第二百二十五話 心落ち着く場所
天正十三年三月。
毛利との戦が終わり、景継が城へ戻ってから数日遅れて、黒田官兵衛もようやく帰還した。
毛利が約定を受け入れたからといって、備後がその日のうちに林道家のものになるわけではない。どの城をいつ引き渡すのか、毛利の兵をどの道から退かせるのか、城内に残された兵糧や武具をどう扱うのか。そして、毛利へ戻る者と備後に残る者をどう分けるのか。
一つ間違えれば、せっかく結んだ約定が新たな争いの火種になる。
官兵衛は毛利側との取り決めをある程度形にしてから、ようやく帰路についた。
そして帰って最初に向かったのは、景継のもとではなかった。
黒田家の者たちが待つ屋敷だった。
門が見えてくると、こちらへ駆けてくる一人の若者の姿があった。
「父上!」
官兵衛は馬上から、その姿を見る。
黒田長政。
官兵衛の嫡男である。
まだ顔には若さが残っているものの、腰には刀を差し、立ち姿にも武家の嫡男らしさが少しずつ現れ始めていた。
長政の後ろからも、見慣れた顔が続く。
「殿!」
真っ先に深く頭を下げたのは栗山利安だった。
官兵衛が若い頃から仕える古参で、官兵衛からは善助と呼ばれている。
その隣には、善助より一回り大きく見える男が立っていた。
母里友信――太兵衛である。
さらに井上之房も続いた。
官兵衛は馬から降りると、三人の顔を順番に見た。
「善助も太兵衛も、変わりなさそうだな。之房も留守の間、苦労をかけた」
「こちらは何も。殿こそ、随分と長くなりましたな」
善助が答える。
官兵衛は肩を軽く回した。
「戦より、その後の方が面倒だった。毛利も、負けたからといって何でも素直に頷いてくれるわけではないからな」
「そりゃそうでしょうな」
太兵衛が言いながら、官兵衛の身体を上から下まで眺める。
「何だ?」
「殿、怪我は?」
「ない」
「本当に?」
「ないと言っているだろう」
「殿は昔から、自分の怪我となると『大したことはない』で済ませますからな」
官兵衛が眉を寄せた。
「太兵衛。帰って早々、うるさいぞ」
「ほら、やはり怪しい」
「何がだ」
「怪我がないなら、見せても問題ないでしょう」
「なぜお前に見せねばならん」
横で善助が苦笑する。
「太兵衛、その辺にしておけ。殿がお戻りになったばかりだ」
「だから今のうちに聞いているんだ。放っておけば、明日にはまた景継様のところへ行ってしまうぞ」
官兵衛は一瞬黙った。
「……それは否定できんな」
太兵衛が得意げに善助を見る。
「ほら」
「嬉しそうにするな」
久しぶりに聞く二人の声に、官兵衛の口元も僅かに緩んだ。
戦場では味方であっても、常に周囲を見ていなければならない。毛利との交渉に入ってからは、一つの言葉がそのまま国同士の条件に繋がるため、さらに気を抜けなかった。
ここでは違う。
少なくとも、善助や太兵衛の言葉の裏を読む必要はなかった。
「父上」
長政が改めて頭を下げる。
「ご無事で何よりにございます」
官兵衛は息子へ目を向けた。
「長政も変わりなかったか?」
「はい」
「留守の間は?」
「善助たちにも助けてもらいました。大きな問題はありません」
「そうか」
官兵衛は長政の顔をしばらく見つめた。
以前より少し精悍になったように思う。
子というものは、親が見ていない間にも勝手に育っていくらしい。
「少し顔つきが変わったな」
「私が、ですか?」
「ああ」
長政が少し嬉しそうな顔をする。
それを見た太兵衛が口を挟んだ。
「殿がおられぬ間、若殿も頑張っておられましたからな」
「太兵衛」
長政が少し恥ずかしそうに止める。
官兵衛は笑った。
「なら、後で聞かせてもらおう」
「はい」
そのまま屋敷へ入ろうとすると、長政が思い出したように声をかけた。
「父上」
「何だ?」
「祖父上がお待ちです」
官兵衛の足が止まる。
「父上が?」
「はい。父上がお戻りになると聞いて、朝から何度も外を見ておられました」
官兵衛は少し眉を寄せた。
「それを本人に言うなよ。怒られるぞ」
「私もそう思います」
長政が笑った。
屋敷の奥では、黒田職隆が息子を待っていた。
