第二百三十話 変わらぬ縁
天正十三年三月。
「寧々様、お久しゅうございます!」
屋敷の中まで響きそうな声に、寧々は思わず苦笑した。
「正則。もう少し静かに入ってこられないのですか」
「申し訳ございません!」
謝っているというのに、声の大きさはほとんど変わっていない。
その隣で、加藤清正が呆れたように息を吐いた。
「だから道中で言っただろう。寧々様の前くらい静かにしろと」
「お前に言われたくないわ」
「俺はお前ほど騒がん」
「何だと?」
「二人とも」
寧々が名前すら呼ばずに声を掛けただけで、二人は揃って口を閉じた。
その様子がおかしくて、寧々は笑った。
「本当に変わりませんね、あなたたちは」
清正と正則が顔を見合わせる。
かつては、こんな光景が当たり前だった。
秀吉がいて、秀長がいて、清正や正則たちが騒いでいる。誰かが無茶をすれば寧々が叱り、それでも収まらなければ秀長が間に入り、秀吉はそんな様子を見ながら誰より大きな声で笑っていた。
あの頃は、それがなくなる日など考えたこともなかった。
「さあ、座りなさい。せっかく来たのですから」
「はい」
二人が腰を下ろす。
用意されていた茶と菓子が運ばれてくると、正則は早速、菓子へ目を向けた。
「これ、食べてもよろしいですか?」
「そのために出したのですよ」
「いただきます!」
正則が手を伸ばす。
「お前は少し遠慮しろ」
そう言いながら清正も一つ取った。
寧々がその手元を見て笑う。
「清正も食べているではありませんか」
「ほら見ろ」
「お前と一緒にするな」
「食ってることには変わらんだろうが」
昔と変わらない。
寧々は二人を眺めながら、自然と頬が緩んでいくのを感じていた。
それからしばらくは、他愛のない話が続いた。
西国から戻って何をしているのか。怪我は残っていないか。きちんと食事を取っているのか。
寧々が尋ねることは昔と大して変わらない。
二人がどれほど多くの兵を率いる武将になっても、寧々にとっては昔から知る二人だった。
「清正」
「はい」
「少し痩せましたね?」
「そのようなことはございません」
「本当に?」
「はい」
「こいつは戦になると飯を忘れますからな」
正則が横から口を挟む。
清正が眉を寄せた。
「お前にだけは言われたくない」
「俺はちゃんと食うぞ」
「正則は少し食べる量を減らしなさい」
「……はい」
清正が吹き出した。
「何がおかしい」
「いや。お前にも素直に返事ができるのだと思ってな」
「寧々様の言うことだからだ」
「では、俺の言うことも少しは聞け」
「それは嫌だ」
「なぜだ!」
寧々は声を上げて笑った。
だが、その笑いが収まると、ほんのわずかな沈黙が訪れた。
昔なら、ここにもう一つ大きな笑い声が加わっていた。
三人とも、そのことに気づいている。
誰も名前を口にはしなかった。
それでも、同じ人間を思い浮かべていた。
寧々は静かに茶碗を持ち上げる。
「……景継殿のところでは、どうです?」
清正と正則が同時に寧々を見た。
「どう、と申しますと?」
「そのままの意味ですよ。あなたたちが今、どのように過ごしているのかと思いまして」
清正は少し考えてから答えた。
「不自由はございません。兵も預けていただいておりますし、我らの意見にも耳を傾けてくださいます」
「そう」
寧々は今度は正則を見る。
「正則は?」
「俺も同じです。戦場では任せてもらえることも多いですし、言うべきことは言わせてもらっております」
「あなたは言いすぎることもあるのでしょう?」
「……たまに」
「たまにではないだろう」
清正が即座に言った。
「お前だって言ってるだろうが」
「俺は必要なことを言っている」
「俺もだ!」
また始まった。
寧々は止めることなく、どこか懐かしそうに二人のやり取りを眺めていた。
やがて正則が、その視線に気づく。
「……どうされました?」
「いえ」
寧々は小さく笑った。
「少し意外だと思いまして」
「何がです?」
「あなたたち二人が、揃ってこれほど素直に誰かに従っていることが、です」
二人が揃って黙った。
「……俺たち、そんなに人の言うことを聞きませんでしたか?」
正則が恐る恐る尋ねる。
「聞いていたつもりなのですか?」
「……」
「秀吉様の前でも、秀長様の前でも、自分がこうだと思えば簡単には曲げなかったでしょう。戦のこととなれば、なおさらです」
清正が少し困った顔をする。
「若かったのです」
正則がすぐに反応した。
「今も若いぞ」
「そういうところを言われているのだ」
「何だと?」
寧々は堪えきれずに笑った。
「やはり変わっていませんね」
「寧々様……」
清正が苦笑する。
