由を申し上げれば、寧々殿のお気持ちが軽くなるのでしょうか」
「……」
「秀吉殿と私は敵として戦いました。秀吉殿も私を討とうとされ、私も勝つために戦いました。その結果、秀吉殿は亡くなられた」
景継の声は静かだった。
「それが戦だと申し上げることはできます」
寧々は膝の上で拳を握った。
「ですが、それを寧々殿に申し上げたところで、何の慰めにもならないでしょう」
「……謝らないのですね」
景継の目がわずかに揺れた。
「謝れば済むことではありません」
「……」
「それに、あの戦で私がしたことを、なかったことにもできません」
腹が立った。
この男が憎かった。
頭を下げて許しを乞うてくれた方が、まだ怒りをぶつけられたかもしれない。
けれど景継は逃げない。
自分のしたことを正当化もしなければ、寧々に許してもらうためだけの言葉も口にしなかった。
「では、何をしに来たのです?」
寧々の声が少し震えた。
「私に恨まれるためですか?」
「違います」
「では何です?」
景継は少しだけ視線を落とした。
「お会いしておくべきだと思いました」
「なぜ?」
「私が秀吉殿と戦ったからです」
「答えになっていません」
「そうですね」
景継は少し困ったように息を吐いた。
それから、ゆっくりと続ける。
「秀吉殿が亡くなったことで、多くの者の人生が変わりました。寧々殿も、秀長殿も、清正殿も、正則殿もです」
寧々の目が鋭くなる。
「だから責任を取ると?」
「そのような立派なことは言えません」
景継は首を振った。
「ただ、私が関わったことから目を逸らしたくありませんでした」
その言葉を聞いても、寧々の胸が軽くなることはなかった。
むしろ腹立たしかった。
「私はあなたを許せません」
「はい」
「これから先も、許さないかもしれません」
景継は少し黙った。
「それを決めるのは、寧々殿です」
寧々は景継を見つめた。
「随分と落ち着いているのですね」
「そう見えるだけかもしれません」
「私に恨まれても構わないと?」
「構わないとは思っていません」
景継の返事は早かった。
「ですが、許してほしいと求めることも違うと思っています」
長い沈黙が続いた。
寧々には、目の前の男が分からなかった。
憎い。
その気持ちは変わらない。
なのに、想像していた人物とも違う。
もっと傲慢な男であればよかった。
秀吉の死を当然の結果だと言い切る男なら、何も迷わず憎めた。
「今日は……もうお帰りください」
「分かりました」
景継は立ち上がった。
去り際、もう一度だけ深く頭を下げる。
「失礼いたしました」
寧々は最後まで返事をしなかった。
襖が閉じる。
その向こうから景継の足音が遠ざかっていく。
寧々はしばらく、その襖を見つめていた。
涙は出なかった。
ただ胸の中に、言葉にできない重さだけが残った。
◇
その日の夕刻。
寧々のもとを訪ねてきたのは秀長だった。
「姉上」
「秀長殿」
秀長は寧々の顔を見るなり、何かを察したらしい。
「……景継殿が来られたそうですな」
寧々は頷いた。
「はい」
「そうですか」
秀長は向かいへ腰を下ろした。
しばらく、どちらも話さなかった。
先に口を開いたのは寧々だった。
「秀長殿」
「はい」
「あなたは……景継殿を憎くはないのですか?」
秀長はすぐには答えなかった。
「あなたの兄上を死へ追いやった方です」
「……ええ」
「私は憎いです」
寧々は初めて、その言葉を誰かにはっきりと口にした。
「顔を見たら、あの人が帰ってこなかった日のことを思い出しました」
秀長は黙って聞いている。
「それなのに、景継殿は言い訳をしませんでした」
「そうですか」
「だから余計に、どう怒ればよいのか分からなくなりました」
秀長が小さく息を吐く。
「姉上」
「はい」
「私も、憎くなかったと言えば嘘になります」
寧々が顔を上げた。
「兄者が死んだと聞いた時は、景継殿を討てるものなら討ってやりたいと思いました」