官兵衛が部屋へ入っても、職隆は立ち上がらない。
「遅かったな」
最初の言葉がそれだった。
官兵衛は父の前へ座った。
「申し訳ありません、父上」
「謝れとは言っておらん」
職隆は官兵衛の姿をゆっくり眺めた。
「生きて帰ったなら、それでよい」
官兵衛も余計なことは言わなかった。
「ただいま戻りました」
「うむ」
それだけで父子の帰還の挨拶は終わった。
長政が官兵衛の隣に座り、善助、太兵衛、之房も少し離れた場所へ腰を下ろす。
「それで」
職隆が官兵衛を見る。
「毛利はどうなった?」
「約定を受け入れました」
「備後もか?」
「はい」
職隆の眉が僅かに上がった。
「よく毛利が呑んだものだ」
「簡単ではありませんでしたよ」
「当たり前だ。一国寄越せと言われて、喜んで渡す大名がおるものか」
太兵衛が大きく頷いた。
「俺なら嫌ですな」
官兵衛が横を見る。
「誰もお前に一国寄越せとは言わん」
「たとえばの話です」
「分かっている」
善助が小さく笑った。
官兵衛は話を戻す。
「備後を渡す代わりに、約定を守る限り、林道家はそれより西の毛利領を求めない。宇喜多家や信孝様を使い、別の形で奪うこともしない。そのことは景継様の名で書状に残します」
職隆が顎に手をやる。
「九州の話もあるそうだな」
「はい。いずれ林道家が九州へ向かう際には、毛利にも兵や兵糧、船などを出してもらいます。働きに応じた恩賞も与えることになっています」
「昨日までの敵を、今度は西で使うか」
「敵のまま置いておくよりは、その方がいいでしょう」
「お前らしい考えだ」
職隆はそう言った後、少し考え直すように息子を見た。
「いや。林道景継も、か」
官兵衛は答えなかった。
代わりに長政が祖父を見る。
「祖父上は、景継様をご存じなのですか?」
「話は聞いておる」
「父上から?」
「それだけではない。今や林道家ほど大きく動いておる家を知らぬ方が難しかろう」
「確かに」
「それに」
職隆の視線が官兵衛へ移る。
「この男が、これだけ長く近くにいる相手だ。興味くらい湧く」
官兵衛が苦笑する。
「私が人付き合いのできない者のように聞こえますが」
「違うのか?」
「父上まで何を言っているのです」
善助が俯いた。
肩が僅かに動いている。
官兵衛が気づく。
「善助」
「何でしょう」
「今、笑っただろう」
「まさか」
「顔を上げろ」
善助が顔を上げる。
明らかに笑いを堪えていた。
「お前まで……」
職隆はそんな二人を見ながら続ける。
「お前は昔から、人に使われることを好まん」
今度は誰も笑わなかった。
長政が父を見る。
官兵衛は少し考えてから答える。
「別に、使われているつもりはありませんよ」
「では何だ?」
「景継様には私の力が必要で、私にも景継様の力が必要です。それだけです」
「互いに利用しておると?」
「そういうことです」
職隆はしばらく息子の顔を見た。
「ならば、なぜお前は備後まで勝手に要求した?」
官兵衛の目が僅かに動いた。
「勝手に、というのは少々聞こえが悪いですが」
「景継殿から命じられたのか?」
「……それは」
「違うのだろう?」
官兵衛は小さく息を吐いた。
「違います」
長政が驚いた。
「父上が決めたのですか?」
「ああ」
「一国を?」
「取れると思ったからな」
太兵衛が吹き出した。
「何だ?」
「いや、殿は時々、とんでもないことを普通に言われると思いまして」
「普通には言っていない」
「今、かなり普通でしたぞ」
「太兵衛」
「はいはい」
善助が横から尋ねる。
「それで、景継様は何と?」
「次からは先に話してくれ、と言われた」
「怒られましたな」
太兵衛が言う。
「お前は少し黙っていろ」
「では、怒られていないので?」
「怒るというほどではない」
官兵衛はあの時の景継の顔を思い出した。
使えるかどうか分からない手でも構わない。
自分の考えが乱れるかどうかは自分で判断する。
官兵衛が何を考えているのか分からない方が困る。
「私の考えを止めたいわけではないらしい。ただ、何か仕込むなら話しておいてほしい、と」
善助が少し考える。
