第二百二十六話 戦わぬための備え
翌朝。
黒田家の屋敷を出た官兵衛は、その足で景継のもとへ向かった。
毛利との交渉を終え、備後の引き渡しについても当面の道筋はついた。急を要する仕事は、ひとまず片付いている。
本来なら、もう少し家で休んでもよかった。
昨夜は善助にもそう言われ、父の職隆からも、帰ったばかりなのだから少しくらい家にいろと釘を刺されたばかりである。
それでも官兵衛は朝から屋敷を出た。
現地に残って見てきたことを、景継に伝えておきたかった。
それに、これから先の話もある。
昨日、職隆に言われた言葉が頭をよぎる。
――休めと言われても働くところは、景継殿と似ている。
官兵衛は歩きながら小さく息を吐いた。
「……人のことは言えんな」
そう呟いてから、城へ入った。
景継のいる部屋へ通された官兵衛は、入口で一度足を止めた。
予想通りだった。
景継は机に向かっている。
その向かいには石田三成と大谷吉継が座り、机の上には帳面や書状がいくつも広げられていた。
官兵衛はそれらを眺めてから口を開く。
「……もう働いておられましたか」
景継が顔を上げた。
「官兵衛殿。お帰りなさい」
表情が少し緩む。
「昨日戻られたと聞きました」
「はい。ただいま戻りました」
「もう少し休まれてもよかったのでは?」
官兵衛は返事をせず、机の上へ視線を落とした。
領内の収支。
兵糧の残量。
傷を負った兵についての報告。
軍用に使われた馬や荷車についての記録。
どう見ても、休んでいる人間の机ではない。
景継も官兵衛の視線を追った。
「……何でしょう?」
「いえ。景継様には言われたくないと思いまして」
三成が僅かに俯く。
景継は少し困ったように笑った。
「私は、留守にしていた間のことを確認しているだけです」
「私も現地のことを報告しに来ただけにございます」
「では、同じですね」
横で聞いていた吉継が静かに口を挟んだ。
「お二人とも、一度『休む』という言葉について話し合われた方がよいかもしれません」
景継と官兵衛が揃って吉継を見る。
吉継は何事もなかったように手元の書状へ視線を戻した。
しばらくして景継が笑う。
「では官兵衛殿。せっかく来ていただいたのですから、聞かせてください」
「はい」
官兵衛は景継の前へ腰を下ろした。
「備後については、今のところ予定通り進んでおります」
官兵衛は簡潔に報告した。
「細かな行き違いはいくつかありますが、約定そのものが崩れるような問題はございません」
「そうですか」
景継は安堵したように息を吐く。
あれだけ揉めた末に結んだ約定である。
ひとまず最初の段階で躓かなかっただけでも十分だった。
「ただ、やはり土地の空気まですぐに変わるものではありません」
官兵衛の言葉に、景継の表情が僅かに引き締まる。
「備後の者たちですか?」
「はい。昨日まで毛利の土地だった場所です。戦に負けたからといって、今日から林道家を自分たちの主と思えと言われても難しいでしょう」
「当然でしょうね」
景継は少し考えた。
「なら、急いでこちらのやり方に変えるのはやめましょう」
三成が顔を上げる。
「これまでの仕組みを、しばらく残されるのですか?」
「残すかどうかを決めるためにも、まず知る必要があります」
景継は机の上に置かれた帳面へ手を伸ばした。
「どれだけの民がいて、何を作り、どの程度の負担をしていたのか。土地ごとに事情も違うでしょう。それを知らずにこちらのやり方を押しつければ、余計な混乱を生みます」
官兵衛も頷く。
「私もそれがよいかと。戦では勝ちましたが、備後の民まで林道家に負けたと思わせる必要はありません」
景継はその言葉に少し考え込んだ。
「……そうですね」
やがて静かに続ける。
「これから同じ国の中で暮らしてもらうのです。いつまでも敵だった者として扱っていては、こちらを信じてもらえるはずがありません」
三成が筆を取る。
「では、備後については既存の仕組みを調べたうえで、必要なところから改める形で進めます」
「お願いします。吉継にも手伝ってもらえますか?」
「もちろんです」
吉継が頷いた。
そこで官兵衛が口を開いた。
「ただ、今見るべきなのは備後だけではありません」
景継が顔を向ける。
「どういうことです?」
