第二百二十三話 戦わぬ日々
翌朝。
景継が目を覚ました時、外はすでに明るくなっていた。
「……しまった」
思わず声が漏れる。
戦場では、空が白み始める前に目を覚ますことが多かった。敵がいつ動くか分からず、眠っていてもどこかで気を張っていたからだろう。
それが昨夜は、横になってからの記憶すらほとんどない。
隣を見ると、楓がこちらを見ていた。
「おはようございます」
「おはようございます。今は何刻ですか?」
「景継様が驚かれるくらいの刻です」
「それでは分かりません」
楓が小さく笑った。
「いつもより随分と遅いですよ」
景継は起き上がろうとした。
「では、すぐに支度を――」
「景継様」
呼び止められて動きを止める。
「昨日、今日は少し休むとおっしゃっていませんでしたか?」
「昨日は休みました」
「昨日だけなのですか?」
「……駄目ですか?」
楓は答えず、景継をじっと見た。
その視線に耐えられず、景継は再び腰を下ろした。
「分かりました。朝くらいはゆっくりします」
「朝くらいは、なのですね」
「何もしないというのも落ち着きませんので」
「それは知っています」
長く離れていたはずなのに、このやり取りは何も変わらない。
それが景継には嬉しかった。
ふと隣を見る。
万代丸はまだ眠っていた。
小さな胸がゆっくりと上下している。
景継は少し身を寄せ、その寝顔を覗き込んだ。
「よく眠りますね」
「夜中に一度起きましたよ」
「そうなのですか?」
「景継様は全く起きませんでした」
景継の顔が僅かに曇った。
「泣いていましたか?」
「少しだけ」
「起こしてくださればよかったのに」
「何度か声をかけました」
「……本当ですか?」
「はい」
景継は黙った。
どうやら、自分で思っていた以上に疲れていたらしい。
「すみません」
「謝ることではありません」
楓は穏やかに答えた。
「帰ってきてくださったのですから、まずは休んでください」
その言葉に、景継はしばらく何も返せなかった。
やがて万代丸が小さく身じろぎした。
二人の視線が同時に向く。
「起きますかね」
「どうでしょう」
景継はじっと待った。
万代丸は少しだけ手を動かし、そのまま再び眠ってしまった。
「……寝ましたね」
「寝ましたね」
景継は少し残念そうに身体を戻した。
楓がその横顔を見て笑う。
「景継様」
「何でしょう」
「そんなに万代丸を見ていたかったのですか?」
「せっかく帰ってきたのですから」
「昨日からずっと見ておられますよ」
「まだ足りません」
即答すると、楓が目を丸くした。
景継も自分で少し驚いたが、言い直す気にはならなかった。
「今まで見られなかった分がありますから」
楓の表情が柔らかくなる。
「では、今日はたくさん見てあげてください」
「そうします」
そう答えたものの、景継が本当に何もせずにいられたのは朝までだった。
昼前。
景継は広間にいた。
目の前には一益と長秀。
その横には三成と吉継が座り、少し離れた場所には弥兵衛もいる。
一益が景継を見た。
「殿」
「何でしょう」
「今日は休まれるのでは?」
「休んでいますよ」
「どこがです?」
「軍議ではありません」
景継は机の上を指した。
そこに地図はない。
軍勢の配置を書いた書付もない。
代わりに置かれているのは、各地から届いた簡単な報告だけだった。
「留守の間の話を聞いているだけです」
三成が呆れたように景継を見る。
「それを政務と言うのではありませんか」
「三成まで一益殿の味方ですか?」
「味方も何もございません」
吉継が横で笑っている。
「殿が戻られたら、すぐこうなると思っておりました」
「吉継まで」
「皆、殿のことを分かってきたのでしょう」
昨日、楓にも似たようなことを言われた。
どうやら自分は、それほど分かりやすいらしい。
「では、一刻だけにします」
一益が首を振った。
「二刻になりますな」
「しません」
「三刻かもしれません」
「一刻です」
「では、我らが見張っておきましょう」
