第二百二十一話 戦の終わり
官兵衛が戻ってきたのは、陽が西へ傾き始めた頃だった。
朝から続いていた戦場の片づけも、ようやく一段落しようとしている。
負傷者の多くは後方へ運ばれ、各隊では失った兵や武具の確認が進められていた。昨日まで敵味方の怒号が飛び交っていた場所を、今は荷を抱えた兵たちが行き来している。
戦が終わったからといって、その痕跡まで一日で消えるわけではない。
折れた槍や踏み荒らされた地面が残り、ところどころには乾き始めた血の跡も見える。
景継は陣の中で、各隊から届いた報告に目を通していた。
正則。
清正。
利家。
成政。
宇喜多勢。
そして弥兵衛が率いた兵たち。
勝ったとはいえ、失ったものがないわけではない。
紙に並ぶ死傷者の数を見るたび、景継の視線は自然と止まった。
勝利という言葉だけを見れば、その向こうにいる一人一人の顔は消えてしまう。
だが、家へ帰れなくなった者にも家族がいる。
傷を負った者の中には、これまでのように槍を握れなくなる者もいるだろう。
だからこそ、勝った後まで考えなければならない。
「殿」
外から弥兵衛の声がした。
「官兵衛殿がお戻りです」
景継は持っていた書付を置いた。
「入っていただいてください」
ほどなくして官兵衛が姿を見せた。
寺へ向かう前と変わらぬ落ち着いた足取りだったが、景継はその顔を見た瞬間、少なくとも交渉が完全に決裂したわけではないと察した。
官兵衛が景継の前へ座る。
「お待たせいたしました」
「いえ。それで、毛利の答えは?」
景継が尋ねると、官兵衛は一度姿勢を正した。
「受け入れるとのことにございます」
景継の目が僅かに動いた。
「すべてですか?」
「はい」
「備後も?」
「それも含めてございます」
景継はすぐには答えなかった。
あれほど強く反発していたという元春までいる。
簡単に決まるとは思っていなかった。
「よく、まとまりましたね」
「毛利も、備後一国と毛利家全体を秤に掛けたのでしょう」
「元春殿は?」
「最後まで納得はされておりません」
「でしょうね」
むしろ、その方が景継には自然に思えた。
自らが守ってきた土地を、昨日まで戦っていた相手へ渡すのだ。
笑って受け入れられる方がおかしい。
「ただし、毛利側からもいくつか求められました」
「聞きましょう」
官兵衛は寺でまとまった内容を、一つずつ景継へ説明した。
備後の引き渡しは、双方で日程を決めたうえで段階的に行う。
毛利へ残ることを望む家臣については、無理に林道家へ仕えさせない。
反対に備後へ残り、林道家へ仕えることを望む者については、林道家がその者を見たうえで判断する。
そして毛利が今回の約定を守る限り、林道家は備後より先の毛利領を求めない。
宇喜多や信孝を利用し、間接的に毛利領を奪うこともしない。
その内容を、景継自身の名で書状に残す。
最後まで聞いた景継は、しばらく考えた。
「問題ありません」
官兵衛が景継を見る。
「よろしいので?」
「ええ。備後を得ることが目的であって、備後を荒らすことが目的ではありません」
景継は地図へ視線を落とした。
城を受け取れば終わりではない。
そこには人が暮らしている。
年貢を納める百姓もいれば、商いをする者もいる。毛利に仕えてきた武士も、その家族もいる。
領主が変わったからといって、昨日までの暮らしまで消えるわけではない。
「引き渡しには時間をかけましょう。毛利側と話し合いながら進めてください」
「承知いたしました」
「毛利へ戻りたい者も止めなくて構いません。逆に備後へ残りたい者については、一人ずつ見てください。毛利に仕えていたというだけで退ける必要はありませんが、何も確かめず召し抱えるわけにもいきません」
「三成殿と吉継殿にも加わっていただいた方がよろしいでしょう」
「そうしましょう」
そこまで話して、景継は少し考えた。
「それと、毛利との約定については私の名で書状を出します」
「ありがとうございます」
「こちらから求めておいて、こちらだけが口約束では筋が通りませんから」
景継は筆を取りかけ、ふと手を止めた。
「九州での恩賞についても入れてください」
「もちろんにございます」
