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『乱世にて、我は待つ』~知略を秘めた軍師は、やがて天下を動かす~  作者: ダイヤマ
第十一章 乱世狭間編

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第二百二十二話 帰る場所



毛利との戦が正式に終わってから数日後。


景継はようやく、自らの城へ戻ってきた。


すべての兵を連れて帰ったわけではない。備後の引き渡しや宇喜多領の警戒には、まだ一定の兵を残している。


官兵衛も数日は現地に留まり、毛利側との細かな調整を進めることになった。


景継自身も、本来ならもう少し残るべきだったのかもしれない。


だが、官兵衛からも、


「ここから先は、景継様がおられずとも進められます」


と言われた。


その言葉に甘えることにした。


早く帰りたい。


そう思っている自分を、今さら誤魔化す必要もなかった。


城が見えてきた時、景継は馬上からその姿をしばらく眺めた。


何度も見てきた城である。


戦へ出る時には、振り返ることすらしないこともあった。


それなのに今日は、遠くから屋根が見えただけで胸の奥が僅かに軽くなる。


隣を進んでいた弥兵衛が景継を見る。


「殿」


「何でしょう」


「少し速くなっておりますぞ」


「何がです?」


「馬が」


景継は手綱を見る。


「気のせいでは?」


「先ほどから少しずつ速くなっております」


「……馬が帰りたがっているのでしょう」


「なるほど」


弥兵衛は頷いた。


「そういうことにしておきましょう」


景継は何も答えなかった。


後ろから小さな笑い声が聞こえた気がしたが、振り返らないことにした。


城門の前まで来ると、すでに帰還の知らせは届いていたらしい。


兵や家臣たちが出迎えに集まっていた。


その先頭にいる二人を見つけた瞬間、景継の口元が自然と緩んだ。


「お帰りなさいませ、殿」


滝川一益が頭を下げる。


その隣では丹羽長秀も穏やかな表情を浮かべていた。


「ご無事のお帰り、何よりにございます」


景継は馬から降りた。


二人の前まで歩いていき、改めてその顔を見る。


書状なら何度も交わした。


領内に大きな問題が起きていないことも知っている。


それでも、実際に顔を見ると違った。


「ただいま戻りました」


景継がそう答えると、一益が少しだけ眉を上げた。


「随分と素直ですな」


「帰ってきたのですから、ただいまと言うでしょう」


「以前の殿なら、城門をくぐる前から政務の話を始めておられましたので」


「私を何だと思っているのですか」


「働きすぎる御方だと思っております」


否定しようとして、景継はやめた。


横では長秀が笑っている。


「長秀殿まで笑わないでください」


「申し訳ございません。ただ、一益殿の言葉に思い当たるところがありまして」


「味方がいませんね」


「おりますぞ」


後ろから弥兵衛が口を挟んだ。


景継が振り返る。


「では、弥兵衛は私の味方なのですね?」


「今日は休まれるのであれば」


「条件付きですか」


今度は一益まで笑った。


その笑い声を聞きながら、景継は不思議な安心を覚えていた。


これだ。


戦場にはなかったもの。


誰がどこから攻めてくるのかを考える必要もなく、言葉の裏を読み続ける必要もない。


くだらないことを言われて、くだらないことを返せる。


ただそれだけのことが、今は心地よかった。


「一益殿」


「はい」


「留守の間、ありがとうございました」


一益の表情から笑みが少し消えた。


「役目を果たしただけにございます」


「それでもです」


景継は長秀にも向き直る。


「長秀殿も。何度も書状をいただき、助かりました」


「殿が安心して戦えるようにすることも、残った者の務めにございます」


「ええ。お二人から問題なしと届くたび、安心していました」


一益が少し意外そうに景継を見る。


「そのようなことを言われるようになりましたか」


「今日は随分と言われますね」


「久しぶりですので」


「久しぶりなら、もう少し優しくしてください」


「では、明日からにいたしましょう」


「今日だけでは?」


「今日だけです」


景継は苦笑した。


だが、嫌ではなかった。


本当に会いたかったのだ。


一益にも。


長秀にも。


そして、この城で自分を待っていた者たちにも。


「ところで殿」


長秀が少し声を落とした。


「毛利とのことは聞いております。備後についても」


景継も表情を戻す。


「詳しい話は明日にしましょう」


一益と長秀が同時に景継を見る。


景継は二人の反応に気づいた。


「何です?」


「いえ」


長秀が先に答えた。


「殿の口から『明日に』という言葉を聞けるとは思わなかっただけです」


「長秀殿まで……」


「今日はもう政務はなし、ということでよろしいですかな?」


一益が念を押す。


景継は少しだけ迷った。


毛利との約定。


備後の引き渡し。


兵の帰還。


負傷兵への対応。


確認したいことなら山ほどある。


それでも、昨日自分で言ったのだ。


