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『乱世にて、我は待つ』~知略を秘めた軍師は、やがて天下を動かす~  作者: ダイヤマ
第十一章 乱世狭間編

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第二百三十話 変わらぬ縁



天正十三年三月。


「寧々様、お久しゅうございます!」


屋敷の中まで響きそうな声に、寧々は思わず苦笑した。


「正則。もう少し静かに入ってこられないのですか」


「申し訳ございません!」


謝っているというのに、声の大きさはほとんど変わっていない。


その隣で、加藤清正が呆れたように息を吐いた。


「だから道中で言っただろう。寧々様の前くらい静かにしろと」


「お前に言われたくないわ」


「俺はお前ほど騒がん」


「何だと?」


「二人とも」


寧々が名前すら呼ばずに声を掛けただけで、二人は揃って口を閉じた。


その様子がおかしくて、寧々は笑った。


「本当に変わりませんね、あなたたちは」


清正と正則が顔を見合わせる。


かつては、こんな光景が当たり前だった。


秀吉がいて、秀長がいて、清正や正則たちが騒いでいる。誰かが無茶をすれば寧々が叱り、それでも収まらなければ秀長が間に入り、秀吉はそんな様子を見ながら誰より大きな声で笑っていた。


あの頃は、それがなくなる日など考えたこともなかった。


「さあ、座りなさい。せっかく来たのですから」


「はい」


二人が腰を下ろす。


用意されていた茶と菓子が運ばれてくると、正則は早速、菓子へ目を向けた。


「これ、食べてもよろしいですか?」


「そのために出したのですよ」


「いただきます!」


正則が手を伸ばす。


「お前は少し遠慮しろ」


そう言いながら清正も一つ取った。


寧々がその手元を見て笑う。


「清正も食べているではありませんか」


「ほら見ろ」


「お前と一緒にするな」


「食ってることには変わらんだろうが」


昔と変わらない。


寧々は二人を眺めながら、自然と頬が緩んでいくのを感じていた。


それからしばらくは、他愛のない話が続いた。


西国から戻って何をしているのか。怪我は残っていないか。きちんと食事を取っているのか。


寧々が尋ねることは昔と大して変わらない。


二人がどれほど多くの兵を率いる武将になっても、寧々にとっては昔から知る二人だった。


「清正」


「はい」


「少し痩せましたね?」


「そのようなことはございません」


「本当に?」


「はい」


「こいつは戦になると飯を忘れますからな」


正則が横から口を挟む。


清正が眉を寄せた。


「お前にだけは言われたくない」


「俺はちゃんと食うぞ」


「正則は少し食べる量を減らしなさい」


「……はい」


清正が吹き出した。


「何がおかしい」


「いや。お前にも素直に返事ができるのだと思ってな」


「寧々様の言うことだからだ」


「では、俺の言うことも少しは聞け」


「それは嫌だ」


「なぜだ!」


寧々は声を上げて笑った。


だが、その笑いが収まると、ほんのわずかな沈黙が訪れた。


昔なら、ここにもう一つ大きな笑い声が加わっていた。


三人とも、そのことに気づいている。


誰も名前を口にはしなかった。


それでも、同じ人間を思い浮かべていた。


寧々は静かに茶碗を持ち上げる。


「……景継殿のところでは、どうです?」


清正と正則が同時に寧々を見た。


「どう、と申しますと?」


「そのままの意味ですよ。あなたたちが今、どのように過ごしているのかと思いまして」


清正は少し考えてから答えた。


「不自由はございません。兵も預けていただいておりますし、我らの意見にも耳を傾けてくださいます」


「そう」


寧々は今度は正則を見る。


「正則は?」


「俺も同じです。戦場では任せてもらえることも多いですし、言うべきことは言わせてもらっております」


「あなたは言いすぎることもあるのでしょう?」


「……たまに」


「たまにではないだろう」


清正が即座に言った。


「お前だって言ってるだろうが」


「俺は必要なことを言っている」


「俺もだ!」


また始まった。


寧々は止めることなく、どこか懐かしそうに二人のやり取りを眺めていた。


やがて正則が、その視線に気づく。


「……どうされました?」


「いえ」


寧々は小さく笑った。


「少し意外だと思いまして」


「何がです?」


「あなたたち二人が、揃ってこれほど素直に誰かに従っていることが、です」


二人が揃って黙った。


「……俺たち、そんなに人の言うことを聞きませんでしたか?」


正則が恐る恐る尋ねる。


「聞いていたつもりなのですか?」


「……」


「秀吉様の前でも、秀長様の前でも、自分がこうだと思えば簡単には曲げなかったでしょう。戦のこととなれば、なおさらです」


清正が少し困った顔をする。


「若かったのです」


正則がすぐに反応した。


「今も若いぞ」


