第二百二十九話 真田昌幸
天正十三年三月。
丹羽長秀が珍しく評定へ姿を見せなかった翌日。
景継のもとへ、一人の来客があることが伝えられた。
「真田昌幸殿?」
聞き返した景継に、取り次ぎに来た家臣が頷く。
「はい。信濃より参られたとのことです」
景継は手にしていた書状を置いた。
真田昌幸。
その名を知らぬ者は、今の信濃では少ないだろう。
武田家が滅び、織田家が信濃へ勢力を広げ、その織田信長もすでにこの世にはいない。わずかな間に主を失い、情勢が何度も塗り替わる中、真田は北条、上杉、徳川といった大勢力に囲まれながら、それでも家を残してきた。
そして今、その真田家は徳川家康との間に大きな問題を抱えている。
沼田。
上野東部の要地を巡る問題だった。
「供の者は?」
「ごくわずかです。正式な使者としてではなく、景継様と直接話がしたいとのことで」
「私と……」
景継は少し考えた。
これまで昌幸と深い付き合いがあったわけではない。
まして今は、徳川と真田の関係が揺れている最中である。
その本人が、自らここまでやって来た。
(……面白い方ですね)
「お通ししてください」
「はっ」
家臣が下がっていく。
景継は机の上の書状を片付けながら、改めて考えた。
昌幸が何を求めているのか。
援軍。
仲介。
同盟。
あるいは――。
(私を見に来たのでしょうか)
まだ分からない。
だからこそ、会ってみたかった。
◇
しばらくして、男が部屋へ通された。
「真田安房守昌幸にございます」
静かな声だった。
景継が最初に感じたのは、思っていたよりも穏やかな男だということだった。
威圧するわけでもない。
必要以上にへりくだるわけでもない。
ただ、その目だけがよく動く。
部屋へ入った時。
景継を見た時。
座る場所を確認した時。
ほんの一瞬ずつ、周囲を見ている。
「林道景継です。遠いところを、よくお越しくださいました」
「突然押しかけた身に、そのように言っていただけるとはありがたい」
「私も昌幸殿とは一度お話ししてみたいと思っていました」
昌幸の眉がわずかに動いた。
「それは光栄ですな」
「ただ――」
景継は昌幸を見る。
「今、この時期に来られるとは思っていませんでした」
昌幸の口元に笑みが浮かんだ。
「やはり、ご存じでしたか」
「徳川殿とのことですか?」
「ええ」
それ以上、昌幸は言わなかった。
景継も急かさない。
しばらくして茶が運ばれてきた。
昌幸は一口だけ飲み、静かに茶碗を置く。
「景継殿」
「はい」
「一つ、お尋ねしてもよろしいですかな」
「もちろんです」
昌幸は少し身を乗り出した。
「徳川殿より、真田が持つ沼田を北条へ渡せと言われたならば――景継殿なら、どうなさいます?」
随分と真っ直ぐな問いだった。
景継はすぐには答えなかった。
沼田。
昌幸がわざわざここまで来た理由は、やはりそこにあったらしい。
徳川と北条の間で交わされた取り決め。
その中で、真田の持つ土地が動かされようとしている。
しかも北条氏政は――。
楓の父。
景継にとって義父にあたる。
「難しいことを聞きますね」
「だからこそ、景継殿にお尋ねしております」
「私と北条家の関係をご存じでしょう?」
「もちろん」
昌幸は笑った。
「氏政殿は、景継殿の義父でございましょう」
「それを知った上で聞くのですか?」
「知っているからこそ、です」
景継は目の前の男を見つめた。
(……なるほど)
北条と縁のない者へ尋ねても意味がない。
真田の立場だけに寄り添う答えなら、昌幸は聞く必要がないのだろう。
「昌幸殿」
「はい」
「先に一つ、私から聞いてもよろしいですか?」
「何なりと」
「沼田を手放すつもりはありますか?」
昌幸は答えなかった。
笑みも消えない。
ただ、ほんのわずかに目が細くなる。
「……それを先に聞かれますか」
「大切なことですから」
「私が『手放してもよい』と申せば?」
「その場合と、絶対に手放さない場合では、話がまったく変わります」
「なるほど」
