第二百二十四話 戦の外側
城へ戻って三日目。
景継は朝から城下を歩いていた。
供をしているのは弥兵衛と三成、それに数人の護衛だけである。
本来なら、もう少し大勢を連れていくべきだと一益には言われた。林道家の領地が広がり、景継の立場も以前とは違う。何が起こるか分からない以上、護衛は多い方がいいというのが一益の考えだった。
それでも景継は、最低限にしてほしいと頼んだ。
大勢を引き連れて歩けば、人々が普段どのように暮らしているのか分からなくなる。
「殿」
隣を歩く弥兵衛が声をかけた。
「何でしょう」
「昨日、しばらく城にいると約束されたばかりでは?」
「城下も城のうちでしょう」
「違うと思いますぞ」
「領内にはいます」
「そういう話でしたかな」
景継は答えず、前を向いた。
隣では三成が呆れたような顔をしている。
「三成まで何か言いたそうですね」
「いえ」
「言ってください」
「殿は休むことが下手なのだと思っております」
「今日は休んでいるつもりですが」
「では、なぜ私が帳面を持っているのでしょう」
三成の腕には、何枚もの書付が抱えられている。
景継はそれを見た。
「念のためです」
「何の念です?」
「何か気づいた時の」
「それを政務と言うのです」
三成の言葉に、弥兵衛が声を上げて笑った。
景継は少し不満そうに二人を見たものの、足は止めなかった。
城下へ出ようと思ったのには理由がある。
昨日、一益や長秀たちから留守中の報告を受けた。
兵糧。
銭。
道。
人足。
馬。
書付を読めば、数字は分かる。
だが、景継は数字だけで国を見たくなかった。
戦場では兵の数を数える。
五千。
一万。
二万。
だが、その一人一人は戦が終われば兵ではなくなる。
百姓へ戻る者がいる。
職人へ戻る者がいる。
父親に戻る者も、息子に戻る者もいる。
その者たちが戻る場所が、今どうなっているのか。
それを自分の目で見ておきたかった。
城下は、景継が想像していたより賑わっていた。
商人の声が飛び交い、道の脇には野菜や魚、布などを並べた店が続いている。
子供たちが走り回り、その後ろから母親らしき女が声を上げていた。
景継は少し安心した。
戦が続いたからといって、すべてが止まっていたわけではない。
むしろ、自分たちが戦っている間も人々は暮らし続けていた。
当たり前のことだった。
だが、戦場に長くいると、その当たり前を忘れそうになる。
「思ったより、人が多いですね」
景継が呟く。
三成が頷いた。
「城下については、大きな混乱はございませんでした。一益殿や長秀殿がかなり気を配っておられましたので」
「そうですか」
また二人に礼を言わなければならない。
そう考えながら歩いていると、一台の荷車が目に入った。
車輪が大きく傾いている。
男が二人がかりで持ち上げようとしていた。
その脇には、袋に入った穀物が積まれている。
景継が足を止めた。
「どうしました?」
弥兵衛が尋ねる。
「あれです」
景継は荷車へ近づいた。
男たちは最初、近づいてくる一行を気にしていなかった。
だが、その中の一人が景継の顔に気づいたらしい。
目を見開く。
「と、殿……?」
その声で、周囲の者たちまでこちらを見る。
景継は少し困った。
大勢を連れてこなかった意味が、あまりなくなった。
「そのままで構いません」
景継は荷車を見る。
「壊れたのですか?」
男は慌てて頭を下げた。
「は、はい。申し訳ございません」
「なぜ謝るのです?」
男が困った顔をする。
景継はしゃがみ込み、車輪を見た。
軸の一部が傷んでいる。
「古いものですか?」
「いえ、その……このところ、よく使いましたので」
「何に?」
男は一瞬ためらった。
「兵糧運びにございます」
景継の表情が変わった。
三成も荷車を見る。
「この荷車も徴用したものですか?」
三成が尋ねると、男は頷いた。
「西へ何度も」
景継は黙って車輪に触れた。
毛利との戦。
宇喜多を守るために大量の兵を動かした。
当然、その兵を食わせるための米も運ばなければならない。
戦場へ届いた兵糧の向こう側に、こうして何度も荷車を走らせた者がいた。
