第二百二十八話 長秀の異変
天正十三年三月。
「一益殿。先ほどから、まったく話を聞いていませんね」
景継が声を掛けると、滝川一益は腕を組んだまま眉を上げた。
「聞いておる」
「では、三成が今話していたことを言ってみてください」
「……春からの普請についてだろう」
「その話はもう終わりました」
一益の隣で、池田恒興が堪えきれずに吹き出した。
「一益、お前やっぱり聞いてねえじゃねえか」
「うるさい。だいたいな、こういう細かい話は三成に任せておけばよかろう」
「その三成が、一番嫌そうな顔をしていますよ」
景継が視線を向けると、石田三成は案の定、眉間に皺を寄せていた。
「一益殿にも確認していただかなければ困ります。後になって聞いていないと言われましても、私は知りませんぞ」
「俺がいつそんなことを言った」
「以前にもございました」
「覚えておらん」
「でしょうな」
淡々と返す三成に、恒興がまた笑う。
その向かいでは、丹羽長秀も肩を揺らしていた。
「諦めろ、一益。昔からお前は、戦の話でなければ途端に落ち着きがなくなる」
「長秀にだけは言われたくない」
「俺はちゃんと聞いておるぞ」
「本当か?」
「試してみるか?」
「よし。なら――」
「やめてください。話が進みません」
景継が二人を止めると、今度は長秀が声を上げて笑った。
こうして同じ部屋に集まり、くだらないことで言い合う。
信長がいた頃から何度見てきただろう。
立場も領地も、背負うものも変わった。それでも一益、長秀、恒興が揃えば、不思議と昔と変わらない空気になる。
景継にとって、それは嫌いではなかった。
「では三成、続きをお願いします」
「はい。次ですが――」
「――ごほっ」
小さな咳が聞こえた。
三成の声に重なるほどの、ほんのわずかなものだった。
景継が顔を上げる。
長秀が袖で口元を覆っていた。
「長秀殿?」
「ん?」
「大丈夫ですか?」
長秀は何を聞かれたのか分からないという顔をした後、すぐに笑った。
「咳のことか。この程度、何でもない」
「そうですか」
「ああ。三成、続けてくれ」
三成も一度長秀を見たが、本人がそう言う以上、そこで話を止める理由もない。
評定はそのまま続いた。
景継も手元の書付へ視線を戻す。
ただ、少しだけ気になった。
咳そのものではない。
長秀の顔色だった。
(……少し悪いですね)
青ざめているというほどではない。
初めて会った者なら、まず気づかないだろう。
しかし長秀とは長い付き合いになる。
戦場で泥まみれになった姿も、酒を飲んで上機嫌になった姿も、徹夜で軍議を続けて目の下に隈を作った姿も見てきた。
だからこそ、ほんのわずかな違いが目についた。
いつもより顔色が冴えない。
それに――。
長秀がゆっくりと息を吐いた。
誰にも気づかれないようにしたのだろう。
だが、その直後に膝へ置いた手へ力が入ったのを、景継は見逃さなかった。
「……」
景継は何も言わなかった。
長秀も何事もなかったように三成の話を聞いている。
やがて話題が変わり、一益が口を挟んだ。
「それなら俺のところから人を出せるぞ」
「一益殿」
「何だ」
「今の話、聞いていたのですね」
「馬鹿にしておるのか?」
「少しだけ見直しました」
「お前な……」
恒興が声を上げて笑った。
長秀も笑う。
しかしその笑い声は途中で途切れた。
「ごほっ……ごほっ」
先ほどよりも強い。
長秀は顔を背け、何度か咳き込んだ。
さすがに一益も笑うのをやめた。
「おい、長秀。本当に大丈夫なのか?」
「だから大したことはないと言っておる」
「さっきから咳ばかりしておるではないか」
「少し喉を痛めただけだ」
「なら医師に診せろ」
「一益に身体の心配をされるとはな。明日は雪でも降るかもしれん」
「馬鹿を言え。俺より先にくたばられては寝覚めが悪いだけだ」
「それはこちらの台詞だ」
二人はいつもの調子で笑った。
けれど景継は笑わなかった。
「長秀殿」
「何だ?」
「今日はもう休まれてはどうですか」
長秀の眉がわずかに動いた。
「まだ評定の途中だろう」
「残りは急ぐ話ではありません」
「俺なら平気だ」
「そう見えません」
その一言で、部屋が少し静かになった。
長秀が景継を見る。
景継も視線を逸らさなかった。
しばらくして、長秀が苦笑した。
「お前は妙なところで頑固だな」
「長秀殿に言われたくありません」
「言うようになったものだ」
「昔から言っているつもりですが」
「いや。昔はもう少し可愛げがあった」
「それは初めて聞きました」
一益が鼻で笑う。
「長秀。諦めろ。こいつはこうなったら聞かん」
「一益殿に言われると腹が立ちますね」
「なぜだ」
また空気が緩んだ。
長秀は仕方なさそうに息を吐くと、膝へ手をついた。
「分かった。では今日は先に――」
立ち上がりかけた身体が止まった。
ほんの一瞬。
長秀の片手が畳につく。
「……長秀殿?」
景継が立ち上がった時には、長秀はすでに身体を起こしていた。
「何でもない」