「そういうところを言われているのだ」


「何だと?」


寧々は堪えきれずに笑った。


「やはり変わっていませんね」


「寧々様……」


清正が苦笑する。


だが寧々は、二人を見ながら少し考えた。


昔からこの二人を知っている。


秀吉を慕ってはいたが、何でも黙って従うような性格ではなかった。秀長に対しても同じだ。


納得できなければ聞く。


言いたいことがあれば言う。


時には叱られても、自分たちの考えを押し通そうとする。


そんな二人が今、景継について話す時には不思議なほど迷いがない。


「景継殿は、あなたたちが何か言っても怒らないのですか?」


正則が少し考える。


「怒るというより……考えますな」


「考える?」


「はい。俺が何か言うと、まず聞いてくれます。それで駄目なら駄目と言われます」


清正も頷いた。


「戦場でも同じです。我らに任せると決めれば任せてくださいます。ただ、退けと言われた時だけは従わねばなりません」


「それで清正が素直に退くのですか?」


寧々が少し驚く。


「……はい」


寧々は今度は正則を見る。


「正則も?」


「まあ……はい」


「珍しいこともあるものですね」


「寧々様、それは少し酷くありませんか?」


「だって、あなたたちでしょう?」


正則は反論しようとして、結局何も言えなかった。


清正が横で笑っている。


「清正もですよ」


「……はい」


今度は正則が笑った。


そんな二人を見ながら、寧々の中に一つの疑問が浮かぶ。


「そこまで景継殿を信じているのですか?」


清正の表情が少し変わった。


「はい」


答えは早かった。


正則も否定しない。


寧々は清正を見つめる。


「すべてを?」


「いえ」


清正は首を振った。


「時折、何を考えているのか分からぬこともあります」


「それで信じられるのですか?」


「分からぬことと、信じられぬことは違います」


寧々の笑みが少し消えた。


清正は真っ直ぐに言った。


「少なくとも、我らの命を軽く扱う方ではありません」


正則も静かに頷いた。


「俺も、それは分かります」


寧々は二人の顔を見比べた。


無理に景継を褒めているようには見えない。


二人が自分たちの目で景継を見て、自分たちなりの答えを出したのだろう。


やがて正則が、ぽつりと口を開いた。


「殿下には、恩があります」


寧々の目が正則へ向く。


「俺も清正も、殿下に引き上げていただきました。それを忘れるつもりはありません」


「……ああ」


清正も頷いた。


「ですが、今は景継様の下におります」


正則は自分の手元へ視線を落とす。


「だから、時々分からなくなるんです。俺たちはこれでいいのかと」


寧々は何も言わなかった。


「俺たちが景継様のところにいることを、寧々様はどう思っておられます?」


清正が横を見る。


「正則」


「いつか聞かねばならんと思っていた」


正則は寧々から目を逸らさなかった。


寧々はしばらく二人を見つめた後、静かに尋ねる。


「あなたたちは、景継殿のところにいることを後悔していますか?」


「しておりません」


清正が答えた。


正則も頷く。


「俺もです」


「なら、それでよいではありませんか」


正則が顔を上げる。


「秀吉様への恩を忘れず、今の主にも誠実に仕える。それの何が悪いのです?」


「ですが……」


「あなたたちが景継殿に仕えることで、私に申し訳ないと思う必要はありません」


寧々は穏やかに言った。


「私は、あなたたちが生きていることの方が大切です」


二人が黙る。


「秀吉様がおられなくなったからといって、あなたたちまでいなくなる必要はないのですよ」


「……寧々様」


「それに」


寧々は少しだけ笑った。


「先ほども言いましたが、あなたたち二人が揃って素直に従っているのでしょう? それなら景継殿という方を、私ももう少し見てみたいと思います」


清正と正則が顔を見合わせた。


「寧々様は……景継様を?」


正則が尋ねる。


寧々はすぐには答えなかった。


庭へ目を向ける。


春を迎えようとする木々が、風に小さく揺れていた。


「正則」


「はい」


「私は、まだ景継殿をどう思えばよいのか分かりません」


正則が口を閉じる。


「今でも、あの方の名を聞けば秀吉様のことを思い出します。忘れることなどできませんし、許したのかと聞かれても……それも、まだ分かりません」


寧々の声は静かだった。


そこに以前のような激しい怒りはない。


だが、悲しみが消えたわけでもなかった。


「でも――」


寧々は二人へ視線を戻した。


「あなたたちが、あの方の下でこうして笑っていられる。それは覚えておこうと思っています」


清正が深く頭を下げた。


正則も続く。


寧々はそんな二人を見て、少し困ったように笑った。


「もう。今日はそのような堅い話をするために来たのではないのでしょう?」


「そうでした」


正則が顔を上げる。


「寧々様の顔を見に来ただけです」


「なら、もっと楽しい話をしてください」


「では清正が昔――」