「では――」
「ですが」
秀長は静かに遮った。
「兄者も、景継殿を殺そうとしておりました」
寧々は黙る。
「だから仕方なかった、とは申しません。兄者が死んだことを、それだけで納得できるはずもない」
秀長の手が膝の上で強く握られた。
「ただ……戦とは、そういうものなのでしょう」
寧々の表情が歪む。
「嫌なものですね」
「ええ」
秀長は苦く笑った。
「本当に、嫌なものです」
兄を失った弟。
夫を失った妻。
二人の間に、それ以上の言葉は必要なかった。
やがて寧々が尋ねた。
「これから、どうなさるのです?」
秀長は庭へ目を向ける。
「残った者を守ります」
「残った者?」
「羽柴の名がどこまで残るかは分かりません。兄者がおられなくなり、領地も人も散りました」
秀長の声に、わずかな疲れが混じった。
「それでも家族がおります。家臣もおります。兄者を信じてついてきてくれた者たちもいる」
寧々は黙って聞いた。
「私まで仇討ちなどと言って死ねば、その者たちはどうなるのでしょう」
「……」
「だから、生きねばなりません」
秀長は自分自身へ言い聞かせるように言った。
「兄者のためだけではなく、残った者たちのために」
寧々はその横顔を見つめた。
「秀長殿は強いのですね」
「とんでもない」
秀長は苦笑した。
「毎朝、逃げ出したいと思っておりますよ」
「まあ」
「兄者がおれば、面倒なことは全部押しつけられるのですが」
寧々は思わず笑った。
「そんなことを言えば、秀吉様に怒られますよ」
「でしょうな」
秀長が少しだけ声色を変えた。
「『何を弱気なことを言っとる! お前がおらんかったら誰がわしを支えるんじゃ!』とでも言うでしょう」
寧々の目が大きくなる。
そして。
「……言いますね」
笑った。
本当によく似ていた。
言いそうなことまで、そのままだった。
「その後で、自分は酒を飲みに行くのです」
「そうです。全部こちらに任せて」
「翌朝には、自分が全部やったような顔をする」
「そうでした」
二人は笑った。
ほんの短い時間だった。
それでも秀吉がそこへ戻ってきたような気がした。
やがて笑いが収まる。
寧々が静かに言った。
「私も……すぐには無理だと思います」
「何がです?」
「景継殿を許すことです」
秀長はゆっくりと頷いた。
「許さなくてもよいのではありませんか」
寧々が顔を上げる。
「忘れる必要もない。無理に好きになる必要もないでしょう」
「……」
「ただ、これから景継殿が何をするのか。それを見てから決めても遅くはない」
寧々は答えなかった。
けれど、その言葉だけは心のどこかに残った。
◇
――それから一年。
寧々はゆっくりと目を開けた。
清正と正則が座っていた場所は、もう空いている。
あの日、自分は景継を許せないと言った。
今でも、その言葉が間違っていたとは思わない。
秀吉を失った悲しみは消えていない。
きっと、これからも消えることはないだろう。
けれど――。
『分からぬことと、信じられぬことは違います』
清正の言葉を思い出す。
そして、正則も景継を信じていると言った。
あの二人が揃って一人の主に従い、今日もこうして笑っている。
「……見てから決めても遅くはない、ですか」
寧々は小さく呟いた。
秀長に言われた言葉。
一年経った今も、まだ答えは出ていない。
それでよいのかもしれない。
許すか。
許さないか。
人への思いとは、その二つだけで綺麗に分けられるものでもないのだから。
◇
同じ頃。
景継は丹羽長秀の屋敷へ到着していた。
案内した家臣は、部屋の前で足を止める。
「こちらでございます」
「ありがとうございます」
襖を開ける前に、中から声が聞こえた。
「だから持ってこいと言っておるだろう」
長秀だった。
掠れてはいるが、思っていたより声には力がある。
「なりません。医師からも休むよう言われております」
「書状を見るくらいで死にはせん」