「曖昧にはしたくありません。兵だけではなく、船でも兵糧でも、輸送でも情報でもいい。毛利がこちらのために働いたのであれば、その働きはきちんと功として扱うと」
官兵衛が静かに頷いた。
「毛利にも、その旨は伝えております」
「ならば、それも書きましょう」
景継は筆を置いた。
「負けた相手だからといって、いつまでも敗者として扱えばよいわけではありません」
昨日まで敵だった。
だからこそ、最初の条件は厳しくした。
だが、その後まで敗者であることを理由に扱いを変え続ければ、毛利が本当の意味で協力する日は来ない。
「約束を守って働いた者には報いる。それはこちらのためでもあります」
「人を動かすには、恐れだけでは足りませぬからな」
「ええ」
景継は地図の毛利領を見た。
昨日までは、そこから兵が押し寄せてきた。
今後は、その兵が自分たちと同じ方向へ向かうことになるかもしれない。
もちろん、書状一枚で昨日までの敵意が消えるとは思っていない。
それでも最初の一歩にはなる。
「官兵衛殿」
「はい」
「お疲れさまでした」
官兵衛は僅かに頭を下げた。
「景継様も」
「私はほとんどここにいただけですよ」
「昨日は戦場におられました」
景継は答えなかった。
昨日。
その一言で、まだ耳の奥に残っている音が蘇る。
槍と槍がぶつかる音。
兵たちの叫び。
負傷した者の声。
そして、西へ逃げていった毛利の兵たち。
「……終わりましたね」
景継が静かに言った。
官兵衛は少し間を置いてから答えた。
「はい」
それだけだった。
勝った。
備後も得た。
毛利との関係も形になった。
それでも、景継には大声で喜ぶ気にはなれなかった。
終わったという安堵の方が大きかった。
しばらくすると、外から声がした。
「殿、入ってもよろしいですか」
弥兵衛だった。
「どうぞ」
襖が開き、弥兵衛が入ってくる。
「毛利との話が決まったと聞きましたが」
「早いですね」
「皆、気にしておりますから」
景継は官兵衛を見た後、弥兵衛へ頷いた。
「決まりました。毛利とはこれで戦を終えます」
弥兵衛の顔から、目に見えて力が抜けた。
「……そうですか」
喜びの声を上げるわけでもない。
ただ、深く息を吐いた。
その反応を見て、景継は改めて思う。
戦が終わるということは、勝ったということだけではない。
明日、また槍を持って死ぬかもしれない者たちが、生きて帰れるということでもある。
「弥兵衛」
「はい」
「皆に伝えてください。毛利との戦は終わりました」
「承知しました」
弥兵衛が立ち上がりかける。
「それと」
「はい?」
「明日から、順次兵を休ませます」
弥兵衛が少し驚いた。
「すぐに戻すので?」
「すぐに全軍というわけではありません。備後の引き渡しもありますし、宇喜多領の安全も確認しなければなりません」
景継は机の上に積まれた報告書を見る。
「ですが、これ以上ここへ大軍を置いておく必要はないでしょう」
官兵衛が口を開いた。
「九州への備えは?」
「まだ動きません」
今度は官兵衛が景継を見る。
「毛利との戦で、こちらも随分と使いました」
兵だけではない。
兵糧。
武具。
馬。
銭。
そして、人。
柴田勢も宇喜多勢も信孝軍も動いた。
林道家の兵も長く戦場に出ている。
勝ったからといって、疲労まで消えるわけではない。
「九州へ行くのであれば、なおさら今は休むべきです」
景継はそう言って、地図の西から一度目を離した。
「兵を家へ帰します。傷ついた者を治し、兵糧を蓄え直す。備後も落ち着かせなければなりません」
「毛利にも、立て直す時間を与えることになりますぞ」
弥兵衛が言った。
「構いません」
景継は即答した。
「これから毛利にも働いてもらうのでしょう?」
弥兵衛が「あ」と小さく声を漏らした。
「弱ったままの毛利を連れて九州へ行っても仕方ありません。向こうにも兵を休ませ、国を立て直してもらいます」
官兵衛が景継を見ていた。
「敵でなくなった以上、毛利の国力が戻ることを恐れる必要はない、と?」
「恐れないわけではありません」
景継は首を横に振った。
「だから備後を押さえ、約定も結んだのでしょう」
警戒はする。