「おい、待て」


「何だ。面白い話だぞ」


「俺の失敗談だろう」


「寧々様も喜ばれる」


「喜びませんよ」


寧々はそう言いながら、すでに笑っていた。


結局その後も、昔話は尽きなかった。


正則が若い頃に無茶をした話。


清正がそれを止めるどころか一緒になって騒いだ話。


秀長に見つかり、二人揃って叱られた話。


「それは正則が先にやったのです」


「違う! お前が面白そうだと言ったんだろう!」


「私は二人とも悪かったと聞いていますよ」


「……」


「……」


二人が揃って黙る。


寧々は声を上げて笑った。


その笑い声に釣られるように、清正も正則も笑う。


秀吉はいない。


あの頃と同じ日々が戻ることもない。


それでも、失われなかったものもある。


寧々はそう思いながら、目の前の二人を眺めていた。


          ◇


同じ日の夕刻。


景継は一人、書状へ目を通していた。


昨日訪ねてきた真田昌幸のことが、まだ頭の片隅に残っている。


何を考えているのか、最後まで完全には掴めなかった。


ああいう人物は珍しい。


もう一度会うことになるだろうか。


そんなことを考えていた時だった。


「景継様」


廊下から家臣の声が聞こえた。


「どうしました?」


「丹羽様の御屋敷より、使いが参っております」


景継の手が止まった。


長秀。


昨日の評定には姿を見せなかった。


景継との約束どおり休んでいると聞き、少し安心していたのだが――。


「お通ししてください」


「はっ」


間もなく、一人の丹羽家臣が部屋へ入ってきた。


いつもなら落ち着いている男だった。


しかし今日は、座るなり何度も言葉を選んでいる。


「景継様。突然、申し訳ございません」


「構いません。長秀殿のことですね?」


男が顔を上げた。


「……はい」


「何かありましたか?」


「実は……殿からは、景継様には知らせるなと言われております」


景継の眉が動いた。


「私には?」


「大したことではない。数日休めば元に戻るのだから、余計な心配を掛けるなと」


景継は小さく息を吐いた。


いかにも長秀らしい。


「それで、なぜこちらへ?」


男は膝の上で拳を握った。


「我らが、黙っていられなくなりました」


その言葉で、景継の表情が変わる。


「朝からほとんど何も召し上がっておられません。それでも昼には起き上がり、溜まっている書状を確認すると仰られて……」


「止めなかったのですか?」


「お止めしました。ですが殿は、寝ている方が身体に悪いなどと」


景継は額へ手を当てた。


「……言いそうですね」


丹羽家臣も困ったように頷く。


「それで?」


「立ち上がられたのですが……数歩も進まぬうちに、その場に膝をつかれました」


景継の手が止まる。


「長秀殿が?」


「はい。それでも殿は、少し立ち眩みがしただけだと笑っておられます」


景継の脳裏に、評定の日の光景が蘇った。


立ち上がった長秀が、ほんの一瞬だけ畳へ手をついた。


何でもない。


足が痺れただけだ。


あの時もそう言って笑っていた。


「医師には?」


「診ていただきました。薬も出されております」


「では、休まれているのですね?」


男が黙った。


その反応だけで分かった。


「……休んでいないのですか」


「床には入っていただいたのですが、書状を持ってこいと」


「渡したのですか?」


「渡しておりません」


「それはよかったです」


「ですが、今度は自分で取りに行くと言い出されまして……」


景継は目を閉じた。


一益なら怒鳴る。


恒興なら呆れる。


自分はどうするだろう。


考えるまでもなかった。


「それで、私のところへ来たのですね」


「申し訳ございません」


男が深く頭を下げる。


「我らが何を申し上げても、殿は『大袈裟だ』の一点張りでございます。景継様から一言仰っていただければ、少しは……」


「どうでしょう」


景継は困ったように笑った。


「私の言うことなら聞く、という保証はありませんよ」


丹羽家臣が一瞬黙った。


「……それでも、我らよりは」


その答えに、景継も少しだけ笑った。


「分かりました。行きましょう」


「ありがとうございます」


景継は立ち上がる。


二日前。


『お前は妙なところで頑固だな』


そう言った長秀の顔を思い出す。


「まったく……」


景継は歩き出しながら小さく呟いた。


「人のことを頑固だと言える方ではないでしょうに」


けれど。


部屋を出る頃には、その顔から笑みは消えていた。


評定で見た乾いた咳。


冴えない顔色。


畳へついた手。


そして今日、立っていることさえできなかったという。


ただの疲れなら、それでいい。


長秀自身が言うように、数日休めば元へ戻るのならそれが一番いい。


景継はそう思いながら、自然と足を速めていた。


丹羽長秀の屋敷へ向かうために。



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