兵を休ませる。


家臣を休ませる。


そして、自分も休むと。


「……はい」


景継は頷いた。


「今日は休みます」


一益が満足そうに頷く。


「では、我らからの報告も明日にいたしましょう」


「何か大きな問題は?」


「ございません」


「本当に?」


「殿」


「はい」


「休むのでしょう?」


景継は口を閉じた。


弥兵衛が笑いを堪えている。


「分かりました」


景継は諦めたように息を吐いた。


「明日にします」


そう言って歩き出す。


だが、数歩進んだところで立ち止まった。


一益と長秀が景継を見る。


「どうされました?」


「いえ……」


景継は少しだけ言いにくそうに視線を逸らした。


「楓と万代丸は?」


一益と長秀が顔を見合わせる。


その反応だけで、景継には何となく嫌な予感がした。


「何です?」


「何もございません」


「なら、なぜ二人で顔を見合わせたのです?」


長秀が笑いながら答えた。


「奥方様も若君も、お元気にございます」


景継の肩から僅かに力が抜けた。


「そうですか」


「奥方様は、殿がお戻りになると聞いて朝からお待ちです」


「朝から?」


「はい」


一益が続ける。


「若君もお待ちでしょう」


景継は一益を見る。


「万代丸は、まだ私が今日帰ることなど分からないでしょう」


「それはそうでしょうな」


「では、なぜ言ったのですか」


「殿が喜ばれるかと思いまして」


景継はしばらく一益を見た後、歩き出した。


「楓のところへ行ってきます」


「はい」


「殿」


弥兵衛が後ろから呼ぶ。


景継が振り返る。


「何でしょう」


「今度こそ、馬より速くならないように」


「城の中で馬には乗りませんよ」


「そういう意味ではございません」


景継は無視して歩いた。


背後から、また笑い声が聞こえた。


奥へ近づくにつれ、景継の足取りは自然と速くなっていた。


自分でも分かっている。


だが、今度は直そうとは思わなかった。


廊下の角を曲がる。


見慣れた場所。


何度も歩いた廊下なのに、今日は妙に長く感じた。


やがて、部屋の前に一人の侍女がいるのが見えた。


景継に気づき、驚いたように頭を下げる。


「殿、お帰りなさいませ」


「ただいま戻りました。楓は?」


「中におられます」


「入っても?」


侍女が少し笑った。


「もちろんにございます」


景継は襖の前に立った。


一度だけ息を整えてから、声をかける。


「楓」


すぐに中から声が返ってきた。


「景継様?」


襖が開いた。


そこにいた楓と目が合う。


ほんの一瞬、二人とも何も言わなかった。


戦へ出る前と変わらない。


少なくとも、景継にはそう見えた。


元気そうだった。


それだけで十分だった。


楓の表情がゆっくりとほころぶ。


「お帰りなさいませ」


景継も僅かに笑った。


「ただいま戻りました」


それだけの言葉だった。


だが、戦場にいる間、何度も頭の中に浮かべていた言葉でもあった。


楓が景継の姿を上から下まで見る。


「お怪我は?」


「ありません」


「本当に?」


「小さなものまで数えればありますが、大したものではありません」


楓の眉が僅かに寄った。


「それを怪我と言うのではありませんか?」


「……そうとも言いますね」


「後で見せてください」


「はい」


反論しなかった。


それだけで楓は少し驚いたようだった。


「どうしました?」


「いえ。今日は随分と素直だと思いまして」


「先ほども同じことを言われました」


「どなたに?」


「一益殿です」


「では、一益殿が正しいのでしょう」


「楓までそちら側ですか」


楓が笑った。


その笑顔を見て、景継もようやく本当に帰ってきたのだと思えた。


「楓」


「はい」


「会いたかったです」


今度は楓が言葉を失った。


景継自身も、口にしてから少し恥ずかしくなった。


だが、取り消すつもりはなかった。


「……私もです」


楓は静かに答えた。


「お帰りをお待ちしておりました」


景継は小さく頷いた。


その時だった。


部屋の奥から、小さな声が聞こえた。


「あー……」


景継の顔がそちらへ向く。


楓が笑う。


「もう一人、お待ちですよ」


「万代丸」


景継はすぐに奥へ目を向けた。


布の上に、小さな赤子が寝かされている。


生まれた日に見た時よりも、明らかに身体がしっかりしていた。


頬も少しふっくらしている。


景継はゆっくり近づいた。


「……大きくなっていますね」


「毎日見ている私には分かりにくいですが、景継様にはそう見えますか?」


「全然違います」


景継は万代丸の傍らへ座った。


しばらく、何も言わずに見つめる。


万代丸も景継を見ている。


少なくとも、景継にはそう見えた。


「万代丸」


呼んでみる。


返事はない。


代わりに小さな手が動いた。


景継は思わず笑った。


「覚えていますか?」


楓が横から言う。


「答えられませんよ」


「分かっています」


「では、なぜ聞くのです?」


「聞いてみたかったのです」


