第二百二十七話 父として
官兵衛が帰った日の夕刻。
景継も、いつもより早く政務を切り上げた。
徳川と真田の間に不穏な動きがあるとの知らせは気になっている。だが、まだ両家が兵をぶつけたわけでもなければ、林道家が動かなければならない理由もない。
詳しいことは探らせている。
今は、それで十分だった。
廊下を歩きながら、景継はふと自分の手を見る。
何も持っていない。
書状もなければ、地図もない。軍議で使う扇も、誰かに渡す命令書もなかった。
ただ自分の部屋へ戻っているだけなのだが、長く戦場にいたせいか、それすら妙な感覚だった。
部屋の近くまで来たところで、赤子の泣き声が聞こえてきた。
景継の足が止まる。
万代丸だ。
それも、かなり大きな声で泣いている。
景継は少しだけ歩みを速めた。
部屋へ入ると、楓が万代丸を抱いていた。
「ただいま戻りました」
「お帰りなさいませ」
楓が振り返る。
その腕の中では、万代丸が顔を真っ赤にして泣いていた。
「どうしたのですか?」
「先ほど目を覚ましてから、ずっとこの調子なのです」
「どこか具合が悪いのでは?」
景継の表情がすぐに変わった。
楓は思わず笑う。
「大丈夫ですよ」
「ですが、随分と泣いています」
「赤子は泣くものです」
「それは分かっていますが……」
景継は万代丸を覗き込んだ。
戦場なら、相手が何を狙っているのか考える。
敵が中央を厚くしたなら、左右が薄くなっているのではないか。退いているなら、それが本当の敗走なのか誘いなのか。兵糧が減っているなら、あと何日戦えるのか。
だが、目の前の我が子がなぜ泣いているのかは、いくら考えても分からない。
「お腹でしょうか」
「先ほど乳を飲んだばかりです」
「では、眠い?」
「少し前まで寝ていました」
「暑いとか」
「今日はそれほど暑くありませんよ」
景継が黙った。
楓が楽しそうにこちらを見る。
「難しい顔をされていますね」
「分からないのです」
「何がです?」
「万代丸が何を求めているのか」
あまりにも真剣に言うので、楓はとうとう声を立てて笑った。
「笑うことではありません」
「申し訳ありません。でも、戦のことなら何でも分かりそうな顔をされるのに」
「戦なら相手が話しますから」
「敵が?」
「言葉ではありません。兵の動きや陣の置き方で、ある程度は」
景継は再び万代丸を見る。
「この子は泣くだけです」
「それが万代丸のお話なのですよ」
景継が目を瞬いた。
「これが?」
「お腹が空いた。眠たい。抱いてほしい。気持ちが悪い。万代丸はまだ、それを泣いて伝えることしかできません」
「……なるほど」
景継は妙に納得した顔をした。
そして、泣いている我が子をじっと観察する。
楓が首を傾げた。
「何をされているのです?」
「覚えようかと」
「何をですか?」
「泣き方です。理由によって違うのでしょう?」
今度こそ楓は堪えきれなかった。
「そんなに簡単には分かりませんよ」
「そうなのですか?」
「毎日一緒にいる私でも、分からない時はあります」
その言葉に、景継の表情が僅かに変わった。
毎日一緒にいる。
自分は、そうではなかった。
万代丸が生まれてから、まだそれほど長い時間は経っていない。それなのに、その短い人生の中でさえ、自分がそばにいなかった時間は長い。
戦があった。
行かなければならなかった。
それを後悔しているわけではない。
だが、楓が知っていて自分が知らない万代丸の姿は、もういくつもあるのだろう。
景継が黙ったことに気づいたのか、楓が万代丸を差し出した。
「抱いてみますか?」
「私がですか?」
「父親でしょう?」
「それはそうですが」
「帰ってから何度も抱いているではありませんか」
景継は両手を伸ばした。
以前よりは慣れた。
首を支え、身体を腕に乗せる。
それでも、刀や槍を持つ時とは比べものにならないほど慎重になる。
万代丸が景継の腕へ移った。
「……万代丸」
呼んでみる。
泣き声は止まらない。
「父ですよ」
止まらない。
楓が口元を押さえている。
「楓」
「何も言っておりません」
「笑っています」
「笑っていませんよ」
「笑っています」
そう言っている間にも、万代丸は泣き続ける。
景継は困ったように腕の中を見る。
「私では駄目ですか」
その声だけは、先ほどより少し小さかった。
楓の表情から笑みが消えた。
「そんなことはありません」
「ですが」
「少し歩いてみてください」
「歩く?」
「はい。ゆっくりと」
言われるまま、景継は立ち上がった。
万代丸を抱きながら、部屋の中をゆっくり歩く。
一歩。
また一歩。
何度か往復しているうちに、不思議なことに泣き声が少しずつ弱くなった。
景継が足を止める。
すると、また泣き声が大きくなった。
「……止まると駄目なのですか?」
「そのようですね」
景継は再び歩き始める。
泣き声が小さくなる。
また止まる。
泣く。
歩く。
静かになる。
景継はしばらく同じことを繰り返した。
「これは……」
「歩いてほしいみたいですね」
「いつまででしょう?」
「万代丸が満足するまででは?」
景継は腕の中の我が子を見た。
「なかなか厳しいですね」
楓が笑った。