景継は少し不満だったが、反論はしなかった。
「それで、留守の間は?」
話を向けると、三成が書付を広げた。
「大きな混乱はございません。ただ、出兵が続いたことで兵糧の消費は増えております。特に運搬に使った馬と人足への負担が大きく、いくつかの道も傷んでおります」
景継の表情が変わる。
戦場へ兵糧を届けるためには、道が必要になる。
軍が通れば道は傷む。
馬も疲れる。
人も使う。
戦場だけを見ていては分からない負担だった。
「修繕にはどの程度かかります?」
「調べております。ただ、今すぐ次の大軍を西へ動かせと言われれば、難しいかと」
「動かしません」
景継は即答した。
「昨日も言いましたが、しばらく大きな戦はしません」
三成が少し安心したように頷く。
長秀が続けた。
「柴田家から引き継いだ土地についても、まだ完全に落ち着いたとは申せません。大きな反乱などはございませんが、人の配置を変えたところも多くあります」
「そこも急がない方がよいでしょうね」
「はい。勝家殿の頃から仕えていた者たちもおります。殿への忠誠をすぐ求めるより、まずは今まで通り暮らせると分かってもらう方がよろしいかと」
景継は頷いた。
備後も同じだ。
領主が変わったからといって、人の心まで同じ日に変わるわけではない。
「一益殿はどう思います?」
「長秀殿に同意いたします」
一益は腕を組んだ。
「今の林道家は、少し大きくなるのが早すぎますな」
その言葉に、景継は黙った。
責めるような口調ではない。
むしろ事実をそのまま言っているだけだった。
「越前もあります。柴田家から加わった者たちもおります。そして今度は備後。地図の上では領地が増えておりますが、そこに殿の命令が届くだけでは足りません」
「人がついてこなければ意味がない、ということですね」
「はい」
一益は頷いた。
「戦で国を取るより、取った国を自分たちの国にする方が時間がかかります」
景継はその言葉をしばらく考えた。
前世でも知っていたことだった。
それでも、この世界へ来てからは生き残るために前へ進み続けた。
敵が来れば戦い、必要なら領地を取り、仲間を増やした。
気づけば、林道家は景継自身が思っていた以上に大きくなっている。
「……ちょうどよいのかもしれませんね」
「何がです?」
弥兵衛が尋ねる。
「立ち止まる時期です」
景継は広間にいる者たちを見回した。
「兵を増やすことより、今いる兵をきちんと養えるようにする。領地を増やすことより、今ある領地を豊かにする。新しい家臣を増やすだけではなく、今いる者たちが働きやすくする」
三成が頷く。
「銭も必要です」
「そこは三成に任せます」
「簡単に言わないでください」
「得意でしょう?」
「得意かどうかと、簡単かどうかは別です」
景継は笑った。
「では、吉継も一緒に」
「私まで巻き込まれましたか」
吉継も苦笑する。
「一人より二人の方がよいでしょう」
「そういう問題でしょうか」
広間に小さな笑いが広がった。
少し前まで、軍議で誰をどこへ動かすかばかり話していた。
今は道や兵糧や銭の話をしている。
派手さはない。
だが、景継にはこちらも同じくらい重要に思えた。
「殿」
長秀が声をかける。
「はい」
「一つ、お願いがございます」
「何でしょう」
「本当に、しばらく戦をなさらぬのであれば」
長秀は穏やかな表情のまま続けた。
「殿ご自身も、少し城にいてください」
景継は目を瞬いた。
「私が?」
「はい」
「政務をしろということですか?」
「それもありますが、それだけではございません」
長秀は周囲を見る。
「殿が戦場へ出ておられる間、家臣も領民も殿の顔を見ることができません。林道家が大きくなった今だからこそ、殿がここにいることにも意味がございます」
景継は返事をしなかった。
一益も頷いている。
「それに」
一益が続けた。
「奥方様と若君もおられます」
景継はそちらを見る。
「昨日お会いしたばかりですが」
「そういう意味ではありません」