「そのようなことを仰らないでください!」
「大袈裟だな、お前たちは」
景継は隣にいる家臣を見る。
家臣が困り果てた顔をした。
「……ずっと、この調子でございます」
「なるほど」
景継は小さく息を吐き、襖を開けた。
「では、私からもお願いしましょうか」
部屋の中が静かになった。
布団に身体を起こしていた長秀が、目を丸くする。
「……景継?」
「こんばんは、長秀殿」
「なぜお前がここにいる」
景継はちらりと丹羽家臣を見る。
長秀もその視線を追った。
家臣が気まずそうに顔を伏せる。
「お前……」
「叱らないであげてください」
景継は長秀のそばへ腰を下ろした。
「皆さんが困っています」
「大袈裟に騒いでおるだけだ」
「そうですか」
「ああ」
「では、立ってみてください」
長秀が黙った。
「……景継」
「立てるのでしょう?」
「嫌なところを突くようになったな」
「誰に教わったのでしょうね」
長秀は呆れたように景継を見る。
やがて諦めたように布団へ身体を預けた。
「分かった。今日はもう何もせん」
「今日だけですか?」
「……数日は休む」
「医師がよいと言うまでにしてください」
「お前は俺の母親か」
「違います」
景継は少し笑った。
「ですが、長秀殿が言うことを聞かないので仕方ありません」
長秀も小さく笑った。
その直後。
「ごほっ……ごほっ……!」
身体を丸めるように咳き込む。
景継の笑みが消えた。
近くの家臣がすぐに水を差し出す。
長秀は受け取って口を湿らせると、しばらく目を閉じた。
「……まいったな」
先ほどまでの強がりが、ほんの少しだけ消えていた。
景継は長秀の顔を見る。
二日前より明らかに痩せた――というほどではない。
だが顔色は悪い。
呼吸も普段より浅かった。
「長秀殿」
「何だ」
「本当に、いつからですか?」
長秀は目を閉じたまま答えない。
「十日前ではありませんね?」
片目だけが開いた。
「覚えていたのか」
「もちろんです」
「余計なところで記憶がいいな」
「それで?」
しばらく沈黙した後、長秀が天井を見る。
「……ひと月ほど前からだ」
景継の表情が変わった。
「ひと月?」
「ああ。最初は少し身体が重い程度だった」
「なぜ黙っていたのですか」
「言って何になる」
長秀は静かに答えた。
「少し休めば治ると思っておった。それだけだ」
「今もそう思っていますか?」
長秀は答えなかった。
その沈黙が、何よりも景継の胸に残った。
長秀自身も気づいている。
これは、いつもの疲れとは違う。
「景継」
「はい」
「そんな顔をするな」
「どんな顔ですか?」
「俺がもう死ぬような顔だ」
景継は一瞬、言葉を失った。
「……そのような顔はしていません」
「しておる」
「していません」
「昔から、お前はこういう時だけ分かりやすい」
長秀が笑う。
景継は何も返さなかった。
しばらくして、長秀がゆっくりと息を吐く。
「まあ、医師の言うことは聞く。お前との約束もあるからな」
「お願いします」
「その代わり」
「何でしょう」
長秀の目が少しだけ鋭くなった。
「長重を、明日ここへ呼んでくれ」
景継は長秀を見る。
「長重殿を?」
「ああ」
「なぜ私に?」
「お前にも聞いておいてもらいたい話がある」
先ほどまでとは違う声だった。
弱ってはいる。
それでも、丹羽家を率いてきた男の声だった。
景継はすぐには答えなかった。
長秀が何を話そうとしているのか。
まだ聞いてはいない。
けれど――。
なんとなく分かってしまった。
「……分かりました」
「頼む」
長秀はそれだけ言うと、目を閉じた。
景継はしばらく、その横顔を見つめていた。
まだ終わったわけではない。
医師も、死が近いなどとは言っていない。
長秀だって数日前まで普通に笑っていた。
それでも。
長秀はもう、自分がいなくなった後のことを考え始めている。
その事実だけが、景継の胸に重く残った。