「殿に、勝手に考えるなとは言わないのですな」
「ああ」
職隆が僅かに笑った。
「面白い男だな」
「そうですか?」
「お前に考えるなと言っても無駄だからな」
今度は之房まで小さく笑った。
官兵衛は三人を見る。
「今日は随分と楽しそうだな」
「殿がお戻りになりましたので」
之房が静かに答えた。
それを言われると、官兵衛もそれ以上は何も言えなかった。
「父上」
長政が官兵衛を見る。
「私も一度、景継様とゆっくりお話ししてみたいです」
「なぜだ?」
「父上が、そこまで力を貸す御方だからです」
官兵衛は息子をしばらく見つめた。
「一つ勘違いするな、長政」
声から、先ほどまでの軽さが少し消える。
「私は景継様のためだけに動いているわけではない」
長政の表情も引き締まった。
「黒田家のため、ですか」
「ああ」
官兵衛は善助たちにも視線を向ける。
「景継様が大きくなれば、その近くにいる我らにも機会が増える。土地を治める機会も、働きを示す機会も、今まで見たことのない場所へ進む機会もな」
「九州も?」
「いずれはそうなるだろう」
長政は少し考えた後、さらに尋ねた。
「では父上は、景継様を利用して黒田家を大きくするおつもりなのですか?」
「そういう面もある」
官兵衛は否定しなかった。
「おそらく景継様も同じだ。私の知恵が使えるから近くに置く。それでいい」
「それでよいのですか?」
「ああ。ただし――」
官兵衛は息子を真っ直ぐ見た。
「自分の利だけを考える者は、いずれ誰からも必要とされなくなる」
長政は黙って聞いている。
「景継様が私を必要とする。私も景継様を必要とする。黒田家が林道家の力になり、林道家が黒田家の力になる。その形を続けることが大事だ」
「……はい」
職隆が静かに口を開いた。
「随分と景継殿を信じておるのだな」
官兵衛は父を見る。
「信じている、という言葉とは少し違います」
「では何だ?」
「それは……」
官兵衛は言葉を止めた。
何なのだろう。
最初は単純だった。
景継は使える。
自分の策を理解できる。
景継の勢力が大きくなれば、黒田家にも利がある。
だから近くにいた。
その考えは今も変わっていない。
だが今回、信孝へ独断で話を通した時も、備後を要求した時も、景継は官兵衛を遠ざけなかった。
むしろ、自分が何を考えているのか話してほしいと言った。
「まだ、分かりません」
官兵衛は素直に答えた。
職隆が僅かに眉を上げる。
「お前が分からぬと言うか」
「私にだって分からないことくらいありますよ」
「そうか」
職隆はそれ以上聞かなかった。
ただ、その口元には僅かな笑みが浮かんでいた。
話題が変わり、今度は黒田家そのものへ移った。
「しばらく大きな戦はないだろう」
官兵衛が言う。
「景継様は国を休ませるつもりだ。毛利にも立て直す時間を与える」
太兵衛が少し残念そうな顔をした。
官兵衛はすぐ気づいた。
「太兵衛」
「何です?」
「なぜ残念そうなんだ」
「しておりません」
「している」
「しておりませんよ」
善助が呆れたように横を見る。
「顔に出ているぞ」
「出ておらん」
「ならいい」
官兵衛は話を続ける。
「戦がない間に、黒田家も力を蓄える」
長政が身を乗り出した。
「兵を増やすのですか?」
「兵だけでは駄目だ」
「では?」
「人だ」
官兵衛は指を折りながら話す。
「土地を治められる者。銭を扱える者。商人と話せる者。海や船に詳しい者。これから先は、戦ができるだけでは足りん」
之房が頷いた。
「九州を見据えて、ですか」
「それもある。備前、備後、播磨。九州との繋がりを持つ商人や船乗りがいれば、話を聞いておいてくれ」
「分かりました」
「善助」
「はい」
「集まった話はお前がまとめてくれ」
「お任せを」
「太兵衛は――」
官兵衛が言葉を止める。
太兵衛が待った。
「何です?」
「しばらく大人しくしていろ」
「何ですか、それは!」
部屋に笑いが広がった。
「冗談だ。兵の様子を見ておいてくれ。今回戻ってきた者たちは疲れている。無理に鍛え直す必要はない」
太兵衛の表情が真面目になる。