「分かっています」
一益が笑う。
「若君など、殿が次に帰った時には歩いておられるかもしれませんぞ」
「それは困ります」
景継の返事があまりにも早く、全員が一瞬黙った。
そして弥兵衛が吹き出した。
「何がおかしいのです?」
「いえ、殿にも困ることがあるのだと思いまして」
「ありますよ」
「毛利よりも?」
「比べるものではないでしょう」
景継は真面目に答えた。
「昨日見た時だけでも、生まれた頃より随分大きくなっていました。このまま何度も長く家を空けていれば、本当に色々と見逃してしまいます」
口にしてから、景継は少しだけ照れたように視線を逸らした。
だが、誰もからかわなかった。
長秀が穏やかに頷く。
「ならば、ちょうどよろしいではありませんか」
「そうですね」
景継は素直に答えた。
「しばらくは、ここにいます」
その言葉を聞いた一益が、わざとらしく三成を見る。
「聞きましたか?」
「聞きました」
三成が答える。
「書き残しておきましょうか」
「必要ありません」
「後で忘れられると困りますので」
「忘れませんよ」
「殿の場合、九州から何か知らせが届けば分かりませぬぞ」
弥兵衛まで加わる。
景継は一人ずつ顔を見た。
「……私の信用が随分と低いですね」
吉継が笑った。
「戦に関することだけは」
「そこまで言われたら、意地でも城にいます」
「それなら安心です」
今度こそ、皆が笑った。
結局、一刻で終えるはずだった話は、本当に一刻で終わった。
一益が時間を見て、強引に書付を片づけたからだった。
「続きは明日にございます」
「あと少しだけ――」
「明日です」
「一益殿」
「明日です」
景継は諦めた。
広間を出て、廊下を歩く。
何をしようか。
政務は止められた。
軍議もない。
鍛錬でもしようかと考えたが、それでは休んでいないと言われそうだった。
そんなことを考えながら歩いていると、前から楓がやってきた。
腕には万代丸がいる。
景継の足が止まった。
楓も景継に気づく。
「もう終わったのですか?」
「一益殿に追い出されました」
「よいことです」
「楓は私の味方ではなかったのですか?」
「景継様を休ませるという意味では、一益殿の味方です」
景継は小さく息を吐き、万代丸を見る。
起きている。
「万代丸」
近づくと、万代丸の目が景継の方へ向いた。
景継の表情が変わった。
「今、私を見ましたよね?」
「見ましたね」
「やはり覚えているのでは?」
「昨日帰ってきたばかりですよ」
「それでもです」
楓が笑う。
「抱かれますか?」
「はい」
今度は迷わなかった。
景継は万代丸を受け取る。
昨日より、少しだけ自然に抱けた気がした。
「上手になりましたね」
「一日で?」
「昨日よりは」
景継は満足そうに万代丸を見る。
「今日は泣きませんね」
そう口にした直後、万代丸の顔が少し歪んだ。
「……楓」
「大丈夫です」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶんですか?」
万代丸が声を上げる。
景継は慌てて昨日教わった通り、ゆっくり身体を揺らした。
楓は隣で笑っている。
「景継様」
「何でしょう」
「楽しそうですね」
景継は万代丸をあやしながら、少し考えた。
戦場で勝った時とも違う。
策が思い通りに進んだ時とも違う。
何かを手に入れたわけでもない。
ただ、家にいて、妻と話し、息子を抱いている。
それだけだった。
「……そう見えますか?」
「はい」
昨日も似たことを聞かれた。
だが今日は、自分でも答えが分かっていた。
「なら、たぶんそうなのでしょう」
景継は笑った。
しばらくは戦わない。
次の国を取ることも考えない。
今ある国を整え、疲れた者を休ませ、自分もここで暮らす。
そんな日々が、少しくらいあってもいい。
いや――今の林道家には、きっと必要なのだ。
景継は腕の中の万代丸を見た。
昨日より上手く抱けた。
それだけのことが、妙に嬉しかった。
戦わぬ日々が始まった。