だが寧々は、二人を見ながら少し考えた。
昔からこの二人を知っている。
秀吉を慕ってはいたが、何でも黙って従うような性格ではなかった。秀長に対しても同じだ。
納得できなければ聞く。
言いたいことがあれば言う。
時には叱られても、自分たちの考えを押し通そうとする。
そんな二人が今、景継について話す時には不思議なほど迷いがない。
「景継殿は、あなたたちが何か言っても怒らないのですか?」
正則が少し考える。
「怒るというより……考えますな」
「考える?」
「はい。俺が何か言うと、まず聞いてくれます。それで駄目なら駄目と言われます」
清正も頷いた。
「戦場でも同じです。我らに任せると決めれば任せてくださいます。ただ、退けと言われた時だけは従わねばなりません」
「それで清正が素直に退くのですか?」
寧々が少し驚く。
「……はい」
寧々は今度は正則を見る。
「正則も?」
「まあ……はい」
「珍しいこともあるものですね」
「寧々様、それは少し酷くありませんか?」
「だって、あなたたちでしょう?」
正則は反論しようとして、結局何も言えなかった。
清正が横で笑っている。
「清正もですよ」
「……はい」
今度は正則が笑った。
そんな二人を見ながら、寧々の中に一つの疑問が浮かぶ。
「そこまで景継殿を信じているのですか?」
清正の表情が少し変わった。
「はい」
答えは早かった。
正則も否定しない。
寧々は清正を見つめる。
「すべてを?」
「いえ」
清正は首を振った。
「時折、何を考えているのか分からぬこともあります」
「それで信じられるのですか?」
「分からぬことと、信じられぬことは違います」
寧々の笑みが少し消えた。
清正は真っ直ぐに言った。
「少なくとも、我らの命を軽く扱う方ではありません」
正則も静かに頷いた。
「俺も、それは分かります」
寧々は二人の顔を見比べた。
無理に景継を褒めているようには見えない。
二人が自分たちの目で景継を見て、自分たちなりの答えを出したのだろう。
やがて正則が、ぽつりと口を開いた。
「殿下には、恩があります」
寧々の目が正則へ向く。
「俺も清正も、殿下に引き上げていただきました。それを忘れるつもりはありません」
「……ああ」
清正も頷いた。
「ですが、今は景継様の下におります」
正則は自分の手元へ視線を落とす。
「だから、時々分からなくなるんです。俺たちはこれでいいのかと」
寧々は何も言わなかった。
「俺たちが景継様のところにいることを、寧々様はどう思っておられます?」
清正が横を見る。
「正則」
「いつか聞かねばならんと思っていた」
正則は寧々から目を逸らさなかった。
寧々はしばらく二人を見つめた後、静かに尋ねる。
「あなたたちは、景継殿のところにいることを後悔していますか?」
「しておりません」
清正が答えた。
正則も頷く。
「俺もです」
「なら、それでよいではありませんか」
正則が顔を上げる。
「秀吉様への恩を忘れず、今の主にも誠実に仕える。それの何が悪いのです?」
「ですが……」
「あなたたちが景継殿に仕えることで、私に申し訳ないと思う必要はありません」
寧々は穏やかに言った。
「私は、あなたたちが生きていることの方が大切です」
二人が黙る。
「秀吉様がおられなくなったからといって、あなたたちまでいなくなる必要はないのですよ」
「……寧々様」
「それに」
寧々は少しだけ笑った。
「先ほども言いましたが、あなたたち二人が揃って素直に従っているのでしょう? それなら景継殿という方を、私ももう少し見てみたいと思います」
清正と正則が顔を見合わせた。
「寧々様は……景継様を?」
正則が尋ねる。
寧々はすぐには答えなかった。
庭へ目を向ける。
春を迎えようとする木々が、風に小さく揺れていた。
「正則」
「はい」
「私は、まだ景継殿をどう思えばよいのか分かりません」
正則が口を閉じる。
「今でも、あの方の名を聞けば秀吉様のことを思い出します。忘れることなどできませんし、許したのかと聞かれても……それも、まだ分かりません」
寧々の声は静かだった。
そこに以前のような激しい怒りはない。
だが、悲しみが消えたわけでもなかった。
「でも――」
寧々は二人へ視線を戻した。
「あなたたちが、あの方の下でこうして笑っていられる。それは覚えておこうと思っています」
清正が深く頭を下げた。
正則も続く。
寧々はそんな二人を見て、少し困ったように笑った。
「もう。今日はそのような堅い話をするために来たのではないのでしょう?」
「そうでした」
正則が顔を上げる。
「寧々様の顔を見に来ただけです」
「なら、もっと楽しい話をしてください」
「では清正が昔――」