だが、警戒することと、相手を弱らせ続けることは違う。
毛利をこれから西へ向けて使うのであれば、毛利にも力が必要になる。
「それに――」
景継は少し間を置いた。
「私たちも、少し戦いすぎました」
弥兵衛が黙った。
官兵衛も何も言わない。
ここしばらく、あまりにも多くのことがあった。
領地を広げた。
柴田家を迎えた。
毛利と戦った。
そのたびに景継は次のことを考え、立ち止まることなく進んできた。
だが、国は地図の上だけで大きくなるものではない。
領地が増えれば、そこを治める者がいる。
兵が増えれば、その兵を養う田畑が必要になる。
戦で傷ついた者がいれば、その者たちが戻る場所も必要になる。
「しばらくは、内を整えます」
景継は二人を見た。
「三成と吉継には、帰ったらすぐに今の林道家の状態を調べてもらいます。どれだけ銭を使い、兵糧がどれだけ残り、どこに人手が足りないのか。柴田家との繋がりも、備後の統治もまだ始まったばかりです」
官兵衛が頷く。
「よろしい判断かと存じます」
「官兵衛殿にも働いていただきますよ」
「もちろんにございます」
「ですが、その前に休んでください」
官兵衛が一瞬だけ黙った。
「私もですか」
「当然です」
「まだ備後の件がございますが」
「明日一日休んだから備後が消えるわけではありません」
「それはそうですが」
景継は弥兵衛を見る。
「弥兵衛もです」
「俺まで?」
「あなたもです」
「俺は元気ですぞ」
「昨日、何時間戦っていたと思っているのですか」
弥兵衛は何か言おうとして、結局口を閉じた。
景継は二人を見ながら、小さく息を吐いた。
「私も休みます」
今度は弥兵衛が景継をじっと見た。
「何です?」
「殿からその言葉を聞くとは思いませんでした」
「私だって休みますよ」
「本当に?」
「……休むつもりです」
「少し怪しくなりましたな」
景継は答えず、机の上に広げられた地図へ目を落とした。
だが、もう九州を見てはいなかった。
頭に浮かんでいたのは、帰った先にいる者たちだった。
楓。
万代丸。
滝川一益。
丹羽長秀。
そして、自分が戦場へ出ている間も国に残り、それぞれの役目を果たしてくれていた者たち。
随分と長く顔を見ていないような気がする。
中でも、万代丸のことを考えると、不思議と気持ちが急いた。
毛利が動き始めてから、家を空ける日が増えていた。生まれたばかりの息子と過ごせた時間など、思い返してみれば驚くほど少ない。
戦場にいる間にも、楓から何度か便りは届いている。
元気にしていること。
よく泣くこと。
少しずつ人の顔を目で追うようになったこと。
最近は抱き上げると、以前よりも手足をよく動かすようになったこと。
どれも戦の行方とは何の関係もない話だった。
それなのに景継は、軍議の書状より先に楓からの便りを開いてしまったことが、一度や二度ではなかった。
「殿?」
弥兵衛に呼ばれ、景継は顔を上げた。
「何でしょう」
「先ほどから、随分と嬉しそうですな」
「そう見えますか?」
「見えます」
景継は自分の頬へ手をやった。
特に笑っているつもりはなかった。
「毛利との戦が終わったのですから、当然でしょう」
「それだけですか?」
「それだけとは?」
弥兵衛が笑っている。
景継はその顔を見て、何を言いたいのか察した。
以前なら、適当に話を逸らしていたかもしれない。
だが今日は、そうする気にならなかった。
「……早く帰りたいとは思っています」
弥兵衛が少し意外そうな顔をした。
「何です、その顔は」
「いえ。殿が素直におっしゃったので」
「私だって、それくらいは言います」
「誰に会いたいので?」
聞かれて、景継は少し考えた。
一人だけではなかった。
「楓に会いたいですね」
まず浮かんだ名前を口にする。
「無事に戻ったと、自分の口で伝えたいです」
それから、自然と口元が緩んだ。
「万代丸にも、早く会いたいです」
生まれた日に腕へ抱いた、小さな身体。
自分の指を握った、あまりにも小さな手。
あれから、どれほど変わったのだろう。
「大きくなっているでしょうか」
「なっているのでは?」
「どのくらい?」
「俺に聞かれましても」
「役に立ちませんね」