昌幸が小さく笑った。
「では、手放すつもりはないと申し上げましょう」
「分かりました」
景継はあっさり頷いた。
今度は昌幸が少し驚いたようだった。
「理由は聞かれないので?」
「必要ですか?」
「普通は聞くでしょうな」
「昌幸殿が必要だと考えているから、手放さないのでしょう。それが領地のためなのか、家臣のためなのか、真田家のためなのか。それとも徳川殿に従って一度譲れば、次も求められると考えているのか」
そこで一度言葉を切った。
「おそらく、一つではないでしょう」
昌幸の笑みが少し深くなる。
「……やはり面白い方ですな」
「まだ何も答えていませんよ」
「ええ。だから面白い」
景継は少し困ったように息を吐いた。
「私ならどうするか、でしたね」
「はい」
「私なら――」
景継は茶碗へ手を伸ばした。
一口飲んでから、静かに置く。
「まず、相手が何を欲しがっているのかを考えます」
「徳川殿が?」
「徳川殿も。北条も。そして真田もです」
昌幸は黙って聞いている。
「沼田という土地だけを見れば、答えを間違えるかもしれません。徳川殿が欲しいのは沼田ではない。北条との関係を保つこと。そのために必要なものとして、沼田を見ているのでしょう」
「でしょうな」
「北条は沼田を欲しがっている。そして昌幸殿は手放したくない」
「はい」
「ならば、誰か一人が我慢しなければ、そのままでは収まりません」
昌幸が小さく頷く。
「景継殿なら、我慢なさいますか?」
「嫌ですね」
あまりに早い返答に、昌幸が一瞬黙った。
景継は続ける。
「自分が苦労して得たものを、当事者でもない者同士の約束で渡せと言われれば、私も腹が立つと思います」
昌幸の目が変わった。
ほんの少しだけ。
それまで景継を探るようだった視線に、別の色が混じる。
「氏政殿がお聞きになれば、気を悪くされますぞ」
「でしょうね」
「よろしいので?」
「義父だからといって、すべての考えが同じになるわけではありません」
景継は穏やかに答えた。
「ただし――腹が立つことと、戦うことは別です」
昌幸の表情から笑みが消えた。
「……ほう」
「戦えば人が死にます。真田の者も、徳川の者もです。だから私なら、腹が立ったからという理由だけでは戦いません」
「では、沼田を渡す?」
「それも嫌です」
昌幸が今度こそ笑った。
「随分と欲張りですな」
「よく言われます」
「では、どうするのです?」
景継は少し考えた。
「時間を稼ぎます」
「時間?」
「はい。徳川殿が北条との関係を必要としている間は、沼田を求めてくるでしょう。しかし、天下の情勢は変わります。今日必要なものが、半年後も同じ価値とは限りません」
昌幸は黙っている。
「それに、徳川殿が本当に真田と戦うつもりなのかも見極めます。戦えば徳川側にも負担が出る。信濃で兵を動かしている間に、別の場所で何かが起こるかもしれない」
「別の場所とは?」
「さて」
景継が微笑む。
昌幸もそれ以上は聞かなかった。
「つまり、すぐには答えを出さぬと」
「私なら、ですが」
「待つわけですな」
その言葉に景継は少しだけ目を細めた。
「待つだけではありません」
「ほう?」
「待っている間に、選べる道を増やします」
昌幸の視線が鋭くなる。
「徳川と話を続ける。北条とも話す。必要なら上杉とも話す。自分一人で守れないなら、相手が簡単には手を出せない理由を作る」
「……」
「一つの道しか残っていなければ、その道を塞がれた時に終わりますから」
部屋が静かになった。
昌幸は景継を見ていた。
景継もまた、昌幸を見る。
やがて昌幸が口を開いた。
「景継殿」
「はい」
「もし真田と徳川が戦うことになれば、林道家はどうなさる?」
来た。
景継はそう思った。
今日の本当の問いは、おそらくこちらだ。
「今のところ、兵を出すつもりはありません」
昌幸は表情を変えなかった。
「真田にも?」
「徳川にもです」
「北条から頼まれても?」
「内容によります」
「氏政殿からでも?」
「同じです」