「今――」
「足が痺れただけだ」
そう言って笑う。
一益と恒興は顔を見合わせたものの、長秀は何事もなかったように立っている。
「ほらな。問題ない」
「……」
景継だけは、その言葉をそのまま受け取れなかった。
「では、俺は先に戻る。年寄りは若い者の言うことを聞いて休むとしよう」
「誰が若い者ですか」
「少なくとも俺よりは若いだろう」
長秀は笑い、一益と恒興へ軽く手を上げる。
そのまま部屋を出ようとした。
「長秀殿」
景継が呼び止める。
「何だ?」
「少し、お話があります」
長秀は一瞬だけ目を細めた。
景継の顔を見て何かを察したらしい。
「……分かった」
二人は連れ立って廊下へ出た。
少し歩いたところで、景継が足を止める。
「いつからですか」
長秀は振り返った。
「何がだ?」
「身体の具合です」
「だから、何でもないと言っておるだろう」
「私にはそう見えません」
「景継」
「長秀殿」
声を荒らげたわけではない。
それでも長秀は、景継が引くつもりがないことを理解したらしい。
しばらく黙った後、小さく息を吐いた。
「……十日ほど前からだ」
「十日?」
「ああ。少し身体が重い。咳も出る。それだけだ」
「それだけではないでしょう」
「何を根拠に言っておる」
「食事は?」
長秀が黙った。
それだけで答えになった。
「食べられていないのですか」
「食えぬわけではない。ただ、以前ほど腹が減らんだけだ」
「眠れては?」
「質問が多いぞ」
「医師には診てもらいましたか?」
また沈黙。
景継は小さく息を吐いた。
「診てもらっていないのですね」
「この程度でいちいち医師を呼んでいては、それこそ年寄り扱いされる」
「誰もそのようなことは言っていません」
「お前たちの顔が言っておった」
「では、私だけが言っていることにしてください」
「何をだ」
「医師に診てもらってください」
長秀が呆れたように景継を見る。
「大袈裟だ」
「大袈裟で結構です」
「ただの疲れかもしれんぞ」
「それなら、それで安心できます」
長秀が言葉を止めた。
景継は静かに続ける。
「何もなければ、私が心配しすぎただけです。それで済むなら、その方がいいでしょう」
長秀はしばらく景継を見つめていた。
やがて諦めたように笑った。
「……分かった。診てもらう」
「本当ですね?」
「疑うな」
「長秀殿は時々、平気な顔で誤魔化しますから」
「お前にだけは言われたくないな」
それには景継も返す言葉がなかった。
長秀が小さく笑う。
「明日には元気な顔を見せてやる。それなら文句はないだろう」
「明日は来なくて結構です」
「何?」
「休んでください」
「評定があるだろう」
「一日くらい、長秀殿がいなくても何とかなります」
「随分な言い草だな」
「毎日来られる方だから、こうでも言わなければ休まないでしょう」
「まったく……」
長秀は呆れたように首を振った。
だが、その表情はどこか嬉しそうでもあった。
「分かった。明日は休む」
「約束ですよ」
「ああ」
長秀はそう答えると、今度こそ歩き出した。
景継はその背中を見送る。
いつもと変わらない歩き方だった。
背筋も伸びている。
何度も同じ戦場に立ち、信長の時代から今日まで生き抜いてきた丹羽長秀。
まだ元気でいることが当たり前だと、どこかで思っていた。
だからこそ。
今日見た小さな異変が、妙に胸に残った。
「……何もなければいいのですが」
景継はそう呟き、評定の間へ戻っていった。
◇
その日の夕刻。
屋敷へ戻った長秀は、自室へ向かう途中で足を止めた。
人の姿がないことを確かめるように周囲を見る。
次の瞬間。
「ごほっ……ごほっ、ごほっ……!」
激しい咳が込み上げた。
長秀は壁へ手をついた。
息が苦しい。
胸の奥が重い。
しばらく身体を丸め、ようやく咳が収まったところで、ゆっくりと息を吐く。
「……まいったな」
誰もいない廊下で呟いた。
景継には十日ほど前からと言った。
だが本当は、もう少し前から違和感はあった。
朝になっても身体の重さが抜けない。
食欲も落ちている。
以前なら何ともなかった距離を歩いただけで、妙に疲れることも増えた。
長秀自身、気づいていなかったわけではない。
ただ――認めたくなかった。
自分はまだ働ける。
まだやるべきことが残っている。
そして何より。
脳裏に一人の少年の顔が浮かぶ。
長重。
まだ若い。
丹羽家を背負わせるには、教えておきたいことがあまりにも多かった。
その下にも、幼い弟たちがいる。
「……まだ早いだろう」
長秀は誰にともなく呟いた。
何が早いのか。
その言葉の意味を、自分自身が一番よく分かっていた。
しばらく壁へ手をついていた長秀は、やがてゆっくりと身体を起こす。
そして何事もなかったように歩き始めた。
明日は休むと景継に約束した。
ならば一日くらいは休んでやろう。
その程度で元に戻る。
長秀は、そう思うことにした。
だが。
胸の奥に残る重さだけは、いつまで経っても消えてくれなかった。