「赤子の育ち方まで俺に求めないでください」
弥兵衛が困ったように笑う。
景継も僅かに笑った。
だが、会いたい者はそれだけではない。
「一益殿にも会いたいですね」
「滝川殿に?」
「ええ。留守を随分と任せていますから」
滝川一益。
自分が外へ出ている間にも、林道家を支えてくれている一人だった。
「帰ったら、また何か言われるでしょうね」
「何をです?」
「長く国を空けすぎだ、と」
「言われそうですな」
「否定できません」
景継は苦笑した。
「長秀殿にも会いたいです」
丹羽長秀。
信長の頃から長く織田を支え、今は景継にとっても欠かすことのできない存在になっている。
戦場へ出ている間にも書状のやり取りはしている。
だが、書状と顔を合わせて話すことは違う。
「それから三成、吉継、且元、長泰……」
景継は途中で言葉を止めた。
弥兵衛が笑っている。
「結局、皆ではございませんか」
景継は少し考えてから、素直に頷いた。
「……そうですね」
自分でも、少し意外だった。
かつては帰るという言葉を、これほど待ち遠しく思ったことがあっただろうか。
前世にも家族はいた。
仕えるべき主君も、守るべきものもあった。
それでも今、この胸にあるものは、あの頃とは少し違う気がする。
林道景継として生きてきた年月の中で、自分の周りには随分と多くの者が増えた。
家族。
家臣。
友。
共に戦った者。
自分を待ってくれている者。
そして、自分もまた会いたいと思える者たち。
「早く帰りたいですね」
景継はもう一度言った。
今度は、弥兵衛もからかわなかった。
「はい」
短く答えた後、弥兵衛も少し笑う。
「俺もです」
景継はその言葉に頷いた。
「では、帰りましょう」
「明日にでも?」
「できれば」
「早いですな」
「何か問題がありますか?」
「いえ」
弥兵衛は笑いながら首を振った。
「殿がそこまで帰りたがっておられるのであれば、急ぎましょう」
「私だけではありませんよ。兵たちも同じでしょう」
景継は陣の外へ目を向けた。
ここにいる兵たちにも、帰りを待つ者がいる。
妻。
子。
親。
兄弟。
友。
だからこそ、生きて帰らせたいと思った。
西への退路を残したあの日も、景継が考えていたのは同じことだった。
一人でも多く、自分とともに戦った者を帰す。
ようやく、それができる。
その夜。
林道家の陣だけでなく、宇喜多勢、柴田勢、信孝軍にも毛利との交渉がまとまったことが伝えられた。
大きな歓声が一斉に上がったわけではない。
疲れ切った兵たちは、最初こそ本当なのかと確かめ合い、やがて少しずつ表情を緩めていった。
明日は戦わなくていい。
家へ帰れる。
その事実が広がるにつれ、陣の空気がゆっくりと変わっていく。
景継は自らの陣の前に立ち、その様子を眺めていた。
勝家から柴田家を託されてから、また多くのものを背負うようになった。
領地は増えた。
兵も増えた。
そして今回、備後まで林道家へ加わることになる。
だが、大きくなればなるほど、簡単に動くことはできなくなる。
守るものも増えていく。
景継は西の空を見た。
九州は、その先にある。
いずれ行く。
だが、今ではない。
今は一度、立ち止まる。
傷ついた者を休ませ、国を整え、家臣たちにも家族のもとへ帰る時間を与える。
そして自分も帰る。
楓へ無事を伝えたい。
万代丸を、もう一度この腕に抱きたい。
一益や長秀とも、久しぶりに顔を合わせて話したい。
ほかの者たちの顔も見たい。
戦が終わった今、景継の胸を占めていたのは次の敵でも、新しい領地でもなかった。
帰る場所だった。
景継は西の空から目を離した。
明日、帰ろう。
自分を待つ者たちのところへ。
新作『天下と極道』の連載を始めました。
今回は「戦国×任侠」を題材にした物語です。
今作はAIを誤字脱字などのスペルチェックの補助的使用のみに留め、本文は自作で頑張って執筆しました。
まだまだ拙い部分もあるかと思いますが、少しずつ成長しながら書いていければと思っています。
『乱世にて、我は待つ』とはまた違った雰囲気の作品になっていますので、興味がありましたらぜひ覗いてみてください。
こちらの作品もよろしくお願いします。