「今回の戦で疲れたのは、新しく得た土地だけではないということです」
官兵衛の視線が、机の上に並んだ帳面へ向かった。
景継は先日、城下とその周辺を自分の目で見て回っていた。
軍のために何度も荷を運び、壊れかけたまま使われている荷車。
戦で傷を負ったにもかかわらず、家族のために畑へ出ていた兵。
書類の数字だけを見ていたのでは気づかなかったものが、いくつもあった。
「私も、それを考えていました」
景継が答える。
「兵を休ませれば、それで国が休まるわけではありません」
三成が手元の帳面を開いた。
「軍用に徴発した馬や荷車については調査を始めています。ただ、今回の戦だけではなく、その前から続けて使われていたものも多く、確認には時間がかかりそうです」
「時間はかかって構いません」
景継は即答した。
「まず、どこまで負担をかけていたのかを知りたいです」
吉継が尋ねる。
「傷を負った兵についても、同じように調べますか?」
「お願いします」
景継は少し間を置く。
「戦へ出た者が、傷を負ったことで家族まで暮らせなくなる。それでは、次に何かあった時、誰が安心して兵として出られるのでしょう」
官兵衛が景継を見る。
「補償を広げれば、かなりの銭が必要になります」
「分かっています」
「すべてを救うことはできませぬ」
「それも分かっています」
景継は迷わなかった。
「だから、まず知りたいのです。誰が、どの程度困っているのか。そのうえで、できることを考えましょう」
三成が頷く。
「先に仕組みを作るのではなく、実態を見てから決めるということですね」
「はい」
景継は机の上の帳面へ視線を落とした。
「今まで私は、兵をどう動かせば勝てるかを考えることが多かったです」
誰も口を挟まない。
「ですが、兵は戦うためだけに生きているわけではありません。戦が終われば家へ帰り、畑を耕したり、商いをしたり、家族と暮らしたりする。その生活まで壊してしまえば、戦に勝っても国は弱くなります」
官兵衛は静かにその言葉を聞いていた。
以前から、景継は味方の犠牲を嫌った。
敵を追い詰めすぎず退路を残したのも、そのためだった。
だが今は、戦場で命を残すことだけではなく、帰った後の暮らしにまで目を向け始めている。
「景継様」
官兵衛が口を開く。
「一つだけ、気をつけなければならないことがございます」
「何でしょう?」
「やり過ぎぬことです」
景継は黙って続きを待った。
「国を立て直そうとして、今度は国の蓄えを空にしては意味がありません。助ける者と、今すぐ助けなくても立て直せる者。その見極めは必要でしょう」
景継は三成を見る。
三成も頷いた。
「私も同じ考えです。銭にも米にも限りがあります」
「分かりました」
景継は素直に受け入れた。
「では、そこは二人にも止めてもらいましょう。私が広げすぎそうなら言ってください」
「承知しました」
三成が答え、官兵衛も頷いた。
戦場なら、景継が全体を見て指示を出す。
だが国を治めるとなれば、一人ですべてを見ることはできない。
それぞれが得意なものを持ち寄り、時には景継自身の判断を止める者も必要になる。
林道家が大きくなった今、それは以前にも増して重要になっていた。
「それと、もう一つ考えています」
景継が言った。
「何でしょう?」
「道です」
三成が顔を上げる。
「今回、兵糧を運ぶだけでも随分と苦労したと聞きました。雨が降れば使いにくくなる道も多かったのでしょう?」
「はい。場所によっては荷車が通れず、人や馬へ積み替えています」
「直せるところから直しましょう」
官兵衛が尋ねる。
「軍道としてですか?」
景継は首を横に振った。
「それだけではありません」
その答えに、官兵衛が黙る。
「兵が通りやすい道なら、商人も通りやすいでしょう。米も運べますし、町と町の行き来もしやすくなる。戦がない時にも使えるものへ銭を使いたいです」
吉継が僅かに笑った。
「戦のために道を造るのではなく、普段使う道が戦の時にも役立つようにする、と」
「その方が無駄がありません」
官兵衛の口元にも薄い笑みが浮かぶ。
「なるほど」
「何です?」
「いえ。景継様らしいと思いまして」
勝つためだけではなく、なるべく損を減らす。
一つのものに二つ、三つの役目を持たせる。
戦場で景継が繰り返してきた考え方が、少しずつ国造りへ向き始めていた。