「修理代は?」
景継が尋ねる。
男は答えに詰まった。
その反応だけで十分だった。
景継は三成を見る。
「こういうものは、どのような扱いになっています?」
「徴用時の取り決めはあります。ただ……」
三成が言葉を濁す。
「壊れた場合までは?」
「すべてを十分に補えているとは申せません」
景継は立ち上がった。
「調べてください」
「はい」
「この荷車だけではありません。軍のために馬や荷車を出した者で、壊れたり失ったりした者がどれだけいるのか」
三成がすぐに帳面を開こうとした。
景継がそれを止める。
「今でなくていいですよ」
三成が顔を上げる。
「今日は休んでいるのでしょう?」
景継が言うと、三成は一瞬黙った後、苦笑した。
「殿がそれをおっしゃいますか」
「私も覚えておきますから、三成も覚えておいてください」
「承知しました」
景継は男へ向き直った。
「何度も兵糧を運んでくれたのですね」
「い、いえ。俺は言われたことをしただけで……」
「それでも、あなたたちが運んでくれなければ、私たちは戦えませんでした」
男は何も言えなくなった。
景継は頭を下げるほど深くはしなかったが、僅かに首を垂れた。
「ありがとうございました」
周囲が静かになった。
男は慌てて何度も頭を下げた。
景継はそれ以上何も言わず、歩き出した。
城下を抜け、少し離れた田畑へ向かう。
そこで景継は、別のものを目にした。
田の一角で、足を引きずりながら作業している若い男がいる。
片足には布が巻かれていた。
戦で負った傷だと、一目で分かった。
景継が近づくと、男もこちらに気づいた。
驚いて頭を下げようとする。
「そのままで」
景継は声をかけた。
「足は?」
「もう大丈夫にございます」
大丈夫な歩き方には見えない。
景継は男の足を見た。
「今回の戦ですか?」
「はい」
「どこで?」
「宇喜多様の領内で」
景継は覚えていた。
毛利との戦で、何度も激しいぶつかり合いがあった場所だ。
「もう田へ戻っているのですか?」
「家の者だけでは手が足りませぬので」
男はそう答えた。
景継は周囲を見る。
年老いた男と女。
それから、まだ幼い子供が二人。
おそらく家族なのだろう。
戦へ一人出れば、その間の仕事を残った者が背負う。
帰ってきても、傷を負っていれば以前と同じようには働けない。
死んで帰らなかった者なら、なおさらだ。
景継は何も言えなくなった。
勝った。
毛利を退けた。
備後を得た。
それは間違いなく林道家にとって大きな勝利だった。
だが、勝利の代価は戦場だけに落ちているわけではない。
「三成」
「はい」
「負傷して戻った兵について、今はどうしています?」
「重傷者には一定の扶持を出しております。ただ、傷の程度や家ごとの差までは、まだ十分に把握できておりません」
「そこも調べましょう」
三成が頷く。
「戦で働いた者が、その傷のせいで家族ごと困るようではいけません」
男が驚いたように景継を見る。
景継はその視線に気づいたが、特別なことを言ったつもりはなかった。
兵は駒ではない。
戦が終われば、元の暮らしへ戻っていく。
ならば、そこまで考えるのが兵を出した者の責任だ。
「すぐにすべてを変えるとは約束できません」
景継は男へ言った。
「ですが、調べます」
「……ありがとうございます」
男は深く頭を下げた。
景継はその姿をしばらく見た後、再び歩き出した。
帰り道。
弥兵衛が珍しく静かだった。
景継が横を見る。
「どうしました?」
「いえ」
「何かあるでしょう」
弥兵衛は少し考えてから答えた。
「戦場にいる時は、考えたことがありませんでした」
「何をです?」
「俺たちが食っていた米を、誰が運んでいたのか」
景継も前を向いた。
「私もです」
「殿も?」
「知ってはいましたよ」
兵站がなければ軍は動かない。
そんなことは司馬懿だった頃から知っている。
だが、それは知識だった。
何千石必要か。
何頭の馬がいるか。
何日で運ぶか。
数字として考えていた。
壊れた荷車の前で困っている男の顔まで、そこに含めていただろうか。
「知っていることと、見ることは違いますね」