景継は指を差し出した。


万代丸の手が、その指に触れる。


しばらくすると、小さな指が景継の指を握った。


生まれた日と同じだった。


景継の表情が、ゆっくりと柔らかくなる。


「……覚えているようです」


「たまたまだと思います」


「楓」


「はい?」


「今はそういうことを言わなくてもよいでしょう」


楓が声を立てずに笑った。


景継は万代丸から目を離さない。


「抱いても?」


「もちろんです」


景継は以前教えられたことを思い出しながら、慎重に万代丸を抱き上げた。


「首を――」


「支えています」


「まだ何も言っておりません」


「以前教えていただきましたから」


「覚えておられたのですね」


「戦のことだけ覚えているわけではありませんよ」


景継は万代丸を胸元へ抱いた。


以前より重い。


その重さが、なぜか嬉しかった。


「重くなりましたね」


「大きくなっていますから」


「そうですか」


景継は何度も同じようなことを言っている。


自分でも分かっていた。


それでも、他に言葉が出てこなかった。


万代丸が景継の胸元で小さく動く。


その瞬間。


顔が歪んだ。


「……楓」


「はい」


「これは」


次の瞬間、万代丸が大きな声で泣き始めた。


景継の身体が固まる。


「楓」


「はい」


「泣きました」


「赤子ですから」


「どうすれば?」


「抱いてあげてください」


「抱いています」


「もう少し身体を揺らして」


景継は恐る恐る身体を動かした。


「こうですか?」


「もう少しゆっくりです」


「難しいですね」


戦場で何千、何万という兵を動かした男が、生後間もない一人の赤子を前に完全に困っていた。


楓は笑いを堪えながら、その様子を見ている。


「笑わないでください」


「申し訳ございません」


「全く申し訳なさそうに見えませんよ」


「だって……」


楓はとうとう小さく笑った。


「景継様が、あまりにも真剣なので」


「こちらは真剣ですよ」


万代丸はまだ泣いている。


景継は困った顔で息子を見る。


「万代丸」


当然、泣き止まない。


「父です」


変わらない。


「……覚えていませんか?」


「ですから、まだ分かりませんよ」


「先ほどは指を握ったのですが」


「それとこれとは別です」


景継は少し落ち込んだように万代丸を見た。


そのまま教えられた通りにゆっくり揺らしていると、やがて泣き声が少しずつ小さくなっていった。


景継は動きを止めそうになる。


「そのままで」


楓に言われ、再び動かす。


しばらくすると、万代丸は本当に泣き止んだ。


「……止まりました」


景継が小声で言う。


「止まりましたね」


「私でもできました」


「父親ですから」


その言葉を聞いて、景継は腕の中の万代丸を見つめた。


父親。


まだ、その言葉には慣れない。


前世でも子はいた。


それでも、林道景継としてこの小さな命を腕に抱いていると、不思議と初めて知る感情のように思えた。


「景継様」


「はい」


「お疲れになりましたか?」


景継は少し考えた。


身体は疲れている。


何日も戦場にいた。


十分に眠れなかった日もある。


考えることも多かった。


だが今は、その疲れさえ悪くないと思えた。


「疲れました」


景継は素直に答えた。


「ですから今日は、このままここにいてもよいですか?」


楓は少し驚いた後、柔らかく笑った。


「もちろんです」


「仕事は明日にします」


「それがよろしいかと」


「皆、同じことを言いますね」


「皆、景継様のことをよく分かっているのでしょう」


景継は反論しなかった。


腕の中では、万代丸が眠り始めている。


その寝顔を見ながら、景継はふと思った。


この子が大きくなるまでに、自分はあと何度戦場へ出るのだろう。


何度、こうして帰ってくるのだろう。


天下を目指す以上、戦を完全に避けることはできない。


だが、戦うことだけが天下を取ることではない。


国を豊かにすること。


人を育てること。


家臣たちが安心して暮らせる場所を作ること。


そして、この子たちの世代に何を残すのか。


それもまた、自分がやるべきことなのだろう。


景継は万代丸の頬を指先でそっと撫でた。


「大きくなってください」


小さな声で呟く。


「私が戦ばかりしている間に、あまり大きくならないでくださいね」


楓が横から景継を見る。


「無茶を言わないでください」


「分かっています」


景継は笑った。


「次は、もう少し近くで見ていたいというだけです」


万代丸は何も知らずに眠っている。


その隣には楓がいる。


城のどこかには一益や長秀がいて、明日になればまた多くの家臣たちと顔を合わせることになる。


戦場では何度も、帰りたいと思った。


だが実際に戻ってきて、ようやく分かった。


帰りたかったのは城ではない。


ここにいる者たちのところだった。


景継は眠る万代丸を抱いたまま、久しぶりに何も考えず、その小さな寝顔を眺め続けた。



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