景継は即答した。
「私は林道家の当主です。義父だからという理由だけで兵を動かすことはできません」
昌幸がゆっくり頷いた。
落胆した様子はない。
むしろ――。
(やはり、援軍を求めに来たわけではありませんね)
景継の中で、その考えが強くなった。
「昌幸殿」
「何でしょう」
「私に相談するためだけに、ここまで来られたのですか?」
初めて、昌幸が少し楽しそうに笑った。
「いけませんかな?」
「いけないとは言いません。ただ、昌幸殿ほどの方が、見ず知らずに近い私の考えを聞くためだけに来るとは思えません」
「では、何をしに来たと思われます?」
景継は昌幸を見る。
援軍ではない。
臣従でもない。
仲介を頼む様子もない。
ならば。
「……私を見に来ましたか?」
昌幸の笑みが止まった。
ほんの一瞬だった。
すぐに元へ戻る。
「そう見えましたか」
「違いますか?」
「さて」
昌幸は答えなかった。
景継も、それ以上は追わない。
しばらく沈黙が続いた。
不思議と居心地の悪い沈黙ではなかった。
互いに相手を見ている。
言葉より、その裏側を探している。
だが――。
(……読みにくい)
景継は久しぶりに、そんな感覚を覚えていた。
何かを隠しているのは分かる。
だが、何をどこまで隠しているのかが見えない。
笑ったから喜んでいるとも限らない。
黙ったから困っているとも限らない。
言葉を選んでいるようで、わざと選んでいないようにも見える。
昌幸が立ち上がった。
「今日はよい話を聞けました」
「お役に立てたかは分かりませんが」
「十分に」
「そうですか」
「景継殿」
「はい」
昌幸は少しだけ振り返った。
「一つだけ、最後に」
「何でしょう」
「景継殿は、徳川殿をどういう方だと思っておられる?」
景継は少し考えた。
家康。
これまで何度も名を聞き、その動きを見てきた男。
「……待てる方だと思っています」
昌幸の目が細くなる。
「景継殿と同じですかな?」
「どうでしょう」
景継はわずかに笑った。
「だからこそ、気になるのかもしれません」
昌幸は何も答えなかった。
ただ一度だけ頭を下げ、部屋を出ていった。
◇
屋敷を出た昌幸は、待たせていた供の者と合流した。
「殿、いかがでございましたか」
尋ねられても、昌幸はすぐには答えなかった。
少し歩いてから、ようやく口を開く。
「面白い男だった」
「林道様が?」
「ああ」
昌幸は振り返らない。
「こちらが何をするべきか、最後まで答えなかった」
「では、何のためにここまで……」
「だからよいのだ」
供の者が不思議そうな顔をする。
昌幸は小さく笑った。
「人の家の行く末を、簡単に決める男ではなかった。それが分かっただけでも十分だ」
そして、少し間を置く。
「それに――」
昌幸の脳裏に、先ほどの言葉が蘇る。
待っている間に、選べる道を増やす。
「俺と似ているようで、随分と違う」
「は?」
「いや。何でもない」
昌幸は前を向いた。
徳川。
北条。
上杉。
そして林道。
真田を囲む者たちは、どれも真田より遥かに大きい。
ならば、その間をどう生きるか。
答えはまだ出ていない。
いや。
初めから、一つに決める必要などないのかもしれない。
昌幸は歩きながら、わずかに口元を上げた。
◇
同じ頃。
景継は一人、昌幸が座っていた場所を見つめていた。
「……真田昌幸殿、ですか」
変わった男だった。
何を考えているのか、最後まで掴み切れなかった。
援軍を求めるでもない。
味方になれとも言わない。
徳川との仲介すら頼まなかった。
ただ、自分ならどうするのかを聞きに来た。
そしておそらく――景継がどのような人間なのかを確かめて帰っていった。
「面白い方ですね」
景継は小さく笑った。
この時はまだ知らない。
今日出会った真田昌幸という男が、この先何度も徳川を悩ませることも。
そしてずっと先。
天下の行方を左右する局面で、景継自身がこの男の決断を待つことになることも。
それは、まだ遠い先の話だった。