それでも景継は歩き続けた。
やがて泣き声は完全に止まり、万代丸の瞼が少しずつ閉じていく。
景継はそれに気づくと、今度は足音まで小さくした。
戦場では何千、何万という兵を動かしてきた男が、たった一人の赤子を起こさないために、恐る恐る畳の上を歩いている。
楓は何も言わず、その姿を眺めていた。
しばらくして、万代丸は眠った。
景継が小声で尋ねる。
「寝ましたか?」
「はい」
「では、置いても?」
「もう少し待った方がいいかもしれません」
「分かりました」
景継は素直に従った。
またしばらく歩く。
「景継様」
「はい」
「疲れませんか?」
「これくらいなら」
「戦から戻られたばかりなのですよ」
「だからでしょうか」
景継は眠っている万代丸を見る。
「今は、こうしていたいです」
楓は何も返さなかった。
ただ、少し嬉しそうに笑った。
万代丸を寝かせた後、二人は隣の部屋へ移った。
夕餉まで、まだ少し時間がある。
楓が茶を淹れ、景継の前へ置いた。
「ありがとうございます」
景継は一口飲む。
久しぶりに、何も急ぐ必要のない時間だった。
「景継様」
「はい?」
「本当に、しばらく戦はないのですか?」
景継は茶碗を置いた。
「そうしたいと思っています」
「そうしたい?」
楓はその言葉を聞き逃さなかった。
景継は少し困ったように笑う。
「私が戦をしないと決めても、相手まで同じとは限りませんから」
「また何かあったのですか?」
景継は一瞬迷った。
隠すほどのことではない。
「徳川と真田の間で、少し不穏な動きがあるそうです」
楓の表情が僅かに曇る。
「景継様も行かれるのですか?」
「いいえ」
景継はすぐに答えた。
「今のところ、私たちが関わる理由はありません。詳しいこともまだ分かっていませんから、情報だけ集めています」
「そうですか」
楓は明らかに安堵した。
その表情を見て、景継は少し胸が痛んだ。
これまで何度、この顔をさせてきたのだろう。
出陣すると告げるたび、楓は止めなかった。
無事に帰ってきてくださいと言って送り出した。
それを当然のように受け取っていたわけではない。
だが、自分が戦場へ向かうたびに、残された者にも別の戦が始まっていたのだと、今は以前より分かる。
「楓」
「はい?」
「すみませんでした」
突然の言葉に、楓が目を瞬いた。
「何がですか?」
「これまで、随分と心配をかけました」
「急にどうされたのです?」
「万代丸を抱いていたら、少し考えてしまって」
景継は自分でもうまく説明できず、苦笑した。
「私がいない間、この子を見ながら待っていたのでしょう?」
楓はすぐには答えなかった。
「……はい」
やがて静かに頷く。
「怖くはありました」
景継は黙って聞く。
「戦の知らせが届くたび、景継様のお名前が書かれていないか探しました。お手紙が届けば安心しましたし、何日も来なければ、何かあったのではないかと思いました」
楓は穏やかに話している。
責めるような口調ではない。
だからこそ、景継の胸に残った。
「でも」
楓は続ける。
「万代丸がいましたから」
隣の部屋へ視線を向ける。
「この子のお世話をしていると、一日があっという間でした。それに、この子を見ていると、景継様は必ず帰ってくると思えたのです」
「なぜです?」
「帰ってこなければ困るでしょう?」
景継が瞬きをする。
楓は笑った。
「父親なのですから」
景継も少し遅れて笑う。
「それは確かに困りますね」
「ですから、これからはもう少し父親をしてください」
「努力します」
「努力なのですか?」
「まだ分からないことばかりなので」
「戦より難しいですか?」
景継は少し考えた。
「今のところは」
楓が笑った。
その時だった。
隣の部屋から、小さな声が聞こえた。
二人が同時にそちらを見る。
万代丸が目を覚ましたらしい。
しばらく静かだったが、やがて泣き声に変わる。
景継が立ち上がった。
楓が驚く。
「景継様?」
「行ってきます」
「分かるのですか?」
景継は少しだけ自信ありげに答えた。
「先ほどとは、泣き方が違うような気がします」
「もう分かるようになったのですか?」
「おそらく、お腹が空いたのではないでしょうか」
楓も立ち上がる。
「では、見てみましょう」
二人で隣の部屋へ入る。
景継は泣いている万代丸を覗き込み、楓はその横で様子を見た。
結局、景継の予想が当たっていたのかどうかは分からなかった。
それでも、この日から景継は万代丸の泣き声を以前より気にするようになった。
泣けば顔を見る。
眠れば覗き込む。
政務から戻れば、その日に何があったのか楓へ尋ねる。
兵法書にも、政務の書にも書かれていないことばかりだった。
景継には前世の記憶がある。
一度の人生では得られないほど多くの戦を知り、人の争いを知り、国が興り滅びる姿も知っている。
それでも。
父親になるのは、これが初めてだった。
だから今は、万代丸と一緒に覚えていけばいい。
景継はそう思いながら、小さな我が子へ指を差し出した。
万代丸の手が、その指を握る。
その力はあまりにも弱く、少し動かせば簡単にほどけてしまいそうだった。
けれど景継は、自分から指を抜こうとはしなかった。