話はその後も続いた。
兵糧の蓄えをどこまで戻すか。
休ませる兵と、治安維持のため残す兵をどう分けるか。
戦で止まっていた商いをどう戻すか。
柴田家から引き継いだ土地と、以前からの林道領との違いをどう埋めるか。
派手な話は一つもない。
それでも景継は、戦の作戦を話している時と同じくらい真剣に耳を傾けていた。
やがて官兵衛が言う。
「私も黒田家の者たちを動かそうと思います」
「黒田家を?」
「はい。土地を治められる者、銭や商いに明るい者、海や船に詳しい者を探させます」
「九州のためですか?」
「九州だけではありません」
官兵衛は首を振る。
「これから林道家が大きくなれば、武だけで治めることはできませぬ。私の家臣たちにも、戦場以外で働ける者を増やしておきたいのです」
景継は少し嬉しそうに頷いた。
「それは助かります」
「黒田家のためでもございます」
官兵衛はそこを曖昧にしなかった。
「もちろんです」
景継も当然のように答える。
「黒田家が強くなることが林道家の力にもなるのであれば、私は困りません」
官兵衛は一瞬、景継の顔を見た。
昨夜、長政と話したことを思い出す。
黒田家と景継。
その二つの利益が違わないようにするのが自分の役目だと答えた。
少なくとも今は、その道は同じ方向へ続いている。
「戦がない時に何をしたかで、次に何か起きた時の強さは変わります」
「そうですね」
景継は頷く。
「だからこそ、今は急がず進めましょう」
ようやく得た、戦わなくてもよい時間だった。
その時間を、次の戦を待つだけの日々にはしたくなかった。
話が一段落した頃、廊下を急ぐ足音が近づいてきた。
「殿」
外から声がする。
景継が顔を上げた。
「どうしました?」
「東より知らせにございます」
部屋の空気が変わった。
三成が筆を置き、吉継も姿勢を正す。
官兵衛の表情からも、先ほどまでの柔らかさが消えた。
「入ってください」
襖が開き、使者が入ってくる。
深く頭を下げた後、一通の書状を差し出した。
「徳川領周辺の動きについて、知らせが入りました」
景継が書状を受け取る。
「徳川が?」
「はい」
使者は一度息を整えた。
「信濃にて、真田との間に不穏な動きがあるとのことにございます」
「真田……」
景継がその名を小さく繰り返す。
官兵衛も使者へ視線を向けた。
「戦になったのですか?」
「いえ。まだ、そこまでは。ただ、両者の関係が急速に悪くなっているようです」
景継は書状を開いた。
そこには信濃を巡り、徳川と真田の間に緊張が生まれつつあることが記されている。
まだ兵がぶつかったわけではない。
林道家に助けを求める書状が来たわけでもない。
だが、放っておいてよいと判断するには少し気になる。
官兵衛が景継を見る。
「どうされます?」
景継は書状を読み終えてから、ゆっくり畳んだ。
「まず、詳しく調べましょう」
「兵は?」
「動かしません」
答えは早かった。
「私たちは、ようやく戦を終えたばかりです。それに、徳川と真田のどちらが何を求めているのかも分かっていません。今の段階で兵を動かす理由はないでしょう」
官兵衛が頷く。
「では、見ておくだけに?」
「はい」
景継は書状を机の端へ置いた。
「戦わないと決めることと、何も見ないことは違いますから」
三成と吉継へ向き直る。
「こちらは予定通り進めてください。東で何か起こるかもしれないという理由で、領内の立て直しを止める必要はありません」
「承知しました」
二人が答える。
景継はもう一度、真田の名が記された書状へ目を落とした。
西では、ようやく毛利との戦が終わった。
備後という新しい土地を得て、林道家はさらに大きくなった。
だが、大きくなることと強くなることは同じではない。
広がった土地を治め、疲れた兵を休ませ、傷ついた者を支え、使ったものを戻していく。
今の林道家に必要なのは、さらに領土を増やすことではなかった。
足元を固めることだった。
その間にも、天下は動く。
徳川。
真田。
その名が次に何をもたらすのかは、まだ分からない。
景継は書状を閉じたまま、静かに息を吐いた。
今は動かない。
だが、見落としもしない。
戦わぬ日々を守るためにも、天下から目を離すわけにはいかなかった。