「分かりました」
「之房には、備後の引き渡しについてこちらでも確認を手伝ってもらいたい」
「承知しました」
官兵衛は最後に長政を見る。
「長政」
「はい」
「お前にもやってもらうことがある」
長政の顔が明るくなる。
「何でしょう?」
「俺と一緒に領内を回れ」
予想していた答えと違ったのか、長政が目を瞬いた。
「領内を?」
「ああ」
「戦の稽古ではなく?」
「戦がない時まで戦のことだけ考えてどうする」
官兵衛は息子を見る。
「兵がどこから来るのか。米がどこで作られているのか。銭がどこから入るのか。家臣が何を考え、領民が何に困っているのか。人の上に立つなら、それくらい知らねばならん」
長政は真剣な顔になった。
「分かりました」
「いずれ黒田家を継ぐんだ。今から見ておけ」
その時、職隆が口を挟んだ。
「官兵衛」
「何です、父上」
「お前も同じことを言われたのを覚えておるか」
官兵衛は父を見る。
一瞬、昔の記憶が蘇った。
「……覚えていますよ」
「なら、少しは役に立ったようだな」
長政が笑う。
「長政」
「はい?」
「なぜ笑う」
「いえ。父上も祖父上に同じことを言われていたのだと思うと」
「お前もいずれ同じことを言うようになる」
「そうでしょうか」
「なる」
職隆が横から言う。
「そういうものだ」
三代。
職隆がいて、自分がいて、その先に長政がいる。
戦場にいる時には、ほとんど意識することのない繋がりだった。
黒田家を残す。
それは官兵衛にとって、天下の行方とは別に背負っている役目でもある。
「父上」
しばらくして、長政が再び口を開いた。
「まだ何かあるのか?」
「一つだけ」
「言ってみろ」
長政は少し迷った後、官兵衛を真っ直ぐ見た。
「もし、いつか黒田家のためになることと、景継様のためになることが違ってしまったら、父上はどうされるのですか?」
部屋が静かになった。
善助も、太兵衛も、之房も口を挟まない。
職隆だけが、黙って息子の顔を見ていた。
官兵衛はすぐには答えなかった。
以前なら迷わなかったはずだ。
黒田家。
それ以外に何がある。
だが、今はなぜか、その答えがすぐに口から出てこなかった。
「その二つが違わないようにするのが、俺の役目だ」
やがて官兵衛は答えた。
長政は少し考えてから頷いた。
「分かりました」
職隆は何も言わない。
ただ、その視線だけが官兵衛に向けられていた。
官兵衛は気づいていたが、あえてそちらを見なかった。
「さて」
少し重くなった空気を切るように、官兵衛は膝へ手を置いた。
「明日は景継様のところへ行く」
善助が呆れたような顔をする。
「もうですか?」
「備後について報告がある。それに、これからの話もしておきたい」
「景継様もしばらく休まれるのでしょう?」
「そう聞いている」
「なら、少し日を置かれてもよいのでは?」
官兵衛は少し考えた後、首を振った。
「いや」
「なぜです?」
「おそらく、もう何か始めている」
職隆が鼻で笑った。
「似た者同士ではないか」
「どこがです?」
「休めと言われても働くところだ」
「私は景継様ほどではありませんよ」
善助、太兵衛、之房が同時に官兵衛を見る。
「何だ、その顔は」
太兵衛が最初に口を開いた。
「いえ。何も」
「言いたいことがあるなら言え」
「似たようなものだと思いまして」
「太兵衛」
「はい」
「明日から仕事を増やすぞ」
「それは卑怯ですぞ!」
笑い声が部屋に広がった。
官兵衛も小さく笑う。
戦場にも、毛利との交渉の場にもなかった時間だった。
父がいる。
息子がいる。
昔から自分についてきた者たちがいる。
ここでは一つ一つの言葉の裏を読み、相手が何を狙っているのか考え続ける必要もない。
黒田家を大きくするために景継を利用する。
景継もまた、天下へ進むために官兵衛を利用する。
その関係でいい。
そのはずなのに――いつからだろう。
景継がどこまで行くのか、その先を自分自身の目で見てみたいと思うようになったのは。
官兵衛はその答えを探すことなく、父と息子、そして長く自分を支えてきた家臣たちとの話へ戻った。