「おい、待て」
「何だ。面白い話だぞ」
「俺の失敗談だろう」
「寧々様も喜ばれる」
「喜びませんよ」
寧々はそう言いながら、すでに笑っていた。
結局その後も、昔話は尽きなかった。
正則が若い頃に無茶をした話。
清正がそれを止めるどころか一緒になって騒いだ話。
秀長に見つかり、二人揃って叱られた話。
「それは正則が先にやったのです」
「違う! お前が面白そうだと言ったんだろう!」
「私は二人とも悪かったと聞いていますよ」
「……」
「……」
二人が揃って黙る。
寧々は声を上げて笑った。
その笑い声に釣られるように、清正も正則も笑う。
秀吉はいない。
あの頃と同じ日々が戻ることもない。
それでも、失われなかったものもある。
寧々はそう思いながら、目の前の二人を眺めていた。
◇
同じ日の夕刻。
景継は一人、書状へ目を通していた。
昨日訪ねてきた真田昌幸のことが、まだ頭の片隅に残っている。
何を考えているのか、最後まで完全には掴めなかった。
ああいう人物は珍しい。
もう一度会うことになるだろうか。
そんなことを考えていた時だった。
「景継様」
廊下から家臣の声が聞こえた。
「どうしました?」
「丹羽様の御屋敷より、使いが参っております」
景継の手が止まった。
長秀。
昨日の評定には姿を見せなかった。
景継との約束どおり休んでいると聞き、少し安心していたのだが――。
「お通ししてください」
「はっ」
間もなく、一人の丹羽家臣が部屋へ入ってきた。
いつもなら落ち着いている男だった。
しかし今日は、座るなり何度も言葉を選んでいる。
「景継様。突然、申し訳ございません」
「構いません。長秀殿のことですね?」
男が顔を上げた。
「……はい」
「何かありましたか?」
「実は……殿からは、景継様には知らせるなと言われております」
景継の眉が動いた。
「私には?」
「大したことではない。数日休めば元に戻るのだから、余計な心配を掛けるなと」
景継は小さく息を吐いた。
いかにも長秀らしい。
「それで、なぜこちらへ?」
男は膝の上で拳を握った。
「我らが、黙っていられなくなりました」
その言葉で、景継の表情が変わる。
「朝からほとんど何も召し上がっておられません。それでも昼には起き上がり、溜まっている書状を確認すると仰られて……」
「止めなかったのですか?」
「お止めしました。ですが殿は、寝ている方が身体に悪いなどと」
景継は額へ手を当てた。
「……言いそうですね」
丹羽家臣も困ったように頷く。
「それで?」
「立ち上がられたのですが……数歩も進まぬうちに、その場に膝をつかれました」
景継の手が止まる。
「長秀殿が?」
「はい。それでも殿は、少し立ち眩みがしただけだと笑っておられます」
景継の脳裏に、評定の日の光景が蘇った。
立ち上がった長秀が、ほんの一瞬だけ畳へ手をついた。
何でもない。
足が痺れただけだ。
あの時もそう言って笑っていた。
「医師には?」
「診ていただきました。薬も出されております」
「では、休まれているのですね?」
男が黙った。
その反応だけで分かった。
「……休んでいないのですか」
「床には入っていただいたのですが、書状を持ってこいと」
「渡したのですか?」
「渡しておりません」
「それはよかったです」
「ですが、今度は自分で取りに行くと言い出されまして……」
景継は目を閉じた。
一益なら怒鳴る。
恒興なら呆れる。
自分はどうするだろう。
考えるまでもなかった。
「それで、私のところへ来たのですね」
「申し訳ございません」
男が深く頭を下げる。
「我らが何を申し上げても、殿は『大袈裟だ』の一点張りでございます。景継様から一言仰っていただければ、少しは……」
「どうでしょう」
景継は困ったように笑った。
「私の言うことなら聞く、という保証はありませんよ」
丹羽家臣が一瞬黙った。
「……それでも、我らよりは」
その答えに、景継も少しだけ笑った。
「分かりました。行きましょう」
「ありがとうございます」
景継は立ち上がる。
二日前。
『お前は妙なところで頑固だな』
そう言った長秀の顔を思い出す。
「まったく……」
景継は歩き出しながら小さく呟いた。
「人のことを頑固だと言える方ではないでしょうに」
けれど。
部屋を出る頃には、その顔から笑みは消えていた。
評定で見た乾いた咳。
冴えない顔色。
畳へついた手。
そして今日、立っていることさえできなかったという。
ただの疲れなら、それでいい。
長秀自身が言うように、数日休めば元へ戻るのならそれが一番いい。
景継はそう思いながら、自然と足を速めていた。
丹羽長秀の屋敷へ向かうために。