景継は静かに言った。
弥兵衛は何も返さなかった。
少し先を歩く三成が振り返る。
「殿」
「はい」
「先ほどの件ですが」
「もう考えているのですか?」
「殿が言い出したのでしょう」
「今日は休みなのに」
「誰のせいですか」
景継は笑った。
三成は呆れながらも話を続ける。
「負傷兵への扶持を一律に増やすだけでは、銭がいくらあっても足りません。家族の人数や傷の程度、元の暮らしも見た方がよいかと」
「そうですね」
「荷車や馬についても、すべて新しく買い与えるのは難しいでしょう。修理できるものは修理し、その費用の一部をこちらで持つ形なら――」
景継は三成の話を聞きながら歩いた。
一つ何かを良くしようとすれば、銭がいる。
銭を出すためには、どこかから得なければならない。
国を治めるというのは、ただ善いことを言えば済むほど簡単ではない。
だからこそ面白い、とまでは思わない。
だが、やらなければならない。
「三成」
「はい」
「急いで決めなくて構いません」
三成が景継を見る。
「まず調べましょう。どれだけの者が困っているのか分からないまま制度を作れば、必ずどこかに無理が出ます」
「承知しました」
「吉継にも相談してください。一益殿と長秀殿にも」
「はい」
「それから――」
景継は言いかけて、口を閉じた。
三成が待っている。
「何でしょう」
「いえ」
「途中で止めないでください」
景継は少し笑った。
「今日はここまでにしましょう」
三成と弥兵衛が同時に景継を見た。
「何です?」
「殿が自分から政務を止めましたぞ」
弥兵衛が言う。
「昨日から随分失礼ですね」
「これは楓様に報告せねば」
「なぜです?」
「お喜びになります」
「やめてください」
三成まで笑っている。
景継は二人を置いて、少しだけ歩く速度を上げた。
城へ戻ると、楓が庭にいた。
その腕には万代丸がいる。
景継は二人の姿を見つけると、先ほどまで三成と話していたことが一瞬頭から消えた。
楓もこちらに気づいた。
「お帰りなさいませ」
「ただいま戻りました」
景継は自然と万代丸へ近づく。
「今日は泣いていませんね」
「今のところは」
「抱いても?」
「どうぞ」
万代丸を受け取る。
昨日よりは慣れた。
少なくとも景継自身はそう思っている。
腕の中へ収まった万代丸が、小さな手を動かした。
景継はその手を見る。
あまりにも小さい。
この手が刀を握る日など、まだ想像もできない。
いや。
握らなくてもよいのかもしれない。
自分が戦うのは、この子まで同じように戦わせるためではない。
「景継様?」
楓の声に、景継は顔を上げた。
「どうされました?」
「今日、城下を見てきました」
景継は歩きながら見たものを楓へ話した。
壊れた荷車。
傷を負って帰ってきた兵。
戦場の外にも、戦の跡が残っていたこと。
楓は途中で口を挟まず聞いていた。
「私たちは勝ちました」
景継は万代丸を見ながら言う。
「ですが、勝ったから元通りになるわけではないのですね」
「そうですね」
「少し時間が必要です」
国にも。
人にも。
そして、おそらく自分にも。
「だから、しばらくは戦わないことにします」
楓が景継を見る。
「前にも聞きました」
「念のため、もう一度言っておこうと思いまして」
「誰にです?」
「楓に」
「なぜ私に?」
景継は腕の中の万代丸へ視線を落とした。
「私自身が忘れないようにです」
楓はしばらく景継を見つめ、それから小さく笑った。
「では、私も覚えておきます」
「お願いします」
「もし景継様が忘れたら?」
「……教えてください」
「分かりました」
万代丸が小さく声を上げた。
二人が同時にそちらを見る。
景継は少しだけ抱く腕に力を込めた。
戦に勝って国を広げる。
それだけでは足りない。
戻ってきた兵が、また暮らしていける国にする。
戦場へ米を運んだ者が、そのために暮らしを失わないようにする。
そして、この腕の中にいる子が大きくなった時、今より少しでも生きやすい国を残す。
戦わぬ日々に何をするのか。
その答えを、景継はようやく見つけ始めていた。




